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2018年4月

2018年4月29日 (日)

ポストモダンの幻想@ハイステルハーゲン

Heisterhagen_bio ソーシャル・ヨーロッパ・ジャーナルからドイツ社民党の顧問ハイステルハーゲン氏の「ポストモダンの幻想」。アイデンティティ・ポリティクスの流行が諸悪の根源だと熱弁をふるっています。

本ブログでも(欧州風リベサヨ論として)繰り返し取り上げてきたテーマですが、やや哲学的側面に立ち入って論じているので、少し紹介。

https://www.socialeurope.eu/the-postmodern-illusion

Once, postmodernism and its protagonists identified themselves as freedom fighters – and probably still do. Their argument goes like this: The universalism of modernity and the logic of the general in industrialized societies, as the German sociologist Andreas Reckwitz calls it, would have led to normalization, standardization, and leveling. So, the Other would not just get excluded and oppressed in general, but individually this logic of the general and its pressure for normalization would have brought the oppression of many people too – of homosexuals, for instance.

かつてポストモダン主義とその唱道者たちは彼らを自由の戦いの旗手ととらえてきたし、今でもそうだろう。彼らの議論はこうだ。モダニティの普遍主義と産業社会の一般のロジックは、ノーマル化、標準化、平準化をもたらす。それ以外は単に排除され一般的に抑圧されるだけではなく、個別的にもこの一般のロジックとノーマル化への圧力がホモセクシュアルのような多くの人々を圧迫してきた。

This is how postmodernists pleaded and fought for an “anything goes”. They deconstructed and disassembled the great narratives of society; then they congratulated themselves for destroying the wasteland of the oppressing generality of modernity.

こうしてポストモダン主義者たちは「何でもあり」を弁護し、戦ってきた。彼らは社会の大いなる語りを脱構築し、ばらばらにしてきた。そして、抑圧的なモダニティの一般性という荒れ野を破壊することを喜び祝ってきた。

その帰結がフェイクニュースであり、トランプ大統領なのではないかと彼は問い詰めます。

But this fight for freedom was fought under a false premise. Postmodernists deny the tasks of finding the truth and the general. So, nowadays we have one frontline of the new Right and Left postmodernists, and both fight against universalism. This causes big collateral damage. One of those damages is the presidency of Donald Trump. Indeed, I think Trump was rendered possible because of postmodern relativism and, indeed, it also meant he could become the first postmodern president.

しかしこの自由への戦いは間違った前提の下で戦われてきた。ポストモダン主義者たちは真実と一般性を見つける任務を否定する。それで今では、新たな右翼と左翼のポストモダン主義者がどちらも普遍主義を否定して戦う一個の前線ができた。これが大きな副次的被害を生み出した。その被害の一つがドナルド・トランプ大統領だ。実際、わたしはトランプはポストモダン相対主義のおかげで可能となったのであり、実際彼は最初のポストモダン大統領になったともいえよう。

細かい話が続いて、また哲学的な議論になります。

And that is the point why the Left has to recognize where the postmodern anything goes led. The consequence was that a new postmodern cultural Left linked up to neoliberalism, because both focus on the individual. By doing so, more and more the classical economical Left was forced into the defensive position of being an outsider, because their idea was not the freedom of the individual but an empire of freedom, as Karl Marx called it. Even for the old Leftists who did not have a Marxist approach, this universal goal of “real freedom for the many and not just for the few” was the common driving force of the left movement. This historico-philosophical drive for the “promised land” was the Left’s motivation. The old left direction was: Let us move forward to a better world. And solidarity was the key term for this direction.

そしてこれが、ポストモダン的「何でもあり」がどこに至るかを左翼が理解すべき点である。その帰結は、新たなポストモダン文化的左翼はネオリベラリズムにつながるのであり、それはどちらも個人に焦点を合わせるからだということだ。そうなることで、ますます古典的な経済的左翼はアウトサイダー的な守りのポジションに押し込まれてしまう。彼らの理念は個人の自由ではなく、マルクスの言葉でいえば「自由の帝国」だからだ。マルクス派ではない古典的左翼にとってさえ、少数者のではなく万人の「真の自由」という普遍的目標が左翼運動の共通の駆動力であった。この「約束の地」への歴史哲学的動力源が左翼のモチベーションであった。古い左翼の方向性は:より良い世界を目指そう、であり、連帯がこの方向性のキーワードであった。

ここで、やや意表をついて例のバノン氏が登場します。

The German magazine “Spiegel” recently reported that Steve Bannon, ex-political advisor to Trump, told an interviewer: “As long as the Democrats are talking about identity politics, I will have them under control.” Unfortunately, it is correct that under these conditions the Right has the liberal Left under its control. As long as Leftists stay in love with identity politics, the Trumpians of all countries will celebrate.

最近、ドイツの「シュピーゲル」誌がスティーブ・バノンのインタビューを掲載している。「民主党がアイデンティティ・ポリティクスを語っている限り、わたしは彼らをコントロール下に置いている。」残念ながら、右翼が左翼をコントロール下に置くのはこの条件下においてであるというのは正しい。左翼がアイデンティ・ポリティクスに愛着を抱いている限り、世界中のトランプ主義者たちは祝賀するであろう。

その結果生み出される世界はかくのごとくです。

This form of identity politics undermines the ideals of enlightenment, and produces a divided society, because society breaks down into small groups and segments that mistrust each other, and do not want to talk with each other but talk about each other. That is how you lose a debate because arguments are no longer interesting. Almost anyone just wants to be left alone or wants to be in the right with his or her own point of view. Or someone wants both: not to hear the arguments of the others, but still wanting the others to think as he or she does.

この形態のアイデンティティ・ポリティクスは啓蒙の理想を掘り崩し、分裂社会を生み出す。というのも、社会は小さなグループと断片に分解され、そこではお互いを信用せず、お互いに語り合うことすら欲せず、お互いについて語るのみなのだ。こうしてあなた方は議論に興味を失い、論議を失う。ほとんどだれもが一人になることを求め、あるいは自分と同じものの見方の中にいることを求める。どちらも求める者もおり、他者の議論を聞こうとせず、他者が自分と同じように考えることを欲する。

Furthermore, in this modus of identity politics it is hard to talk about how to answer reality, because people are unable to find a common understanding of this reality. In the age of postmodernism anyone can make claims about reality in whatever way he or she wants. Anything goes. Trump is the best example.

さらに、この手のアイデンティティ・ポリティクスにおいては、現実にいかに応答するかについて論じることが困難だ。なぜなら、人々はこの現実についての共通の理解を見つけることができないからだ。ポストモダン主義の時代には、だれもが現実について、自分の好きなように文句をつけることができる。何でもありだ。トランプがその一番いい実例だ。

This trend is a huge mistake. And that is why the Leftists´ focus on this postmodern identity politics was a mistake, too. So, as Mark Lilla does, we should just appeal to the Left: Get real! Now!

このトレンドは大間違いだ。そしてこれが左翼がポストモダン的アイデンティティ・ポリティクスに焦点を合わせてきたのが間違いである理由だ。そう、今こそ左翼にこう訴えなければならない。正気に戻れ、と!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年4月28日 (土)

『新しい労働社会』第11刷

本日4月28日は、世界的には国際労働者祈念日(International Workers’ Memorial Day)であり、

 

https://www.ituc-csi.org/april-28-international-workers?lang=en

 

ここ日本では、連合のメーデー中央大会が開かれる日でしたが、

 

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/news_detail.php?id=1365

 

131039145988913400963

 

 

わたくしに関しては、岩波書店から『新しい労働社会』の第11刷の連絡が届きました。

 

この本、出たのは2009年ですから、もう9年近くになりますが、そこで論じたことがますます重要な政策課題となってきています。

 

第1章の労働時間問題についても、9年前はまだまだ自由な働き方という空疎な議論と残業代ゼロ反対というゼニカネ論ばかりが幅を利かせ、一番肝心の労働者の命と健康を守るための労働時間規制という本質を訴える声は細々としたものでしたが、この9年の間に議論の本筋はだいぶまっとうなものになってきたように思われます。ゼニカネではなく労働時間そのものの上限規制が法案に盛り込まれるなどということは、当時はとてもまだ現実化するとは思われていなかったことを考えると、この間の事態の進展に感慨深いものがあります。当時はほとんど知られていなかったインターバル規制も、徐々に普及してきて、努力義務として法案に盛り込まれるに至りました。まあ、いまだに安全衛生としての労働時間という認識よりも残業代ゼロというゼニカネにこだわる古い意識の人々の声ばかりがやかましいのは残念ですが。

 

また、第2章の非正規労働についても、同一労働同一賃金というスローガンの下で、ようやく賃金問題の本質にかかわる議論が行われるようになり、第3章で論じた社会保障や教育問題との関連も、高等教育の無償かとか奨学金問題がホットトピックになるように、かつてと比べると世の中に何が問題化がすっと通じる傾向が強まってきたと感じます。時代は変わらないように見えて、やはり少しずつ変わってきているし、9年前の拙著はその間、あるべき方向性を静かに指し示し続けてきたと自負しても罰は当たらないでしょう。

 

残念ながら第4章で取り上げた労使関係に関しては、この間法政策レベルではほとんど進展は見られなかったとはいえ、様々なレベルで問題意識が提起されてきたことは、これからの進展の土壌づくりになっていると信じたいと思います。

 

9年経っても、古びるどころか、今現在労働問題の議論に求められる問題意識を最もストレートに示し続けてきている本だと、いささかの自負心を持って言えるのは、正直言うとかなり意外でした。

 

この間、若者、中高年、女性と、各論的な本も(それぞれ違う版元から)出してきましたが、やはりこういう時論的な本の総論的な位置にあるのは本書なので、今回の増刷でさらに引き続き多くの方に読んでいただけるのはうれしい限りです。

 

 

2018年4月27日 (金)

ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』

852sub1ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3.0の政治経済学』(亜紀書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=852

日本のリベラル・左派の躓きの石は、「経済」という下部構造の忘却にあった!
アイデンティティ政治を超えて、「経済にデモクラシーを」求めよう。

すごくざっくりいうと、「リベサヨ」批判の本です。

言うまでもなくネット上で用いられるこの言葉の99.9%で意図されている意味(リベラル=サヨク=バカ)ではなく、左翼のくせにリベラルに近寄る変な奴らというほとんど用いられることのない、しかしこの言葉を発明した本人はそういう意味でこしらえたはずなのに、とぶつぶつつぶやき続けている意味でですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-6bcb.html(リベサヨって、リベラル左派の略だったの?)

その辺を北田さんがこう語っていて、

・・・でも、日本では「リベラル左派」とか「リベサヨ」なんていう意味不明の言葉もあって、なんかバカみたいな状況なんですね。普通に考えたら、「リベラル」なんて左翼の敵に決まっているんだから、共産党とかは「リベラル」とか言われるのをちょっとは怒った方がいいと思うんですけど(笑)。

いやいや、まさに「意味不明の言葉」を意図したのに、全く逆に素直に意味の通る言葉として流通してしまうんです。

・・・日本では「リベサヨ」という言葉に象徴されるような妙な形で運用される言葉があるけれど、それも一理ある気がします。どうも日本の「リベラル左派」というのはアメリカ的な意味での「リベラル(ソーシャル)」ですらなくて、経済的な志向性はむしろヨーロッパ的な意味での「リベラル(自由主義)」、アメリカでいえば共和党保守に近いのではないか。確かに、日本の「レフト」というのは、いまやソーシャルな要素が限りなく希薄化された「リベラル」に飲み込まれつつあるような気がします。・・・

というはなしはもう繰り返し語られてきた話ですが、いやそれは今やヨーロッパでもじわじわとそうなりつつあるのかもしれないというのが、ここ数年来ソーシャル・ヨーロッパ・ジャーナルの記事なんかを引用しながら本ブログで指摘してきたことでもあるんで、そういう意味では日本は先進的(!?)だったのかもしれません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1cba.html(労働者階級と知的文化的左翼の永すぎた春の終焉)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-c871.html(反動的労働者階級?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-cc0c.html(左翼の文化闘争?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-c0e2.html(右翼ポピュリズムと社会問題)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-61c3.html(ポピュリズムの労働市場的基礎)

こう言うの読んでくると、左翼が知的文化左翼、バラモン左翼になっちゃって、経済を語らなくなり、そこを右翼ポピュリストにさらわれているというのは、洋の東西を問わない現象のようにも思えてきます。

というわけで、今年の流行語大賞には是非「バラモン左翼」をエントリーしましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)

志村光太郎『労働と生産のレシプロシティ』

9784792795757志村光太郎『労働と生産のレシプロシティ 今こそ働き方を変革する』(世界書院)を、状況出版の服部さんよりお送りいただきました。ありがとうございます。

労働と生産の公共性を突きつめていけば、かならず労働者の互酬に行き着くはずだ。労働者が行為主体であることにはきわめて自由な、そして相互の尊重と友愛が成果を保障するはずだ。じっさいの自主生産現場に取材することで、労働過程の理論的成果を検証した。ここに21世紀の新しい「働き方」の変革がある!

服部さんの送り状に曰く:「今回は濱口先生に文句の1つもつけさせないよう、労働問題の専門書をお送りいたします。是非ご覧になってください。これはもうhamachan先生も大満足かと」。

「大満足か」と言われると、いくつか文句をつけたくなります。いや、ロシア革命論や尖閣列島論に比べればテーマはドストライクではありますが。

まずね、この本確かに労働問題の専門書であり、労働問題の専門書を読むような読者であれば、東條由紀彦氏の特異な用語法についてもある程度の知識があると想定するのはそれほど無理ではないのかもしれませんが、それにしても、他の人々が一致して「近代」と呼ぶ時代を「現代」と呼び、他の人々が一致して前近代たる近世と呼ぶ時代を「近代」と呼び、他の人々が一致して近代市民社会以前と考えている社会を近代社会と呼ぶその特異な用語法について、それが特異だけれどもあえてそういう用語法にするんだよという説明の一つもなく、淡々と論じていくやり方は、少なくともあまり親切とは言いがたいでしょう。

まあ、これは著者の志村氏の東條氏との深いつながりの現れということなのでしょうが。

3つのケーススタディは、いずれも全統一労組の鳥井さんが手がけたものだということで、正直鳥井さんについては外国人労働者関係の活躍を通じてばかり知っていたので、いささか新鮮でした。

本書のテーマである労働者自主生産ということについていえば、それはやはり終戦直後の生産管理闘争の通常化された再現なのではないか、という感想が強められました。日本型雇用システムが戦間期の経営イニシアティブ(工場委員会体制)、戦時期の国家イニシアティブ(産業報国会体制)、終戦直後の労働イニシアティブ(経営協議会体制)のアマルガムとして、最終的に経営主導で構築されたものであるということは共通した認識だと思いますが、それが「従業員民主主義体制」であるということの中に、終戦直後の職制まで丸呑みした生産管理闘争の遺伝子が色濃く残っている訳で、だからこそ、倒産といった事態の発生で、隠れていたその遺伝子が発現すると労働者自主生産という形になったりするのでしょう。

そういう認識枠組みが根っこにあるためかもしれませんが、本書の後ろの方で展開される抵抗と公共空間とか互酬と多様性とかといった理念的な議論の部分は、正直違和感を感じながら読まざるを得ませんでした。

労働者が労働力を売る不安定な所有者として立ち現れる資本主義社会のフィクションを緩和するさらなるフィクションとして構築されたのが産業民主主義であり、その日本バージョンが従業員民主主義であってみれば、そのフィクションの枢要の要素たる「職場で働く俺たちこそが主人公だ!」という虚構を唯一の回路として、くるりとひっくり返すように作られた労働者自主生産というものが、否応なく従業員主導の従業員民主主義体制の会社という日本型システムにおいては特に違和感のない存在であることも不思議ではないように思われます。

