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2018年1月

座談会「AIの活用と今後の労務管理上の課題」@『労務事情』1月1/15日号

Romujijo_2018_01_01_2 『労務事情』1月1/15日号が届きました。新年恒例の合併号では、座談会「AIの活用と今後の労務管理上の課題」が注目です。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20180101.html

[座談会]AI の活用と今後の労務管理上の課題

労働政策研究・研修機構 研究所長 濱口桂一郎/
株式会社FRONTEO コミュニケーションズ 取締役 山岸建太郎/
情報産業労働組合連合会 中央執行委員 松岡康司/
TMI 総合法律事務所 弁護士 柴野相雄

この座談会、わたくしがファシリテーター(要は司会)を務め、人事労務管理に係るAIのビジネスをされている山岸建太郎さん、情報労連の松岡康司さん、弁護士の柴野相雄さんの3人が大変突っ込んだ議論を闘わせておりまして、これはもう是非読むしかないという座談会になっております。

目次を挙げておきますと、

Ⅰ 人事労務領域でのAIの活用

 1 人事労務領域での活用範囲

 2 AI活用の二面性

Ⅱ AIに取り込むデータに関わる問題

 1 AIのデータはだれのものか

 2 AIによる解析の客観性

 3 個人データの使途

Ⅲ 個人データの収集に関わる問題

 1 モニタリングの是非

 2 つながらない権利

Ⅳ 人事労務領域以外でのAIの活用

 1 職場への浸透状況

 2 AIの法的責任

 3 AIが雇用に与える影響

Ⅴ 今後の展望

なお、座談会とは別に連載として、「気になる数字」は「業務中に悪質クレームに遭遇73.9%」です。これは例のUAゼンセンの調査結果を取り上げたものです。ハラスメントの問題を取り上げる際には、やはりこのお客様によるハラスメントの問題を含めて議論して欲しいですね。

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イデオロギー政治と利益政治

これも本ブログで何回も取り上げてきたテーマですが、

https://www.asahi.com/articles/ASL1G61VCL1GUTFK00C.html(「連合、陳情は自民。選挙は民進。あほらしい」 麻生氏)

企業の利益の割に、(労働者の)給料が上がっていない。給料や賞与を上げてほしいと今の政権が経団連に頼んでいるが、本来は連合や野党・民進党の仕事だ。連合は、陳情は自民党、選挙は民進党。あほらしくてやってられない。

こんなやり方、いつまでやってんだと。私のことですから、会うたびに連合の方やら何やらに申し上げてきています。全然おかしいですよ。何であんたの労働組合は民進党をやっている? 我々の方がよっぽど労働組合のためになっているんじゃないですかね。

これは、この限りでは全くその通りなので、これで腹を立てる人は、おそらく政治というものの理解が違うんでしょう。

要は、、政治というのは自らが抱く信仰やイデオロギー、とりわけ自分や自分たちが属する人々社会的位置に関わる経済的社会的利害得失といった世俗的なこととは切り離された、何か空中をふわふわ漂う、あるべき正義の観念みたいなものに関わるものごとであると思い込んでいる人々にとっては、麻生氏ら自民党政権の方が労働組合のためになることをしようがしまいが、そんなこととは何の関係もなく政党を支持したりしなかったりするべきものなのでしょう。

いや、そういう政治観念というのは立派にあって、それに殉じてきた人々も山のように歴史の中に並んでいるわけですが、とはいえ、(政党じゃない)労働組合がそういう信仰政治、イデオロギー政治をやって良いのかといえばそれはまた別の話で、それはやはり「労働者が主体となつて自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体又はその連合団体」であって、「主として政治運動又は社会運動を目的とするもの」ではないと法律が明記している労働組合としては、まず何はともあれ、労働者の利益になることをするか否かで支持するか否かを決めるべきものであって、そうでなければそんな団体は労働組合の名に値しない、はずです。労働組合とは徹頭徹尾労働者の利益を追求する団体であり、その意味で世俗的利害に敏感な団体のはず。

その意味からも、労働者にとって大事な労働政策を平然と仕分けしたり、自分たちの仲間を理由にならない理由で平然とクビした政治家たちを真っ先に支持しに行くというのは、少なくともあるべき利益政治の観点からすると、いかがなものであろうかという感想を抱かせるものであることは間違いないと思いますよ。

もちろん、その上で、たまたま今労働者の味方をしているように見えるけれども長年にわたってそうじゃなかった政党よりも、政権を取ればそれよりももっと労働者のためになる政策をやってくれるはずの政党を支持するという判断は十分あり得ます。

でもね、なんだかそうじゃなさそうだからなあ。

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だからそれが雇用システムの違い

Uadhtbcv_400x400 こういうつぶやきが話題になっているようですが、

https://twitter.com/retro_g_knight/status/951658522244038656

会社「いいか、仕事でできませんと言ってはいけない。どうすれば実現するか考えるのが真の仕事。海外はもっと厳しいぞ!」
新卒社員ワイ「ほーん、さすが社会は厳しいんやなあ」
新しく所属したメリケン会社「出来ないことは出来ないと言え。できることで利益あげるから」
ワイ「ファーwww」

https://twitter.com/retro_g_knight/status/951658897688772608

以前の会社と今の会社でだいたい言ってることが逆なの闇が深い

https://twitter.com/retro_g_knight/status/951746032261459970

ちなみにその前の会社は「海外企業に負けない!」ってやっててその外資に買収されて吸収されたんじゃがな

いやだから、それは闇とかどうとかじゃなくて、雇用システムの基本原理が全く逆にできているからということなわけです。

会社とは事業をブレークダウンした仕事の束であり、その各仕事に対して当該仕事を遂行できると思われる人間をはめ込むことが採用であり、労働者側からすれば就職である社会においては、その初めからある仕事をできるという前提で採用した労働者に当該仕事を遂行することのみを求め、それ以外の仕事に介入することを求めないのはあまりにも当たり前の話だし、

会社とは社員と呼ばれる人間の束であり、その各人間に対して、採用当時はそもそもできない仕事を習い覚えてやれるようになっていくことを大前提に社員という身分を付与することが採用であり、労働者側からすれば(間違って「就職」と呼ばれている)入社である社会において、その入社当時には全然できない仕事をできるように努力することが正社員たるものの心得第一条であり、そういう心構えを教えるのが上司や先輩であるのもあまりにも当たり前の話なわけです。

どちらのシステムにもメリットとデメリットがあるということも、繰り返し論じてきたところ。

欧米型のデメリットは、そもそも新規学卒者という、仕事ができないことが大前提である人間は「できないことはできなと言え」という社会では、「ああ、仕事ができないんなら採用できませんね」で、なかなか就職できないということに尽きます。

逆に言うと、何にも仕事ができないことがほぼ確実な若者が労働市場で「仕事ができないなんて言わずに頑張ります」でもって一番有利な立場に立てるような社会は日本以外にはまったく存在しないということでもあります。

なんで学校で勉強したことじゃなくてサークル活動やアルバイトで頑張ったことばかりをしゃべらなければならないのかとか、就職をめぐるもろもろの問題はほとんどすべてこの雇用システムの違いで説明できます。

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拙著書評@「連鎖堂」

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda5 t_wakitaさんの「連鎖堂」というブログで、拙著『働く女子の運命』が短評されています。

http://d.hatena.ne.jp/t_wakita/20180113/p1

男女問わず有用。「女はすぐ辞めるから責任ある仕事は任せられない」と本当は思ってる男は多いですが、因果が逆で、「雑用しか与えないから辞める」かもしれない。しかしそれ以前に、属性で予断するのは誤りです。

 女性が統計的には辞めやすいとして、だから女性属性で雇わないとすると、個別では採用コストが節約できますが、社会全体では辞めない女性も空転するので有害です。さらに日本は能力より仲間意識を重視するため、仲間に入れたくねえという恣意が入り込みやすく、属性での予断はますます有害なのです。

t_wakitaさんには、統計的差別のところが印象的だったようです。

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ビットコインは未来の通貨に非ず

Pauldegrauwe ソーシャル・ヨーロッパ・マガジンに新年早々、ポール・デ・グラウウェの「ビットコインは未来の通貨に非ず」という大変興味深いエッセイが載っていました。デ・グラウウェはLSEの教授ですが、もとはベルギー人でルーバン大学の教授でした。

https://www.socialeurope.eu/bitcoin-not-currency-future (Bitcoin Is Not The Currency Of The Future)

ヨーロッパでもビットコインバブルは猛威を振るっているようで、通貨の歴史を振り返りながら、それが未来の通貨であるどころか、むしろ金本位制時代に逆戻りする古風な、あるいはむしろ野蛮な通貨であることを諄々と論じています。確かにビットコインは「マイニング」(採掘)されるという点でも、金本位制に近いのかもしれません。

やや長いエッセイの、金融政策という観点から重要な数パラグラフを翻訳引用します。

・・・First, as the supply of Bitcoins is fixed asymptotically, its generalized use as a means of payment would lead to permanent deflation (negative inflation). The reason is that the world economy is growing and in need of an increasing supply of money to make growing transactions possible. The only way this can be dealt with in a Bitcoin economy is by declining Bitcoin prices of goods and services, i.e. negative inflation. The quantity theory of money tells us that it could also be dealt with by increasing the velocity with which Bitcoins are used, but there is a limit to that possibility. Thus a Bitcoin economy would face permanent deflation, not a very attractive situation.

