中澤渉『日本の公教育』
中澤渉さんの『日本の公教育 学力・コスト・民主主義』(中公新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/03/102477.html
教育無償化、学力低下、待機児童など、近年の教育の論点は多岐にわたる。だが、公費で一部もしくは全体が運営される学校教育=公教育とはそもそも何のためにあるのか。実際に先進国の中で公教育費が少ない日本には、多くの課題が山積している。本書は、学校とそれを取り巻く環境を歴史的背景や統計などのエビデンスを通して、論じる。そこからは、公教育の経済的意義や社会的役割が見えてくるだろう。
本ブログでも何回かトピックとして取り上げてきた日本はなぜ公教育費が少ないのかを論じてサントリー学芸賞を受賞した著者による、公教育に関する概説書といった感じの本で、こういうのはやはり中公新書だなあ、と。
そもそも近代国家における学校制度とは、というところから説き起こして、学校と格差・不平等を巡る議論を手際よく整理し、さらにエビデンスベースの議論に関して、スキルバイアス理論、シグナリング理論、グローバルオークションモデルなどを説明していく本書は、このテーマではこの一冊、といういかにも中公新書的な本になっています。が、しかしそれだけではない。
最後の第5章の「教育にできること、できないこと」では、労働市場との関係に目を向け、日本型雇用システムは個人の能力を生かしているのか?と問いかけ、専門性の強い高等教育とジェネラリスト重視の労働市場の「齟齬」を指摘しています。まあ、そこは私なんかも論じてきたことですが、そこからさらに先に進んで、学校という組織のあり方にも説き及びます。
・・・日本の学校組織は、日本社会の縮図でもある。確かに学校は、近代以降成立した典型的な官僚制組織とは異なり、仕事の範囲や役割分担が曖昧だ。日本の学校は、その傾向が顕著である。アメリカの教師役割は授業に限定され、生徒指導や進路指導は別の専門家にゆだねられているのと対照的である。この教師役割の曖昧さは、メンバーシップ型雇用の日本の会社組織と類似している。
・・・つまり日本の教育現場では、教科指導、生徒指導、進路指導は一体となって実施されてきた。これは、学習と普段の生活は切っても切り離せない、という前提に立てば、それなりに理屈の通る指導のあり方だ。ここに、何らかの学校評価システムを導入する。しかし形式的には、海外で行われているのをまねた評価システムであっても、組織文化が違うので、そのシステムは全く異なる形で機能する。日本のような、教師の役割や仕事の範囲が不明確な組織で評価システムが導入されれば、あらゆる活動が評価の対象となるだろう。
部活指導なども、かつては関心を持つ教師が、勝手に熱心にやっていた側面があっただろう。
しかし子供、保護者、地域からの視線にさらされれば、何でもやる教師がスタンダードになる。言い換えれば、今日指導のみを行う教師は怠けている、教育熱心ではない、といわれかねない。つまり多くの教師も、休まない、「熱心な」教師の勤務状況に引っ張られることになる。こうしてほとんど手当もないまま、教師は過酷な労働を強いられることになる。
これは生徒から見ても同じことで、メンバーシップを強調する集団では、情緒的結合が重視されるため、合理的なトレーニングよりも、長時間の拘束や過剰な練習につながりやすい。教育活動に限らず、日本の組織で非合理的と思える精神論が跋扈するのは、組織集団のこうした性質が反映されている。
児童生徒にとっても、日本の学校組織は一長一短だ。部活動や班活動を通して、得られるものもあるだろう。一方で、このような活動は、仲間はずれやいじめの温床にもなり得る。森田洋二によれば、海外でのいじめでは肉体的な暴力が問題にされ、また概して年齢が上昇すると減少する傾向にあるのに対し、日本では「シカト」「無視」がクローズアップされ、また中学生あたりがいじめのピークになるという。これは日本の学校で集団主義的な活動や、メンバーシップ型の社会を反映した教育活動が重視されていることと無関係ではない。
メンバーの中で、うまくできない子がいれば、もちろん助け合いの精神を学ぶこともできるが、常にそうなるわけではない。足を引っ張るからと、嫌がらせを受けることもあるだろう。またメンバーシップや班活動重視の学校で、シカトされることは精神的に強いショックを与えるはずだ。・・・
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