西部邁氏について
西部邁氏が入水自殺したと報じられています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25960240R20C18A1000000/
21日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布5の多摩川で、評論家の西部邁さん(78)の長男が「父が川に飛び込んだ」と110番通報した。西部さんは約2時間後に搬送先の病院で死亡が確認された。近くに遺書が残っており、警視庁田園調布署は自殺とみて経緯を調べる。・・・
おそらく多くの人にとっては、舛添要一氏と並んで朝まで生テレビで吠えている姿で記憶されているでしょうが、本ブログでも彼の議論を何回か取り上げたことがあります。
この機会に、かつて彼を取り上げたエントリを再度掲載して、心ばかりの哀悼の意を表したいと思います。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_e775.html (西部邁氏の正論)
久しぶりにまた「正論」欄に載った正論を紹介します。今度は保守派論壇の重鎮西部邁氏です。
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070808/srn070808000.htm
参院選結果の評論なのですが、「カイカクに終止符を打て」というメッセージ。
>過ぐる参院選で自民党が大敗した真因は何か。
>その答えは、多くの選挙民が日本国家の現状に、漠たるものとはいえ根強い不平不満を、抱きはじめているということ以外ではありえない。
>小泉改革を頂点とする平成改革は、富者と貧者、大集団と小集団そして中央と地方それぞれのあいだに(国柄から外れているという意味で、過剰な)格差を、少なくともその感覚を、国民意識にもたらした。その被格差感は「公正と安定」から程遠いのが日本国家の現況なのではないか、との疑念をこの列島の津々浦々にまで広めた。
>安倍首相は「構造改革に疑義あり、平成改革は軌道修正さるべし」と、(おそらくは)本心を表明すべきではなかったのか。
>しかし「小泉継承」の立場にいた安倍首相には、平成の構造改革に対決する気力が乏しく、準備も足りなかった。
>かつて小沢一郎氏は「国民は自己責任で生活せよ、“小さな政府”へ向けてカイカクを断行せよ」と叫んでいた。その民主党代表が、今度の選挙では「生活が第一」と宣うていた。カイカクの“弊害”を減らすべく励んでいる安倍首相が、選挙となれば「カイカク断行」と叫ばざるをえなかった。このへんは、西部氏の身びいきもあるとしても、そんなにポイントを外れてはいないと思われます。私もこのブログで、「安倍政権はソーシャルか?」と問うてみたこともありますが、再チャレンジ政策といった形で打ち出されてきた政策の背後には、ある種の連帯志向の社会政策思想があったことは確かであろうと思われますし、安倍首相自身が意識していたかどうかは分かりませんが、西欧社民主義勢力の中で展開されてきている権利と義務の相補性を強調する新たな福祉社会の考え方と通じるものもあったように感じられます。
ところが、選挙戦で我々が毎日見せられたのは「成長か、逆行か!」「改革か、逆行か!」という小泉・竹中時代張りの二者択一的絶叫で、いささか引いてしまった感はあります。その意味では、安倍政権の政策が否定されたわけではないと首相やその周辺の方々が思うのにも一理はあるのですが、それこそかつてグランドキャニオンに柵がないと偉そうに宣っていた小沢一郎氏に「生活が第一」といわれてしまったら、再チャレンジでは色あせるのも否めないところではあります。
何にせよ、この「正論」は言葉尻に文句をつければいろいろつけられるでしょうが、中味も結構正論です。特に最後に出てくる「保守思想の3つの要諦」は、保守主義者ではない立場から見ても、むしろ正しい改革を進めるべきという立場から見ても、かなり正鵠を衝いていると思います。>第1に、人間の認識はつねに不完全なのだから、どんな改革にも「懐疑と議論」を差し向けよ。第2に、社会は有機体としての「自生的秩序」を持っているのだから、社会全体への構造改革は国家の自殺行為と心得よ。第3に、(国柄を)保守するための(現状の)「改革」は部分的で漸進的でなければならないのだから、「革命(レボルーション)」には、古き良き価値・規範を新しき状況において「再巡(レボルーション)」させるための〈技術知〉ではなく〈実際知〉が必要と知れ。