まず、ビットコインの供給は漸近的に固定されているので、支払い手段としての一般的な利用は恒常的なデフレ(ネガティブなインフレ)をもたらす。その理由は、世界経済は成長し、増加する取引を可能にするために通貨の供給増加が必要であることである。ビットコイン経済でこれを可能にする唯一の方法は、財やサービスのビットコイン価格を引き下げることによってしかない。通貨の数量理論は我々に、ビットコインが使われる流通速度を引き上げることによっても可能であることを示すが、その可能性には限界がある。かくしてビットコイン経済は恒常的なデフレに直面し、決して魅力的な状況ではない。

・・・ In a Bitcoin economy where prices are declining every year this optimism is negatively affected. Price declines lead consumers to postpone their purchases and investors to postpone their projects. It is a world with less optimism and probably less growth.・・・

毎年価格が下落するビットコイン経済では、この楽観主義はネガティブな影響を受ける。価格下落は消費者に購入を延期させ、投資家にプロジェクトを延期させる。これは楽観主義の乏しいおそらく成長の乏しい世界である。

・・・There is a second and even more serious reason why Bitcoin is not suitable as a currency. In fact it would be a dangerous currency. If the world turns to Bitcoins, banks will start lending Bitcoins to households and firms in need of credit. But banking is a risky business. The problem is that as the supply of Bitcoins will be fixed, there will be no lender of last (LoLR) support in times of banking crises. And these are certain to occur. Even if the supply of Bitcoins or of other cryptocurrencies could be subjected to a constant Friedman growth rule it would not solve this problem.

ビットコインが通貨として不適当である第二のもっと深刻な理由がある。実際、それは危険な通貨なのだ。もし世界がビットコインに転換したら、銀行は貸付の必要な家計や企業にビットコインを貸し付け始めるだろう。しかし銀行業はリスクのある事業だ。問題は、ビットコインの供給が固定されており、銀行破綻の時に支援する最後の貸し手がないということだ。そしてこれは起こりうる。たとえビットコインないし他の仮想通貨の供給が恒常的なフリードマンルールに従ったとしてもこの問題を解決しない。

・・・In a monetary system where the stock of money is fixed (or growing at a constant rate), there is no such LoLR possible. This leads to the prospect of regular banking crises that will lead to failing banks and further negative domino effects on the economy. This is exactly what we observed during the heydays of the gold standard, which was characterized by frequent banking crises leading to deep recessions and much misery. Again, the Bitcoin standard, like the gold standard, is something of the past, not of the future.

通貨の総量が固定(ないし一定率での増加)されている金融制度では、最後の貸し手のようなものは不可能だ。これは銀行破綻とさらなる経済へのネガティブなドミノ現象をもたらす定期的な銀行危機をもたらす。これは確かに我々が金本位制の黄金期に見たものであり、金本位制は頻繁な銀行危機とそれによる深刻な不況と多大な悲惨で特徴づけられる。再び、ビットコインは金本位制と同様に、過去の代物であって未来のものではない。

More generally, the problem of a Bitcoin economy is that in times of financial crisis, which one can be sure will arise again, there is a generalized flight into liquidity. That’s when a central bank is needed to provide all the liquidity needed. In its absence, individuals scrambling for liquidity sell assets, leading to asset deflation and insolvency of many. A Bitcoin economy does not have this flexibility and therefore will not withstand financial crises. A Bitcoin economy will not last in a capitalistic system, which regularly generates financial crises.

より一般的には、ビットコイン経済の問題は必ずや再来するであろう金融危機の際に流動性への逃避が一般化することである。これは中央銀行があらゆる必要な流動性を供給することが必要な時である。それがなければ、われがちに流動性を求めて争う人々は資産を売り、資産デフレをもたらし、多くのものが破産する。ビットコイン経済はこの柔軟性を持たず、それゆえ金融危機に抗することができない。ビットコイン経済は定期的に金融危機を生み出す資本主義制度では持続できない。

日本でも最近ビットコインがだいぶ流行していて、特に野口悠紀雄氏などは理論的な面からビットコイン経済を大変強く推していたりするので、こういうヨーロッパ知識人の意見を紹介するのも意味があるかなと思います。

デ・グラウウェさんも、ビットコインなど仮想通貨の技術的基盤であるブロックチェーンについてはその重要性を認めます。異議を唱えるのは、ビットコインにはそれ自体に本質的な価値があるという信仰なのです。金本位制と同じだという批判は、まさにその点を指摘しているのでしょう。

デ・グラウウェさんはそこに、中央銀行のコントロールが効かない金通貨やビットコインを愛好し、法廷不換通貨を邪悪なものとみなす新自由主義のイデオロギーを見出します。

(追記)

こんなトンデモはてブが・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/354428939/comment/ksd5656

典型的な勘違い。”確かにビットコインは「マイニング」(採掘)されるという点でも、金本位制に近い”

このブックマーカー氏、デ・グラウウェさんが本気でビットコインとはどこか中国の奥地で貧しい農民工がつるはしをふるって採掘していると思い込んでこのエッセイを書いたと思い込んでいるのでしょうかね。いやはや。

全訳するのは手間なのでちょっと省略的に紹介するとすぐこういう文章の綾が読めない反応が湧いてくるというあたりが、なかなか疲れるところです。

しゃあないから関係部分を全訳しときましょう。

・・・In fact, the Bitcoin is an archaic currency like gold used to be. Archaic currencies are created by using scarce production factors. Gold had to be digged deep in the ground by using a lot of labor and machinery. Keynes called gold a “barbaric relic”.

The same can be said of Bitcoin. Bitcoins are made (“mined” as it is called in Bitcoin terminology by analogy with gold) by using large amounts of computing power. The computers needed to mine Bitcoins use a lot of electricity and thus large amounts of scarce energy sources (crude oil, coal nuclear energy, renewable energy sources). According to some estimates, the energy needed to produce Bitcoins for one year is equivalent to the energy consumption of a country like Denmark. ・・・

・・・実際、ビットコインは金がそうであったようなアルカイックな通貨だ。アルカイックな通貨は稀少な生産要素を用いて生み出される。金は膨大な労働力と機械を用いて地中深くから掘り出された。ケインズは金を「野蛮な遺風」と呼んだ。

同じことはビットコインにも言える。ビットコインは膨大な量のコンピュータ能力を用いて(金とのアナロジーによりビットコイン用語では「採掘される」と呼ばれている)作られる。ビットコインを採掘するのに必要なコンピュータは膨大な電力、それゆえ膨大なエネルギー資源(原油、石炭、原子力、再生可能エネルギー)を使う。いくつかの試算によると、1年間にビットコインを生産するのに必要なエネルギーはデンマークのような国のエネルギー消費量に匹敵する。・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平成35年5月16日?

おそらく労働問題に関心のある人でも誰も関心を持たないであろう二つの法律の改正案が労政審で妥当と答申されましたが、

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000190842.html

その二つの法律というのは、駐留軍関係離職者等臨時措置法と国際協定の締結等に伴う漁業離職者に関する臨時措置法なんですが、前者は1958年、後者は1977年に作られたいずれも時限立法で、それをその都度伸ばし伸ばししてきたものです。

今回も、法律の期限切れが前者は今年5月16日、後者は今年6月30日に到来するので、それを5年延長するというだけの、まあ実体的な中身のほとんどない改正なんですね。

ただね、5年延長するというのを、法律ではどう書くかというと、

http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12602000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Roudouseisakutantou/0000190834.pdf

第一 駐留軍関係離職者等臨時措置法の一部改正

駐留軍関係離職者等臨時措置法の有効期限(平成三十年五月十六日まで)を五年延長し、平成三十五年五月十六日までとするものとすること。

第二 国際協定の締結等に伴う漁業離職者に関する臨時措置法の一部改正

国際協定の締結等に伴う漁業離職者に関する臨時措置法の有効期限(平成三十年六月三十日まで)を五年延長し、平成三十五年六月三十日までとするものとすること。

いやいや、平成35年という年はそもそも存在しないことが今現在すでに確定しているでしょう。存在しない平成35年に5月16日も6月30日も存在しないでしょう。

とはいえ、では今現在、平成31年4月30日の翌日以降の日付を元号を使ってどう表現できるかといえば、こういう存在しないことが確定している架空の日付を用いるしかないということになるわけですね。

ほとんど雑件ネタですが、一応素材は労働法なので、労働法ネタということにしておきます。

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ソーシャルアジアはデジタルアジア?

