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2018年1月

2018年1月31日 (水)

小林エリコ『この地獄を生きるのだ』

2887 小林エリコ『この地獄を生きるのだ』(イーストプレス)を、編集担当の方便凌さんよりお送りいただきました。

http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2887

エロ漫画雑誌の編集者として月給12万、社会保険なしのブラック企業で働いた結果、心を病んで自殺未遂。仕事を失い、うつ病と診断され、やがて生活保護を受給することに。社会復帰を目指すも、やる気のない生活保護ケースワーカーに消耗し、患者を食い物にするクリニックの巧妙なビジネスに巻き込まれる。未来の見えない絶望の中、ふたたび巡り合った「漫画の編集」という仕事で運命を拓こうとするが……!? 女一人、「再生」するまでの記録。

いや、これは重い。ここに描かれているのはブラックな労働、ブラックな精神医療、そしてブラックな福祉行政。

初めに出てくるエロ漫画雑誌のブラック企業もブラックなら、統合失調症ではないのにデポ剤を打ち続け、お菓子屋さんで働かせて彼女を宣伝等として利用する悪徳メンタルクリニックもブラック。

そして、なかなか判断に悩むのがパーマさんという赤ら顔の生活保護のケースワーカー。彼女にとっては彼もブラックなんですが、でも福祉をめぐる言説の世界の物差しでいえば、彼はブラックじゃないのです。だって、とても働ける状態になかった彼女に無理やりに就労を強制しようとしたわけではないし、漫画編集という世界で徐々に就労の世界に復帰していき、やがて非常勤雇用の形で働くようになる彼女に対し、その収入を厳格に差し引くのではなく、むしろ生活保護をいつまでも受給できるようにしようとするのですから。

でも、そのことが、それこそが彼女にとってはブラックな福祉行政なのであり、だから彼女は生活保護廃止を「勝ち取る」のです。

・・・「生活保護廃止決定」

確かにそう書いてある。私は震えた。大声で自慢してやりたかった。・・・こんなにうれしい通知をもらったのは短大の合格発表以来の気がする。

やったぞ!私は自力で抜け出した!さんざん働けないといった奴ら!私は自分の食い扶持を稼げるんだぞ!どうだ!

ブラック企業に心をつぶされた人の社会復帰の物語として読むと、非常勤雇用になる前の段階で、心を病んだ漫画家の原作をこれまた心を病んだリライトする漫画家とのやり取りを編集者としてつなぐという役割を彼女がやったことで自信をつけていく姿が感動的です。

 

 

 

2018年1月30日 (火)

パワハラ対策立法化の現状@WEB労政時報

WEB労政時報に「パワハラ対策立法化の現状」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=727

 現在、厚生労働省の「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会」で、パワハラへの具体的な対応策の在り方が議論されています。この検討会は、昨年3月に策定された「働き方改革実行計画」において、「罰則付き時間外労働の上限規制の導入など長時間労働の是正」という節の中の一項目として盛り込まれたことを受け、開催されているものです。
 同計画の中に「労働者が健康に働くための職場環境の整備に必要なことは、労働時間管理の厳格化だけではない。上司や同僚との良好な人間関係づくりを併せて推進する。このため、職場のパワーハラスメント防止を強化するため、政府は労使関係者を交えた場で対策の検討を行う」という文言が入ったのは、その基になった労使合意に盛り込まれたからですが、その背景としては、時間外労働の上限規制を強く後押しした電通の高橋まつりさんの過労自殺事件が、単なる長時間労働による過労自殺というよりも、上司によるパワハラが強く推認される事案だったこともあるように思われます。・・・・

 

 

時間外労働の上限規制@『全国労保連』2018年1月号

Kaihou1801idxlarge『全国労保連』2018年1月号に「時間外労働の上限規制」を寄稿しました。

http://www.rouhoren.or.jp/kaihou1801-large.JPG

 過去2回、「働き方改革実行計画」の諸項目のうち、副業・兼業の問題と雇用型・非雇用型テレワークというやや小ぶりの問題を取り上げてきました。小ぶりとはいえ、法政策上の課題は大きいからです。しかし、いうまでもなく働き方改革の中核に位置し、注目を集めてきたのは同一労働同一賃金と時間外労働の上限規制の2つです。今回はそのうち、企業の日々の事業遂行に直接大きな影響を与える可能性がある時間外労働の上限規制について見ていきます。 ・・・

2018年1月29日 (月)

名古道功『ドイツ労働法の変容』

07629 名古道功さんより大著『ドイツ労働法の変容』(日本評論社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7629.html

日本労働法制に影響を与えてきたドイツ労働法制が戦後、ドイツ社会モデルを基軸としながら、どのように変容しているのかをいくつかの観点から考察する。

目次は下記のとおりですが、第1章と第3章は集団的労使関係にかかわる領域で、JILPTでは山本陽大さんが研究しています。第2章はシュレーダー時代のハルツ改革にかかわる領域です。どちらも、21世紀の労働法改革の方向性を示すものとして注目されてきました。

序章
第1章 横断的労働協約の変容
 第1節 大量失業・グローバリゼーションとドイツ横断的労働協約の「危機」
 第2節 2000年以降の横断的労働協約をめぐる変化
 第3節 ドイツにおける最低生活保障システムの変化——労働協約の機能変化と関連して
第2章 労働市場法改革の動向
 第1節 ドイツ労働市場改革立法の動向と伝統的規制システムの変容
 第2節 ドイツの求職者支援制度
 第3節 ハルツ改革10年の推移と評価
第3章 集団的労働立法・理論の変容
 第1節 1990年以降の労使関係の変化
 第2節 ドイツ集団的労働法理論の変容
 第3節 最近の労働協約立法をめぐる動向
第4章 EU労働法とドイツ労働法
 第1節 EU労働法のドイツ労働法への影響
 第2節 欧州司法裁判所判例の影響
第5章 総括

なんですが、本書の中では比較的地味な第4章が、私にとっては個人的な関心領域とも重なり、興味深く読めました。

とくに、年齢差別禁止にかかわるEU指令がドイツの有期法制や公務員賃金に影響を与えたりしている判例の紹介は、あまりほかの研究者が注目していない分野だけに、にやにやしました。

ただあえて一点だけいうと、このマンゴルド事件ていうのは、そもそも紛争自体がでっちあげの疑いのある事案だったんですね。

 

 

2018年1月27日 (土)

『ビジネス・レーバー・トレンド』1/2月号の座談会全文アップ

201801_02 昨年12月25日に本ブログで紹介した『ビジネス・レーバー・トレンド』1/2月号の座談会が、JILPTのホームページに全文アップされました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/12-8679.html

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2018/01_02/002-017.pdf

Blt_2

司会 いわゆる「日本的雇用システム」は、長期雇用 慣行、年功的処遇制度、企業別労使関係などを特徴と しつつも、社会・経済・産業の大規模な構造変化や産 業技術の革新などに大きく影響され、変容を余儀なく されてきました。一方では、こうした環境変化に対応 した労働政策が立案・実施され、相当数の労働立法に 結実してきました。こうしたなか、JILPTでは、 2014年度から日本的雇用システムの現在の姿と今後 の方向を探るプロジェクトを、部門横断的な基礎的労 働研究として実施してきました。