第1部 ヘゲモニーと労働者自主生産

欧米のヘゲモニーと労働者自主生産

日本のヘゲモニーと労働者自主生産

第2部 労働者自主生産の事例考察

労働者自主生産事例1-ビッグビート

労働者自主生産事例2-城北食品

労働者自主生産事例3-ハイム化粧品

労働組合の役割

事例に見る労働者自主生産の特徴

第3部 労働者自主生産における公共空間と互酬

抵抗と公共空間

互酬と多様性

2018年4月26日 (木)

中間技能人材@日本商工会議所

現在急ピッチで進められている外国人労働者の新たな導入政策については、先月、『労基旬報』の3月25日号に「外国人労働政策の転換?」を書いたところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2018325-937f.html

そのとき、「実はこの動きの背景にあるのは、昨年2017年11月16日に日本商工会議所・東京商工会議所が公表した「今後の外国人材の受入れの在り方に関する意見~「開かれた日本」の実現に向けた新たな受入れの構築を」という意見書です」と述べ、やや推測も交えて「その焦点は、「技能」という在留資格の拡大にあるようです」と述べていたところですが、本日に恩商工会議所が公表したあらたな意見書では、「中間技能人材」という名称を用いて、その意図するところをはっきりと打ち出してきています。

https://www.jcci.or.jp/recommend/2018/0426110527.html

1.外国人材の受け入れに対する商工会議所の考え方
・一定の専門性・技能を有する外国人材を「中間技能人材(仮称)」と定義し、新たな在留資格を創設した上で、受け入れを積極的に進めていくべき
・「中間技能人材」の創設にあたっては、原則、人手不足の業種・分野であることを受け入れの基本的な条件とし、期間は他の在留資格と同様に5年を上限に更新可とすべき
2.「中間技能人材」の受け入れ業種・分野を判断する際の考え方
・「中間技能人材」の受け入れ業種・分野を判断する際には、①業種・分野ごとの人手不足の状況に基づき、受け入れの可否および総量を検討する、②業種・分野ごとの人手不足を測る指標には有効求人倍率や失業率等を用いる、③有効求人倍率が1倍を超える期間が続いているなど、人手不足が一過性ではなく一定期間続いており、かつ、将来的に改善する見込みが希薄であること、の3点を基本的な考え方とすべき
・加えて、①アニメ、ファッション、食、デザイン、美容等に代表されるクールジャパン関連や、②宿泊・観光等わが国でのインバウンド対応が期待される業種・分野、③インフラ関連や高品質かつきめ細かいサービスなどさらなる国際展開が期待される業種・分野など、わが国経済の持続的な成長・発展およびグローバル化への寄与が期待される業種・分野については、人手不足の状況とは別に戦略的な観点から、受け入れの可否および総量を検討していくことが望ましい
3.「中間技能人材」に求められる一定の専門性・技能の程度および日本語能力
・一定の専門性・技能については、受け入れる業種・分野ごとに政府がそれぞれ設定すべき
・「中間技能人材」は、政府が設定した業種・分野ごとに求められる専門性・技能を有し、かつ専門性・技能を裏付ける要件として、(1)母国における5年程度の実務経験および高卒以上の学歴を有している者、(2)技能実習修了者、(3)わが国の国家資格等取得者のいずれかに該当する者とすべき
4.外国人材受け入れに係る在留管理のあり方
・外国人材の居住地、所属企業、在留資格、移転先(引っ越し、転職等)など、詳細を把握できる情報を一元化して、在留および雇用管理のさらなる徹底を図るべき
・外国人材を送り出す国とわが国との二国間協定(MOU)を交わすこと
・外国人材の積極的な受け入れに際して管理・支援機関を設置する場合には、わが国の公的機関がその任を担うことが望ましい
5.政府において構築すべき外国人材および企業に対する支援体制
・政府は、外国人材の積極的な受け入れに際して支援策の一層の周知とさらなる拡充を図ること
6.「中間技能人材」以外の外国人材の受け入れ
・わが国の大学等を卒業した外国人留学生が引き続き日本で就労できるよう、卒業生に特化した在留資格を創設すること

高等教育における人材育成の費用負担@『JIL雑誌』5月号

694_05『JIL雑誌』5月号の特集は「高等教育における人材育成の費用負担」です。今現在ホットな話題であるとともに、日本型雇用システムの中ではなかなか理解を得にくく、進みにくい話でもあるという意味で、本ブログの読者にとっても興味深いはずです。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/05/index.html

特集:高等教育における人材育成の費用負担─どのように次世代を育てるのか

提言 多面的な検討が求められる 市川昭午(国立大学財務・経営センター名誉教授)

解題 高等教育における人材育成の費用負担─どのように次世代を育てるのか 編集委員会

論文 高等教育費負担の国際比較と日本の課題 小林雅之(東京大学教授)

奨学金制度の歴史的変遷からみた給付型奨学金制度の制度的意義 白川優治(千葉大学准教授)

学歴収益率についての研究の現状と課題 北條雅一(駒沢大学教授)

高等教育無償化政策と大学再編の可能性 山本清(東京大学客員教授)

国立大学法人の運営財源と人材育成・養成 水田健輔(大正大学教授)

紹介 大学夜間学部という選択肢─学生生活とキャリア形成の機会 大島真夫(東京理科大学講師)

最初の小林さんの論文は矢野眞和さんの論をもとに、スウェーデンのような公的負担による福祉国家主義、日本のような親負担による家族主義、、アメリカのような本人負担による個人主義という枠組みをもとに、それが本人負担にシフトする傾向にあると指摘しつつ、公的負担の拡充の課題を論じています。この問題が難しいのは、日本型雇用システムによる年功賃金が親負担主義を支えてきたという面だけではなく、日本型雇用システムによるジョブ意識の希薄化が公的負担の前提となる教育の公共性、信頼性を高めないという面があり、おのずから動くことが期待しがたいということでしょう。

白川さんの論文は、奨学金制度の変遷の歴史を詳しく解説しており、大変役に立ちます。

面白かったのは、論文ではなく紹介という位置づけで載っている「大学夜間学部という選択肢─学生生活とキャリア形成の機会」で、矢野眞和さんの言う18歳主義の対極にある大学夜間部の現状を紹介しています。昼間フルタイムで働くことが「超長期のインターンシップ」だという言葉には、思わず意表を突かれた気がします。

・・・夜間学部学生のフルタイム就業は、単にお金を稼ぐということ以上に、インターンシップの目指す目的をも同時に満たしているのではないかということである。フルタイムで働くとはどういうことか、仕事に対して自分は適性があるのか、といったことは、わざわざインターンシップに行って学ばずとも、フルタイム就業している夜間学部学生はすでに百も承知というわけである。フルタイム就業が超長期のインターンシップのような役割を担っているといってよいだろう。

2018年4月25日 (水)

労働政策フォーラム 改正労働契約法と処遇改善@『ビジネス・レーバー・トレンド』2018年5月号

201805『ビジネス・レーバー・トレンド』2018年5月号が刊行されました。特集は「改正労働契約法と企業の対応」です。その目玉は、去る3月15日に開催した労働政策フォーラム「改正労働契約法と処遇改善」です。

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2018/05/index.html

基調講演 菅野和夫 JILPT 理事長
調査報告 荻野 登 JILPT労働政策研究所 副所長
事例報告①  忠津剛光 J.フロントリテイリング株式会社 執行役
事例報告②  井上宏人 株式会社千葉興業銀行 人事部人事企画担当部長代理
事例報告③  山本 覚 株式会社竹内製作所 総務部人事課課長
事例報告④  松本憲太郎 株式会社クレディセゾン 戦略人事部長
パネルディスカッション コーディネーター 濱口桂一郎 JILPT労働政策研究所 所長

2018年4月24日 (火)

野川忍『労働法』

07712 野川忍さんより『労働法』(日本評論社)をお送りいただきました。1100ページを超える分厚いテキストブックです。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7712.html

いやとにかく、労働法教科書の「枕」化現象は怒涛の如く押し寄せていますが、かつて商事法務から教科書を出した時には、まあそれなりに中くらいの分厚さだった野川テキストも、今回は堂々1000ページ越えグループに入ってきました。

と、外形的な形状ばかりあげつらっているようですが、内容的にもいくつか特色があります。わかりやすいのは、第6章として「国際的観点から見た労働法制の展開」があり、EU労働法までかなり詳しく紹介したり、使用各国の労働法と称して、米独仏英の労働法制を概観したりしている点ですが、これは前の商事法務時代の延長線上とも言えます。

もう少し中身に立ち入った特色は、これは中の記述をある程度じっくり読むと感じられるのですが、いわゆる教科書的な記述というよりは、ある論点について論文でも書いているかのようにやや身を入れて突っ込んで論じているところがいくつもあるのですね。就業規則法理とか解雇法理とか、野川さんがこだわりのある論点では特にその傾向が強いようです。

はしがき
凡例

第1部 総論

第1章 労働法の意義と特質
第2章 労働法の生成
第3章 労働法に関する憲法の規制
第4章 労働法の多角化と判例法理
第5章 労働法制におけるコントロールツール
第6章 国際的観点から見た労働法制の展開

第2部 個別的労働関係法

1 総説
第7章 個別的労働関係法の体系と対象
第8章 個別的労働関係法の特質・効力・適用範囲
第9章 労働者と使用者
第10章 就業規則

2 労働契約法
第11章 労働契約法総論
第12章 労働契約の成立・展開
第13章 労働契約の終了
第14章 非典型雇用
第15章 企業変動と労働法制

3 労働者保護法
第16章 労働憲章と労働者の人権
第17章 男女雇用平等法制
第18章 育児・介護と次世代育成の支援
第19章 賃金の法規制
第20章 労働時間の法的意義と基本構造
第21章 年次有給休暇
第22章 安全衛生と労災補償

第3部 日本の雇用政策

第23章 雇用政策の法的構造
第24章 特別な対象者に対する雇用促進政策

第4部 集団的労使関係法

第25章 労働組合
第26章 団体交渉と労使協議制
第27章 労働協約の法的構造
第28章 団体行動の法理
第29章 不当労働行為救済制度

第5部 労働紛争解決システム

第30章 労働委員会による労使紛争解決システム
第31章 多様な労働紛争解決システムの諸相

事項索引
判例等索引

 

日本版O-NETの源流@WEB労政時報

WEB労政時報に「日本版O-NETの源流」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=751

先日ようやく国会に提出に至った働き方改革関連法案の元になったのは、昨年3月の「働き方改革実行計画」ですが、同計画には法案に持ち込まれた労働時間の上限規制や同一労働同一賃金、既に検討が開始されている雇用類似の働き方や兼業・副業といった、誰もが注目する論点のほかに、おそらく少数の関係者しか関心を持たないであろうけれども、日本のこれからの労働市場のあり方という観点からは潜在的にかなりの重要性を秘めている項目がさりげなく入っています。その一つが「転職・再就職の拡大に向けた職業能力・職場情報の見える化」という項です。

 AI等の成長分野も含めた様々な仕事の内容、求められる知識・能力・技術、平均年収といった職業情報のあり方について、関係省庁や民間が連携して調査・検討を行い、資格情報等も含めて総合的に提供するサイト(日本版O-NET)を創設する。・・・

 この前半の「日本版O-NET」とは何でしょうか。このネーミングの元は、アメリカ労働省が開発した職業情報サイトO*NET(Occupational Information Network)です。しかし、実は日本にもごく最近まで、民主党政権の看板政策である「事業仕分け」によって廃止されるまで、似たようなものがあったのです。労働政策研究・研修機構(JILPT)が運営していたキャリア・マトリックスというデータベースです。今回は、その歴史を振り返るとともに、こうした外部労働市場指向型の政策に対する否定的な感覚の原因も探ってみたいと思います。・・・・・

民進党から国民党へ?

https://mainichi.jp/articles/20180424/k00/00m/010/167000c希望と民進 新党名に「国民党」案 協議会で検討)

希望の党と民進党の執行部は23日、両党が結成する新党の名称を「国民党」とする検討に入った。新党の綱領案には「穏健保守からリベラルまでを包摂する国民が主役の中道改革政党を創る」との基本理念を盛り込む。

なんでもいいけど、いやしくも民進党と名乗っている政党が国民党になることに忸怩たる思いというのはない・・・のでせうね。

Zhangまあ、国民党と言って蒋介石を思い出す方が古いのかもしれないけれど・・・。

(追記)

と思ったら、なんと「国民民主党」だそうで・・・・。

https://mainichi.jp/articles/20180424/k00/00e/010/275000c

希望の党の玉木雄一郎、民進党の大塚耕平両代表は24日、国会内で会談し、両党が結成する新党の名称を「国民民主党」(略称・国民)とすることを決めた。両代表が会談後に記者会見を開き、発表した。

いやいやそれはかえってまずいのでは。まさかドイツ語にしたら「Nationaldemokratische Partei」なんてことにならないでせうね。

 

2018年4月23日 (月)

『大原社会問題研究所雑誌』5月号

『大原社会問題研究所雑誌』5月号は「経営者団体と労使関係」が特集です。まだ大原社研のサイトに出ていないのですが、大変面白かったので紹介しておきます。

最初の菊池信輝さんの「安倍政権の社会・労働政策と経営者団体」は、この間の経緯を丁寧に観察して、型にはまった念仏的評論とは違い、現政権と経営者団体のまことに微妙な関係を活写しています。

・・・第二に、現在の政権と経営者団体の意向にはズレがあり、それが今後の日本を占う上で重要だと言うことである。

これまで述べてきた安倍政権と経営者団体の協調と対抗のうち、経営者団体側の論理は理解しやすい。新自由主義的規制緩和を労働時間でも解雇規制でも外国人労働者雇用でも進めてもらいたいのだが、圧倒的な勢力を誇る政権の意向を忖度して強く出ることができない。・・・

逆に言えば、いびつな形とはいえ、現在現れている政財間関係は、戦後から1960年代にかけ、労使間の調整のために国家が経営者団体の意向を離れて福祉国家建設に邁進した、あの時代の欧米先進諸国のそれに近いのかもしれない。・・・

逆に言うと、だからこそ、官邸主導に弱まりが見えてくると、すかさず自民党の中から、働き方改革なんかやられたら中小企業がつぶれてしまうという声が吹き出してくるのでしょう。

『POSSE』vol.38

Hyoshi38『POSSE』vol.38をお送りいただきました。ありがとうございます。特集は「環境問題と社会運動」です。

http://www.npoposse.jp/magazine/no38.html

◆特集「環境問題と社会運動」

15分でわかる環境問題と社会運動

世界と日本の石炭火力反対運動
――運動世界の運動から学ぶほんとうの若者目線

伊与田昌慶(NPO法人気候ネットワーク研究員)

ダイベストメント運動で気候変動問題に取り組む国際環境NGO“350Japan”
――草の根ムーブメントの構築を目指して

清水イアン(350Japanフィールドオーガナイザー)

日本のインフラ輸出がもたらす環境破壊と人権侵害
――気候正義 Climate Justice を求めて

深草亜悠美(FoE Japan気候変動・エネルギー担当)

書評 吉田文和著『スマートフォンの環境経済学』
スマートフォンで学ぶ物質代謝とその攪乱

本誌編集部

グローバルIT企業に挑む
――クリーンなスマホ生産の新たなリーダーを生み出す国際的な運動展開

石川せり(グリーンピースエネルギー担当)×城野千里(グリーンピース広報担当)

秩父・武甲山
――産業によって破壊される文化・信仰

笹久保伸(音楽家・秩父前衛派)

米軍基地と沖縄の環境問題
桜井国俊(沖縄大学名誉教授)

書評 ナオミ・クライン著『これがすべてを変える 上・下』
いま最もラディカルな社会運動論

本誌編集部

ただ、ここではそれ以外の記事を紹介しておきます。

Dbeqmjjv4aijbrxなかなか面白かったのは、例の「All for all」で政治的には失敗した井手英策さんがシェアリングエコノミーについて語っているインタビュー記事でした。