Dio333 連合総研の『DIO』333号が届きました。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio333.pdf

特集は右の表紙のとおり「地域のニーズに応えられる公共サービス」ですが、今号の記事のうちで一番興味をひかれたのは、第21回ソーシャル・アジア・フォーラムの報告です。

このソーシャル・アジア・フォーラム、純民間ベースで日本、韓国、中国、台湾で回り持ちで続けられており、2010年に台北でやった時には私も参加しました。

今回昨年11月には中国のアモイで開かれ、その時の各国の報告の概要が載っています。今回、日本からは、JILPTの山崎憲さんと、情報労連の北野さんが出ていますが、各国の報告をざっと見ていくと、昨年来いくつかの国際的な会議で感じたことですが、こういうデジタル経済、あるいは第四次産業革命といったことに対する感性が、日本よりも後発であったアジア諸国の方がより強いという傾向が感じられます。

詳しくはリンク先を見ていただきたいのですが、このあたりのパラドックスをどう考えたらいいのか、少しじっくりと考察してみたいところではあります。

 

 

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だめな会社はさっさと潰すのも社会貢献

例のはれのひの振り袖トンズラ事件自体については、特にコメントすることもなかろうと思っていたのですが、やはり労働問題に関わってきたようです。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180112/0006084.html

成人の日に横浜市の会社と契約した振り袖が届かず晴れ着を着られない新成人が相次いだ問題で、去年の夏以降、この会社の従業員から賃金の未払いを訴える相談などが労働基準監督署に寄せられ、監督署が改善を求め是正勧告を行っていたことがわかりました。・・・

関係者によりますと、去年8月、労働基準監督署に「はれのひ」の従業員への賃金の未払いが起きているという情報が匿名で寄せられ、11月には従業員から「賃金が数か月、支払われていない」と相談があったことがわかりました。

監督署は会社側に事実関係を確認し、改善するよう複数回にわたって是正勧告を行ってきたということです。

一方で、この会社は賃金未払いの指導を受けている間も求人を続けていて、八王子市の店舗では去年11月から、横浜市の店舗では去年12月から、ハローワークを通じてそれぞれ正社員を3人ずつ募集していました。

しかしハローワークは、会社と連絡が取れないことから募集を止めたということです。・・・

確か福岡では、経営者がトンズラしたにもかかわらず従業員がお客に一生懸命対応していたと美談よろしく報じられていましたが、いやいやこんな会社がずるずると生き延びていたこと自体が間違っているやろ、という感じですね。

ダメな会社はさっさと潰した方が社会貢献になるということかもしれません。

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早見俊『労働Gメン草薙満』

894278これは本屋でたまたま見かけて、タイトルが労基小説だぞ!と訴えていたので買って読んだのですが、正直微妙でした。

http://www.tokuma.jp/bookinfo/9784198942786

労基小説と言えば、かつて本ブログで紹介した沢村凜さんの『ディーセント・ワーク・ガーディアン』は、内容的にも立派な労基小説でしたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-748a.html(本邦初の労基小説! 沢村凜『ディーセント・ワーク・ガーディアン』)

こちらはタイトルがいかにもであるにもかかわらず、中身はB級の警察小説、犯罪小説に監督官を狂言回しとしてくっつけただけという感じです。

たぶん、一昨年末に労基のかとく部隊が電通にどやどやと入る映像を見て、これ使える、と思って書き下ろしたんじゃないかと思いますが。

大手化学メーカーに勤務する村瀬一雄が帰宅途中に服毒自殺した。村瀬の妻から相談を受けた労働基準監督官の草薙満は、村瀬が退社後にアルバイトをしていたことを突き止める。アルバイト先を張り込み中、草薙を不審者と勘違いして職務質問してきたのが、ひばりが丘警察署の安城沙也加だった。村瀬の自殺の真相を探るうち、草薙と沙也加はある謎に直面する――。熱血“労働Gメン”登場!

いや、熱血はいいんだけど、女性警察官と一緒になって覚醒剤密造の犯罪捜査に熱中しているというのは、労働基準監督官としてどうなの?としか・・・。警察が民事不介入で強制捜査できないところを、労基は臨検監督できるからといいように使われているだけというのは、いくらなんでもひどくないか、と。

挙げ句の果てには、こんな台詞まで飛び出してきて、いや労基小説書くんならもう少し労働基準法を勉強してから書いてよね、と。

沙也加が満の背中を指でつついた。

満も労働Gメンの使命感が湧き上がってきた。

飛び出すと、

「労働基準監督官です。臨検を行います」

証票を右手で示した。

大塚は一瞬、満を睨んでいたがすぐに満だと気づき、戸惑いの表情となった。満の横に沙也加がやってきて、

「段ボールの中身は何ですか」

と厳しい声を出した。

口を閉ざした大塚に向かって、満が、

「大塚さん、従業員へのパワハラ行為は労働基準法に違反しますよ」

はぁ?

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JILPT労働政策フォーラム「改正労働契約法と処遇改善」

来る3月15日に、JILPT労働政策フォーラム「改正労働契約法と処遇改善」がひらかれます。

www.jil.go.jp/event/ro_forum/20180315/20180315flier.pdf

基調講演が菅野JILPT理事長、調査報告が荻野JILPT副所長で、4人の企業の人事担当者の方々が事例報告をされます。

わたしはそのあとのパネルディスカッションの司会役です。

Jilptforum

 

 

 

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低賃金にすればするほどサービスが良くなるという思想(再掲)及びその前説

本日の下記エントリで世界標準語とアメリカ方言の話でからかった立憲民主党の公務員人件費削減公約ですが、やや真面目に論じるとすると、労働基本権を回復して団体交渉で労働条件を決定するようにすることで人件費削減を目指すというのが一体全体どういう頭の回路で出てきているのかが興味あります。

https://twitter.com/CDP2017/status/950513453013327872

■公務員の労働基本権を回復し、労働条件を交渉で決める仕組みを構築するとともに、職員団体などとの協議・合意を前提として、人件費削減を目指します。

このツイートに山のようなコメントがついていますが、その中で、あるべき姿の方向性としては全く逆でありながら、物事の客観的な姿としてはそうだろうな、と思われたのが、人件費削減が大好きで経済の緊縮を目指しているらしい「りふれは」こと高橋洋一氏でした。

https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/950738305921896454

人件費削減に反応している人が多いが。ちょっと文章全体をみると、①労働基本権回復、②労働条件を労使交渉、③人件費削減。①は団体交渉権と争議権付与。②は人事院廃止、人勧なしで労使交渉。となると、給与アップでしょう。○○前提と断りを入れて、給与アップをカモフラージュしたのか笑笑

https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/950739547461046273

本当に給与カットしたいなら、②で人事院廃止ではなく、今の人勧の計算方法を変更することが近道。それをしないなら、人件費カットを狙っていないのでしょう。というわけで、人件費カットに過剰反応している人は肩すかしを食らうというのが、オレの深読み

人間とは、本音を隠して口当たりのいいことを言って人をだましたがるものだという人間観を持った人にとっては、こういう解釈が自然なのでしょう。高橋氏にとっては、人件費削減などと正義ぶって実は給与アップするつもりの立憲民主党は嘘つきでけしからんということのようです。あるべき価値判断のベクトルを別にすれば、私もそれに近い考えです。

やや法制的に言うと、民主党政権時代に国会に提出した国家公務員労働関係法に基づいて、団体交渉権は付与するけれどもスト権は付与しないという仕組みになったとすれば、実際に生じうるほとんど唯一の道は、団体交渉では妥結せずに中労委の仲裁裁定にいくということであり、そうなると、(今の民間の賃上げが継続しているのであれば)それに準拠したような仲裁裁定となるでしょうから、それで人件費削減するということは無理筋です。

いやまあ、民間労働者についても(自公政権の路線を転換して)断固人件費抑制賃下げ路線だというなら別ですが、さすがにそんな馬鹿なことはないでしょうから。

というのが、普通の人間観を前提にした発想なのですが、もしかしたら、この一見矛盾に満ちた公約は嘘偽りのない本音なのかもしれないという可能性もないわけではありません。

というのは、世の中には(経済学をちょっとでもかじれば信じがたい話ですが)本気で公務員の処遇を引き下げれば引き下げるほど一生懸命働くものだと本気で信じ込んでいるらしい人がいるからです。

そんな人どこにいるって?

いや、まさにこのブログに過去出現したんですよ。

2011年ですからもう7年近くも前ですが、こんなエントリがあります。今読み返してみても大変面白い。

さすがに、天下の(?)立憲民主党がこういう発想で公約を書いたとは信じたくはないですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-ee80.html (低賃金にすればするほどサービスが良くなるという思想)

まあ、城繁幸氏の場合は、実のところは官民問わず賃金処遇制度の問題であると意識しながら、あえて釣りとして(はやりの時流に乗って)公務員叩きをしてみせた気配が強いのですが、

http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/cfe86d13b5103d8cf8e1b72a3e754a0b公務員の賃金をいくら引き下げても構わない理由

http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/e3ad8b0a11acf9c195d542929f8b86d0訂正:公務員は別に流動化しなくてもいいです

こういう釣り記事を真っ正面から受け止めて、本気に信じてしまう(あるいはむしろその先に突き進んでしまう)人々がやはりいるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/AMOKN/20110520【コラム】公務員の賃金をいくら引き下げても構わない理由 解説編

>いわゆる土方と呼ばれる仕事を見れば分かりますが、給料安くても不正もせずに過労死ギリギリまで働いていたりします。

以前、考察したときは下記の2点で縛られているからと考えていましたが、これを経営者側の立場で考えるとなるほどと思えることがあります。

おまえの代わりはいくらでもいるんだよ。

好きでやっているんだろう。

>いくつかの病院で働いていた時、凄く不思議だったのは一番プロフェッショナルだった病院はもの凄く看護婦さんの給与が低かったことです。患者にとって何が一番心地よいかを考えて、常に改善しようと心がけていました。仕事は過酷ですから、どんどん辞めていくわけですが、それを補うために看護学校も経営してどんどん若い看護婦を補充していくわけです。若い方が給与は安いですから経営上も利点があります。