 今回発刊された、第3期プロジェクト研究シリーズ 『日本的雇用システムのゆくえ』は、既存の統計デー タや当機構で実施した各種の調査・研究を総合的に分 析・検討することによって、日本的雇用システムの現 状を要素ごと、かつ全体的に把握し、その動向や政策 課題を探っています。

 今回の座談会では、この成果を踏まえて、各章での 事実発見などについて、学際的・多角的に検証しつつ、 JILPTで行う研究の意義、また今後の展望及び研究課 題を議論いただくものです。座談会の柱は大きく分け て、①日本的雇用システムの実態の変化、②日本的雇 用システムを研究する意義、③今後の課題――です。 特に、実態の変化については、アジア金融危機および 大手金融機関等の倒産・廃業が相次いだ1997、8年 を大きな節目として、その後、20年の変化について 論じていただければと思います。また、後半では、第 4期(2017年度からの5年間)でも、基礎研究プロジェ クトとして雇用システムの研究を継続することになっ ていますので、その意義などについて議論いただけれ ばと思います。

 では、はじめに同シリーズの実質的な取りまとめ役 をお願いした高橋さんから、議論の開始に当たって、 「日本的雇用システム」の定義や構成要素などについ て、ご説明ください。・・・

(参考)

Cover_no4 JILPT第3期プロジェクト研究シリーズNo.4『日本的雇用システムのゆくえ』

序章 問題設定と概要 高橋康二
第1章 総論─基礎的指標による日本的雇用システムの概観 高橋康二
第2章 若者のキャリア──学校から職業への移行における変化 堀有喜衣
第3章 雇用システムと高年齢者雇用 浅尾裕
第4章 日本的雇用システムと女性のキャリア──管理職昇進を中心に 池田心豪
第5章 雇用ポートフォリオと正社員の賃金管理 荻野登・高橋康二
第6章 日本企業における能力開発キャリア管理 藤本真
第7章 職場におけるキャリア形成支援の動向 下村英雄
補論 高度専門人材の人事管理──個別企業の競争力の視点を中心に 山崎憲・奥田瑛二
終章 結論と次の研究課題 高橋康二

2018年1月26日 (金)

鶴光太郎『性格スキル』

51m0gr88rl__sx313_bo1204203200_鶴光太郎さんから新著『性格スキル 人生を決める5つの能力』(祥伝社新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

さてしかし、『人材覚醒経済』の鶴さんとこの心理学の本みたいなタイトルがあまり合致しないな、と思う方も多いかも知れません。いや、そういえば『人材覚醒経済』の中に「性格スキルの向上」とかいう章があったなあ、と思い出す方もいるでしょう。

実際、私も前著をいただいたとき、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-0c9b.html

・・・上記目次をみて、1章だけやや他と異なる匂いを醸しているのが第7章の「性格スキルの向上--職業人生成功の決め手」というものです。いやこれ、正直言って、鶴さんがなぜ本書にこうして盛り込んだのかよくわからないのですが。

とコメントしていたのですが、この章を膨らませて一冊にしたのが今回の新著ということになります。

最近の研究では、学力や偏差値のような「頭の良さ」(認知スキル)だけでなく、むしろテストでは測れない「性格 スキル」が人生の成功に影響することがわかっている。
成績が悪くても、人生は挽回可能なのだ。
「性格スキル」にはビッグ・ファイブと呼ばれる5つの要素「開放性」「真面目さ」「外向性」「協調性」「精神的安定性」がある。中でも、「真面目さ」は人生のどの側面にも圧倒的に重要だ。
また、「性格スキル」は「認知スキル」に比べ、大人になっても伸ばすことができる。では、このスキルをいかに して鍛えるべきだろうか?
充実した人生を送るための、必読の書。

前著で違和感を感じたのはある意味当然で、ざっくりいって日本型雇用システムの問題点を指摘し、ジョブ型を推奨する前著の文脈に置くと、この性格スキルの話はかなりベクトルが異なっているのです。

冒頭第1章題2節の「就活の成功は何で決まる?」で、とりわけ文科系の就職で、

・・・しかし、人物といっても、具体的にどのような観点をどの程度評価されているのかが、かなり曖昧であることも事実だ。・・・又、企業側もどのような人物を求めているのかについて、そのイメージを明確かつ具体的に示すことは残念ながらあまりない。・・・

・・・また、成績ではなく人物で選ばれないことは、就活生からすれば自分の人間性を否定されたと考えて落ち込むのも無理はない。なぜダメであったかが分からないまま就活を続けることは、精神的に相当苦しいと言える。

というよく言われる状況を、いわば一刀両断する概念として性格スキルを持ち出してくるのです。

・・・こうした就活生の「もやもや」であるが、実は企業は、試験の成績で計ることのできる認知スキルと計ることのできない性格スキルを、職業生活、人生にとってのいずれも重要な要素と捉えているのではないか。そして、就活生に対してバランスよく評価していると考えれば、これまでの「もやもや」が“目から鱗”のように氷解すると思われる。

で、とりわけ文系の場合有名大学の体育会が就活に強いとか、マネージャー経験者が役に立つとかという話を解き明かしていきます。

このあたり、朝井リョウの『何者』の話であるとともに、本ブログの黎明期に、本田由紀さんと労務屋こと荻野勝彦さんの“論争?”したのにコメントしたことが思い出されます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_384b.html(職業能力ってなあに?)

ともに私の深く尊敬する労働関係ブロガーの労務屋さんと本田由紀先生が、経済産業省の社会人基礎力とか言う訳のわからないものをめぐって論争(までいっていないようですが)されているようです。といっても、どっちもこの経産省の妙な代物を評価しているというわけではなく、労務屋さんの「新卒採用は官能的な要素」という言葉に、本田先生が大変カチンときたということのようであります。・・・

10年以上も昔の回想から現代に戻って、鶴さん、この性格スキル、とりわけビッグファイブと呼ばれる開放性、真面目さ、外向性、協調性、精神的安定性が人生の成功にいかに大事かを論じていきます。

だけど、もちろん『人材覚醒経済』の鶴さん、それだけでは終わりません。本ブログの読者にとって、一番興味深いであろうところが、第4章題3節の「日本的雇用システムにおける性格スキルの位置づけ」です。

日本型雇用システムの特徴を簡単に説明した上で、OJTと転勤の持つ意味をこう説き明かしていきます。

・・・OJTも単に仕事を覚えるだけではなく、特に、若手を鍛えながら、性格スキルを伸ばすプロセスも多分に含まれていたと考えられる。・・・日本的雇用システムの文脈でOJTを語る場合、通常、その企業でしか生かすことのできない企業特殊的なスキルへの投資を促進することが強調されてきた。・・・

・・・しかし、・・・長期雇用を前提としたメンバーシップ型の雇用システムの中では、企業特殊的なスキルがメインであり重要であると勝手に思い込んで、それを前提に議論されていたふしもあるようだ。

一方、OJTで鍛えられた性格スキルは、当該企業だけでなく、他の企業で働く場合でも役立つスキルである。性格スキルを鍛えるという立場からは、OJTの重要性はむしろ依然として高いと言える。

この認識は私も同感です。そもそも企業は自らの言葉では「職務遂行能力」というやや曖昧ながら決して企業特殊的ニュアンスのあるわけではない言葉で表現してきているわけで、それを経済学者が勝手に(自分たちに理解しやすい概念で)企業特殊的スキルとか言ってきただけだと思います。

