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メンバーシップ幻想

たまたまネット上に、こういうブログ記事を見つけたのですが。

http://have656.hatenablog.com/entry/2018/02/02/095509((その他)メンバーシップ幻想が根源的理由)

なんだか話が微妙にねじれている感がありました。

もうかなり前のことになるが、『日本の雇用と労働法』(濱口桂一郎著:日経文庫)という本を読んだとき、そこで提唱されている「メンバーシップ雇用」という概念に瞠目させられた。日本の会社では、社員全員が、「会社」という看板によって同定される共同体の「メンバーの一員」という幻想をもってこれにコミットすることを求められる。こういう共同幻想の社会では、「メンバーシップを与えられる」ということがすなわち「雇用される」ということだと考えられている。

夫がそういう体質を色濃く持った会社に長く浸かっていると、いつのまにか家庭という共同体もメンバーシップ幻想がその本質だと錯覚するようになる。だから、例えば夫は妻に対して「お前も『我が家』の一員なのだから、その役割を果たせ」のような考え方を持つようになると考えられる。

だが、家族(家庭)の本質は、もっと生身の男と生身の女がむき出しになって向き合う場だと思う。「生身の男と生身の女がむき出しになって向き合う」ということになんらかの妙味があるためには、どんな工夫が必要か。そういう問題意識を男も女も持ち続けることが必要なのではないだろうか。

いや、そういう考え方がありうるということはよくわかります。

ただ、少なくとも、日本の会社をメンバーシップ型と呼んだときの発想というのは、それこそ夫婦や家族といった本来的に共同体的な人間の作る集団とは異なる機能的集団として、まさに企業の構成要素たるジョブに当てはめられる労働者はメンバーなんかじゃないという、日本以外の諸国では当然視されているありようとは異なるものというインプリケーションなので、その夫婦が、家族が、メンバーシップだというのは幻想だといわれると、いやまさに本質的にはその通りだと思いますが、なんだか話の次元が一つずれた感が湧いてきます。

本質論としては、家族のような共同体の典型的な集団であっても、その共同性はある種の幻想の上に成り立っているというのはその通りだと思うのですが、話がそこまでいってしまうと、日本の会社をメンバーシップ型だという意味がかなり薄れてしまう気もします。

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