そんなところで働いているなんて可哀想かと思うとそうでもないですね。彼女らはそこでの経験が後の仕事をしていく上で、大学出の看護婦とは全然次元の違う看護が出来るようになっているはずです。

これらに共通しているのは、誇りを持っていたり、好きな仕事なのに給与安いとどうなるかということです。

自分は金のために働いている訳じゃないということを嫌が上でも自覚せざるを得なくなるわけです。

じゃあ、何のために働いているのか。

それはお客さんや患者さんに喜んで貰うためなんだという凄くシンプルな答えに行き着くわけです

いやあ、なんというか、天然自然の何の悪意も感じられないほどのブラック企業礼賛。

ここまで来ると、いっそ清々しい。

このあとがさらにすさまじい。

>逆に給与が仕事の内容に比べて高いとどうなるでしょうか。

自分は金のために働いている。こんな楽して儲けられるのはこの仕事しかない。この仕事は手放さないようにしようと考えます。でも、こんなに手を抜いてもこれだけ貰えるなら、クビにならない程度に手を抜いておこうとなるわけです。別にクビになるわけでも、給与が減るわけでもないなら、仕事を改善する必要もなくね。変にクレームが付かないように前の人と同じようにしておこうとなるわけです。

まさにどこかで見た勤務態度でしょ。

よって、給与を下げるとどうなるか。

恐らく劇的に公共サービスは改善されるでしょう。

金やそれに付随する社会的地位のために働いていた人達はまず最初に辞めていきます。

そして、自分が誰のために働いているのか、その人達のために自分が何をすべきかを考える人達だけが残っていくでしょう。もちろん、そういう人達もどんどん辞めていくでしょう。その代わり、もっと良い行政サービスができる、したいという人達が入ってきます。要するに市場原理が働くわけです。

えっ!?それが市場原理なの???

ケインズ派であれフリードマン派であれ、およそいかなる流派の経済学説であろうが、報酬を低くすればするほど労働意欲が高まり、サービス水準が劇的に向上するなどという理論は聞いたことがありませんが。

でも、今の日本で、マスコミや政治評論の世界などで、「これこそが市場原理だ」と本人が思いこんで肩を怒らせて語られている議論というのは、実はこういうたぐいのものなのかも知れないな、と思わせられるものがあります。

労働法の知識の前に、初等経済学のイロハのイのそのまた入口の知識が必要なのかも知れません。あ~あ。

(追記または謝罪)

上述の批判は、俗流ブルジョワ経済学説に毒されたモノトリ主義的労働貴族思想のしからしむるところであったのかも知れません。

上記リンク先に昨日書き込まれたコメントは、そのような俗物思想に対し、強烈な打撃を与えるものでありました。

http://d.hatena.ne.jp/AMOKN/20110520#c

>少年時代にマルクスの著作と出会って以来、一貫して共産主義を信奉している者です。この2010年代においてもなお、本物のコミュニストと出会えたことに感動しております。

「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」。これこそが我々共産主義同志の理想であり、本来ならば労働者の敵であるはずの資本家の側にも、我々コミュニストと同じ思想信条をお持ちの方がおられることに対して、大変驚いております。

貨幣から解放された労働、労働それ自体を目的とする労働。まさにコミュニズムの真髄です。とくに、経営者の報酬は1円で良いはず。当然、AMOKN様は有言実行しておられますよね。資本家でありながらコミュニストとしての闘いを続けておられるとは、頭の下がる思いです。

共産主義の同志に対して、「えっ!?それが市場原理なの???」とは、まことに失礼千万なものの言いようであったと深く反省しております。

ただ、わたくしはかかる崇高な理念に殉じるにはあまりにもマテリアリストでありますので、おつきあいするのは控えさせていただきたいと存じます。

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ねじれにねじれたリベラルのねじれていないところ

立憲民主党が公務員の人件費削減を目指すと呟いたとかで、ネット上の労働クラスタが騒いでいますが、いやいや日本的「リベラル」らしいというべきでしょう。

本ブログで百万回繰り返してきたように、「リベラル」には世界標準語とアメリカ方言があります。戦後日本で長らく二大政党だったリベラル民主党と日本ソーシャル党という名前は、明確に世界標準語の用語法に立脚していました。しかしいまやそれは忘れ去られてしまい、誰もがアメリカ方言を当たり前に思うようになりました。

リベラル民主党という名前の政権政党の党首にして総理大臣が自分の政策をリベラルだというのは、世界標準語で見ればあまりにも当たり前のはずですが、本人の意図はそうではなく、リベラル民主党政権は(アメリカ方言では)リベラルじゃないはずなのに、毎年賃上げ要求したり、同一労働同一賃金とか長時間労働の抑制とか、世界標準語で言えばソーシャルな政策をやっていることを捕まえて、(アメリカ方言で)リベラルだと言っているらしい、というところからしてもうすでにねじれが感極まって泣き出したくなるところですが、その相方の方はもっとねじれています。

彼ら、日本ソーシャル党の末裔のはずの人々は、既にどっぷりアメリカ方言に漬かってひたすら自分たちをリベラルリベラルと叫びたがるのですが、その中身はアメリカ方言で言うリベラルでありすなわち世界標準語で言うソーシャルである、はずなのですが、そこがそう簡単に問屋が卸してくれず、なぜかそこにアメリカ方言ではリベラルじゃない、つまり世界標準語でソーシャルじゃない、正真正銘のリベラルな政策がでかい顔をしてどんと居座っているんですね。

そういうのをここ数十年のファッションで「市民的リベラル」というそうですが、まあ、まさに世界標準語で言う「市民的」すなわち反労働者的であり、「リベラル」すなわち反ソーシャルな発想が、この人々のもっとも強固な思想であるらしく、それで繰り返し繰り返し、冒頭で述べた公務員の人件費削減を目指すという話が出てくるわけですね。

いや、アメリカ方言ではねじれているけれども、もう一回世界標準語に戻ると、全てが当てはまってしまう、360度のねじれという奴ですか。

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EU透明で予見可能な労働条件指令案に兼業容認規定が・・・

これは久しぶりに、ガチにEU労働法政策ネタです。だって、欧州委員会がが昨年末に公表した「EUにおける透明で予見可能な労働条件に関する指令案」の話ですから。

これについては、その直前までの状況、つまり労使への第1次、第2次協議の内容を、『労基旬報』1月5日号にやや長めに紹介しておいたところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/eu201815-c128.html (EUにおける新たな就業形態に対する政策の試み@『労基旬報』2018年1月5日号)

そこでは触れられていなかったトピックが、今回指令案ではわざわざ1条をとって取り上げられています。それは、日本でも昨年の『働き方改革実行計画』で盛り込まれ、つい先日の検討会報告でガイドライン案が示された兼業副業の容認にかかわるトピックです。

関係の指令案その他の文書はここにアップされていますが、

http://ec.europa.eu/social/main.jsp?langId=en&catId=157&newsId=9028&furtherNews=yes

大部分は上記労基旬報に書いた中身ですが、そこになかったこんな条文が入り込んでいたのです。

Article 8
Employment in parallel
1. Member States shall ensure that an employer shall not prohibit workers from taking up employment with other employers, outside the work schedule established with that employer.
2. Employers may however lay down conditions of incompatibility where such restrictions are justified by legitimate reasons such as the protection of business secrets or the avoidance of conflicts of interests.

「Employment in parallel」って、ある雇用と並行して別の雇用が存在するというイメージの言葉なんでしょうか。まさに兼業副業ですね。

第8条
兼業副業
1 加盟国は、労働者が使用者との間で確立した労働スケジュール以外の時間において、他の使用者との間で雇用されることを、当該使用者が禁止することのないよう確保するものとする。
2 ただし、使用者はかかる制限が営業秘密の保護または利益相反の回避のような合法的な理由によって正当化される場合には不適合の条件を定めることができる。

ふむむ、なんだか、昨年末に例の検討会が示したモデル就業規則案と妙に符合していますね。もちろん、欧州委員会と日本の厚生労働省が示し合わせているなどという陰謀説みたいな話はないので、似た話がタイミングよくかち合ったということなんでしょうけど、いろいろと興味深いです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000189518.html

  (副業・兼業)
第65条 労働者は、勤務時間外において、他の会社等の業務に従事することができる。
2 労働者は、前項の業務に従事するにあたっては、事前に、会社に所定の届出を行う  ものとする。
3 第1項の業務が次の各号のいずれかに該当する場合には、会社は、これを禁止又は  制限することができる。  ① 労務提供上の支障がある場合  ② 企業秘密が漏洩する場合  ③ 会社の名誉や信用を損なう行為や、信頼関係を破壊する行為がある場合  ④ 競業により、会社の利益を害する場合

 

 

 

 

 

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東方三賢人のブラックフェイス

これも労働法政策とは直接関係のない雑件ネタですが、EUネタの端っこくらいに配置するかもしれません。

20180106194708_2 新年早々、ネット上ではダウンタウン浜田雅功がテレビ番組で黒人の真似をして顔を黒塗りにして登場したことが黒人差別だとして炎上しているようです。

Threekingsprocessionma012 そのすぐ後に、たまたまテレビで衛星放送を見ていたら、スペインの平和なニュースとして、1月6日の東方三賢人の日(子供にプレゼントをあげるクリスマスみたいな風習)の映像が流れ、その三賢人の一人がまさに黒塗りの顔で練り歩いていたものですから、こっちはどうなんだろうと思ったわけです。