シェアリング・エコノミーと普遍主義
――新しい生き方を支える新しい財政を

井手英策(財政社会学者)

ここで井手さんは、シェアリングエコノミーについて、今現在のマスコミや評論家たちとはいささか違ったとらえ方をします。

・・・僕は、シェアリング・エコノミーをこう見てます。人口が減少し、暮らしの水準が傾向として低下する中で、顕示的消費は縮小する。一方、生存・生活を支える共通ニードは、痛みや喜びをシェアする形で財政の再編に向かう。個別ニードは、市場で満たすと同時に、場合によっては材の共有化さえも伴いながら、互酬的な関係が補っていく。・・・

・・・社会の構成員の生存・生活に不可欠と考えられる者が共有化されていく側面に着目する。だから、世に言うシェアリング・エコノミーよりも、僕の場合は概念が広いです。それが社会の中で非常に重要なウェートを占めるようになっていくだろうと考えています。

これは、sharing economyという言葉を(あえて世間の流行とは切り離して)文字通りにとったときに出てくる解釈という感じがしますが、それ故に、井手さんにとってシェアリングエコノミーは経済成長の源泉になるどころか、むしろGDPを減らすものなのですね。

実は、欧米のシェアリングエコノミーの議論の中にも、協同組合型社会を展望するような議論もあったりするのですが、少なくとも今はやりの議論とは全くベクトルが逆であることは確かなようです。

Dbeqmjiv0aa4vl5もう一つ、読み物として面白いのは外国人労働問題の弁護士として有名な指宿昭一さんのインタビュー。

最も立場が弱い人のために闘う
――外国人労働者問題に取り組む「弁護士資格を持った活動家」

指宿昭一(弁護士)

指宿さんはもともと統一労評という労働組合の活動家だったのが、労働者側にたった弁護士になろうと思い、17回にわたって司法試験を受けてついに弁護士になった方です。自ら「弁護士資格を持った活動家」と称し、特に外国人労働者の問題をここまで進めてきたのは指宿さんの努力があってこそなのでしょう。

・・・「なぜ外国人問題に取り組むんですか」という質問を時々受けるのですが、労働法が最も守らなくてはいけない最も弱い立場の人がそこに居るからです。この人たちを守れなかったら、他の日本の労働者も守れない、という一番過酷なところに係っている問題が多いのです。・・・

2018年4月22日 (日)

バラモン左翼@トマ・ピケティ

Images 21世紀の資本で日本でも売れっ子になったトマ・ピケティのひと月ほど前の論文のタイトルが「Brahmin Left vs Merchant Right」。「バラモン左翼対商人右翼」ということですが、この「バラモン左翼」というセリフがとても気に入りました。

http://piketty.pse.ens.fr/files/Piketty2018.pdf

Brahmin Left vs Merchant Right:  Rising Inequality & the Changing Structure of Political Conflict (Evidence from France, Britain and the US, 1948-2017)

冒頭の要約によると:

Using post-electoral surveys from France, Britain and the US, this paper documents a striking long-run evolution in the structure of political cleavages. In the 1950s-1960s, the vote for left-wing (socialist-labour-democratic) parties was associated with lower education and lower income voters. It has gradually become associated with higher education voters, giving rise to a “multiple-elite” party system in the 2000s-2010s: high-education elites now vote for the “left”, while highincome/high-wealth elites still vote for the “right” (though less and less so). I argue that this can contribute to explain rising inequality and the lack of democratic response to it, as well as the rise of “populism”. I also discuss the origins of this evolution (rise of globalization/migration cleavage, and/or educational expansion per se) as well as future prospects: “multiple-elite” stabilization; complete realignment of the party system along a “globalists” (high-education, high-income) vs “nativists” (loweducation, low-income) cleavage; return to class-based redistributive conflict (either from an internationalist or nativist perspective). Two main lessons emerge. First, with multi-dimensional inequality, multiple political equilibria and bifurcations can occur. Next, without a strong egalitarian-internationalist platform, it is difficult to unite loweducation, low-income voters from all origins within the same party. 

フランス、イギリス、アメリカの戦後選挙調査を用いて、本稿は政治的分断の驚くべき長期的展開を示す。1950-60年代には、左翼(社会党、労働党、民主党)に投票するのは低学歴で低所得の有権者だった。次第に投票するのは高学歴になっていき、2000~2010年の「多元的エリート」政党システムのもととなった。高学歴エリートはいまや「左翼」に投票する。一方、高収入で裕福なエリートは依然として「右翼」に投票する。言いたいのは、これが格差拡大とそれに対する民主的反応の欠如、そして「ポピュリズム」の興隆に貢献しているということだ。私はまたこの展開の源泉とともに将来予測も論じる。「多元的エリート」の安定化、(高学歴、高所得の)「グローバリスト」対(低学歴、低所得の)「ネイティビスト」に沿った政党政治の再編成、階級に立脚した再分配をめぐる紛争への回帰だ。・・・

ここには「バラモン左翼」というキャッチーな言葉は出てきません。本文を読んでいくと、こういう注釈的一節にありました。

I.e. the “left” has become the party of the intellectual elite (Brahmin left), while the “right” can be viewed as the party of the business elite (Merchant right).1

「左翼」はインテリのエリート(バラモン左翼)の党になってしまったが、「右翼」はビジネスエリート(商人右翼)の党とみなされている。

なるほど、高学歴高所得のインテリ左翼を皮肉って「バラモン左翼」と呼んでいるわけですね。

これにご丁寧に注釈がついていて、

1 In India’s traditional caste system, upper castes were divided into Brahmins (priests, intellectuals) and Kshatryas/Vaishyas (warriors, merchants, tradesmen). To some extent the modern political conflict seems to follow this division.

インドの伝統的なカースト制度では、上級カーストはバラモン(僧侶、知識人)とクシャトリア、ヴァイシャ(軍人,商人)に分けられる。現代の政治的紛争もなにがしかこの分断に沿っているようである。

ふむ。思いついた言葉がすべてで、それがそのままタイトルになったという感じですが、確かに「インテリ左翼」とかいうだけでは伝わらないある種の身分感覚まで醸し出しているあたりが、見事な言葉だなあ、と感じました。

言うまでもなく、いっている中身は、本ブログで(ソーシャル・ヨーロッパ・ジャーナルなんかをひきながら)よく取り上げているテーマではあります。

つか、この論文に気がついたのは、ソーシャル・ヨーロッパ・ジャーナルにダニ・ロドリクの「何が左翼を止めてきたのか?」(What’s Been Stopping The Left?)で言及されていたからなんですが。

https://www.socialeurope.eu/whats-been-stopping-the-left

(追記)

まじめな話の後ろに恐縮ですが、この言葉に脳髄が反応したのはおそらく、 幼い頃にテレビで見た「妖術師バラモン」のかすかな記憶があったからかもしれません。

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哲学の職業的レリバンス再々サルベージ

こういうツイートを見かけて、

https://twitter.com/hee_verm/status/987495361177571328

B__sb4a_400x400 哲学科のオリエンで教員が「この学科に来たら就職できません」みたいな発話がいまだに出るの信じがたいけど、この手の紋切り型の口上には「就職できない(≒市場価値をもたない)ことにこそ真の価値がある」みたいなルサンチマンが透けて見えるし、その浅薄さと狭量さの方に失望すべきだと思う。

今からもう12年も前に本ブログで書いた一連のエントリを思い出しました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html (哲学・文学の職業レリバンス)

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。
職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html (職業レリバンス再論)

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html (なおも職業レリバンス)

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。
一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html (大学教育の職業レリバンス)

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。
これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。
・・・いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

 

 

 

 

 

 

2018年4月20日 (金)

東京オリンピックに向けた受動喫煙対策@『労基旬報』4/25号

『労基旬報』4/25号に「東京オリンピックに向けた受動喫煙対策」を寄稿しました。

 去る3月9日、ようやく健康増進法の改正案が国会に提出されました。東京オリンピックに向けた受動喫煙対策は与党内の反対意見が強くほぼ1年近くストップがかかっていた形ですが、なんとか法案を出すところまではたどり着いたようです。とはいえ、その内容は当初の厳格な規制案とは別物のような生ぬるいものになっていたようです。
 そもそも受動喫煙対策については、2014年の労働安全衛生法改正による職場の受動喫煙対策が、2011年に国会に法案を提出したときには例外は認めつつも原則禁煙としていたのに、国会で特に与党サイドからの反対が強く、解散で廃案になった後に2014年に再度国会に提出した法案では全面的に努力義務化せざるを得なかったという過去の苦い経験があります。・・・・・

雇用類似の働き方と競争法政策@『先見労務管理』4/25号

Senken『先見労務管理』4/25号に「雇用類似の働き方と競争法政策」を寄稿しました。

 去る2月15日、公正取引委員会の競争政策研究センターは『人材と競争政策に関する検討会報告書』を公表しました。タイトルからすると、人材、つまり労働者と独占禁止法などの競争法政策との関係を一般的に論じたもののように見えますが、実はその内容は少なくとも部分的には、近年急速に注目を集めつつある雇用類似の働き方をする人々に対する法的保護として、競争法の諸手段を使えないかという問題意識に基づくものになっています。 ・・・・・

2018年4月19日 (木)

白河桃子『御社の働き方改革、ここが間違ってます!』

9784569831527白河桃子『御社の働き方改革、ここが間違ってます!』をPHPの編集者の方からいただきました。昨年7月に出た本ですが、いろんな意味で、きちんと読まれるべき本だと思います。

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83152-7

昨今「働き方改革」という言葉が叫ばれている。しかし、それによって悲鳴を上げている現場は少なくない。“残業削減しろ、予算達成しろ、あとはよろしく”といった「現場へムチャぶり」の「見せかけの働き方改革」では、社員は疲弊し、生産性は落ち、人が辞めていく。

 政府の働き方改革実現会議で有識者議員を務めた著者は、真の働き方改革とは言わば「会社の魅力化プロジェクト」と説く。それは経営改革であり、「昭和の活躍モデル」からの脱却なのだ。

地に足のつかない威勢のよい議論と現場の苦悩とが切り離されたままの状態が健全なはずはありません。

そう、たとえば、紙面では威勢のよい新聞社。

・・・先日、全国の新聞社の経営トップが出席する会議で、「働き方改革」について講演をさせていただいた。その後の経営担当者会議にも出席したのだが、皆さんの表情がとても暗い。新聞社と言えば、長時間労働が当たり前という業界。そこに、法的上限規制が入ると言うことで拭いようのない「やらされ感」が漂っていた。しかし、何か改革をしないわけにはいかない。「実労働時間が把握できない」ということや、慢性的な長時間労働による新聞社自体の「人材不足」、新聞配達員の不足など、経営者は様々な経営課題を抱えていた。・・・・

いやまあ、当然そうだろうなと思いますが、その辺の経営組織体たる新聞社の悩みが、その商品たる新聞紙上には全然出てこず、完全に正義の味方が悪を討つかの如き商品化された売りもの言説ばかりが垂れ流されるという事態一つとっても、なかなか問題の本質を論ずるのは難しいということなのでしょう。

新聞社自身が取り上げられないことに、本書は果敢にアタックしていきます。

・・・テレビや新聞といったメディア業界は、やりがいはあるが、マッチョで長時間労働が当たり前となっている職場の代表例だ。メディア業界で働く、女性記者たちの本音の座談会をお届けする。

好きな仕事に就いているのに、なぜ彼女たちは苦しいのか?そこには女性が活躍できない理由がたくさん潜んでいる。・・・

ということで、彼女たちの語る言葉は、紙面では長時間労働を偉そうに叱りつけるマスメディアの姿を浮き彫りにしてきます。

白河 メディアでの仕事は基本的に長時間労働ですよね。

山口 新聞は「24時間労働」がデフォルトです。

小関 テレビも、報道、バラエティ、ドラマ、どの部門も24時間労働です。

佐藤 24時間働けない人は「使えない人」認定されます。「B級労働者」扱い。

山口 ずっと「休みは悪」であるかのように教わってきました。

小関 私たち自身が「24時間がんばるマン」でオジサンに同化してやってきちゃったんですよね。

・・・

白河 今後メディアは、働き方改革や女性活躍に向けて変わっていくでしょうか。

小関 完全に義務化しない限り、メディアが一番変わらないかもしれない。

佐藤 「メディアは例外」と思っているんです。「テレビや新聞だから、しょうがないじゃん」って。

阿部正浩・山本勲編『多様化する日本人の働き方』

24940阿部正浩・山本勲編『多様化する日本人の働き方――非正規・女性・高齢者の活躍の場を探』(慶應義塾大学出版会)をいただきました。

http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766424942/

もう一つの「働き方改革」に注目せよ!

長時間労働是正や賃上げなど、正社員の働き方の再検討が進んでいる。
だが、非正規雇用者、女性、高齢者が働く場を効率化することで、就業率をさらに高め、
少子高齢化に十分対応可能な労働環境を整備できる。
わが国の将来に向けて、その方策を考察・提言する。
▼“働き方改革”の推進は、正社員の境遇改善だけでとどめてはいけない。非正規雇用者、女性、高齢者の働き方をさらに効率化することで、少子高齢化した労働市場にも対応できる!
▼ ダイバーシティ経営を推進するシステム構築を提言!

非正規雇用から正規雇用への転換、非正規雇用者へのセーフティ・ネットの整備、「時間の貧困」を考慮に入れた対策、育児休業期間や育児支援の再考による、女性がより働きやすい場の提供、定年退職や失業が高齢者の健康にどう影響するかなどを考察することで、就業機会をさらに開拓し、少子高齢化に十分対応できる労働環境の整備が可能となる。将来に向けて、より幅広い働き方を選択できるシステム構築の方向性を提言する。

目次は以下の通りですが、

序 章 日本の労働市場はどう変わってきたか(阿部正浩)

  第Ⅰ部 非正規雇用の労働力と貧困

第1章 非正規雇用から正規雇用への転換と技術革新(小林徹・山本勲・佐藤一磨)
第2章 非正規雇用者へのセーフティ・ネットと流動性(戸田淳仁)
第3章 所得と時間の貧困からみる正規・非正規の格差(石井加代子・浦川邦夫)
 
  第Ⅱ部 女性労働力と出産・育児

第4章 結婚・出産後の継続就業
――家計パネル調査による分析(樋口美雄・坂本和靖・萩原里紗)
第5章 育児休業期間からみる女性の労働供給(深堀遼太郎)
第6章 企業における女性活躍の推進(山本勲)
第7章 地域の育児支援政策の就業・出産への効果(伊藤大貴・山本勲)
 
  第Ⅲ部 高齢者の労働力と定年・引退

第8章 中高年の就業意欲と引退へのインセンティブ(戸田淳仁)
第9章 中高年期の就業における家族要因
――配偶者の就業と家族介護が及ぼす影響(酒井正・深堀遼太郎)
第10章 定年退職は健康にどのような影響を及ぼすのか(佐藤一磨)
第11章 高齢者の失業が健康に及ぼす影響(山本勲・佐藤一磨・小林徹)

実は本書は、「樋口先生が慶應義塾大学を定年退職される機会に、樋口先生の労働経済学研究の発展とパネルデータの構築・普及に関する長年の貢献に対して捧げるもの」として、「樋口先生から薫陶を賜った研究者」たちがまとめた本ということで、世代的にも1991年生まれの方まで幅広く寄稿していますね。

最近の第4次産業革命をめぐるあれこれの議論でも注目されるのはやはり第1章でしょう。

抽象業務、ルーチン業務、マニュアル業務がどうなっていくか、それが就業形態とどう関わっているか、そしてそれと日本の教育訓練システムとの関係など、興味深い指摘がされています。

・・・まず、「抽象業務」を担う人材の育成が重要といえる。技術者育成も多く含むが、製造業関連の職業訓練が充実している中、ホワイトカラーの「抽象業務」の人材育成について現状は、企業内で独自に育てる傾向がある。大学、大学院においてマーケティングや経営戦略論など、「抽象業務」に関する教育を受けた者でも、企業に入ればそれまで学んだ知識を白紙に戻し、企業独自の知識を覚えていくという傾向が強いであろう。荒木・安田(2006)は大学での専門分野と関連した仕事を望んでいる学生ほど就職内定を得にくくなっているという分析結果が示され、特に文系学生でその傾向が強いことがわかる。

また、企業内での人材育成は正規雇用者に限定される傾向があり、非正規雇用者は企業で活用できる「抽象業務」に関する技能を蓄積できない。企業内ですぐに活用できるホワイトカラー「抽象業務」人材の育成が、企業外でも果たされることが望まれる。企業外教育で得た技能が、企業でより重視されるような、産学連携が求められるのではないだろうか。また、職業訓練においてホワイトカラー「抽象業務」の現場を再現して学ぶなど、現場に密接に結びつけた訓練プログラムが求められよう。企業外からの「抽象業務」人材の育成は、非正規の正規転換を促進させるだけでなく、需要変化に沿った労働力の再配置にも貢献することが考えられる。・・・

樋口美雄・石井加代子・佐藤一磨『格差社会と労働市場』

25070樋口美雄・石井加代子・佐藤一磨『格差社会と労働市場 貧困の固定化をどう回避するか』(慶應義塾大学出版会)をいただきました。

http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766425079/

日本の格差拡大現象をダイナミックに分析!