最後のところは、近頃の規制改革騒動を考え合わせると、むしろ「〈教科書知〉ではなく、〈現場知〉が必要と知れ」というべきところでしょうが。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_04cd.html (西部邁氏の公正賃金論)
昨日、西部邁氏の「正論」欄に載った正論を取り上げたついでに、彼がその昔(30年以上もむかし)書いた公正賃金論を引っ張り出してみました。
『経済セミナー』に「労働と社会または労働のソシオエコノミックス」と題して連載して3回目で中断してしまったものの3回目の論文です。冒頭に「賃金は勤労に対する報酬であると同時に、「公正」「貨幣物神」「搾取」あるいは「紛争」といった人間関係における争点でもある」というエピグラフ風の言葉が書かれていますが、近年の最低賃金や均等待遇論をめぐる議論を、ケーザイ学だけ視野に入れた状態からすーっと焦点を引いて、ソシオ・エノミックス的に語ると、こういう風になるという意味で、このあたりは読み返してみる値打ちがあります(本人が覚えているかどうかは不明ですが)
>しかし自明のことではあるが、企業は孤立して存在しているのではなく、より広くコミュニティとのつながりを持っている。コミュニティの場から見れば、個々の企業こそが個別の集団なのであって、コミュニティの共同的枠組みから種々の掣肘を受ける立場にある。つまり、個別企業の定める労働条件や賃金は、それらについてコミュニティが持ち合わせている公正基準に照らして律せられるのである。労働市場の動きの中に、貨幣メディアだけでなく、権力や影響力のメディアが介入し、そしてそれらのメディアの働きは、それぞれのコードによって制約される。従って、コードの確保としての公正基準が労働市場に入ってくることになる。
>この点に注目すると、労働市場で決められる賃金(及び労働条件)は、コミュニティにとって公正と考えられる賃金(及び労働条件)水準から大きくは離れられないということが分かる。あるいは、大きく離れた場合には、労働市場それ自体が不公正と見なされて、労働市場の存立が著しく不安定になるだろうと考えられる。公正な賃金は、労働者がコミュニティの成員であることの証である。・・・初等ケーザイ学教科書嫁イナゴさんたちには、これが何を言っているかすらよく分からないかも知れませんが、現場で賃金を扱っている人々には、(その衒学的な用語法がいささかうっとおしいかもしれませんが)その趣旨はよく理解できると思います。
つまり、これまでの主婦パートや学生アルバイトの賃金がどんなに低くても、それはコミュニティの公正基準と乖離したものではなかったのです。だから均等待遇なんてだれも言わなかったし、最低賃金が低すぎるなんて議論にもならなかった。現在の非正規労働問題が、これまでともっとも異なっているのは、西部氏のタームで言えば、まさに労働市場を制約すべきコミュニティの公正基準なのですね。
実は、西部さんは私が駒場に入学した当時、まだ世間で評論家として注目されるようになる前の、ソシオエコノミクスを引っ提げて新古典派に戦いを挑む異端の経済学者でした。
上記エントリで引用した「<労働と社会または労働のソシオエコノミックス」は、もし西部氏がその後の人生をこの方向で進んでいれば、どういう労働理論を作り出すことになったのだろうかという想像を掻き立てます。
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コメント
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Nice
投稿: y22 | 2018年1月21日 (日) 23時52分
このブログはなぜこんなに横幅が狭いのですか
ガラケー向けサイトですかここは
投稿: a | 2018年1月22日 (月) 04時08分
「このブログは」といわれても、使っているココログの仕様だとしかいいようがありません。
投稿: hamachan | 2018年1月22日 (月) 09時30分