いやもちろん、黒人の顔にもそれぞれの社会にはそれぞれの文脈というのがあるのであって、アングロサクソン系の白人たちがアフリカから連れてきた黒人を奴隷として酷使したアメリカにおける文脈と、中世以来のヨーロッパにおける東方三賢人では文脈が違う。

まあそもそも、聖書には三賢人の内訳など書いていないので、うち一人が黒人なんてのも中世ヨーロッパ人の勝手な妄想ですが、その妄想が何百年間伝統として続けられて来ているので、今更ついこないだできたばかりのアメリカの文脈に引きずられる必要もないということなのでしょうか。

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『POSSE』37号(加筆の上再掲)

1今月末に刊行予定の『POSSE』37号の書影と案内がアップされていたので、こちらでもご紹介。編集長とキャッチコピーが変わるようです。

(1月6日付)

案内がより詳細になっていたので、リンクを付け替えるとともに、目次も紹介します。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237156

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というわけで、わたくしは第1特集の「これまでの10年、これからの10年」にちらと顔を出しております。表紙をざっと見た限りでは、一番面白そうなのは、常見陽平さんの「スポーツとブラック企業」なる文章ですね。例の日馬富士事件を常見さんがどのように料理しているのか楽しみです。

◆特別インタビュー
どこでもぼちぼち生きていくヒント 津村記久子(作家)

◆新連載
スポーツとブラック企業
第1回 貴ノ岩になりたくない営業マン、出会う部下すべて狂わせる日馬富士営業部長 常見陽平(人材コンサルタント)

◆第一特集「これまでの10年、これからの10年」
労働運動と貧困運動の連携と発展 これまでの10年をふりかえりながら 藤田孝典(NPO法人ほっとプラス代表理事)

貧困の現場から社会を変えていくために 反貧困運動10年の成果と変節 稲葉剛(つくろい東京ファンド代表理事)

『POSSE』10年の功績と、次の時代に期待する役割 ブラック企業とAI時代の運動戦略 濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構労働政策研究所長)

編集長が変わる雑誌が変わる 渡辺寛人(新編集長)×坂倉昇平(前編集長)

◆第二特集「憲法と労働」
伊藤真に聞く「憲法改悪にどう対抗していくか」 憲法が護ってきたもの、憲法で護っていくもの 伊藤真(法学館憲法研究所所長)

憲法28条の労働基本権は、死文化してしまうのか? 基本的人権としての労働基本権 宮里邦雄(弁護士)

若者の労働・貧困こそ争点化されるべき 「見えづらい」現代の貧困を社会運動が可視化することを通じて 原田仁希(首都圏青年ユニオン執行委員長)×栗原耕平(AEQUITASメンバー)×渡辺寛人(NPO法人POSSE事務局長)

◆特別企画「過労死対策はこれでいいのか?」 「ブラック産業医」はなぜ生まれてしまうのか? 広瀬俊雄(産業医学センター長)

ブラック研修の闇に挑む ゼリア新薬新入社員過労自死事件の経緯と意義 玉木一成(弁護士)

父の過労死事件と闘う 遺児学生が過労死問題を社会化することの意味 本誌編集部

医療現場を超えて、最良のサポートのために 医療現場と労働・貧困の専門機関との連携 片岡修雪(臨床心理士)

◆単発
求人詐欺は「合意」しても無効 京都地裁の画期的判決 本誌編集部

イタワリ仮面 平八(アマチュア漫画家)

書評 エキタス・今野晴貴・雨宮処凛 著『エキタス』 渡辺寛人(POSSE事務局長)

書評 河野真太郎 著『戦う姫、働く少女』 本誌編集部

日本における貧困観の転回と再転回 新しい反貧困運動のための一考察 渡辺寛人(NPO法人POSSE事務局長・本誌編集長)

在日ビルマ市民労働組合の挑戦 ビルマ難民のための労働運動からミャンマー人技能実習生の権利擁護運動へ ミンスイ(在日ビルマ市民労働組合議長)×小山正樹(ものづくり産業労働組合(JAM)参与)

◆連載
My POSSEノート page4 闘い、歌い、社会を動かす。 岩間寛佳(POSSE ボランティアスタッフ)

若者の貧困のリアル vol.9 ブラックな公務員から即貧困

立ち上がる 第2回 休学費をめぐる闘い

それぞれの町で 第2回 「地方」の絶望のなかに楽しみを見出す術 小松理虔(フリーライター)

知られざる労働事件ファイル No.11 通販会社・オペレーター職の解雇撤回と労使関係の構築 志水輝美(連合福岡ユニオン特別執行委員)

キーワードで読むゼロ年代の労働問題 No.4 「ブラック企業」

ブラック企業のリアル vol.21 酒造会社

労働問題NEWS vol.10

いまどきの大学生 第8回

ともに挑む、ユニオン 団交file.18 大手コンビニでの労基法違反、学業への無配慮
北出茂(地域労組おおさか青年部書記長)

文化と社会 第6回 アートが浮かびあがらせる多様な都市/社会 高山明

労働と思想 37 ハーバーマス 宮本真也(明治大学情報コミュニケーション学部准教授)

POSSE最新ブックレビュー

編集長の部屋

INFORMATION

※「やりがいが悲惨に変わるとき」「ブラックバイトでわかる業界の裏側」「意外な労働の世界」は休載させていただきます。

前書きと、新編集長の渡辺さんの言葉です。

2008年に創刊された雑誌『POSSE(ぽっせ)』は、2018年で刊行10周年となります。1月刊行の『POSSE』vol.37よりリニューアルし、創刊号から編集長を務めた坂倉昇平から渡辺寛人に編集長を交代。
キャッチコピーを「新世代の雇用問題総合誌」から「Life/Work/Culture... Solidarity」として新たな情報発信を行ってまいります。

【新編集長 渡辺寛人より】
 NPO法人POSSEの活動や理念、社会状況を発信するジャーナルとして、2008年、雑誌『POSSE』は創刊されました。当時はまだ若者の貧困や労働環境の悪化は、社会的に共有されていませんでした。そのなかでPOSSEは、若者の労働・生活環境を可視化させ、それを「ブラック企業」という言説で表現し、社会に影響を与えてきました。雑誌『POSSE』は、現場の実践から見えてくる最前線の問題を取り上げ、自己責任とされていた若者の問題を、社会的に取り組むべき問題として世間に周知することに貢献してきたと自負しています。
 そこから10年、状況の共有はできましたが、改善はまだこれからの課題として残されています。幸いなことに、社会の矛盾が可視化されるなかで「おかしい」と思ったことに声をあげる人たちは着実に増えつつあります。ブラック企業・ブラックバイトに抗議する労働運動はもちろんのこと、労働・貧困に限られない様々な領域で若い世代を中心に声が上がりはじめています。こうした声は、ただ現状に対して不満を述べているだけではなく、より生きやすく持続可能な社会へと転換していく萌芽でもあるのです。
 これからの雑誌『POSSE』は問題の発信とあわせて、現場の様々な「声」をとりあげ、未来のために何が必要なのか、「解決・改善」の取り組みを発信する媒体として発展していきたいと思います。

 

 

 

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小池ファンは小池理論を全く逆に取り違えている件

昨日は午後、連合の新年交換会に行きましたが、マスコミの皆さんの関心はもっぱら政治的な面にあったようで、鏡割りの際の政治家の並び方が最大の関心の的のようでした。

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それはともかく、会場である方から、拙著で小池理論を批判していることについて疑問を呈せられるということがあり、さすがにごったがえす旗開きの場で詳細な説明をするわけにもいかず、むにゃむにゃと済ませたのですが、これはやはりきちんと説明すべきことだと思い、こちらのブログで詳しく述べておきたいと思います。といっても、中身はほぼ1年前にWEB労政時報に2回にわたって掲載したエッセイです。

その冒頭に述べているように、世の多くの小池ファンの小池理論観は、小池氏が論じているところとは全く逆のものなのではないかという疑問を追求したものです。やや長いですが、最後までじっくりとお読みいただければ嬉しいです。

 日本型雇用システムについての議論では、ほぼ必ず小池和男氏の理論が道しるべとして用いられます。しかし、世間の人々が小池理論を理解している理解の仕方は、実は必ずしも小池氏が一貫して説き続けてきていることとは異なるのではないか、むしろその理論的方向性においては逆向きに理解されてきているのではないかという風に、私は感じるようになっています。「理論的」方向性とは、政治的とか社会的な方向性、いわゆるイデオロギー的な傾きのことではありません。実を言えば、そういう方面からの批判や称賛は山のようにありますが、そういう類いの議論は全て、小池理論の「理論」たる根幹のところを取り違えてしまっているのではないか、取り違えて褒めたり貶したりしてしまっているのではないか、という疑問です。
 今回は、実務的な本サイトの性格からするとやや違和感があるかも知れませんが、上述した違和感を、小池氏の著作の文言そのものを正確に把握することを通じて確認してみたいと思います。今まで著書で部分的に論じてきたことを、この際まとめておきたいという気持ちもあります。