「一億総中流」時代が去り、日本でも所得、資産はもとより就業機会、教育から時間貧困、健康に至るまで、格差が拡がっている。
新たなパネルデータを使ってこの主因を解明し、不平等の拡大と固定化をストップさせるための方策を「雇用モデルの変容」「最低賃金や能力開発支援等の積極的雇用政策」「教育の機会均等」「税や社会保険・社会保障給付」などの労働経済学の視点から分析する本格的研究。
▼所得格差、資産格差のみならず、就業格差、、教育格差、健康(病気になったとき病院へいけるかどうか)に至るまで、持てる者と持たざる者、勝ち組と負け組みの格差はますます大きくなる一方である。このギクシャクした社会になった主因はどこにあるかを、新たなパネルデータを使って解明する。
▼不平等のさらなる拡大と固定化をストップさせるための方策を考察し、各章末に分析の結果得られた見解を「結論」として示す。

家計の所得の変動、労働市場の変容、就業形態と家族形態との関係、非正規労働者の賃金引き上げ、マクロの景気変動が家計に与えるショック、医療サービスへの接近可能度合い、「時間貧困」が家庭内に与える影響、格差が将来の教育にどう作用するか、格差と健康との関係など、労働経済学からの多面的なアプローチによって今日のわが国の現状をつぶさに解説。

目次は以下の通りですが、

第1章 日本の所得格差は拡大したのか
――固定化が進んでいるのか

第2章 労働市場はどう変わったか
――各国における雇用・就業率・失業率・生産性・賃金格差の変化とわが国の特徴

第3章 非正規労働者の増加は所得格差を拡大させたのか

第4章 非正規労働者の賃金引き上げに何が有効か
――最低賃金、同一労働・同一賃金、無期転換、能力開発支援
 
第5章 リーマン・ショックは所得格差にどのような影響を与えたか
――景気変動と有配偶世帯の所得格差

第6章 所得格差は医療サービスのアクセスビリティに影響しているか
 
第7章 時間貧困・経済貧困は生活の質と健康にどう影響しているか
 
第8章 教育は所得階層の固定化をもたらしているか
――求められる教育の機会均等諸施策

各章の最後の結論をその見出しを(若干書き換えも含め)並べる形で示せば。

1日本の所得格差と貧困は拡大してきた。

2日本の賃金は低下し、中間賃金層は減少してきた。

3世帯単位で見た場合、女性就業者の増加は所得格差を縮小させる。

ということになりますが、とりわけ重要なのは第4章の結論でしょう。

非正規労働者の賃金引き上げに何が有効か?

結論部分だけ引くと、

・・・この時期の最低賃金の引き上げは、非正規の低賃金労働者の賃金を引き上げ、賃金格差縮小に貢献したこと、また、これによる雇用削減は20歳以上の人に限定すれば観察されなかったことが確認できた。

また興味深いのは第8章の結論部分で、親の学歴と子供の学歴が強く相関し、世代間で格差が継承されているというのはよく言われていることですが、では家庭の経済状況による教育格差を解消するために何が有効な手段なのか、についてこう述べています。

・・・なかでも、日本学生支援機構による「予約採用型奨学金」という進学先が未定の状態で高校生のうちに申し込むことができる新しい制度に着目して、その効果について分析した。その結果、「予約採用型奨学金」は、低所得層の大学進学率を向上させる効果があることが確認できた。さらに、奨学金を得て大学進学をしたことで、大学進学を断念した場合よりも高い所得を得ていることも明らかになった。・・・

ここはもう少し突っ込んで知りたいところです。

2018年4月17日 (火)

ポピュリズムの労働市場的基礎

例によってソーシャル・ヨーロッパ・ジャーナルから、カール・メリンとアンテレーズ・エナーソンの「ポピュリズムの労働市場的基礎」を。

https://www.socialeurope.eu/the-labour-market-basis-for-populism(The Labour Market Basis For Populism)

Melin_bioAll over the world, populist parties and movements are growing ever more strongly, and established parties appear to lack effective strategies to combat this. A newly-published report from Stockholm-based think tank Futurion confirms that this growing populism can be explained by people’s concerns about what is happening in the labour market. Politicians and many experts have underestimated the importance of the economy and jobs and overestimated the immigration issue. And this is why the response to the populists has been wrong.

世界中でポピュリスト政党と運動が今までになく強力に成長しており、既存政党はそれに対抗する有効な戦略を欠いているように見える。ストックホルムのシンクタンク「フュチュリオン」が最近出した報告は、このポピュリズムの成長が人々の労働市場で起こりつつあることへの懸念によって説明できることを確認している。政治家や多くの専門家は経済や仕事の重要性を過小評価し、移民問題を過大評価している。そしてそれがポピュリズムへの対応が間違ってきたことの理由なのだ。

・・・・・

Enarsson_bioFar too many politicians have chosen to respond to populist parties by adopting their world view. Instead of trying to deal with the concerns that are driving people to these kinds of movements, many politicians have often chosen to confirm and reinforce them. In many countries, established parties have chosen to copy the anti-immigrant policies and rhetoric of the populists. This, however, is a battle that populists will always win, and there is no example to indicate that copying them has reduced their influence in the long run. If politicians instead focused on the economy and what is happening at the workplace, they would have better chances of success. Populist parties rarely have any response to this.

あまりにも多くの政治家たちがポピュリスト政党に対してその世界観を採用することで対応しようとしてきた。人々をこの種の運動に駆り立てている懸念に向き合うのではなく、多くの政治家はそれを確証し、強化してきた。多くの国で、既存政党はポピュリストの反移民政策とレトリックをコピーしてきた。しかしこれはポピュリストが必ず勝つ戦いであり、それをコピーすることで長期的にその影響力を縮減できるという実例は一つもない。もし政治家がそうではなく経済と職場で起こっていることに焦点を合わせれば、成功のチャンスが広がるだろう。ポピュリスト政党にはそれへの対応策などめったにないのだ。

2018年4月16日 (月)

仕事と家族@『情報労連REPORT』4月号

Dz2dujuqaaqeyb『情報労連REPORT』4月号をお送りいただきました。特集は「仕事と家族」です。

http://ictj-report.joho.or.jp/special/

まずは筒井淳也さんが「ポスト工業化で変わる家族のモデル 働き方改革と社会保障改革はセットで」で、

http://ictj-report.joho.or.jp/1804/sp01.html

日本の働き方は、労働時間と勤務地、職務内容が無限定で、会社の命令に従うことで安定した賃金を退職まで得るというものでした。
しかし、1990年代後半になると、こうした無限定な働き方に対する評価は一変しました。日本的な働き方は、出生率の低下という「国難」を生み出した最大の要因となってしまいました。

と論じ、

現状の問題は、さまざまな要因が絡み合って生じています。ただ、どこかを最初に変えるとすれば、働き方の見直しが出発点になってしかるべきです。
それには、無限定な働き方を見直し、共働き戦略を機能させることです。まずは、労働時間の規制をもっと厳しく大胆に行うことです。残業を原則なしとし、それでやりきれない仕事はやらない。そこをスタートラインにして、副作用が生じたら見直していけばいいと思います。
次は、転居を伴う異動を制限することです。もう一つは、無限定な配置転換を見直し、専門的な能力を高めることです。専門的な能力がないと離職後に再就職しにくいためです。

と、処方箋を書きます。さらに、それへの反発にも答えを用意します。

このように無限定な働き方を限定する話をすると、「限定社員は解雇されやすい」などの反論が出てきます。しかし、制度を変えれば何かしらの副作用が生じるのは仕方がありません。限定的な働き方を増やしながら副作用を抑えるための仕組みをつくる、ということが求められています。
そのためには、限定的な社員でも解雇や雇い止めの論理が乱用されないようチェックすることや、解雇された場合でも比較的安心なセーフティーネットをつくることが必要です。働き方改革は、働き方だけではなく、社会保障などの制度などとセットで実現していかなければなりません。現在は、後者の議論が不十分だと思います。

企業の生活保障と国家の生活保障のポートフォリオをどのように設計していくべきなのか、表層的な議論にとどまることなく考えていく必要があるのでしょう。

その他、

「日本型近代家族」は限界 家族形成をサポートする仕組みの充実を 千田 有紀

夫婦のすれ違いはなぜ起きるのか 「夫に死んでほしい妻たち」の気持ち 小林 美希

「ワンオペ育児」で疲弊する母親たち 家事・育児の分担をどうする? 藤田 結子

男性の働き方を見直すために「男性学」が提供する視点とは? 田中 俊之

パパたちが家族のために料理をつくれば社会は変わる 「パパ料理」を始めよう!滝村 雅晴

その転勤、本当に必要? 時代に合わせた転勤施策の見直しを 武石 恵美子

というラインナップですが、ここではちょっと目先を変えて「パパ料理」を。

パパ料理というのは、よく男性雑誌に出てくる「男の料理」とは違うのです。

家事というと聞こえはいいですが、最初は自分がつくった料理がおいしくて、毎週末凝った料理ばかりをつくっていました。洗い物はせずに、つくりっぱなしで終わり。おいしいところだけやって、酔っ払って寝るということをしていました。
その後、妻とトラブルがあって、自分は家事としての料理をしていなかった、趣味の料理をしていただけだということに気付きました。家族のために料理をしているつもりが間違っていました。
自分がつくりたいものをつくっても家族は喜ばない。家族のための料理は趣味のための料理とは違う。そこで、家族のための料理は男の趣味料理ではなくて、家族のためにつくる「パパ料理」じゃないといけないと気付きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道幸哲也『労働組合法の基礎と活用』

07713道幸哲也さんより『労働組合法の基礎と活用 労働組合のワークルール』(日本評論社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7713.html

労働組合法を基礎から学べるテキスト。労組法の第一人者が現代日本の労働組合の意義と役割を鋭く分析し、実践的な解説を行う

というわけで、まさに実践型テキストになっています。

最初の「本書の問題関心」で、こういう記述があります。

・・・第3部ともいうべきものは別書で本格的に検討する予定である。そこでは個別紛争処理をめぐる組合の新たな役割に注目した。最近の労働法の動きの顕著な特徴として、契約法理や人権法理に関する議論が活発になったことが挙げられる。個別紛争の増加ともいえる。しかし、外見は個別的であっても、実際は集団的な側面がある紛争は少なくない。就業規則をめぐる紛争がその典型といえる。同書では紛争の集団的性質の可視化を試みるとともに、関連して組合の新たな役割を考察し、労働法全体の見直しのステップとしたい。組合法と個別法の二元構造ではなく、両者の交錯、とりわけ組合法から見た個別法の法理の再構成ともいえる。この領域については学説上もほとんど検討されていないので、バランスのとれた解釈論というより課題の発見、追求が中心となる。解説する余裕がないので一緒に考えてほしいテーマである。乞うご期待。

というわけで、「乞うご期待」のところに気が行ってしまいます。

第1部 労働組合法の基礎

第1章 変貌する雇用社会
 1 職場は今どうなっているか
 2 多様な働き方
 3 労働者概念をめぐる論争

第2章 労働条件の決定と紛争処理のシステム
 1 労働条件はどう決まっているか
 2 労使紛争の処理・解決システム

第3章 労働組合に関する基礎知識
 1 労働組合とは
 2 労働組合の組織形態
 3 組合組織率と低下の原因
 4 従業員代表制構想を考える


第2部 労働組合員として活動する

第4章 労働条件の集団的決定と不当労働行為
 1 集団的な労働条件決定過程
 2 集団化のパターンと不当労働行為
 3 使用者概念

第5章 組合を作る・加入する
 1 組合の結成
 2 組合への加入

第6章 組合との距離――組合内部問題
 1 組合との関係における組合員の権利・義務
 2 組合と従業員・別組合員間の紛争

第7章 組合員であること――不利益取扱いの禁止
 1 不利益性の基準
 2 不利益取扱いの類型
 3 報復的不利益取扱い

第8章 不当労働行為の成否――いわゆる不当労働行為意思論
 1 判例法理の全般的な傾向
 2 不当労働行為意思をどう考えるか

第9章 組合活動をする――支配介入の禁止
 1 支配介入のパターン
 2 便宜供与の中止等

第10章 使用者との協議・交渉
 1 労使間コミュニケーション
 2 団交権保障の効果
 3 団交拒否紛争の類型
 4 不誠実交渉をめぐる問題
 5 団交差別・団交を媒介とした差別
 6 救済をめぐる論点

第11章 プレッシャー活動
 1 争議行為
 2 多様な組合活動

第12章 労働協約
 1 労働協約の締結
 2 労働協約の効力
 3 労働協約の終了
 4 就業規則との関連

第13章 労働委員会を利用する
 1 労働委員会の権限・役割
 2 労働委員会の手続
 3 和解をめぐる問題
 4 救済命令のあり方
 5 救済利益
 6 労働委員会制度の直面する課題

第14章 これからの労使関係法

道幸さんの言う個別法と集団法の再構成というのは、同じ問題意識というわけではありませんが、私も折に触れ論じてきたトピックではあります。

http://hamachan.on.coocan.jp/shugyokisoku.html(「集団的労使関係法としての就業規則法理」 『季刊労働法』219号)

http://hamachan.on.coocan.jp/roirokyokouen.html(「集団的労使関係の再構築」『月刊労委労協』2010年4月号)

2018年4月15日 (日)

菅沼隆,土田武史,岩永理恵,田中聡一郎編『戦後社会保障の証言』

L17435 菅沼隆,土田武史,岩永理恵,田中聡一郎編『戦後社会保障の証言--厚生官僚120時間オーラルヒストリー』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641174351

社会保障制度の成立と展開に関する重要なトピックについて,政策立案の舞台裏で活躍した厚生省の官僚にオーラルヒストリーの手法によるインタビューを行い,その証言を収録し,解説を加えた。官僚を中心とした意思決定過程や知られざる舞台裏を明らかにする。