しかし、この認識は実はなかなか「しんどい」ところがあります。というのは、今働き方改革でそれこそ改革の標的になっている長時間労働とか転勤とかがまさにこのOJTによる性格スキルの向上の最適の舞台装置であったからです。

実際、鶴さんの口からこういう台詞が出てくると、なかなか複雑なものがあります。

・・・それは、長時間労働が若手を鍛えるという側面もあったからだ。精神的・肉体的にギリギリのところに追い込まれる中で責任を持ってやり遂げることがやはり、性格スキルの「真面目さ」の範疇に入る力を伸ばし、自分自身も「一皮むける」経験をしてきたという自負もあるのだろう。・・・

たとえば、「明日の朝までにこの仕事を仕上げてくれ」と部下に命令する。かつては若手を鍛える常套手段であった。急に言われても動揺せず、哲也をしても諦めず、やり遂げられる力を養うという意味合いがあったように思われる。・・・

もちろん、鶴さん自身も旗を振ってきた働き方改革の要請と、これはなかなか相性が良くありません。

・・・それに加え、近年ではブラック企業とかパワハラという言葉が、そうした傾向に拍車を掛けているようだ。若手、部下の性格スキルを鍛えることを念頭に置いても、それが安易にパワハラと解釈される可能性もあるので、上司もそういう指導はやめておいた方が無難だと思っても不思議ではない。・・・

ということで、この節の最後のパラグラフは、こういう新聞記事みたいな感じになるのですが・・・。

・・・ただ、長時間労働や転勤を否定するだけで、他は何も変えないのであれば、それに付随していたメリットも同時に流されてしまう。まさに「産湯とともに赤子を流す」がごとしになってしまう。転勤や長時間労働に頼らずに、企業の中でどう性格スキルを伸ばしていくのか、企業の人事部は大きな課題を突きつけられていると言えよう。

人によっては、火をつけておいてそれかよ、という感想もあるかも知れません。

実はその次の第4節「性格スキルを鍛える職業教育・訓練」では、ドイツ式のデュアルシステムを紹介しています。デュアルはドイツ式ですが、より一般的にはアプレンティスシップとかインターンシップとかという形で、企業に正規に就職する前の段階で職業スキルとともにまさに本書で言う性格スキルを身につける訓練がされているのが欧米諸国であり、それゆえに、とりわけフランスなんかではインターンシップの悪用が人権問題として政策課題になったりするわけですね。日本のブラック企業問題が一段階ずれてしかし本質的には同じような形で起こっているとも言えるわけです。

このあたり、やはり考えれば考えるほど難しい問題が出てきます。

あと、本書が面白いのは所々に鶴さんの肉声が垣間見えることでしょう。小学校時代の遠山啓の『数学入門』との巡り逢いから数学を志し、東大数学科に入った鶴さんを待っていたのは

それまで経験したことのない「異次元の世界」であった。子どもの頃から「伝説」の1つや2つがあるような大天才が集まっていて、熱心に数学を語る姿は自分の理解を超えて「宇宙人」をみているようであった。

そこから人生の方向を転換し、官庁エコノミストを目指す・・・・・。

東京の最低賃金958円@『労務事情』

Romujijo_2018_02_01 『労務事情』2月1日号の「気になる数字」に「東京の最低賃金958円」を寄稿しました。

今回の気になる数字は統計数値ではなく、法律に基づく最低賃金額そのものです。本誌の読者であれば周知の数値です。この958円という数値自体というよりも、過去10年余りにわたってそれが急激に上昇してきたこと、そしてそれがさらに続くであろうことが「気になる」のです。まず今世紀初頭以来の全国最高の東京都と全国最低の沖縄県と全国加重平均の推移を確認しておきましょう。 ・・・・

2018年1月25日 (木)

『日本労働研究雑誌』 2018年特別号(No.691)

691_special 『日本労働研究雑誌』 2018年特別号(No.691)は、例によって昨年6月に開かれた労働政策研究会議の特集号です。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/special/index.html

パネルディスカッションのテーマは「非正規社員の処遇をめぐる政策課題」で、下記4人がパネラー。

非正規雇用の雇用保障法理および処遇格差是正法理の正当化根拠をめぐる一考察 大木正俊(姫路獨協大学准教授)
非正規雇用と正規雇用の格差─女性・若年の人的資本拡充のための施策について 永 伸子(お茶の水女子大学教授)
日本の労働市場の変質と非正規雇用の増加─同一労働同一賃金をめぐって 樋口美雄(慶応義塾大学教授)
非正規雇用者の組織化と発言効果─事例調査とアンケート調査による分析 前浦穂高(JILPT副主任研究員)

パネルディスカッションの様子は、JILPTの鎌倉哲史さんがまとめています。

www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/special/pdf/003-009.pdf

これと、会議に参加された労務屋さんこと荻野勝彦さんのブログ記事を読み比べてみるのも一興かもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20170626#p1

やはり興味深いのは、最後近くでの大内伸哉さんと樋口美雄さんのやり取りかもしれません。鎌倉さんのまとめと労務屋さんのまとめで見ると、

ここで,司会の永野氏が最後の質問者をフロアから 募ったところ,大内氏から4点,本ディスカッション 全体に関するコメントがなされた。すなわち,(1)「非正社員」という言葉が漠然としているために「雰囲気 の議論」に陥りがちである,(2)労働契約法第20条の 立法趣旨は非正社員の処遇向上だけを念頭に置いてい るが,本来は正社員の処遇にも目を向ける必要があ る,(3)同条文の「不合理」が何を指すのかが全くわ からないため,大木報告でも見られた通り契約の自由 の過度の制約になってしまう懸念がある,(4)現在の 同一労働・同一賃金の議論は結局は賃金論であるが, 賃金はそもそも労使交渉で決まるものなので政策的介 入を行うには立証責任,正当化の根拠が必要となる, の4点である。

この大内氏のコメントを受けて樋口氏からは,上記 (4)の賃金決定がもともと労使交渉だけが独立して決 めるべきものという点は誤りであり,経済成長による 外部労働市場の影響を受け,さらにはステークホル ダーとしての株主の意向も無視できるものではない, との指摘がなされた。その上で,この賃金決定のプロ セスに関するガバナンスの議論は1990年代以降変化 しつつあり,その中で労使交渉の位置づけをどう考え ていくかがポイントとなる,との認識が示された。加 えて,(1)の正規,非正規,という議論の軸は我が国 の労働市場の持つ二重構造的視点がクローズアップさ れている結果かもしれず,その根本的な原因はどこに あるのかといった観点,たとえば企業が長期的な人材 活用の視点から短期的な利益の追求へとスタンスを変 化させているといった視点から,政策議論を深めてい くべきであるとの指摘もなされた。

樋口氏の指摘を受けて大内氏からは,賃金は確かに 労使の当事者だけで決められるわけではないが,そこ に法的介入を行って「正しい」賃金水準をどうやって 示していけるのか,その説得的な説明のための基準が 示されることが望ましい,との認識が示された。 最後に司会の永野氏から,今回の4名のパネリスト はディシプリンが異なり,したがって当然意見も異 なっているが,こうした学際的な議論を行えるのが本 学会の利点でもあり,その意味で刺激に富む良い議論 であったと総括がなされ,パネルディスカッションは 終了した。