 私自身の「メンバーシップ型」「ジョブ型」論も含め、日本型雇用システムに関する議論はほとんどすべて、欧米の雇用社会と日本の雇用社会が対照的であるという「常識」に立脚して論じられてきました。この「常識」はもちろんあくまでも事実認識として共有されているということであって、価値判断としては真っ向から対立する思想を含みます。むしろ、「ジョブ型」万歳論も「メンバーシップ型」万歳論も、一見対立しているように見えて、その土俵となる事実認識としてはほぼ同じ認識枠組を共有してきたということがここでは重要です。
 この「常識」を共有するさまざまな見解を、その時々の時代の主流となった意見の順番に見ていくと、まず1960年代までの経営側と政府の考え方は、①日本も欧米型職務給を目指すべき、というわりと素朴なジョブ型推進論でした。その当時の労働側の主流(総評)は、②いや建前上からはそうかも知れないけれど、そんなことをしたら労働者とりわけ中高年に不利益になるから反対だというものでした。もっともその頃でも、労働側の非主流派には、③経営側の主張する職務給ではなくて西欧のような横断賃率を目指すべきだと主張する人々もいました。ところが1969年の日経連『能力主義管理』ととりわけオイルショックを過ぎて、世の中の雰囲気は一変し、④いやいや日本型の方が効率的で人間的で素晴らしい、という考え方が世の中に広まりました。1970年代から1980年代はこの思想が世の中を覆った時代です。恐らく世の中の圧倒的に多くの人々は、小池理論とはこの④の見解を実証に基づいて説いたものと思われているのではないでしょうか。ところが1990年代にバブルが崩壊した後は、⑤やっぱり日本型はダメで欧米型を見倣うべし、という考え方が「常識」として政策を駆動していくことになりました。
 と見てくると、方向性は目まぐるしく変わっているように見えますが、いや確かにそうなのですが、日本型と欧米型が対照的であるという(価値判断以前の)事実認識の次元においては、何ら変わることなく一貫していることが分かると思います。そう、私が言う「理論的」とはこの次元のことです。そして、恐らく圧倒的に多くの読者にとって意外に聞こえると思いますが、この「理論的」次元において、一貫して上記さまざまな意見と異なる地点にいたのが、実は小池和男氏の理論だったのです。すなわち、これらベクトルはさまざまでも基本構造は共通の「常識」とはまったく異なり、「欧米型は実は日本型と同じなんだ」という「常識はずれ」の理論を一貫して唱え続けてきたのが小池氏なのです。

 小池氏が初めて自らの賃金理論をまとめて世に問うた『賃金 その理論と現状分析』(ダイヤモンド社、1966年)から、その理論のエッセンスを抜き出してみましょう。小池氏は言います。

・・・わが国の通説は、日本の賃金や労働組合が欧米諸国に比べきわめて特殊だ、と強調している。熟練は本来企業をこえて通用し、労働者は企業間を移動できるはずなのに、日本の労働者は終身雇用によって個別企業に結びつけられ、その企業にしか通用しない「年功的熟練」をもつにすぎない。賃金は本来職種ごとにきまり、企業や年齢によって異ならないはずなのに、日本の賃金は企業によって差があり、また年齢によってはなはだしく異なる。労働組合は本来職業別あるいは産業別の「横断組織」であるはずなのに、日本の労働組合は企業別だ、というのである。
 ここで日本を特殊だという基準は、欧米諸国の「実態」におかれている。あるいは、よりあいまいに「近代的」という言葉が使われている。たしかに・・・右の基準は産業資本主義段階では充分妥当する。だが・・・それらの条件が独占段階に入ってもなお支配的に存在するかは、きわめて疑わしい。近時独占段階の資本蓄積様式の研究が進み、かなり著しい変化が確かめられている。それらは労働力の性質や賃金などにはほとんど及んでいないけれども、変化がそこにも起こっていると推測させるに充分である。そしてわずかに見出された若干の事象をみると、これまで「日本的」とされていたものと少なからず類似している。吟味が要求される。
 まず労働力の性質について、「内部昇進制(job promotion)」と「先任権制度(seniority)」という現象が注目される。・・・先任権制度が確立するなら、労働者は原則として未経験工として入社し、勤続を重ねながらしだいに上級の仕事に進むことになる。他社に移ると勤続による利得を失うことになるから、労働者は個別企業と深く結びつく。その本質はなお吟味されねばならないが、一見日本の「年功的熟練」と似た事象が見出されてくるのである。
 勤続に応じてより上級の仕事につくのが一般的傾向であれば、賃金率が仕事ごとにきまっていても、結果的には勤続に応じても上昇する。この点を確かめるべき資料に恵まれないけれども、充分推測される。そうすると、勤続や年齢に応じて上昇する日本の年功賃金と似ていることになろう。また労働者がひとつの企業に長く勤続するなら、その賃金は企業をこえてまったく共通するとは限らないだろう。・・・こうした類似点は、たんに表面的なものにすぎないのであろうか。それとも、独占段階一般の傾向なのだろうか。その点の研究はまだきわめて貧しく、以下、まだ市民権を得ていない筆者の仮説-ありうべきひとつの説明を提示するほかない。・・・

 誤解の余地はないでしょう。小池理論とは、「欧米諸国でも内部昇進制や先任権制度があるから、日本と変わらない、つまり日本は全然特殊ではないという議論」であって、前記④ではありません。せいぜい、同じ方向に進む同士の中で若干先進的という程度です。そしてその理論的根拠は、これまた多くの人にとっては意外かも知れませんが、今ではあまりはやらなくなった宇野派マルクス経済学の独占資本主義段階論であり、本人自ら実証的根拠はないと認識していたことがわかります。

 いやそれはもう半世紀以上も昔の若い頃の議論であって、その後は変わっているんじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。既に上記④が終わりつつあった1994年に出版された『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)でも、一見紛らわしいその標題にもかかわらず、「日本は全然特殊ではない」という議論を全面展開しています。

・・・通念によれば、日本方式とは、なによりも「年功賃金」「終身雇用」「年功的昇進」「企業別組合」そして「集団主義」である。「年功賃金」で暮らしに応じた賃金を払い、「終身雇用」で雇用が確保されれば暮らしが保障される。ただし、保障されたからといって、人はよく働くものではない。かえって心を安んじ、怠ることも大いにあろう。にもかかわらず日本の職場にそれが起こらないとすれば、それは集団主義という気風の賜だ。企業という集団を重視し、働く仲間に気配りしながら働く。そのゆえに職場の効率が高い、と説く。
 だが、一体絵に描いたような「年功賃金」や「終身雇用」が日本に存在し得ようか。ときに「年功賃金」を、ほとんど勤続や年齢で賃金額が決まるもの、働きにあまり関係なく暮らしで決まるものと想定する。・・・日本では、毎年定期昇給があることをもって、先のように誤解したりする。だが、いうまでもなく、定期昇給制は、毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う。・・・個人の働きぶりによって長い期間をとれば、賃金はかなり差がついていく。そもそも働こうが怠けようが賃金に差がつかなければ、誰がよく働こうか。

 自称小池ファンの多くは無意識的に④の立場に立って、日本型システムのすばらしさを実証している理論だと思い込んでいるようですが、小池著をちらとでも読めばそれは全く逆であって、そういう「通念」「常識」を批判しているのが小池理論であることがわかります。
 ただし、その議論の仕方はあまりにもアンフェアと言わざるを得ません。ほとんど非現実なまでにカリカチュアライズされた④をこしらえて、その非現実性を叩くというやり方です。本来問題の立て方は、なぜ欧米では一般労働者層には個人査定はないのに、日本では末端に至るまで「毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う」のか?でなければならないはずなのに、そういう疑問が生じないように議論を誘導することで、雇用・賃金システム論を封じ込めてしまっています。
 しかしむしろ問題は、そういう議論の構成であるにも関わらず、つまり日本型は欧米型と変わらず、むしろ欧米よりも欧米型であること(=普遍性)がその「強み」だという議論であるにも関わらず、なぜか世間では欧米型に対する日本型の「強み」を実証した議論だと理解されているという皮肉な事態にあります。
 その背景事情には、青木昌彦企業論における「J企業論」とともに、日本経済の全盛期にその活力の理由を説明する理論として「消費」されたからではないかと思われますが、圧倒的に多くの小池読者たちは、こういう文章を目の前に読みながらその文字通りの意味を理解しようともせず、脳内で勝手に小池理論を上記④の議論だと思い込んでしまい、この壮烈なパラドックスを的確につかまえられていないのではないかと思われるのです。

 さらにその後、1999年に出された『仕事の経済学(第2版)』(東洋経済新報社、1999年)では、その「第13章 基礎理論と段階論」で、30年以上前の宇野マルクス経済学の段階論のロジックを繰り返しています。それによると、まず4つの労働力タイプ論が提示されます。

A 技能がやや高く、時間によっても不変のタイプ(熟練労働者タイプ):
B 技能が低く、時間によっても不変のタイプ(不熟練労働者タイプ)
C 技能が時間によってかなり高まるタイプ(内部昇進タイプ)
D 技能が時間によってやや高まるタイプ(半熟練労働者タイプ)

 これを産業化の2段階論と組み合わせると、こうなります。

(1)クラフトユニオンの時代:AタイプとBタイプが主役、組合が熟練を形成し、職種別賃金率。
(2)産業別組合の時代:CタイプとDタイプが主役。
(3)これをさらに前期と後期に分け、前期はDタイプがやや主役でCタイプは専門管理職的ホワイトカラーにとどまるが、後期はCタイプが生産労働者にも広まる。

 つまり、日本型特殊性論を否定し、それ(「ブルーカラーのホワイトカラー化」)を産業別組合時代後期の一般的性質に解消する議論なのです。しかし、再びその実証的根拠は希薄です。その正否はともかく、宇野マルクス経済学の段階論で一貫している点だけは明らかです。そして、殆どすべての小池読者たちが(表面上の価値判断の片言隻句に囚われて)見落としてきたのもこの理論的一貫性です。
 では現実に存在する各国間の差異を小池氏はどう説明するのでしょうか?