というわけで、最近盛んなオーラルヒストリーを厚生官僚経験者に適用した膨大な記録の中から精選した部分を解説付きで一般向けに刊行したものです。目次は次の通りですが、

第1部 戦後社会保障の基盤形成─皆保険・皆年金,社会福祉の展開(1945~72年)
 第1章 国民皆保険体制の成立(土田武史)
 第2章 国民皆年金の達成(中尾友紀)
 第3章 生活保護制度をめぐる展開(岩永理恵)
 第4章 社会福祉の展開と児童手当の導入(浅井亜希・田中聡一郎)
第2部 「福祉元年」と1980年代の社会保障の見直し(1973~85年)
 第5章 「福祉元年」前後──1973年年金改正,健康保険改正,老人医療費「無料化」(菅沼隆・森田慎二郎・深田耕一郎)
 第6章 医療保険制度改革(新田秀樹)
 第7章 1985年公的年金制度改正(百瀬優・山田篤裕)
第3部 新しい社会福祉の方向性(1980~2000年)
 第8章 1980~90年代の社会福祉(田中聡一郎・岩永理恵・深田耕一郎)
 第9章 介護保険の構想(菅沼隆)

むしろ、インタビュイーがどういう人々であるかを示したほうが本書をよく物語ってくれるように思います。

第1尾第1章の国民皆保険は幸田正孝、第2章の国民皆年金は吉原健二、古川貞二郎、坪野郷司、長尾立子…といったラインナップで、これはもうほんとにぎりぎりのタイミングでしょう。

今日の社会保障問題とのつながりからいうと、まず興味深いのは第7章の1985年年金改正で、証言者は辻哲夫、青柳親房、坪野郷司の3人ですが、国民年金を基礎年金にしてしまうというのが職員たちの意図に反した山口新一郎局長の方針であったことなど、興味深い話が書かれています。もっと最近ではやはり介護保険の制定過程が興味深いでしょう。

ただ私が個人的に面白かったのは、第4章の中の児童手当の立案に関する近藤功さんの証言でした。

・・・当初はまあやったと思うよ。問題はその後だよ。その後、どうしてこういうことになるのかと思ってね。ずっと一本道を歩けばいいのに、行ったり戻ったりでしょう。世界の児童手当発展史から見れば、日本の歴史は非常に特異な存在だと思うんです。・・・・

フランス式の児童手当に固執して制度設計にあたった担当者だからこそそういう感想を持つのでしょう、ただ、その元凶は

・・・大蔵省の圧力が大きいと思うんです。

というのは、ミクロ的には間違いではないでしょうが、マクロ的にはやはり、制度制定頃から日本型雇用システムが諸政策の前提になっていったということが一番大きなファクターであったように思われます。

もう一つ、読んでいって「へえ、へえ」だったのは、第8章の社会福祉基礎構造改革のところで、河幹夫さんがこう語っているところです。

・・・ちょっといえば、福祉関係者は厚生省の中であまり信用されていないから。私がじゃないですよ。福祉関係者が、社会局の職員もあまり信用されていないから、医療保険みたいな高尚なことを扱える人が福祉みたいな低俗な人間に足をすくわれるのはたまらないというのが、厚生省の文化にあったと思いますよ。・・・

おやおやそうなんですか。医療保険は高尚で福祉は低俗なんですか。

 

 

 

 

 

 

2018年4月14日 (土)

会社手当と社会手当詳細版

26184472_1 昨日のエントリ「会社手当と社会手当」について、そこで引用した拙著『新しい労働社会』よりも、もう少し詳しい説明を拙著『日本の雇用と中高年』でしておりましたので、この際そちらも全部ここに出しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-11bf.html

残念ながら近視眼的な議論ばかりが横行し、こういうマクロ社会政策的な視点が欠落してしまうのが今の日本社会なのであってみれば、繰り返し同じことを論じ続ける必要はやはり高いようです。

・教育費と住宅費は年功賃金でまかなう社会

 1960年代までは経営側も政府も日本型雇用システムに対しては批判的で、職務給への移行を唱道していました。労働側が程度の差はあれそれにためらいがちであった最大の理由は、それが「特に中高年齢層の賃金を引き下げ」るものだったからです。年功制による中高年の高賃金を引き下げて困るのはなぜでしょうか。子供の養育費や教育費、住宅費など家族生活を営む上で必要なコストをまかなえなくなるからです。しかし、考えてみれば、欧米諸国でもそうした費用は同じようにかかるはずです。職務給の国では、いったいそれらをどのようにまかなっているのでしょうか。
 この疑問に正面から取り組んだのは『昭和49年版労働白書』です。この白書を執筆したのは、労働省労働経済課長時代の田中博秀氏です。彼は本職の官庁エコノミストとしても、有用な白書を執筆しています。同白書の「労働者福祉と賃金制度」という項目は、こう述べます。

・・・中高年齢層においては住宅取得や子供の教育とならんで、老後に備えての貯蓄も必要となるなど、長期生活設計に必要な費用が増大していくことになる。・・・以上のような消費支出の年齢別格差にはあまり大きい変化が見られない。・・・我が国の年齢別の賃金格差は、このような年齢別の消費構造にほぼ対応するような構造をもっている。・・・
 このような年齢別の生計費構造は、我が国だけの特色ではなく、国際間でもほぼ共通してみられる現象である。・・・いずれの国においても年齢が高くなるにつれ、消費支出が増大し、45歳前後ではピークに達し、それ以降は減少するという共通のパターンが見られる。・・・つまり年齢間生計費格差は国際的にも極めて共通したパターンを持っていることが示されている。・・・
 ・・・しかしながら年齢別の賃金は、国によって大きな相違があり、アメリカ、イギリス、西ドイツなどでも職員層については賃金の年齢別格差がかなり見られるが、労務者層については、生計費がピークに達する年齢階層についてみても、若年層との賃金格差は極めて小さく、我が国の賃金制度とは著しく異なっている。

 この年齢別賃金と生計費とのギャップはどのようにして埋められているのでしょうか?白書は当時のフランスの児童手当についてやや詳しく説明しています。

 例えば、児童手当制度が最も発達しているフランスでは、第2子について基本賃金月額の22%、第3子及び第4子についてはそれぞれ37%、第5子以降についてはそれぞれ33%が支給される。なお、支給対象児童のうち10歳以上15歳未満については9%、15歳以上については16%の加給がある。
 このため、フランスにおいては、同一職種で同一賃金を得ている労働者でも、社会保険料や税金を差し引き、家族手当を加えた可処分所得は、その労働者の家族の構成によって異なり、単身者の可処分所得を100とすると、妻と子供2人の家族を持つ労働者の可処分所得は125となっており、さらに子供数が多くなると、家族手当の額が多額となるため、同一賃金の労働者でも単身者と子供5人の労働者では約70%もの可処分所得の格差が見られるなど、わが国では企業が支えている労働者の生活の側面の一部を公的な制度が支えているなどの事情が見られる。また、フランス以外についても、ヨーロッパの多くの国々において似通った公的制度の機能が働いている。・・・

 このほか住宅費用についても詳しく説明していますが、これらを裏返していえば、欧州諸国では公的な制度が支えている子供の養育費、教育費、住宅費などを、日本では賃金でまかなわなければならず、そのために生計費構造に対応した年功賃金制をやめられなくなっているということが窺われます。
 こうしたことは、実は1960年代には政労使ともにほぼ共通の認識でした。それゆえに、ジョブ型社会を目指した1960年代の政府の政策文書では、それにふさわしい社会保障政策が高らかに謳いあげられていたのです。
 例えば、1960年の国民所得倍増計画では、「年功序列型賃金制度の是正を促進し、これによって労働生産性を高めるためには、すべての世帯に一律に児童手当を支給する制度の確立を検討する要があろう」と書かれていますし、1963年の人的能力開発に関する経済審議会答申でも、「中高年齢者は家族をもっているのが通常であり、したがって扶養手当等の関係からその移動が妨げられるという事情もある。児童手当制度が設けられ賃金が児童の数に関係なく支払われるということになれば、この面から中高年齢者の移動が促進されるということにもなろう」とされていました。
 しかし、ようやく1971年に児童手当法が成立したころには時代の雰囲気は変わりつつあり、その後は日本型雇用システムを望ましいものと評価する思想が強くなる一方でした。その中で児童手当は、「企業に家族手当があるのにそんなものいらない」という批判の中で細々と縮んでいくこととなります。高度成長期の問題意識も失われ、教育費や住宅費は賃金でまかなうのが当たり前という社会が強化されていったのです。
 この点で大変興味深いのは、日本型雇用システム評価が逆転した転換点に位置するOECD対日労働報告書における記述です。児童手当法成立の翌年の1972年という年に、このような皮肉な評価が海外からされたのです。

 この点に関連して注目に値することは、生涯雇用及び年功賃金制度が、よその国では国によって満たされている機能が使用者によって相当の程度まで満たされているということを意味しているということである。・・・すなわち解雇して失業保険に依存させるかわりに、使用者は景気後退のときも企業内の職業訓練やある種の仕事をふやしたりあるいは余分の余暇を与えたりして労働者の雇用を維持する。国が児童手当や高等教育の奨学資金を支払うかわりに、年齢や勤続によって上昇する労働者の賃金が子弟の教育費用をまかなう。・・・

 事実認識としては所得倍増計画等と何ら変わりません。ただ、価値判断の方向性が逆転しています。これが批判の声ではなく、賞賛の声であったことが、その後の日本の歩む道を決めていったように見えます。

・問題意識の消滅

 ところが、1970年代以降の年功賃金への高評価は、それがそもそも立脚していた生計費をまかなうための生活給であるという原点を隠蔽する形で進んでいったのです。
 かつて政府や経営側が職務給を唱道していたときには、労働側の反論は「それでは中高年は生活できない」というものでした。そうであればこそ、それなら中高年の家庭生活を維持できるような社会保障制度を確立しなければならないという議論につながり得たわけです。
 ところが、1970年代以降に労働経済学で主流となっていった知的熟練論では、そもそも中高年が高賃金となっているのは生計費をまかなうためなどという外在的な理由ではなく、労働力そのものが高度化し、高い価値のものになっているからだと、正当化理由が入れ替わってしまっていたのです。その意味では、労働の価値自体にはあまり差はないのに、生活のために高い賃金をよこせと言わざるを得ない後ろめたさを感じていた中高年労働者にとっては、大変心地よいロジックを提供してくれるものだったと言えるかも知れません。しかし、好況期にはそのロジックを信じている振りをしている企業であっても、いざ不況期になれば、「変化や異常に対処する知的熟練という面倒な技能を身につけ」たはずの中高年労働者が真っ先にリストラの矛先になるのが現実でした。
 まことに皮肉なことに、生計費ゆえのかさ上げではなく労働力の価値が高いから高い賃金をもらっているはずだったのに、企業からそれだけの値打ちがないと放擲されてしまった中高年労働者は、本人の能力が低かったからそういう目に遭うのだという形で問題が個人化されてしまい、生計費がかかる中高年労働者の共通の問題としてそれを訴える道筋が奪われてしまうという結果になってしまうのです。中高年に心地よいロジックの裏側には罠が仕掛けられていたというべきでしょうか。
 そしてその罠のマクロ的帰結は、1960年代まではあれほど熱心に論じられていた中高年労働者の生計費をまかなうための社会保障制度という領域が、その後はほとんど議論されなくなってしまったことでしょう。

・児童手当の迷走

 1960年代には年功賃金制を是正するための切り札として、国民所得倍増計画をはじめとする累次の政府の政策文書で、児童手当に対して熱いまなざしが注がれていました。ところが、ようやく1971年に児童手当法が成立する頃には、世の中の雰囲気は変わりつつあったのです。
 児童手当は被用者については使用者拠出を主とする社会保険制度として設計されました。ですから制定当時は第5の社会保険と呼ばれたのです。医療、年金、労災、失業に続く第5の社会保険です。しかし、財政当局の姿勢が厳しく、所得制限が付けられた上、第3子以降にのみ月3000円(1975年以降は月5000円)支給されるという形での出発でした。当時は「小さく産んで大きく育てる」と言われたようですが、その後の推移は小さく産まれた子供をさらに収縮させていったのです。対象年齢が義務教育終了までとなった1974年は、日本の雇用政策の方向性が企業主義に大きく転換する潮目でもありました。その後は財政当局や経営側から、児童手当の廃止論が繰り返し叫ばれるようになります。
 たとえば、1979年の財政制度審議会報告は、日本では養育費の社会的負担という考え方はなじみにくい上に、賃金体系が家族手当を含む年功序列型の場合が多く、生活給の色彩が強いので、児童手当の意義と目的には疑問があると述べています。年功賃金をなくすために児童手当が必要と謳っていた60年代とは打って変わり、年功賃金があるから児童手当なんか要らないという議論が大手を振ってまかり通るようになっていたわけです。
 その後の児童手当は、少子化対策の一環として出産奨励的な色彩を強めつつ、対象年齢が引き下げられていきました。1986年からは第2子から、1991年からは第1子から支給されるようになる一方、支給対象年齢は9歳、5歳、4歳、3歳と引き下げられていったのです。子供の養育や教育にお金がかかる時期を公的に支援しようという発想は、もはやなくなっていたと言えましょう。象徴的なのは、1997年に介護保険法が制定されたとき、当時の厚生省はこれを第5の社会保険と呼んだのです。30年近く前に作られた児童手当は、このときにはもはや社会保険の座から失脚していたということなのでしょう。
 2000年代に入ると、再び支給対象年齢が引き上げられていきます。6歳まで、9歳まで、12歳までと徐々に引き上げられていくとともに、2007年には3歳までは月1万円となりました。そして、2009年に政権についた民主党は、そのマニフェストで「中学卒業までの子ども1人当たり年31万2000円(月額2万6000円)の「子ども手当」を創設する」と訴え、2010年にはその半額の1万3000円で中学卒業まで所得制限のない制度となりました。
 当時私は、民主党政権の課題を論じた文章(「労働政策:民主党政権の課題」『現代の理論』21号)の中で、こう述べました。

 まずは、一見労働政策とは関係なさそうに見えるマニフェストの第2「子育て・教育」である。選挙戦でもっとも華々しく論じられた子ども手当の創設は、育児や教育にかかる費用は個別正社員の生活給でまかなうのではなく、公的な給付として社会全体で支えていくという正しい方向性を示している。実はこの方向性は50年近く前の国民所得倍増計画で明確に示されていたものであり、それを受けて1971年に児童手当が創設されていた。ところがその後「企業に家族手当があるのにそんなもの要るのか」という批判の中で細々と縮んでいき、ようやく最近になって拡大の方向に転換したところである。半世紀前に提起されていた課題に、今ようやくスポットライトが当たり始めたというべきであろう。

 ところが、この制度に対して野党の自民党やマスコミからバラマキ政策だという批判が投げかけられると、民主党政権はあっさりと子ども手当を廃止し、2012年からもとの児童手当に戻してしまいました。彼ら自身も、これを選挙目当てのバラマキ政策だとしか考えていなかったことが露呈したわけです。私が「正しい方向性」などと褒めたのは、とんだ見当外れだったようです。