この「ディシプリンが異なり,したがって当然意見も異 なっている」の中身が世間の常識と逆転していることについては、労務屋さん曰く

もうひとつは、やはり大木先生の問題提起についての議論が盛り上がったわけですが、神戸大学の大内伸哉先生が来場しておられ、「労使間の課題解決については対等性を確保した上での労使の取り組みによるのが原則であり、契約自由や労使自治への法の介入は謙抑的であるべき」とのご持論を強い口調で述べられたのに対し、樋口先生が「その議論は前提が誤っている。この間の大きな変化として企業経営者が株主の意向を強く意識せざるを得なくなっており、労使自治での取り組みでは限界があるので政府の介入が必要」との趣旨をやはりかなり強い口調で述べられるという一幕がありました。大内先生は「それは認めるとしてもなお法の介入には慎重さが求められる」と述べられてその場は収まりましたが、しかし通常であれば社会的課題に対して、法学者は規制や法制度での対応を主に考え、経済学者は市場による解決をまず考えるはずなので、今回はそれが完全に逆転していたことは多くの参加者の関心をひいていたようでした(樋口先生ご自身も帰り際にそんなことを言われていたと記憶)。

まあ、大内さんは世の労働法学者の中ではだいぶ(価値判断抜きの事実認識として)中心を外れているという意味においてエクセントリックではあるので、これをもって労働法学者と労働経済学者の立ち位置の逆転現象というのはやや早とちりの弊がありますが、そもそもパネリストの大木さんも、まさに大内さんと同様、労働契約法や同一労働同一賃金に対してきわめて懐疑的なスタンスなので、やはりディシプリンの逆転現象ではあるのでしょう。

雑誌では、第1分科会の

海外や日本におけるクラウドワーカーの現状や課題─新しいワーキングプアや貧困・格差の拡大を防ぐ対策の実施を 金明中(ニッセイ基礎研究所准主任研究員)
連合(日本労働組合総連合会)は何をしているのか─比較労使関係研究の分析枠組み再考にむけて 篠田徹(早稲田大学教授)
IIRA創立50年を振り返って 花見忠(上智大学名誉教授、IIRA前会長)

はそれぞれ1ページ弱の要約になっていますが、少なくとも金さんのクラウドワーク論と篠田さんの連合批判は全文読みたかったという感があります。

というわけで、雑誌の要約よりは臨場感のある労務屋さんの報告はこちら、

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20170619#p1

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20170620#p1

 

 

 

 

佐藤英善編著『公務員制度改革という時代』

05078_2佐藤英善編著『公務員制度改革という時代』(敬文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。「自治総研叢書」ということで、自治労のシンクタンクである自治総研の研究成果です。

http://keibundo.com/0711_05-078.htm

2014年の国家公務員法等改正法成立まで20年近くに及んだ公務員制度改革の議論。怒涛のなかで何が実現し、何が潰え去ったのか。潰え去った重要な論点を、歴史の波間に消え去らしてはならない。今後の改革のために「公務員制度改革という時代」の論点と課題を明らかにする。

目次は次の通りで、21世紀に入ってからの推移を大きく3つの時期に分けて主なトピックを論じています。

第1期 公務員制度改革大綱―公務員制度調査会と行政改革会議
 第1章 公務員制度の基本理念と改革大綱の問題点 佐藤 英善
 第2章 中央人事行政機関論 稲葉  馨
 第3章 政治任用 武藤 博己
 第4章 天下り再考 西尾  隆
 第5章 公務員の労働基本権問題再訪 清水  敏
 第6章 ドイツ公務員制度の動向―ラウフバーン、給与・賃金制度を中心として― 奈良間貴洋
 第7章 韓国における公務員団体協約締結権の仕組みと運用状況 申  龍徹
第2期 国家公務員制度改革基本法
 第8章 公務員制度改革に係る「工程表」と決定に至る経過について―内閣人事・行政管理局(仮称)への機能移管を中心に― 上林 陽治
 第9章 政官関係と公務員制度改革 武藤 博己
第3期 国家公務員法等改正法案の国会上程
 第10章 公務員制度改革関連法案と人事行政組織の再編 稲葉  馨
 第11章 公務における勤務条件決定システムの転換―その意義と課題 清水  敏
 第12章 公務員制度改革と幹部職員の一元管理 武藤 博己
 第13章 「地方公務員の労働関係に関する法律案」の内容と課題 小川  正
 第14章 2014年の国家公務員制度改革関連法について 稲葉  馨
 第15章 国家公務員制度改革をめぐる動向―1990年代半ばから基本法案成立まで 鎌田  司
 第16章 「失われた15年」となる公務員制度改革―民主党政権下の公務員制度改革をめぐる動向を中心として―  岩岬  修

いうまでもなく、話の中心は労働基本権問題を軸にした集団的労使関係の在り方なんですが、改めて話の始まりから読み返してみると、そもそも終戦直後にアメリカの強い影響下で導入された職階制というまさにアメリカ直輸入のジョブ型の制度が、その後数十年間にわたって完全に骨抜きにされ、それに対する批判として21世紀初めという段階になって颯爽と登場してきたのが、民間部門では既に90年代に批判されるようになっていた「能力等級制」という名の職能制であった、というこのずれずれぶりが、この10数年の公務員制度改革論のそもそもの入口からのボタンの掛け違いを象徴していたようにも思われます。

2018年1月24日 (水)

『POSSE』37号

9784909237156_600_2 というわけで、「POSSE』37号が届きました。

www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237156

第一特集の「これまでの10年、これからの10年」では、貧困運動から藤田孝典、、稲葉剛のお二人のインタビューに続いて、なぜか労働関係からはわたくしが10年の回想役になっています。

◆第一特集「これまでの10年、これからの10年」
労働運動と貧困運動の連携と発展
これまでの10年をふりかえりながら
藤田孝典(NPO法人ほっとプラス代表理事)

貧困の現場から社会を変えていくために
反貧困運動10年の成果と変節
稲葉剛(つくろい東京ファンド代表理事)

『POSSE』10年の功績と、次の時代に期待する役割
ブラック企業とAI時代の運動戦略
濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構労働政策研究所長)

わたくしがお話したのは、見出しでいうとこんなことですが、

『POSSE』と創り上げてきたブラック企業言説
AI時代にジョブ型戦略は通用するのか?
『POSSE』に期待するのは、変容する労働現場からの発信

そのブラック企業言説に関しては、こんなことをしゃべっています。

―『POSSE』が発信してきたなかでも、もっとも社会に受け入れられた言説として象徴的なのが「ブラック企業」です。
 
 ブラック企業だって、最初にネットに出てきたときは苦しむ労働者の「叫び」に過ぎなかった。『POSSE』がその「叫び」を理論的に整理して打ち出したのは非常に画期的だったと思います。そして私自身も含めて、さまざまな人がブラック企業について論じるなかで徐々にそれが社会的な言説として認知されてきました。
 いまから見ると、ブラック企業を初めて特集した『POSSE』9号はいろいろな人がいろいろなことを言うなかでブラック企業という概念が練り上げられていく、そのプロセスが載っていて面白いなと思います。同じ号の記事には「ブラック会社」という言葉も出てきますし、その前段階の「周辺的正社員」という概念も使われている。まさにこの頃はブラック企業という言説の形成期なのでしょうね。この号では私も「これからの「労働」の話をしよう」という対談記事でブラック企業について論じました。このタイトルは、時代に寄り添って影響を与えようとしたぶん、古びてしまっていますね(笑)。

今号の注目は常見陽平さんの新連載ですが、タイトルがなかなか・・・。

◆新連載
スポーツとブラック企業
第1回 貴ノ岩になりたくない営業マン、出会う部下すべて狂わせる日馬富士営業部長
常見陽平(人材コンサルタント)

常見さん曰く、「大相撲とは、企業の営業現場のようなものである」

え?どういうこと?