・・・それぞれの発展段階には、それぞれ最も適合した経済や技術の方式があるのみならず、さらに最も適した労働力タイプ、労働組合、労使関係などの社会制度があろう。・・・第1段階が長い間反映すると、それに適合した社会制度が十二分に発達し、深く根を下ろして確立する。第2段階になっても前代の制度があまりに強く確立しているためにその廃棄、従ってその移行コストが高くなりすぎ、第2段階の社会制度の普及がかえって遅れる。
・・・そうじて第2段階の社会制度をより広く十分に確立させたという点で、日本の技能形成制度、労使関係制度は、世界の流れを半歩先んじている。
・・・なお、単なる後発効果の強調ですむなら、後発の国は他に多い。なぜ今のところ日本だけが先んじているのであろうか。恐らく第2段階への移行の時期と、日本の当時の内的発展の高さがうまく適合したのであろう。他の多くの国は第2段階がかなり進んでから産業化に乗り出し、第2段階の先頭を切るには遅すぎた。

 正直言って、本気か?と言いたくなります。あまりにも「常識はずれ」です。もっとも、小池氏はあまりにも宇野マルクス経済学に忠実なので、いかなる社会も同じ道を進歩していくという考え方以外が目に入らないのかも知れません。そういう単線発展論の土俵の上で「日本のふつうの議論は長らく日本の遅れによる、とみてきた。はたしてそうか。」という反論をしているつもりなのでしょう。議論が壮大にすれ違っているわけです。

 ここで、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
 労使関係論とは何でしょうか?一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。
 戦時賃金統制と電産型賃金体系が確立した生活給自体は政治的産物であるので、その合理性を経済学から演繹することはできません。しかし生活給を変形した(厳しい個人査定付き)年功的職能給制度の合理性は経済学的に説明することが可能です。
 いわば、小池理論とは、労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論なのです。

 この労使関係論なき純粋経済学ぶりは、賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも明確に現れています。上記『賃金』(1966年)を見てみましょう。小池氏は、当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論して、こう述べます。

・・・だが、右の議論には納得できない疑問点が数多く見出される。第一に、賃金率の上がり方と決め方が混同され、区別されていない。決め方とは、ここの賃金率を直接規定する方式のことである。・・・これに対して、賃金率が結果としてどのような趨勢をとるかが「上がり方」の問題である。
重要なのは、この二つが全く次元の異なったものだということである。例えば、決め方が職務給でも、上がり方が年齢に応じて上昇することもあり得る。・・・この両者のうち、より一層重要なのは上がり方である。そこに生活がかかっているからである。ところが右の年功賃金論は、この区別を知らない。職務給をとれば上がり方も緩やかになる、と考えている。だが職務給はもともと決め方にすぎないのであって、決め方を変えたからといって、上がり方がそれによって変わるものではない。・・・だから、そもそも上がり方としての年功賃金を、決め方としての職務給と対立させるのがおかしいのであり、両者は両立しうるのである。・・・

 さらっと読むと一見もっともらしく見えますが、生活給とは「上がり方」そのものを「決め方」で規制する仕組みであり、結果としてこういう上がり方になりましたというものではありません。労使関係論者であれば労使の抗争と妥協の中でどういう「ルール」になったかが最大の関心になるはずですが、小池氏にとっては(当事者が決定した)「ルール」よりも「より一層重要なのは」(当事者ではなく外部の観察者が調査しグラフ化して初めてみえてくる)「上がり方」であるという点に、その純粋経済学者としてのスタンスが現れています。
 とりわけトリッキーなのは、「そこに生活がかかっているからである」という台詞です。「そこに生活がかかっているから」こそ、電産型賃金体系は直接に「ルール」でもって「上がり方」を「決め」ようとしたのです。つまり確実に上がるような「決め方」が大事なのであって、労使当事者が決められる「ルール」の外側の経済学者が観察しグラフ化してはじめてみえてくる「上がり方」などに委ねようとはしなかったのです。

 よく知られているように、1969年の『能力主義管理』は、日経連の20年に及ぶ職務給化唱道からの撤退宣言です。「職務」による決定を「職務遂行能力」による決定に「転進」させることで、生活給に由来する年功的「上がり方」を経済学的に合理的なものとして運用することが可能になりました。それゆえそれは運用次第で生活給的な運用にも「能力」を理由とした大きな差のつく運用にもなりえます。「能力」概念の曖昧さが、年功ベースでも経済学的に合理的な運用を可能にするというパラドックスです。それを初めからそのように構築されたかのように説明するのは、歴史感覚の欠如した経済学的思考にすぎません。
 この「能力主義」を経済学的に説明する道具として70-80年代に活用されたのが小池氏の名と共に人口に膾炙した「知的熟練論」です。しかしその原型は『賃金』(1966年)にあるとおり、中小企業と大企業の賃金の上がり方の違いの経済学的に見える説明でした。今ではほとんどの人がその原型を知らずに使っていると思いますが、「知的熟練論」とはこういうものだったのです。

・・・この傾向を素直に解すると、5~10年以上の勤続の意味が、大企業と中小企業とでは、ちがうらしい。大企業では5~10年をこえても勤続年数はなお技能(広い意味での)と相関し、それゆえ賃金も上昇していくのであろう。それに対し中小企業では、それまでは技能とかなり深く相関し、それゆえやはり賃金も上昇していくのだが、それをこえると、もはや技能との相関が浅くなり、そのため賃金も鈍化ないし横ばいとなっていくのではあるまいか。いいかえれば、大企業の労働能力は、10年をこえてもなおより高い職務へと昇りつづけるのに対し、一般的にいって中小企業の労働力は、必要経験年数が5~10年どまりの職務の遂行にとどまっているのではあるまいか。要するに、中年長勤続層における著しい格差は、労働能力の性質のちがいによると推測される。だから労働市場の逼迫によっても、依然格差が残ったのではあるまいか。・・・
では、なぜ中年長勤続層では労働能力の種類のちがいが生じるのだろうか。・・・大企業の機械設備が中小企業に比べ概して巨大で複雑なことを想起する必要がある。・・・大企業の巨大な複雑化した機械体系は、・・・しばしばそうした「知的熟練」を強く要求している。ひとつのスイッチを押すにも、機械体系全体の仕組みについての理解が要求され、そのために関連する多くの職務を遍歴してその「知的熟練」を身につける必要があり、かくして、想像以上に長い経験年数が必要とされる。・・・要するに、中年長勤続層のはなはだしい格差は、おもに労働能力の種類のちがいによるものと考えられる。

 正直な感想を言えば、「あるまいか」の連発のあげくの「知的熟練」という万能の説明であり、笑止千万としか言いようがありません。言うまでもなく、日本には欧米のような企業を超えてその職業能力を認証する仕組みは存在しません。本当に大企業の中高年労働者の能力がその高賃金に見合うだけ高く、中小企業の中高年労働者の能力がその低賃金に見合うだけ低いのかどうかを客観的に測定する物差しは、どこにも存在していないのです。小池氏の説明は、現実に存在する大企業と中小企業の年功カーブの格差を、労働能力の格差を反映しているに違いないと推測しているだけです。存在するものは合理的というヘーゲル的な論理というべきでしょう。

 しかしこの説明の仕方は、後年の『中小企業の熟練』(1981年)でも全く変わっていません。証拠のない仮説のままで。

・・・かくて、労働力の質を強調する仮説が残る。この仮説にとって有利な状況は、大企業は、そこに働くすべての労働者に対して、より高い賃金を払ってはいない、ということである。大企業の仕事をしていても、季節工、社外工、下請、臨時という形で、かなりの人々には、中小企業労働者や不熟練労働者と変わりない賃金が支払われている。本工とホワイトカラーだけが、より高い賃金を支払われているに過ぎない。そして、その人々は、かなり広い範囲の職務を遍歴する内部昇進制の下にある。その内部昇進制が、他のグループとは違った労働力の質を形成しているのではないか、というのである。
・・・この仮説の難点は、労働力の質について経験的研究が乏しく、それを直接支持する証拠が提出されていない、ということである。労働能力それ自体について、統計的資料など存在しない。ごく若干のケースについて細かい観察があるに過ぎない。これはまだ証拠に恵まれない、一つの仮説に過ぎない。ただこの仮説を採ると、他のいくつかの仮説も生きてくる。・・・
・・・大企業と中小企業の労働力の質について、前節で見た規模別賃金格差の実態がまことに示唆的である。労働需給が逼迫して久しい時期にもかなりの格差が残る。残る格差は、製造業ブルーカラーに著しい。・・・これだけの格差があれば、そして需給関係にその原因を求められないとすれば、何らかの労働力の質の差、あるいは労働力タイプの違いとみるのは、けだし当然であろう。

 「労働需給」で説明できない部分は「労働力の質」で説明するしかない、というこの発想!言葉の最も正確な意味で「労使関係論なき純粋経済学」の名に値します。労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論です。そして純粋経済学であるがゆえに、「証拠なき仮説」が平然と通用してしまうのです。