・福祉と労働の幸福な分業体制

 こうした流れをマクロ的に振り返ってみると、戦後確立した日本型雇用システムが企業内で労働者とその家族の生活をまかなうことを追求し、かなりの程度それを実現してしまったために、欧米諸国で同時代的に進んだ福祉国家の形成をかえって阻害してしまったということもできるでしょう。
 もちろん、傷病にかかったときの医療保険制度や労働市場から引退した後の年金制度などは、それほど遜色のない立派な制度が構築されましたが、現役世代の労働者に対する生活保障については、企業がすべて面倒を見るのが当然であって、公的な社会保障がしゃしゃり出るようなものではないという発想が牢固として屹立し、児童手当のようなその思想に反する制度は何とか生み出されても細々とやせ細っていくしかなく、あるいはせいぜい少子化対策か選挙目当てのバラマキとしてしか存立し得ないのが現実でした。
 これは他のすべての社会保障制度の領域に基調低音として響いている思想でもあります。このため大企業分野では、たとえば厚生年金は公的年金制度であるはずなのに、厚生年金基金という紛らわしい名前の私的な企業年金と一緒くたにされ、健康保険も企業の人事管理機構の一部としての健康保険組合によって運営されるなど、企業主義的色彩が強められた形で制度設計されています。
 また、欧米では社会政策の一部と考えられている教育政策や住宅政策が、日本ではもっぱら政治イデオロギー問題や開発業者の利権問題に集約されて論じられる傾向も、子供の教育費や家族を収容する住宅の費用の問題が、それらは賃金でのみまかなわれるべきものという思想によって極小化されてしまったことが背景にあるといえるでしょう。
 こうした流れは、アカデミズムにも大きな影響を与えました。現役労働者の生活保障はすべて企業内で解決されるべき「労働問題」であるとされてしまったことが、それまで存在していた広義の「社会政策」という問題意識自体を希薄にしたのです。かつては、労働問題を中核にそれと不可分の形で社会保障を論ずる社会政策という学問的枠組みが存在し、多くの学者が論を戦わせていたのですが、高度成長以後には(「社会政策学会」という名称の学会はそのまま残っているとはいえ)労働問題研究と福祉・社会保障研究とはお互いに異次元空間の存在ででもあるかのように別々に行われるようになっていったようです。
 日本型雇用システムでは、大企業の正社員を中心に企業単位の生活保障システムが確立し、公的な福祉を一応抜きにしても企業の人事労務管理の範囲内で一通りものごとが完結するようになったことがその背景です。福祉・社会保障政策はその外側を主に担当するという形で、福祉と労働の幸福な分業体制が成り立っていたわけです。
 これを逆に言えば、日本型雇用システムによってカバーされる範囲が徐々に縮小し、企業単位の生活保障からこぼれ落ちる部分が次第に拡大してくるとともに、この分業体制に疑問が投げかけられてくることになります。近年、社会政策分野で再び福祉と労働のリンケージが問題になりつつあるのは、この状況を反映しています(濱口桂一郎編著『福祉と労働・雇用』ミネルヴァ書房、2013年)。

 

 

2018年4月13日 (金)

麻野進『課長の仕事術』

4756919650麻野進さんより『課長の仕事術』(明日香出版社)をお送りいただきました。

http://www.asuka-g.co.jp/book/business/009003.html

課長に求められる「仕事のスキル」をまとめた1冊。
働き方改革、生産性アップが求められている中、現場で最も「変化のしわ寄せ」を受ける課長はどうしたらいいのか。
これからの時代に求められる新しい要素を盛り込んだ「課長の仕事術」を徹底解説します。新任課長はもちろん、課長を指導する上長の方にもお勧めです。

最後の「第5章 課長の競争とサバイバル」の「8 どうしてもきつくなったら」というところが、なかなか今の課長さんたちの状況を物語っています。

・・・現在は「働き方改革」のおかげで、「若い人材を働かせすぎないように」ということで、残業を削減する方向で動いていますが、そのしわ寄せが課長に来ているのが実態です。

私は、業務負担が課長に集中し、部下のメンタルヘルスをマネジメントする立場の課長自身が不調にならないかと心配しています。

ここから自分の経験談になり、

・・・実は私はサラリーマンコンサルタント時代に鬱状態に陥ったことがあります。

社長と方針等で意見が合わないことが多くなり、部下に任せていた顧客で理不尽なクレームが発生したりなどのトラブルが重なり、メンタル不調をきたしました。・・・

結局退職したのですが、

・・・自分が大企業の課長だったら、退職の決断をしていなかったかもしれません。

と言ってます。そうなんでしょうね。

会社手当と社会手当

朝日新聞に興味深い記事が載っています。

https://www.asahi.com/articles/ASL4C3SMJL4CULFA00B.html(正社員の待遇下げ、格差是正 日本郵政が異例の手当廃止)

日本郵政グループが、正社員のうち約5千人の住居手当を今年10月に廃止することがわかった。この手当は正社員にだけ支給されていて、非正社員との待遇格差が縮まることになる。「同一労働同一賃金」を目指す動きは広がりつつあるが、正社員の待遇を下げて格差の是正を図るのは異例だ。

・・・廃止のきっかけは、民間の単一労組で国内最大となる日本郵政グループ労働組合(JP労組、組合員数約24万人)の今春闘での要求だ。同グループの社員の半分ほどは非正社員。非正社員の待遇改善を図る同一労働同一賃金の機運が高まっているとして、正社員だけに認められている扶養手当や住居手当など五つの手当を非正社員にも支給するよう求めた。

 これに対し、会社側は組合側の考え方に理解を示して「年始勤務手当」については非正社員への支給を認めた。一方で「正社員の労働条件は既得権益ではない」とし、一部の正社員を対象に住居手当の廃止を逆に提案。組合側は反対したが、廃止後も10年間は一部を支給する経過措置を設けることで折り合った。今の支給額の10%を毎年減らしていくという。さらに寒冷地手当なども削減される。

同一労働同一賃金という言葉を、本気でやるつもりのない政治的スローガンと思っているなら別ですが、現実に実現すべき課題として真正面から取り組んでいけば、当然こういう話になっていく訳です。

この問題をきちんと考えるためには、そもそも仕事と直接関係のない住居手当のようなものを、会社がその社員のために支給するという仕組み自体をそうではないあり方との関係で考察していく必要があります。

欧州福祉国家では国が社会手当として支給してきたようなあれこれが、日本では会社が会社手当として支給してきました。どちらも労働運動がその必要性を要求し、実現してきたものであることに何の変わりもありません。ただ一つ違っていたのは、一方は社会レベルであり、他方は会社レベルであったということです。

131039145988913400963これは、拙著『新しい労働社会』の第3章でかなり突っ込んで論じた話ですが、ようやく世の中の議論がそういう次元にまで到達しつつあるということなのかもしれません。

4 教育費や住宅費を社会的に支える仕組み

生計費をまかなうのは賃金か社会保障か
 生活給制度を縮小廃止するのであれば、これまで生活給が担ってきた生活保障機能(年齢とともに増加する生計費を賄う仕組み)への対策が必要となることを忘れてはなりません。とりわけ、こどもの養育・教育コストを社会的に負担するシステムが不可欠となります。
 幼児期・年少期の養育・教育コストについては、近年少子化対策として論じられることも多く、その公的負担の必要性についても認識が高まってきているようですが、問題はその後の中等教育や高等教育のコストです。私立学校の比率が極めて高く、中等・高等教育コストが大幅に私的に負担されている現状は、こどもがその年齢に達した頃にそれを負担しうる程度の生活給を社会的前提としています。
 同様の問題は、家族向け借家が乏しく、持ち家促進に偏してきた住宅政策についても言えます。「年齢の壁」のない社会は、フラットな賃金体系の下でも家族が十分な広さの借家で快適な生活を送れるような社会である必要があります。それが公営住宅である必要はなくとも、公的なコスト負担は不可欠でしょう。
 この問題意識は、政府が流動的な外部労働市場や同一労働同一賃金原則に基づく職務給を唱道していた高度成長期には政府部内に存在していました。それが政策として明確に示されていたのが、高度成長期の最後に書かれた1974年の労働白書です。労働経済課長になったばかりの若き田中博秀氏の下でとりまとめられたこの白書は、どの国でもライフサイクルによる家計消費支出は似通っているにもかかわらず、年齢別賃金構造は大きく異なることを示し、ヨーロッパ諸国ではそのギャップは児童手当や住宅手当などの公的な制度によって支えられていると指摘しています。そして、「我が国についても賃金制度の機能のうち公的制度で充足することが適切であるものについては、公的制度の役割を強めることによって、勤労者福祉の充実をはかっていく」ことを提起していたのです。
 しかし、ちょうどその頃押し寄せてきた石油ショックの波の中で、労働政策は内部労働市場を志向し、長期雇用や年功賃金制を高く評価する方向に大きく転換し、以後このような問題意識は前面には現れなくなります。

二つの正義のはざま
 先に述べた改正最低賃金法では、地域別最低賃金について生活保護との整合性に配慮することが明記されています。この審議の際、使用者側からは繰り返し「労働の対価である最低賃金と社会福祉としての生活保護では根本が全く異なり、その両者の間で整合性を考慮することについては疑問を禁じ得ない」と疑問が提起されていました。
 確かに賃金は労働の対価です。そこにおける正義とは交換の正義、「等しきものに等しきものを」という正義でしょう。これは市場経済の根本にある正義の観念で、使用者側だけがそういう正義を振り回しているわけではありません。同一労働同一賃金の原則とはまさにこの交換の正義の具現です。「私の労働はこれだけの価値があるはずなのに、これっぽっちの対価しか与えられないのは不当だ」という感覚は、まさに市場プレイヤーとしての「差別が正義に反する」という観念からのものでしょう。そして、そういう交換の正義を貫いていけば、市場の内側にあるにもかかわらず等価交換になっていない部分があるとすれば、正義に反するものとして非難の対象となります。最低賃金と称して、その労働者の生産性に対応すべき賃金よりも不当に高い賃金を強要するなど、不正義の極みでしょう。実際、多くの経済学者はそう論じます。それはそれとして筋が(筋だけは)通っています。
 ところが残念ながら、世の中は交換の正義だけで成り立っているわけではありません。分配の正義、「乏しきに与えよ」という正義が、憲法25条に立脚して「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に保障しています。そして、その福祉の世界は市場の世界と境を接しています。そうすると、市場の世界では交換の正義に基づいて、一生懸命働いていながら不健康で非文化的な最低限度以下の生活を余儀なくされている人が、一歩境をまたいで福祉の世界に逃げ込めば、働かなくても健康で文化的な最低限度の生活を保障されるということになります。ここに究極のモラルハザードが発生しますが、これは我々の住む社会が二つの異なる正義の観念に立脚していることに由来するわけです。
 分配の正義からすれば、扶養家族の多い世帯により多くの生活保護を支給するのは当然のことです。しかし、交換の正義からすれば、扶養家族が多いからといって多くの賃金を支給するのは不正義になります。日本型雇用システムにおいて生活給的年功制が成り立っていたのは、終身雇用慣行の中で、どの労働者にとっても若い頃の低賃金と中高年期の高賃金という形で均衡がとれていたからでしょう。長期的な決済の中で初めて交換の正義が成り立つものを、一時点の賃金水準に適用することは不可能です。

教育費や住宅費を支える仕組み
 とはいえ、現実に日本型雇用システムに入らない家計維持的な非正規労働者が増大している以上、彼らに対して家族の生計を維持できるような収入を何らかの形で確保する必要があります。最低賃金自体に家族の生計費を考慮することが交換の正義に反するのであるならば、賃金以外の形でそれを確保しなければなりません。それは端的に公的な給付であっていいのではないでしょうか。
 本人以外の家族の生計費、子女の教育費、家族で暮らすための住宅費など、労働者の提供する労務自体とは直接関係はないにしても、彼/彼女が家族を養いながら生きていくために必要な費用は、企業が長期的決済システムの中で賄わないのであれば、社会的な連帯の思想に基づいて公的に賄う必要があるはずです。
 生活保護であれば生活扶助に加えてかなり手厚い教育扶助や住宅扶助が存在し、この必要に対応しています。しかし、多くの非正規労働者や非正規労働者であった失業者にはそのような仕組みはありません。これは、考えようによっては大変なモラルハザードの原因をつくりだしていることになります。なぜなら、雇用からこぼれ落ちて福祉に依存すれば教育費や住宅費の面倒を見てもらえるのに、わざわざそこから這い上がって雇用に就くとそれらに相当する収入が失われてしまうのであれば、就労に対する大きな負のインセンティブになってしまうからです。
 実際、日本のような過度に年功的な賃金制度を持たない欧州諸国では、ある時期以降フラットな賃金カーブと家族の必要生計費の隙間を埋めるために、手厚い児童手当や住宅手当が支給され、また教育費の公費負担や公営住宅が充実しています。社会のどこかが支えなければならない以上、企業がやらない部分は公的に対応せざるを得ないはずでしょう。
 それは、当面は家族生計費や子女の教育費や住宅費が本人賃金の中に含まれる生活給制度の下にある正社員層と、それらを賃金という形ではなく公的給付として受給する低賃金の非正規労働者層という労働市場の二重構造を前提とするものとの批判を免れないかも知れません。
 しかしながら、そうした生計費のセーフティネットが徐々に張り巡らされていくことによって、これまで生活給制度の下にあった正社員層についてもある時期以降フラットな職務給に移行していく社会的条件が整っていくはずです。逆に、そうした条件整備抜きに短兵急に職務給の導入を唱道してみても、社会に無用の亀裂を生み出すだけでしょう。

2018年4月12日 (木)

なぜ、障がい者と健常者は交ざり合うことができないのか

Worksリクルートワークス研究所より『Works』147号をお送りいただきました。特集は「インクルージョンにはテクノロジーを」で、障害者のインクルージョンがテーマなんですが、おそらく編集者が意図した「テクノロジーを活用せよ」以前の問題があるのではないかという印象を持ちました。

http://www.works-i.com/publication/works/backnumber/w_147

■第1特集
インクルージョンにはテクノロジーを

●すべての人をインクルージョンするとはどういうことか
・障がい者にも権利と配慮と責任を
・障がい者が能力を発揮する障壁となるのは何か
・なぜ、障がい者と健常者は交ざり合うことができないのか
・障がい者と健常者が交ざり合って働く組織では何をしているのか
・Column: 障がい者が望む配慮やテクノロジーとは

●能力を補い、拡張する技術、すべての人を交ぜる技術
・ FILE 1:全身や四肢の機能障がいを支援する
・ FILE 2:足の障がいを支援する
・ FILE 3:視覚障がいや識字障がいを支援する
・ FILE 4:聴覚障がいを支援する
・ FILE 5:人々の意識を変える
・ Column:高齢者をインクルージョンするテクノロジー

●すべての人をインクルージョンするために私たちはどう変わるべきか
為末 大氏 × 石原直子(リクルートワークス研究所 人事研究センター長)

まとめ:テクノロジーが、“標準であること” を無価値化する

というのは、「なぜ、障がい者と健常者は交ざり合うことができないのか」という問いに、「なぜ、健常者同士は「交ざり合う」ことができるのか」、いやそもそも健常者同士は「交ざり合」っているのか、と感じたからです。

実を言うと、日本の職場では、健常者の正社員はお互いに「交ざり合」っているどころか、「溶け合」っているのではないか。一人一人に職務が明確に規定されている訳ではなく、そのときの状況に応じて臨機応変に仕事の範囲が拡大収縮し、集団全体としてうまく回るようにみんなが動き合う世界。そんな世界に、それができない障害者が放り込まれれば、「交ざり合う」ことすらできなくなり、結局障害者は面倒くさいから、特例子会社でまとめて面倒を見ようということになりがちなのではないか。

障害者問題を考える上で実は重要なのは、「溶け合」わずに「交ざり合う」ことができるのかということなのではないかと思うのです。

第2特集の「執行役員制度改革という新・人事課題」も、なかなか面白い問題を提起しています。

宮島英昭さんが述べるこの言葉は、なかなか耳にいたい所もあるのではないでしょうか。

「長期雇用を前提とし、年功的な処遇が行われる日本企業では、その期の賃金をインセンティブとして機能させるのは難しい。そのため、能力が高く、会社に対して忠誠を尽くした従業員に対するインセンティブとして、昇進という形での処遇が必要になりました。昇進の究極の形である取締役は、日本的雇用慣行を支えるうえで欠かせない存在だったのです」(宮島氏)
 その取締役の数を減らすとなると、昇進というインセンティブが効かなくなってしまう。「取締役は減らしたい。一方で日本的雇用慣行は維持したい。その両方を実現するのに、会社法上は役員ではないが、取締役に次ぐポジションである執行役員は、魅力的な選択肢でした」(宮島氏)
 多くの企業は、制度を導入するにあたって、それまでの取締役のうち、いわゆる“ヒラ”取締役をそのまま執行役員に移行させた。そのため処遇を見直したり、序列を組み替えたりするような大きな変化もなく、企業も従業員も抵抗なく執行役員制度を受け入れることができたともいう。
 こうした理由で、日本企業には執行役員制度が浸透した。だが一方で、これらの運用上のメリットは、現在につながる大きな課題の温床ともなったのである。

外国人労働者受け入れが急展開?