・・・この一連の騒動を見て、私は約20年前の新人営業マン時代を思い出してしまった。

今ならパワハラそのものだが、上司や先輩による恫喝が日常化していた。営業会議や宴会の席でも、営業姿勢や態度に対する厳しい指導が日常的に行われていた。年次の差はマリアナ海溝よりも深かった。私の課にはいなかったが、机を蹴るもの,灰皿を投げる者もいた。

・・・大相撲にしろ、営業の世界にしろ、暴力やそれに近いものが容認されてしまうのは、「それくらい当たり前」という論理である。もっともその「当たり前」は妥当だったのか、問い直す必要があるだろう。

大相撲を国技として、営業を仕事として成立させるためにも、「これくらい当たり前」を問い直すことが必要だ。・・・

さすが常見さん、大相撲の世界をまるごとモーレツ営業部に投影しちゃってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年1月23日 (火)

リベサヨの対偶はソシウヨ

一昨日の西部邁氏の訃報に接しての過去エントリ蔵出しは、主としてかつてのアカデミックだった時代の西部氏を思い起こすというものでしたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-c5df.html(西部邁氏について)

一方で、その後の、とりわけ新自由主義的な風潮が『正論』界隈でも主流化していった90年代後半以後におけるその論壇における立ち位置に何らかの意味で関わるエントリも、本ブログの過去ログにはいくつかあるので、せっかくなのでいくつか発掘しておきましょう。必ずしも西部氏が主役ではなく、話のついでみたいに出てくるだけではあるのですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e470.html(ソシウヨの時代?)

・・・縦軸にリベとソシをとり、横軸にウヨとサヨをとると、計4つの象限が得られますが、そのうちこれまでの日本で一番論者が少なくて市場としてニッチが狙えるのはソシウヨですからね。

まあ、西部邁氏を取り巻く人々はある意味でその一角を占めていたといえるのですが、いささか高邁な議論になりすぎるところがあり、むくつけなまでに劣情を刺激するようなイデオロギー操作にはリラクタントな風情がありましたが、このムックはそこはスコッと抜けていて、何でもありの感じですな。

「21世紀大恐慌は資本主義の崩壊か」とか「金融大恐慌が証明した小泉=竹中路線の大罪」とかタイトルだけ見ると、『情況』かという感じですが、その後に控えるのは「経済ナショナリズムが日本を救う」ですからね。両方に文章を寄せているのが経済産業省の中野剛志氏ですが、気分は商工省の革新官僚ですか。

興味深いのは、「超格差社会と昭和維新」という昭和初期の話がでてきていることで、これは本ブログでも取り上げましたが、まさにソシウヨが勝利した典型的な事例であるわけで、この筆者は現代日本でもそれをやろうと思っているわけですが、それはいささか問題ではないかと思う人々にとっても、等しく学ぶべき歴史の教訓であることは間違いないと思いますよ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-b7d1.html(ソシウヨの極北?)

本日の産経新聞の正論欄は、何ともはやすさまじい「正論」であります。時々載るソシウヨ系といへばさうなんでせうが、西部邁、佐伯啓思といつたアカデミズムの香り漂ふ方々とはひと味ふた味、いや何味も違う味はひがございますよ。

>≪蔓延る賤民資本主義≫

 強欲資本主義が世界を横行してゐる。悪(あく)の野蠻國(やばんこく)が三つある。

 米國、ロシヤ、シナ。

 三者に共通する野蠻は、他者を際限なく貪(むさぼ)る者を野放しにしてゐる點(てん)にある。これでは、世界は修羅(しゅら)の巷(ちまた)になるほかない。

 「金儲(もう)けは悪いことですか?」と問ふた人が居た。

 悪事に決つてゐるではないか。

 それが目的なら。それがけじめを辨(わきま)へぬなら。

この辺は、表現に違和感を感じつつも「さうだ、さうだ」と思はれる方々も多からうと思ひますが、

>日本は天皇家を宗家とする家中心の安定した社會構造を持つてゐた。それを、占領軍が民法を長子相續(そうぞく)から均分相續に變(か)へた。

 それ以來、家も近隣社會も國民共同體もばらばらに分解した。そこへ慾惚(よくぼ)けと邪魔臭がりに基くやらずぶつたくりの利己主義が蔓延して、今や野蠻國に退化しつつある。

>曾(かつ)て素晴しい共存共榮(きょうえい)の社會を築いた大和民族がかうまで墮落(だらく)した姿を見るにつけ、私は「死んでも死に切れぬ」思ひを禁じ得ない。

 美と崇高への獻身(けんしん)、謙虚で強くて慈愛に満ちてゐたあの立派な日本と日本國民は何處(どこ)へ行つた?

 みそぎによる浄化が必要だと思ふ。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)による國民精神の再生が不可欠だと思へてならない。それが日本だけでなく、世界をも救ふ筈である。

と、かう来ますと、をいをい、といふ感じになるのではないでせうか。

で、最後が、

>日本は、慾惚けと邪魔臭がりと引籠りから脱却し、生きる歡びに目覺めるべき秋である。物的欲望は最小限に抑へ、仲間との絆(きずな)に基く聯帯(れんたい)と心の豐かさを求めるべき秋である。

と、「連帯」と「心の豊かさ」の清貧主義といふオチでありますか。ロハスの香りもそこはかとなく漂ふ感じであります。ソシウヨの極北は、リベサヨの極北と見事に一致するやうでありますな。

2018年1月22日 (月)

え、連合って、関東連合ですか?ヤバくないですか?

20180102_cover_l依然として政治ネタでばかり連合の名前が新聞に出てくる昨今ですが、『月刊連合』1/2月号が届きました。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

巻頭は〈新春対談〉パラリンピックを全力応援!ですが、読んで大変面白かったのは「新春座談会 初の女性会長誕生 ─ 地域からの新しい風 ─」で、奈良と宮崎で地方連合に女性会長が誕生したということで、両会長を呼んでの座談会です。

今期、地方連合会で初となる女性会長が相次いで誕生した。連合奈良の西田一美会長、連合宮崎の中川育江会長だ。地元メディアは「連合の新時代を拓く」存在として大きく取り上げ、連日その動向を追いかけている模様。当の両会長は、「初」の意義をどう受け止め、地域でどんな運動をめざすのか。同じく今期就任の相原康伸事務局長を交え、井上久美枝総合男女・雇用平等局長の進行で座談会を企画した。

奈良の西田さんは村役場出身の自治労、宮崎の中川さんは旭化成出身のゼンセンと、女性会長を出すにふさわしい産別からですね。

と、いろいろな記事が並んでいるのですが、思わず絶句したのが、最近大活躍の常見陽平さんの新連載。

新連載
View Point #クラシノソコアゲ[1]
常見陽平 千葉商科大学国際教養学部専任講師/働き方評論家

はじめのあたりで、学生さんのこういう発言が出てきて、

「え、連合って、関東連合ですか?ヤバくないですか?」

常見さん曰く、

・・・サンプル数1の話ではあるが、この学生にとってはナショナルセンターの連合よりも、「半グレ」と呼ばれた関東連合の方が有名だったということだ。

・・・小遣いや仕送りも減り、学生は経済的にも苦しくなっている。若者を使い潰す「ブラックバイト」も社会問題化している。この弱い立場の学生にとって、労働者、市民の味方である連合が、半グレ集団ほど知名度がないというのはどういうことだろう。