 しかし、「証拠なき仮説」はいかに紙の上の議論としては通用しても、現実社会では企業行動自体によって裏切られてしまいます。上記『日本の雇用システム』(1994年)ではこう高らかに論じているのですが、

・・・しばしば日本の報酬制度は、単に「年功」つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた。職場における能力とは、端的には技能にほかならない。ところが、技能の伸長と報酬との関係はあまり立ち入って吟味されなかった。技能はそれほど長期には伸びないと想定されていたかのように思われる。だが、これまで最も深く技能を吟味した業績によれば、勤続20年を超えて、なお技能は伸び続けるという結果が得られている。・・・知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。この二つは、普通の報酬の方式では促進できない。

 問題は、その「知的熟練」が、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。

・・・では現代日本の解雇の方式に何の問題もないのか。いや、そうではない。通念とは全く逆に、日本の方がコストの高い人たちを解雇しているかも知れないという疑問である。
・・・この日独の差は何を意味するか。中高年の解雇は、本人にとってその損失がはなはだ大きい。 ・・・日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。・・・そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしも、それをまったく知らずに実施しては、失うものが甚だしい。肝心の変化と問題をこなす高い技量の形成を妨げよう。それは、職場で経験をかさね、実際に問題に挑戦して身につける。長期を要する。雇用調整が早すぎると、その長期の見通しを壊してしまいかねない。いったん崩れると、その再建は容易でない。

 何でしょう、この無責任ぶりは。欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が、肝心の中高年の取扱いになると、それがまったくわかっていない愚か者に変身するというのは、あまり説得力のある議論ではありません。
 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音でしょう。
 「職務遂行能力」にせよ「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできません。リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているのです。

 そろそろまとめておきましょう。
 戦後日本の労働政策において、中高年雇用は常に問題であり続けました。高度成長期にはその問題点は極めて明確で、経済的合理性に反する年功賃金制のため、企業が中高年雇用を選好しないためでした。職務給を唱道する経営側だけでなく、生活給を死守しようとした労働側も、問題構造の認識は同じだったのです。それゆえ当時は賃金制度改革が答えでした。「常識」に立脚しつつ「存在するものは(必ずしも)合理的ではない」という非ヘーゲル的認識からの経済学的答案です。
 ところが、小池理論は中高年の高賃金を知的熟練論で論証することにより「存在するものは合理的」にしてしまいました。つまり問題そのものを消去したのです。
 しかし紙の上で問題を消去しても、現実世界の問題は消え失せてくれません。その理論上の「合理性」に反する(不況のたびに繰り返される)企業行動を批判する小池理論は、矛盾を内在するパラドックスになってしまったといえましょう。
 その原因は挙げて、ほとんどすべての当事者たちが共有していた「常識」「通念」に反する理論構成をしたためです。
 「常識」はずれの議論は、いかにアクロバティックな論理展開で人を酔わせても、最後は破綻するのです。

 

 

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日本人は個人として優秀なのか集団として優秀なのか?

これはどちらかというと漫談風のエントリですが、経済産業研究所のサイトの新春特別コラムのとりわけタイトルにとても違和感を感じたので、その違和感のよって来るところをちょっと考えてみたいと思います。

https://www.rieti.go.jp/jp/columns/s18_0006.html (個人では超優秀な日本人が、企業体になるとなぜ世界に負けるのか;日本企業の極めて低い生産性の背景に何があるのか by 岩本晃一)

ところが、超優秀な日本人が大人になり、会社に就職して組織で仕事を始めると、どういう訳かとたんに、アウトプットは貧しくなる。就職した若者は、仕事の手を抜いている訳ではない。毎日夜遅くまで、必死で仕事をしているにも関わらず、組織としてのアウトプットは世界的に見て、極めて低い。いまや日本人の労働生産性の低さは世界的に有名だが、いまだに日本人の多くが日本が世界的に強いと信じ込んでいる「ものづくり」の分野でも、日本人の生産性は先進国のなかで、ほとんどビリに近い(図表1)。一体、日本の企業組織のどこがおかしいのだろうか。先日、ある友人が「うちの会社に入ってくる新人は、入社時は目がきらきらと輝いているが、1年経つと、死んだ魚のような目になる」と言っていた。その表現が必ずしも全ての若者を表現している訳ではないが、一面では真実であろう。・・・

いやいや、ちょっと待ってくれ、日本人は個人では超優秀だって?そして企業体になると世界に負け続けるって?

少なくともバブル崩壊までの日本では、全く逆の言説が世間で主流であったことは、一定年齢以上の人々であればみな覚えているでしょう。

曰く、日本人は個人では諸外国にかなわないが、集団になれば一致団結して頑張るからここまで成長できたんだ云々と。

欧米人は個人主義、日本人は集団主義という、今となってはかなりの程度疑わしい議論も堂々と通用していたその頃は、それと日本経済の強い競争力を絡めたその手の議論が様々な意匠をまといつつ流されていました。

さらには、これは中国人から、「中国人は一人では龍だが、三人だと豚になる」という議論もあって、これは裏返して言うと、「日本人は個人では豚なのに三人だと龍になる」という意味でした。

まあ、個人で行動したがるということと、その個人が成果を出せるということは別ですし、集団で行動したがるということと、その集団が効果を発揮するということは別ですから、安易な議論はすぐ底が抜けるのですが、とはいえ、時代が変わると、かつてどんな議論が流行っていたかが完全に忘れ去られて、全く逆の議論が栄えるという姿を見ると、こういうたぐいの議論にはあんまりかかわらないほうが(後世の見る人の目を意識するのであれば)身のためという気もします。

 

 

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水町さんが集団的労使関係派に?

経営民主ネットワークの『経営民主主義』という雑誌は、私も何回か登場したことがありますが、66号(12月号)では「日本の働き方改革を問う」と題して、水町勇一郎さんを呼んで討論をしています。それを読んでいって、正直水町さんが思った以上に非正規処遇問題の集団的労使関係による解決ということを考えていることが分かりました。

まず最初の問題提起のところで、「労働組合の役割」と題して、こう述べています。

・・・例えば、同一労働同一賃金の実現のためには、正規労働者の意見・利益だけでなく、パートタイム労働者、有期契約労働者、派遣労働者の意見・利益も吸収して、議論を重ねていくことが求められる。

このプロセスは、法的にも重要な意味を持つ。制度を作り上げた後に、裁判所でその制度の適法性が争われた際に、非正規労働者の意見・利益も適切に吸収・反映させながら労使の合意を得て制度を築き上げてきたことは、制度の適法性の判断に大きく貢献する事実となりうる。とりわけ、非正規労働者の多くが労働組合員として組織化されている労働組合と協議・交渉を重ねて合意が得られていることは、待遇の相違が不合理でない(適法である)ことを後押しする重要な事実となるだろう。その意味で、非正規労働者を組織化している労働組合が存在し、その組合と生産的な話し合いを行うことができることは、法的安定性・予見可能性をもって制度の設計と運用をしたい使用者にとっては、極めて重要な意味を持つ。・・・

これはまさに、私が『新しい労働社会』以来繰り返し論じてきたことでありますし、この間の政策決定過程においても、働き方改革実現会議や同一労働同一賃金検討会で岩村さんや神吉さんなどが繰り返し述べていたことなのですが、そういう場で水町さんはどちらかというとそういう集団的労使関係がらみのことにはあまり関心を示さず、司法的解決を中心に見ているのかな、という印象を持ってきました。

も少しいうと、この間の政策決定にもっとも影響を与えた水町さんが、この集団的労使関係による解決に消極的(あるいは少なくともそれほど積極的ではない)ので、結果として法案には(派遣の部分を除き)そういう趣旨の規定は盛り込まれなかったのではないかという印象があったので、この場での発言には正直意外感がありました。

それならもっと早く言ってよ、みたいな。

その後のパネル討論で、小林良暢さんの問いに答えつつこう述べています。

・・・今回の働き方改革がもしかしたら、組合の最後のチャンスかも知れない。実際、労働組合の組織率が17%を切るか切らないかで、このあとさらに組織率が減って、本当に労働者の代表なのかという問題を押しつけられている中で、ここでもう一回盛り返して労働者の代表なんだという方向に持っていく最後のチャンスであるかも知れません。同一労働同一賃金がふたを開けてみると、非正規を代表して非正規労働者の声を反映している組合と使用者が話し合いをし、同意していれば裁判に行って、不合理性を判断するときにプラスに評価されるだろう。

これは正社員組合だと、正社員組合と会社がサインし労働協約とか就業規則変更でサインしたとしても、むしろ自分たちの利益を守るために非正規社員の処遇を低くした合意をしているのではないか。この同一労働同一賃金で、均等均衡とか不合理が裁判になった時に、会社の一番敏感に感じているのは組合問題でなくて、この裁判なんですよ。・・・

いやまさにそうすべきだと言ってきたことをそのまま水町さんが述べていて、全く同感なんですが、だけどそれならなぜ政策プロセスでそういう方向に論じてくれなかったのかな、という思いが。

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兵庫県勤労福祉協会平成29年度 第5回「労働問題研究会」

兵庫県勤労福祉協会の平成29年度 第5回「労働問題研究会」のご案内です。

http://hyogo-roudou.jp/publics/index/1/detail=1/c_id=3/page3=1/type014_3_limit=5/#page1_3_76

Hyougo

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