つい先日、『労基旬報』の3月25日号に「外国人労働政策の転換?」を寄稿したばっかりなのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2018325-937f.html(「外国人労働政策の転換?」@『労基旬報』2018年3月25日号)(中身は下記)

その話が急展開していて、もうほぼ結論らしきものが新聞に出ていて、

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018041101001492.html(外国人材に新たな在留資格検討 技能実習後、最長10年に)

政府は11日、外国人労働者の受け入れ拡大に向け、新たな在留資格を創設する方向で検討に入った。最長5年間の技能実習制度の修了者で一定の要件をクリアした人に限り、さらに最長5年間国内での就労を認める考えで、計10年間働けることになる。深刻化する人手不足に対応する狙い。6月ごろにまとめる「骨太方針」に盛り込み、今秋の臨時国会にも入管難民法改正案を提出する方針だ。

 安倍晋三首相が人手不足問題に関連し、2月の経済財政諮問会議で「外国人受け入れ制度の在り方について早急に検討を進める必要がある」と指示した。

2018041101001596

今秋には法案が出てくることになりそうです。

しかし、これはもう、言葉の上ではいかに否定しても、ほぼ移民政策そのものに近いですね。

(参考)

去る2月20日の経済財政諮問会議で、外国人労働政策について見直す方向が打ち出されたようです。会議後の大臣記者会見の記録によると、安倍首相から「移民政策を採る考えがないことは堅持」しつつも、「専門的・技術的な外国人受入れの制度の在り方について、在留期間の上限を設定し、家族の帯同は基本的に認めないといった前提条件の下、真に必要な分野に着目しつつ、制度改正の具体的な検討を進め、夏に方向性を示したい。官房長官、上川(法務)大臣は、関係省の協力を得て、急ぎ、検討を開始して欲しい」との発言があったということです。
 「専門的・技術的」という形容詞はついていますが、その後の質疑応答で茂木担当相から「おそらく介護であったり、建設であったり、運輸であったり、サービス・小売であったり、農業、それぞれの分野別にどういった能力が最低限必要なのであろうか、といったことを洗い出す」と、かなり具体的な業種が語られていますし、「それぞれの分野で、例えば今、人手不足というのが現実に存在すると、これが例えばITとかAIによって、どこまで効率化できるのか。さらには女性・高齢者の方の就業環境を整備することによって、どこまで解消が進むのだろうか。そこで残った分野、充足できない分野について充足の仕方を、先程申し上げたような形で検討していくということ」だと、人手不足対策であることも明確に示しています。
 上述のような業種での人手不足対策をなお「専門的・技術的」と呼ぶことには違和感を禁じ得ませんが、民間議員の発言を見ると、「日本が受け入れている外国人労働力は専門的・技術的分野だが、それ以外の人たちについては、国民のコンセンサスを得つつ、慎重に検討していく必要がある」とあり、すくなくともこれまで「専門的・技術的」とされてきた狭い職種以外にも(それをどう呼ぶかは別として)拡大しようという方向性であることは間違いないようです。
 実はこの動きの背景にあるのは、昨年2017年11月16日に日本商工会議所・東京商工会議所が公表した「今後の外国人材の受入れの在り方に関する意見~「開かれた日本」の実現に向けた新たな受入れの構築を」という意見書です。そこでは、「受け入れる外国人材は「専門的・技術的分野の外国人」に限定するという、これまでの原則に縛られない、より「開かれた受入れ体制」を構築すること」と、明確に「非技術的分野」の外国人の受入れを求めているのです。そして、そのために「移民政策とは異なる非技術的分野の受け入れ制度のあり方について、課題等を整理する「検討の場」を政府において早急に設置すること」を求めており、上記「制度改正の具体的な検討を進め、夏に方向性を示したい」という首相の指示はこれを受けたものと考えられます。
 これまでの日本の外国人労働政策は、専門的・技術的人材は積極的に受け入れるが単純労働力は受け入れないという二分法的な原則を立てつつ、「就労が認められる在留資格」以外のいわゆるサイドドアを通じた外国人労働が増えてきたという経緯があります。日商・東商の意見書はこの点に正面からメスを入れ、「例外として就労が認められている在留資格で就労を行う外国人材が年々増加している」のは「企業が求めるニーズと在留資格が乖離している」からだと、その見直しを求めているのです。
 その焦点は、「技能」という在留資格の拡大にあるようです。そもそも真の単純労働というのはそれほど多くなく、現在人手不足に悩んでいるのはいわゆる技能労働系の職種です。ところが現在入管法上在留資格として認められている「技能」は、外国料理の調理師からワイン鑑定まで9職種に過ぎず、たとえば外国人留学生が専門学校で学び日本の国家資格を取得しても「技能」と認められません。日商・東商が狙う最大の突破口はおそらくここにあります。
 加えて、「技術」についても、「自然科学、人文科学の分野に属する技術・知識を必要とする業務」として原則として大卒以上という要件に疑問を呈し、「産業界、特に建設業や製造業等では、現行の「技術」の定義に当てはまらない、一定の知識・経験を有する“技術者”への需要は高い」と、その拡大を求めています。
 ちなみに日商・東商の意見書では、「非技術的分野の受入れ」について、「諸外国(例:韓国)の事例等を参考に」と述べ、そこに「韓国では、2004年より「雇用許可制」を導入し・・・」と注釈をつけており、韓国型雇用許可制を念頭に置いているらしいことが窺われます。
 サイドドアとして1993年に創設され、様々な問題を指摘されながら2016年にようやく単独立法化された改正技能実習制度が昨年11月に施行されたばかりですが、外国人労働政策は既にその先に向けて走り出そうとしているようです。その萌芽として既に、2016年改正入管法で「介護」という在留資格が新設され、また現在(本連載昨年7月25日号で紹介したように)国家戦略特区における農業外国人労働の解禁が進められています。しかしそういうパッチワーク的なものではなく、包括的に「技能労働」レベルの外国人労働者を受け入れる枠組を作ろうという動きとして、注目に値します。

2018年4月11日 (水)

『DIO』336号

Dio 連合総研の機関誌『DIO』336号をお送りいただきました。今号の特集は「アジアにおける経済成長の光と影 −グローバル化と労働」です。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio336.pdf

作り手が報われる社会を目指して −安価な衣服の生産拠点バングラデシュの労働実態から 長田 華子……………………4
ベトナム電子産業とグローバル・サプライチェーン −競争力強化と社会的責任のある経営・雇用戦略− 後藤 健太……………………9
マレーシアの経済発展と移住(外国人)労働者 吉村 真子 …………………13
グローバル化のなかの労働運動 吉田 昌哉 …………………17

バングラデシュ、ベトナム、マレーシアという取り合わせは、その経済的発展段階の様々な国を代表させているのでしょう。バングラデシュは、まさに女工哀史の時代で、若い女性労働者が低賃金で「超過搾取」されている社会。ベトナムは外資系電子産業のサプライチェーンの末端の一般オペレータを担っている。それに対してマレーシアはすでに安い外国人労働者を導入する側になっていて、人身売買という批判を受けるに至っている。と、三者三様です。

 

 

 

2018年4月 9日 (月)

三浦まり編『社会への投資』

352584三浦まり編『社会への投資 〈個人〉を支える 〈つながり〉を築く』(岩波書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b352584.html

〈社会への投資〉とは,個人への投資に加えて,人びとのあいだの信頼・協調関係への投資を行うことである.人びとが安心し,信頼しあって暮らしていける社会をつくるための新たな「社会的投資」のあり方を,諸外国との比較を通じて提言する.執筆者=三浦まり,濵田江里子,金成垣,水島治郎,千田航,大沢真理,駒村康平,井手英策,宮本太郎

ということで、例によって生活経済政策研究所の研究会の成果をとりまとめた論集です。目次は下記の通りですが、

ヨーロッパや韓国の動向を踏まえつつ、日本のこれからのポスト福祉国家戦略としての社会的投資戦略を構想しています。

はじめに …………… 三浦まり

第Ⅰ部 社会への投資,その世界潮流
 1 社会的投資戦略の総合評価 …………… 濵田江里子・金成垣
 2 自律・参加・コミュニティ──オランダにおける社会的投資戦略への転換 ……………水島治郎
 3 フランスの社会的投資と家族政策・最低所得保障 ……………千田 航
 4 子どもの貧困対策にみるイギリスの社会的投資戦略の変遷 ……………濵田江里子
 5 社会的投資戦略に求められるもの──韓国の経験と教訓 …………… 金成垣
 6 日本における社会的投資戦略の静かな浸透? ……………三浦まり・濵田江里子

第Ⅱ部 日本はどうするべきか

 7 「社会への投資」としての貧困削減 …………… 大沢真理
 8 長寿社会における基盤整備としての人的資本政策 …………… 駒村康平
 9 変革の鍵としてのジェンダー平等とケア …………… 三浦まり
 10 「社会への投資」を支える税の構想──分断,そして租税抵抗との闘い …………… 井手英策

終 章 「社会への投資」に向けた総合戦略 ……………三浦まり・宮本太郎・大沢真理

あとがき ……………三浦まり

この社会的投資、90年代にそれまでの福祉国家が新自由主義に批判されたときに、それに変わる新たなモデルとして颯爽と登場し、イギリスのブレアやドイツのシュレーダーらにとどまらず、EUの戦略としてももてはやされたし、私も当時その驥尾に付して「出羽の守」商売をやっていただろう、といわれればその通りです。

それがその後、投資に当たらない消費的支出の削減、劣悪な雇用環境への追い込み、貧困の連鎖等々といった諸問題が指摘され、もう一段深めた社会的投資の考え方を構築しなければいけない、というのがイマココということなのでしょう。

だいたいこういうのではキーノートスピーカー的役割の宮本太郎さんは今回はやや後方に下がり、三浦まりさんが前面に出ているのは、ジェンダーとケアが変革の鍵だというメッセージなのでしょうか。

連鎖する貧困@週刊東洋経済4月14日号

04051444_5ac5b7d90b332『週刊東洋経済』4月14日号をお送りいただきました。特集は「連鎖する貧困」です。

https://store.toyokeizai.net/magazine/toyo/20180409

【第1特集】連鎖する貧困 
日本には平均年収が186万円の層「アンダークラス」が約900万人。非正規労働者を中心に、低収入から抜け出せない人たちが多数いる。さらに懸念されるのが子どもの貧困。相対貧困率で見れば7人に1人が貧困状態だ。貧困の固定化をどう防ぐか? 分断社会にしないための方策とは?

・アルマーニ騒動が浮き彫りにした子ども格差
・前川喜平(前文科次官) × 湯浅誠  (社会運動家) 「子どもの貧困は看過できない」
・「幼児教育の無償化」より「待機児童の解消」が優先されるべき
・都心名門校に群がる富裕層 知られざる公立小格差
・親の所得の高い番町小学校(千代田区)、佃島小学校(中央区)、南山小学校(港区)…
・階級社会を図示 ニッポンの所得ピラミッド
・「新・日本の階級社会」を書いた橋本健二・早大教授インタビュー
・生活保護費切り下げで、アンダークラスはどうなる

一方で、アンダークラスの人々の絶望的な姿をえぐり出しながら、他方で「平均年収が高い学区ランキング」とかを並べて、そういう劣情を適度に刺激するテクニックも見事です。いや皮肉です。

もちろん、問題意識は概ね的確。とりわけ、「幼児教育の無償化より待機児童の解消が優先だ」ってのは、百万遍繰り返してもいいくらいでしょう。

一点だけやややぶにらみ気味の文句を言うと、前川喜平さんと湯浅誠さんの対談で、前川さんが

高校中退を防ぐのも貧困対策の大事なテーマだ。私が行っていた出会い系バーでも女の子はほとんど中退で・・・

と、言い出したその後に、

中退をなくすには数学の必修を廃止するのがいい。・・・

その一番の要因は数学にあると思っている。・・・論理的思考力を養うために必要というが、それは国語の授業でやったらいい。

などと、ヘタレ文系丸出しの議論を展開してしまっていること。

いやいや、それって、中教審で数学が役に立ったためしがないとかのたまわった某作家女史といっしょじゃない。

世の中には様々な人が、子供が居るという基本を忘れていけません。むしろ、国語で作者の気持ちとか無理矢理やらされて意味わかんないと思っている生徒もいっぱいいるわけで。

アカデミックコースだけしか目に入らない教育論が、かえって事態をこじらせているようにも思います。文部科学事務次官までやった人の言葉の中に、職業高校というコースの積極的意義を語る一言もないのは、現在の教育論の貧困を象徴しているのではないでしょうか。

(追記)

https://twitter.com/tcy79/status/983840760167481344

高校での数学が論理的思考の学習に最適とは言いがたいのではないか。単なる思い込みだろう。

余計なことながら、そもそも数学を勉強する意味は、必ずしも「論理的思考力を養うため」というわけではありません。そういう発想で国語で代替できるとか言い出すこと自体が「ヘタレ文系」の典型なのであって、数学は世の中で生きていく上で有用な技術でもある、というより、圧倒的に多くの人にとってはそういうものであって、そこが目に入らないこと自体が、アカデミック偏見というべきでしょう。

上述した職業高校というコースでは、たとえば工業高校では工業数理という科目がありますし、文科系だってほんとはいっぱい使うんだけどね。そういう所がすとんと抜け落ちてるからヘタレ文系と言われるわけで。

 

2018年4月 6日 (金)

河合薫『残念な職場』

9784569837932_2 河合薫さんの『残念な職場 53の研究が明かすヤバい真実』(PHP新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83793-2

なぜ無責任な人ほど出世するのか。職場の「暇な50代」をうまく生かすためには? 研究結果と具体例を挙げて問題の本質と解説策を説く。

出てくる「残念な」人たちの姿が、あまりにも残念なので、ちょっとだけ紹介しておきますね。

まず軽く、プロローグに出てくる社長さん。

講演にきた河合さんに対して、

「私はね、常々これからは女の時代だって、部下たちに言い聞かせているんです。

女性の方が優秀だし、男たちはめっきり弱くなっちゃいましたからね。結婚式にいったって、新郎の方がわんわん泣くんだものね。困っちゃうよね。

なんでうちの会社には女性の役員がいないのかね。私は、女性を積極的に登用しなさいって、さんざん言ってきたつもりだけどねえ」

ところが、その後講演会場に向かうエレベーターで、この社長さん曰く:

一緒に乗り合わせた女性社員が先に降りたときに、こう言い放ったのです。

「あれはうちの社員か?女は3歩下がってついてくる、という言葉を知らんのかね」

たぶん、自分では矛盾したことを言ってるつもりなんかけらもないんでしょうね、この社長さんは。

も少し深刻な話は本の中盤に出てきます。

「責任感や几帳面さは、昇進にマイナスに作用する」「業績と昇進は関係ない」というだけでなく、「業績を上げたことが仇となり、飛ばされる」という意味不明も起こります。

「モリさん(仮名)は死んでいた部署を再生させた。僕たちもものすごくお世話になりました。多くの社員がモリさんのおかげで、仕事の面白さを知り、成功体験をさせてもらった。そのモリさんが外されるのはショックです。結果を出しているんだから評価されて当然なのに」

なぜそういうことが起こるのか、そのあとに出てくるモリさんとの対話で、モリさん自身がこう絵解きをしてくれます。

・・・ただね、会社は部下を育てる上司も、チーム業績を上げた上司も評価しない。600万の黒字より、5億の赤字の方が評価されるんです。

・・・つまり、上の方針や考えていることをうまく汲み取って動いた人が評価される。うちの会社は、IT系に事業展開したかった。5億はその赤字だったのでお咎めなし。

・・・それができる人が上から認められる。逆に下ばかり見ていると、上を見る余裕がなくなって、上から嫌われてしまうんです。

なるほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年4月 3日 (火)