むむむむむ・・・。

在宅ワークガイドラインから自営型テレワークガイドラインへ@『労基旬報』2018年1月25日号

『労基旬報』2018年1月25日号に「在宅ワークガイドラインから自営型テレワークガイドラインへ」を寄稿しました。

 昨2017年12月25日、厚生労働省の柔軟な働き方に関する検討会は報告をまとめるとともに、「情報通信技術を利用した事業場外勤務の適切な導入及び実施のためのガイドライン」「自営型テレワークの適正な実施のためのガイドライン」「副業・兼業の促進に関するガイドライン」の案を示しました。今回はこのうち二番目の自営型テレワークガイドラインの経緯と内容を見ていきたいと思います。これは現行の「在宅ワークの適正な実施のためのガイドライン」を大幅に改定するものですが、この在宅ワークガイドラインはそもそもどういうものなのでしょうか。

 雇用によらず請負や委託によって自宅で作業する働き方(内職)は昔から存在します。1970年に制定された家内労働法は、そうした働き方をする人々を「家内労働者」と呼び、最低工賃や安全衛生規制などを講じました。同法は今も生きていますが、家内労働者は激減しました。というのは、同法では家内労働者を「物品の製造又は加工等に従事する者」と定義しているからです。1990年代以降激増した情報通信機器を利用してサービスの提供を行う在宅就業は対象外でした。そこで労働省は2000年に、在宅就労問題研究会の報告に基づき、労働省女性局長名の通達として「在宅ワークの適正な実施のためのガイドライン」を策定しました。これは2010年に若干の改正がされています。

 今回の大改訂は、直接的には2017年3月の『働き方改革実行計画』に「非雇用型テレワークのガイドライン刷新と働き手への支援」が盛り込まれたことを受けたものですが、その実質的内容は既に厚労省サイドの検討会で示されていたものです。ただし、厚労省自身が設置したものではなく、その委託事業たる在宅就業者総合支援事業により設けられた今後の在宅就業施策の在り方に関する検討会(座長:鎌田耕一)が2016年3月にまとめた報告書なので、あまり知られていないようです。

 同研究会はそれに先立つ2015年3月の報告書で、家内労働のように厳格な最低工賃の仕組みは適当ではなく、安全衛生確保規定をそのまま適用することもできないとする一方、在宅就業者と発注者の間や、仲介機関を介する三者構成であることに起因するトラブル、報酬額の決定に関する問題を指摘し、家内労働法を抜本的に改正することにより、契約上の課題や秘密保持に関する規定等を盛り込んだ立法措置を講じることも考えられるとしていました。しかし、在宅ではない請負等、在宅就業と類似の課題が存在する可能性がある就業形態が存在する中で、在宅就業についてのみ施策を講じることについて整理がされていないとして、「将来的に必要な課題ではあるが、現時点では機が熟しているとはいえない」と否定的でした。この点については、『働き方改革実行計画』で、「雇用類似の働き方」全般について「法的保護の必要性を中長期的課題として検討する」ことが求められたことから、厚労省は別途2017年10月に「雇用類似の働き方に関する検討会」を設置して議論を開始したところです。

 それに対して、2016年3月の報告書は具体的な在宅ワークガイドラインの見直しを議論し、現行ガイドラインが注文者と在宅ワーカーの二者構成を基本とし、仲介機関は注文者に含まれると整理しているのを維持しつつ、委託型、純粋紹介型に分けて仲介機関についての規定を設けることや、契約条件の変更、成果物が不完全な場合の取扱い(補修、損害賠償請求)、知的財産権の取扱い、秘密保持義務と個人情報の取扱、報酬の支払期日・報酬額、納期、解除等について、具体的な見直し案を提示しました。今回の柔軟な働き方に関する検討会報告は、ほぼその方向でガイドライン案を提示しています。名称が「在宅ワーク」から「自営型テレワーク」となっているのは、家内労働法の延長線上から個人請負型就労形態全般を対象としていく姿勢の変化を表しています。以下、新ガイドラインの概要を見ていきましょう。

 新ガイドラインは「仲介事業者」を、①他者から業務の委託を受け、当該業務に関する仕事を自営型テレワーカーに注文する行為を業として行う者、②自営型テレワーカーと注文者との間で、自営型テレワークの業務のあっせんを業として行う者、③インターネットを介して注文者と受注者が直接仕事の受発注を行うことができるサービス(いわゆる「クラウドソーシング」)を業として運営している者と定義しています。そして、旧ガイドラインが契約条件の文書明示とその保存から始まっていたのに対し、その前段階として募集内容の明示と、その際に留意すべき事項を詳しく規定しています。クラウドワークでは、応募された複数の提案から採用案を選び報酬を支払ういわゆるコンペ式が見られることから、その旨の明示や、採用に至らなかった提案の知的財産権を提案者に無断で公開・使用しないこと、さらには採用された提案の応募者に対して納品後の成果物の大幅な修正を指示するなどは望ましくないことまでが記述されています。

 その他報酬額や契約条件の変更など各項目で記述が詳しくなっていますが、一点注目しておきたいのは「契約解除」という新たな項目です。労働者ではないので解雇権濫用法理が適用されないことを前提としつつ、「契約違反等がない場合に、注文者が任意で契約を解除する場合は、注文者は、契約解除により自営型テレワーカーに生じた損害の賠償が必要となること」とか「継続的な取引関係にある注文者は、自営型テレワーカーへの注文を打ち切ろうとするときは、速やかに、その旨及びその理由を予告すること」を求めています。

 さてしかし、改定されてもガイドラインは所詮通達に過ぎず、法的効力を有するものではありません。今後雇用類似の働き方が社会の中で大きな割合を占めていくことになれば、もう一つの検討会で議論されている「法的保護の必要性を中長期的課題として検討する」ことの重要性が高まっていきます。今回のガイドラインは一里塚に過ぎず、この問題は今後さらなる注目が必要な領域です。

永野・長谷川・富永編『詳説 障害者雇用促進法 <増補補正版>』

341802永野仁美、長谷川珠子、富永晃一編『詳説 障害者雇用促進法 <増補補正版> 新たな平等社会の実現に向けて』(弘文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.koubundou.co.jp/book/b341802.html

・・・平成30年4月には〈精神障害者の雇用義務化〉がいよいよ施行。精神障害者の雇用の実現・実施は、事業者にとり一層大きな関心事となります。この増補補正版では、全体にわたり初版刊行後の動向を反映させつつ、新章である第7章において、平成25年改正が障害者雇用にどのような影響を与えたのかを検討したうえで、施行目前の〈精神障害者の雇用義務化〉を解説しています。もちろん、平成28年施行以後の多数の最新裁判例もフォロー。関係者必携の最新版です。

初版をいただいたのがちょうど2年前ですが、今回の増補補正版は第7章がまるまる増えていて、やはり目前に迫った精神障害者の雇用義務化が世の中に大きなインパクトを与えていることがわかります。

第7章 障害者雇用の動向と精神障害者の雇用義務化
 第1節 近年の障害者雇用の推移
 第2節 裁判例の状況(補足)
 第3節 法定雇用率の引上げに関する議論
 第4節 精神障害者の雇用

このうち、長谷川さんの執筆になる第3節では、雇用義務制度の今後という項で、今後検討すべき論点を次のように示しています。

第1に、障害者手帳を所持し、かつ、就労が可能と考えられる障害者の人数との関係で、法定雇用率は何%まで引上げが可能であるのかを明らかにした上で、今後実雇用率が上がり続けたときに納付金制度が維持できるのかを検討すべきであろう。

第2に、雇用義務制度が、就労の困難さの実態を反映したものとなっているのかを検証する必要がある。・・・

第3に、ダブルカウントやハーフカウントの在り方も見直されるべきであろう。・・・

第4に、福祉的就労との接続の在り方についても問題となる。・・・

最後に、上記で挙げた課題とは異なり、雇用義務制度の射程に収まりきる問題ではないが、雇用義務制度の対象をがん患者等の疾病を抱える者にも広げるべきかどうか、さらには、傷害や疾病とは異なる原因によって就労上の困難さを抱える者(シングルマザーや元受刑者等)も対象としていくべきか等も、将来的な検討課題として挙げられる。

2018年1月21日 (日)

西部邁氏について

西部邁氏が入水自殺したと報じられています。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25960240R20C18A1000000/

96958a9f889de0e7ebe4e2e0e6e2e0e3e2e 21日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布5の多摩川で、評論家の西部邁さん(78)の長男が「父が川に飛び込んだ」と110番通報した。西部さんは約2時間後に搬送先の病院で死亡が確認された。近くに遺書が残っており、警視庁田園調布署は自殺とみて経緯を調べる。・・・

おそらく多くの人にとっては、舛添要一氏と並んで朝まで生テレビで吠えている姿で記憶されているでしょうが、本ブログでも彼の議論を何回か取り上げたことがあります。

この機会に、かつて彼を取り上げたエントリを再度掲載して、心ばかりの哀悼の意を表したいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_e775.html (西部邁氏の正論)

久しぶりにまた「正論」欄に載った正論を紹介します。今度は保守派論壇の重鎮西部邁氏です。

http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070808/srn070808000.htm

参院選結果の評論なのですが、「カイカクに終止符を打て」というメッセージ。

>過ぐる参院選で自民党が大敗した真因は何か。
>その答えは、多くの選挙民が日本国家の現状に、漠たるものとはいえ根強い不平不満を、抱きはじめているということ以外ではありえない。
>小泉改革を頂点とする平成改革は、富者と貧者、大集団と小集団そして中央と地方それぞれのあいだに(国柄から外れているという意味で、過剰な)格差を、少なくともその感覚を、国民意識にもたらした。その被格差感は「公正と安定」から程遠いのが日本国家の現況なのではないか、との疑念をこの列島の津々浦々にまで広めた。
>安倍首相は「構造改革に疑義あり、平成改革は軌道修正さるべし」と、(おそらくは)本心を表明すべきではなかったのか。
>しかし「小泉継承」の立場にいた安倍首相には、平成の構造改革に対決する気力が乏しく、準備も足りなかった。
>かつて小沢一郎氏は「国民は自己責任で生活せよ、“小さな政府”へ向けてカイカクを断行せよ」と叫んでいた。その民主党代表が、今度の選挙では「生活が第一」と宣うていた。カイカクの“弊害”を減らすべく励んでいる安倍首相が、選挙となれば「カイカク断行」と叫ばざるをえなかった。

このへんは、西部氏の身びいきもあるとしても、そんなにポイントを外れてはいないと思われます。私もこのブログで、「安倍政権はソーシャルか?」と問うてみたこともありますが、再チャレンジ政策といった形で打ち出されてきた政策の背後には、ある種の連帯志向の社会政策思想があったことは確かであろうと思われますし、安倍首相自身が意識していたかどうかは分かりませんが、西欧社民主義勢力の中で展開されてきている権利と義務の相補性を強調する新たな福祉社会の考え方と通じるものもあったように感じられます。
ところが、選挙戦で我々が毎日見せられたのは「成長か、逆行か!」「改革か、逆行か!」という小泉・竹中時代張りの二者択一的絶叫で、いささか引いてしまった感はあります。その意味では、安倍政権の政策が否定されたわけではないと首相やその周辺の方々が思うのにも一理はあるのですが、それこそかつてグランドキャニオンに柵がないと偉そうに宣っていた小沢一郎氏に「生活が第一」といわれてしまったら、再チャレンジでは色あせるのも否めないところではあります。
何にせよ、この「正論」は言葉尻に文句をつければいろいろつけられるでしょうが、中味も結構正論です。特に最後に出てくる「保守思想の3つの要諦」は、保守主義者ではない立場から見ても、むしろ正しい改革を進めるべきという立場から見ても、かなり正鵠を衝いていると思います。

>第1に、人間の認識はつねに不完全なのだから、どんな改革にも「懐疑と議論」を差し向けよ。第2に、社会は有機体としての「自生的秩序」を持っているのだから、社会全体への構造改革は国家の自殺行為と心得よ。第3に、(国柄を)保守するための(現状の)「改革」は部分的で漸進的でなければならないのだから、「革命(レボルーション)」には、古き良き価値・規範を新しき状況において「再巡(レボルーション)」させるための〈技術知〉ではなく〈実際知〉が必要と知れ。

最後のところは、近頃の規制改革騒動を考え合わせると、むしろ「〈教科書知〉ではなく、〈現場知〉が必要と知れ」というべきところでしょうが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_04cd.html (西部邁氏の公正賃金論)

昨日、西部邁氏の「正論」欄に載った正論を取り上げたついでに、彼がその昔(30年以上もむかし)書いた公正賃金論を引っ張り出してみました。

『経済セミナー』に「労働と社会または労働のソシオエコノミックス」と題して連載して3回目で中断してしまったものの3回目の論文です。冒頭に「賃金は勤労に対する報酬であると同時に、「公正」「貨幣物神」「搾取」あるいは「紛争」といった人間関係における争点でもある」というエピグラフ風の言葉が書かれていますが、近年の最低賃金や均等待遇論をめぐる議論を、ケーザイ学だけ視野に入れた状態からすーっと焦点を引いて、ソシオ・エノミックス的に語ると、こういう風になるという意味で、このあたりは読み返してみる値打ちがあります(本人が覚えているかどうかは不明ですが)

>しかし自明のことではあるが、企業は孤立して存在しているのではなく、より広くコミュニティとのつながりを持っている。コミュニティの場から見れば、個々の企業こそが個別の集団なのであって、コミュニティの共同的枠組みから種々の掣肘を受ける立場にある。つまり、個別企業の定める労働条件や賃金は、それらについてコミュニティが持ち合わせている公正基準に照らして律せられるのである。労働市場の動きの中に、貨幣メディアだけでなく、権力や影響力のメディアが介入し、そしてそれらのメディアの働きは、それぞれのコードによって制約される。従って、コードの確保としての公正基準が労働市場に入ってくることになる。
>この点に注目すると、労働市場で決められる賃金(及び労働条件)は、コミュニティにとって公正と考えられる賃金(及び労働条件)水準から大きくは離れられないということが分かる。あるいは、大きく離れた場合には、労働市場それ自体が不公正と見なされて、労働市場の存立が著しく不安定になるだろうと考えられる。公正な賃金は、労働者がコミュニティの成員であることの証である。・・・