関めぐみ『〈女子マネ〉のエスノグラフィー』

353292 おりしも選抜高校野球大会も明日決勝という今日この頃、テレビ画面に映る女子マネージャーたちの姿を見ながら、そもそもこの「女子マネ」って何なんだろう、とふと思ったあなたにぴったりの本・・・というような売らんかなの宣伝文句はいらないでしょう。関めぐみさんから『〈女子マネ〉のエスノグラフィー 大学運動部における男同士の絆と性差別』(晃洋書房)をおおくりいただきました。ありがとうございます。

http://www.koyoshobo.co.jp/book/b353292.html

現在の日本の〈女子マネ〉制度は性差別問題を抱えている。しかし、女子マネージャーたちの主体的な実践によって、活躍の場として作り変えられるのではないか。本書では彼女らの経験を参考に、制度の根底にある「異性愛男性中心社会」を問いなおす。

細目次はリンク先にありますが、正直、どうしてわたくしなどにお送りいただいたのだろうと、いささかよくわからない感がありました。

と思って、読んでいくと、私の本からの引用がされている部分がありました。

3.メンバーシップ型組織からジョブ型組織へ―めざす主体位置の再設定

解説の後、次のような記述が続きます。

・・・このメンバーシップ型の組織構造は、部活動文化にも応用できると考えられる。例えば、部活動においても、「入部」の時期は入学してすぐの「新規入学者定期採用制」となっており、「引退」の時期も学校卒業の時期に合わせて設定されている。また、部活動では選手もマネージャーも同じく「入部」し、「部員(メンバー)」として迎え入れられる。そして両部員ともに長時間の拘束が義務付けられており、特に選手が部活動に費やす時間はマネージャーに比べて長く、この長時間の活動が「まじめな部員」である証しとしてみなされる傾向にある。組織へのこのようなコミットメントは、義務教育を受けている年齢から「自由活動」であるはずの部活動を通じて学習されるもので、大学というさらに自由な教育環境となっても体育会系では継続されるのである。そしてそれが、就職活動において企業組織から高く評価されるのである。つまり、部活動と企業文化を貫く「メンバーシップ型」の仕組みによって、男性と同等にコミットできない女性は劣位に置かれるのである。・・・

 

 

 

 

川口美貴『労働法〔第2版〕』

355632 また労働法の教科書が続々と出てきます。川口美貴さんの『労働法〔第2版〕』(信山社)をお送りいただきました。初版は2015年11月でしたから、ほぼ2年強ですね。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b355632.html

著者のノウハウを一冊に凝縮、労働法のスタンダードテキスト。民法改正(債権関係)・育介法改正に対応した最新版。

とにかく、細目次の詳細さはじっと見つめていると目が回ってくるほどです。

https://yondemill.jp/contents/34369?view=1

 

 

 

年齢にかかわりない転職・再就職者の受入れ促進のための指針

先月末、厚生労働省が「年齢にかかわりない転職・再就職者の受入れ促進のための指針」を策定公布したそうです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000200616.html

http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11602000-Shokugyouanteikyoku-Koyouseisakuka/0000200624.pdf

職業キャリアが長期化し、働き方のニーズが多様化するとともに、急速な技術革新や産業・事業構造の変化により、転職・再就職はより一般的なものとなっている。特に、近年では、企業の中途採用ニーズが高まる一方、労働者においても、自らの経験・能力を活かし、成長産業等への転職・再就職を通じてキャリアアップ・キャリアチェンジを図りたいというニーズが高まってきており、企業・労働者双方において、中途採用、転職・再就職への要望が強まっている。
転職・再就職については、新規学卒後の適職選択過程、出産・育児、老親介護等、職業キャリアにおける一連の時間軸の中で、様々な場面での発生が想定される。しかしながら、我が国では、いわゆる日本的雇用システム(とりわけ新卒一括採用と内部労働市場を通じた中核人材の育成)の中で、年齢が上がるにつれて転職・再就職のハードルが高くなりやすい傾向が見られる。
年齢にかかわりなく転職・再就職しやすい環境を整備し、労働者と企業のマッチングが円滑に行われることは、労働者の能力の有効な発揮とともに、企業ひいては我が国の生産性の向上にも大きく寄与することが期待される。

この指針の元になったのは、昨年12月に発表された多様な選考・採用機会の拡大に向けた検討会報告書ですが、

http://www.jil.go.jp/press/documents/20171226c.pdf

ちなみにこの検討会の委員のメンツがなかなか興味深いです。

海老原嗣生 株式会社ニッチモ 代表取締役
大内伸哉 神戸大学大学院法学研究科 教授
小野晶子 労働政策研究・研修機構 主任研究員
近藤佑介 株式会社オプトホールディング 執行役員ビジネスサービス本部長
坂本泰 東日本旅客鉄道株式会社 人事部業務革新・ダイバーシティ推進グループ課長
◎佐藤博樹 中央大学大学院戦略経営研究科 教授
濱口桂一郎 労働政策研究・研修機構 労働政策研究所長
古市憲寿 慶応義塾大学SFC研究所 上席所員

わたし、古市さんとはこの検討会で初めてお目にかかりました。結構前から知り合いだったような気がしてましたが、実は初対面だったのです。

 

2018年4月 2日 (月)

『HRmics』29号

1海老原さんちのニッチモの雑誌『HRmics』29号が届きました。今号は「高等教育、無償化の前に考えること」と題して、雇用システムと密接な関係にあるヨーロッパの教育システムの実態を浮き彫りにしています。

http://www.nitchmo.biz/hrmics_29/_SWF_Window.html

1章 教育無償化のこれまでと今後
§1.教育無償化論 その歴史と論点
§2.高等教育無償化の前に必要な、5つの転換

2章 一足先に高等教育無償化を果たした欧州社会はどうなっているのか
§1. ドイツは大学生の増加に職業訓練の刷新と職業大学の拡張で対応した
§2.社会的責任と経済原理のバランス
§3. 歴史背景と社会構造から欧州型教育×職務連携をとらえる

3章 高等教育と職業訓練の解はドイツにあり!
§1. ドイツ式職業訓練と就活の知られざる事実
§2. 職業大学経済学部はまさに就活予備校

話の中身は、たとえば拙著『若者と労働』などで繰り返し論じられてきたことではありますが、それを大学教育に職業的意義がないのが当たり前の日本社会で安易に高等教育無償化という政治的スローガンだけが掲げられる昨今の風潮に、欧州の現実をきちんと示すという、まことに意義深い特集に仕上がっているといえましょう。

特集最後の記事「職業大学経済学部はまさに就活予備校」では、「経済学部とは名ばかり、経済学より実務・実学を学ぶ」の実態が細かく書かれていて、たぶん多くの日本の大学関係者は激怒するかもしれません。例の富山さんの言う「L型大学」そのものですから。

最後の「民は細部に宿る」という海老原さんの結びの言葉を、やや長めに引用しておきましょう。

・・・もう一つは、「産業界と大学教育を近づけ、大卒後、スムーズに職に就けるようにすること」。

・・・その最大のポイントは何か?

特集中にて、山内・寺田両氏が語り、そして3章では本文中にそのまま示したことだ。

「職業訓練や職業教育の起点が、企業都合の訓練ポストになっていること」。

そう、いわば、求人なのだ。今、企業が必要とする職務を必要とする人数分、ネットや雑誌で公募する。そして企業が選考を行い、ふさわしい人のみ受け入れる。これはほぼ「採用プロセス」そのものだ。必要でなくなった職務は募集されなくなり、新たなに必要となった職務は、それを認可していく。こんな流れがベースにあるから、訓練も随時「今風」にアップデートされる。まさに末端が民需でできているからこそのダイナミズムだろう。

こうした仕組みがなければ、いちいち、産業界と教育界と行政の偉い人が集まり、角突き合わせて、資格や訓練制度の改廃をしない限りアップデートはできない。そしてこんな上からの作業だと、企業実務には耐えられず、人事管理としては使えないものになっていく。・・・

41xyoyr79ol__sx373_bo1204203200_なお、わたくしの連載「原典回帰」は、アラン・フランダースの『イギリスの団体交渉制-改革への処方箋』です。労使関係がイギリス経済の諸悪の根源とまで言われ、例のドノヴァン委員会報告が出されたころに、イギリス労使関係学者の最高峰といわれたフランダースが書いたこの本は、半世紀後の今読み返すと実にいろいろと物事を考えさせます。

『月刊連合』4月号

Covernew『月刊連合』4月号が届きました。特集は「2018春季生活闘争 賃上げをすべての働く者へここから始まる「底上げ春闘」」ですが、第2特集は「守ろう! 技能実習生の人権〜外国人技能実習制度の適正な実施を〜」で、労働法政策の観点からはこちらのほうが重要です。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

外国人技能実習制度とは、日本の技能を開発途上国に移転するという国際貢献を目的に、一定期間、外国から技能実習生を受入れる制度。技能実習生の数は、現在25万人を超えている。
昨年11月には、技能実習生の保護と制度の適正な実施を目的とする「外国人技能実習法」(以下、新法)が施行された。実習の現場では、国際貢献とは名ばかりで、長時間労働や賃金未払い、最賃を下回る労働関係法令違反、旅券取り上げ等の人権侵害事案などのさまざま問題が起きていたからだ。連合は、開発途上国等への技能移転による国際貢献という制度本旨に沿った運営、監理体制の強化、技能実習生の権利保護を求めて取り組んでいる。外国人技能実習制度とはどのような制度なのか、制度の適正な実施のために何が必要なのか。新法の施行を機にあらためて考えてみたい。

で、

■ データで見る外国人技能実習制度
■ 外国人技能実習制度の実態─相談事例から 指宿昭一 弁護士
■ 連合のスタンスと取り組み 村上陽子 連合総合労働局長

という記事ですが、技能実習の現場がいかにひどいかを訴える指宿弁護士の明快さに比べて、連合の村上陽子さんの言葉は何か奥歯にものが挟まったように聞こえるかもしれません。でも、それが外国人労働問題に対する労働組合のスタンスの難しさなのですね。確かに、

・・・連合の基本的スタンスは、専門的・技術的分野では積極的に受け入れ、単純労働については原則として受け入れないというものだ。

というようなスタンスゆえに、労働力としてではなく技能実習という国際貢献のために受け入れるんだというごまかしめいた議論で事実上の外国人労働導入をやってきたがゆえに、指宿さんが指摘するような人権侵害が横行してきたのではないか、正々堂々と正面から外国人労働者を受け入れるべきだ、という議論は、とりわけ人権尊重派からは繰り返し提起されてきたところです。

それにそう簡単に乗れないのは、労働組合とは現に今日本国内で働いている労働者たちの利益代表という性格をそう簡単に捨て去ることができないからで、これはどの国の労働組合であっても同じです。

73914この点、もう8年前に出た五十嵐泰正編『労働再審2 越境する労働と〈移民〉』に載せた「日本の外国人労働者政策――労働政策の否定に立脚した外国人政策の「失われた二〇年」」の中で、やや詳しく述べたことがあります。

第1節 外国人労働者政策の本質的困難性と日本的特殊性

(1) 外国人労働者問題の本質的困難性

 外国人労働者問題に対する労使それぞれの利害構造をごく簡単にまとめれば次のようになろう。まず、国内経営者の立場からは、外国人労働者を導入することは労働市場における労働供給を増やし、売り手市場を緩和する効果があるので、望ましいことである。また導入した外国人労働者はできるだけ低い労務コストで使用できるようにすることが望ましい。この両者は「できるだけ安い外国人労働者をできるだけ多く導入する」という形で整合的にまとめられる。
 これに対し、国内労働者の立場から考えたときには、外国人労働者問題には特有の難しさがある。外国人労働者といえども同じ労働市場にある労働者であり、その待遇や労働条件が低劣であることは労働力の安売りとして国内労働者の待遇を引き下げる恐れがあるから、その待遇改善、労働条件向上が重要課題となる。しかしながら、いまだ国内労働市場に来ていない外国人労働者を導入するかどうかという局面においては、外国人労働者の流入自体が労働供給を増やし、労働市場を買い手市場にしてしまうので、できるだけ流入させないことが望ましい。もちろん、この両者は厳密には論理的に矛盾するわけではないが、「外国人労働者を入れるな」と「外国人労働者の待遇を上げろ」とを同時に主張することには、言説としての困難性がある。
 ほんとうに外国人労働者を入れないのであれば、いないはずの外国人労働者の待遇を上げる必要性はない。逆に、外国人労働者の待遇改善を主張すること自体が、外国人労働者の導入をすでに認めていることになってしまう。それを認めたくないのであれば、もっぱら「外国人労働者を入れるな」とのみ主張しておいた方が論理的に楽である。そして、国内労働者団体はそのような立場をとりがちである。
 国内労働者団体がそのような立場をとりながら、労働市場の逼迫のために実態として外国人労働者が流入してくる場合、結果的に外国人労働者の待遇改善はエアポケットに落ち込んだ形となる。そして国内労働者団体は、現実に存在する外国人労働者の待遇改善を主張しないことによって、安い外国人労働力を導入することに手を貸したと批判されるかも知れない。実際、外国人労働者の劣悪な待遇を糾弾するNGOなどの人々は、国内労働者団体が「外国人労働者を入れるな」という立場に立つこと自体を批判しがちである。しかしながら、その批判が「できるだけ多くの外国人労働者を導入すべき」という国内経営者の主張に同期化するならば、それはやはり国内労働者が拠ることのできる立場ではあり得ない。いまだ国内に来ていない外国人労働者について国内労働市場に(労働者にとっての)悪影響を及ぼさないように最小限にとどめるという立場を否定してまで、外国人労働者の待遇改善のみを追求することは、国内労働者団体にとって現実的な選択肢ではあり得ないのである。
 この利害構造は、日本だけでなくいかなる社会でも存在する。いかなる社会においても、国内労働者団体は原則として「できるだけ外国人労働者を入れるな」と言いつつ、労働市場の逼迫のために必要である限りにおいて最小限の外国人労働者を導入することを認め、その場合には「外国人労働者の待遇を上げろ」と主張するという、二正面作戦をとらざるを得ない。外国人労働者問題を論じるということは、まずはこの一見矛盾するように見える二正面作戦の精神的負荷に耐えるところから始まる。
 労働政策は労使の利害対立を前提としつつ、その間の妥協を両者にとってより望ましい形(win-winの解決)で図っていくことを目指す。外国人労働者政策もその点では何ら変わらない。ただその利害構造が、「できるだけ安い外国人労働者をできるだけ多く導入する」ことをめざす国内経営者と、「できるだけ外国人労働者を入れるな」と言いつつ「外国人労働者の待遇を上げろ」と主張せざるをえない国内労働者では、非対称的であるという点が特徴である。

(2) 日本の外国人労働者政策の特殊性

 日本の外国人労働者政策も基本的には上述の労使間の利害関係の枠組みの中にあり、それが政策展開の一つの原動力であったことに違いはない。しかしながら、1980年代末以来の日本の外国人労働者政策の大きな特徴は、そのような労使間の利害関係の中で政策を検討し、形成、実施していくという、どの社会でも当然行われてきたプロセスが事実上欠如してきたこと、より正確に言えば、初期にはそのような政策構想があったにもかかわらず、ある意図によって意識的にそのようなプロセスが排除され、労使の利害関係とは切り離された政策決定プロセスによってこの問題が独占され続けてきたことにある。
 一言でいえば、労使の利害関係の中で政策方向を考える労働政策という観点が否定され、もっぱら出入国管理政策という観点からのみ外国人政策が扱われてきた。言い換えれば、「外国人労働者問題は労働問題に非ず」「外国人労働者政策は労働政策に非ず」という非現実的な政策思想によって、日本の外国人労働者問題が取り扱われてきた。そして今日、遂にその矛盾が露呈し、問題が噴出するに至ったのである。

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