初等ケーザイ学教科書嫁イナゴさんたちには、これが何を言っているかすらよく分からないかも知れませんが、現場で賃金を扱っている人々には、(その衒学的な用語法がいささかうっとおしいかもしれませんが)その趣旨はよく理解できると思います。

つまり、これまでの主婦パートや学生アルバイトの賃金がどんなに低くても、それはコミュニティの公正基準と乖離したものではなかったのです。だから均等待遇なんてだれも言わなかったし、最低賃金が低すぎるなんて議論にもならなかった。現在の非正規労働問題が、これまでともっとも異なっているのは、西部氏のタームで言えば、まさに労働市場を制約すべきコミュニティの公正基準なのですね。

実は、西部さんは私が駒場に入学した当時、まだ世間で評論家として注目されるようになる前の、ソシオエコノミクスを引っ提げて新古典派に戦いを挑む異端の経済学者でした。

上記エントリで引用した「<労働と社会または労働のソシオエコノミックス」は、もし西部氏がその後の人生をこの方向で進んでいれば、どういう労働理論を作り出すことになったのだろうかという想像を掻き立てます。

銀行が有料職業紹介事業可能に?

こんな記事が目に入りましたが、

https://this.kiji.is/327374850488878177 (地方銀行、人材紹介業可能に)

金融庁が、地方銀行の業務として人材紹介業が展開できるように規制を緩和する方針を固めたことが20日、分かった。人手不足が深刻になる中で、取引先企業が必要とする人材の確保や雇用問題の解決を手助けし、地域経済の活性化に貢献できるようにする。低迷する地銀の収益力向上につなげる狙いもある。銀行の業務運営に関する考え方をまとめた監督指針の改正案を近く公表する。

銀行の業務範囲は厳格に定められている。低金利による採算悪化といった銀行の経営環境の変化や地銀からの要望を踏まえ、金融庁は規制緩和が必要と判断した。

この記事はあくまでも金融サイドから書かれた記事ですが、規制されているのは金融業だけじゃなく、有料職業紹介事業も職業安定法により規制されているのです。

そして、有料職業紹介事業の歴史を知っている人であれば、戦前の職業紹介法の時代から戦後の職業安定法の時代にも、貸金業等との兼業が禁止されていたことを覚えているかもしれません。

この兼業禁止規定は後述のように2003年改正で法律上からは削除されましたが、現在でも職業紹介事業の業務運営要領においては、許可条件として、

www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11650000-Shokugyouanteikyokuhakenyukiroudoutaisakubu/0000170530.pdf

ロ 兼業の場合の紹介関係

貸金業又は質屋業と兼業する場合(代表者又は役員が他の法人等で行う場合も含む。)は、 当該兼業する事業における債務者について紹介を行わないこと。また、金銭を貸し付けてい る者等の自己の債務者を求職者としないこと。

(理由) 貸金業又は質屋業を営む者が当該営業における債務者を紹介することにより、強制労働や 中間搾取等の求職者保護に欠ける事態が発生することを防止する必要があるため

というのが残っています。

おらぁ、貸した金、利子付けて返せゃ。返せねえなら体で返してもらおうか・・・。

という世界があった(ある)ことを踏まえた規定であったわけです。

ただ、現行法制上、上記記事で金融庁が兼業を認めるといっている地方銀行は貸金業法でいう貸金業者ではありません。別途銀行法という立派な法律で規制されているからですが、でも銀行も金を貸す商売をやっていることには違いがないし、最近は堂々たる都市銀行が消費者金融と組んで高利貸しみたいな商売をやっているのも確かです。銀行だから貸金業者にあらずと単純に言える時代ではなくなってきているような気がしないでもありません。

いや何が言いたいかというと、確かに現在は職業安定法上からは消えた規定だし、業務運営要領上も許可条件として制約が課されているのは貸金業だけであって、銀行がなんとかローンでお金を貸している人を有料職業紹介の対象とすることを禁ずるような条項はなにも存在しないのですが、でもそもそもの経緯にさかのぼって考えてみると、やや問題が残るような気がしないでもありません。

ご参考までに、上記職業安定法の2003年改正時に、国会で当時社民党の阿部知子議員がこの問題を質疑している議事録を引用しておきます。

http://hamachan.on.coocan.jp/kikan251.html (雇用仲介事業の法政策)

なお2003年改正では、1949年に設けられた兼業禁止規定が全部削除されました。これは1LO第42号勧告に基づくとともに、戦前の営利職業紹介事業取締規則以来の規定でもあり、1985年に兼業を禁止する範囲を風俗営業やサラ金に限定することが検討されながら、業所管官庁との関係でそのままになっていたものです。これは国会審議において、特に貸金業及び風俗営業等について全面解禁に疑念が呈され、許可要件において対応することとされました。ややトリビア的ですが興味深い質疑がされていますので、国会の議事録から一部引用しておきましょう。2003年5月16日の衆議院厚生労働委員会です。

○阿部委員 社会民主党・市民連合の阿部知子です。
・・・職業安定法の三十三条の四というのがございまして、今回の法改正でこれの削除の問題が出てきております。・・・「料理店業、飲食店業、旅館業、古物商、質屋業、貸金業、両替業その他これらに類する営業を行う者は、職業紹介事業を行うことができない。」という法律が今回削除されます。大臣にお伺いいたしたいのですが、逆に、そもそもなぜこういう法律があったとお考えでありましょうか。この法律のあった意味は何でございましょうか。現在もありますが、そこは大臣のお考えをちょっとお聞かせいただきたいと思います。

○坂口国務大臣 私も、古着屋ですとか質屋の話まで十分に存じませんので、今初めて聞く話でございますから、満足にお答えができるかどうかわかりませんけれども、職業安定法三十三条の四でございますか、兼業の禁止規定というのがございまして、一九三三年に採択をされましたILO勧告におきまして、「個人及企業にして、直接に又は仲介者を通じて飲食店、旅館、古着店、質店又は両替店の経営の如き業務より利益を得るものは、職業紹介に従事することを禁止せらるべし。」こういうことになっているわけでございます。これは、昨年のILO総会におきまして撤回されたところでございますが、我が国の社会状況の変化も踏まえまして、今回、この兼業禁止規定というものを削除することにいたしました。職業紹介事業の許可基準におきましては、申請者が事業を適正に遂行することができる能力を担保するということがあるわけでありまして、そうしたことを中心にして、「不当に他人の精神、身体及び自由を拘束するおそれのない者であること。」というような要件が入れられている。そうしたことを考慮に入れて、今回この決定がなされたということではないかというふうに思います。

○阿部委員 私も、数ある法改正を一つ一つ勉強しながら、この法律はこういう意味でできていたのかということを改めて知るということが、国会に来て、当然、立法府ですから多いわけですが、この法律、先ほど、旅館業、飲食店業、古物商、質屋さん、金貸し業、両替業等が職業紹介事業を行うことができないということの理由といいますか意味づけは、東京高裁の昭和二十九年の九月十五日判決に書いてございまして、実はこれらの職種では、人身売買的事態の発生等、社会的、一般的弊害があることがあると。ですから、昔は、旅館で人身売買、売買春が行われたり、あるいは料理店もそのようなこともあったということにかんがみて、職業紹介事業を併設しない方がよろしかろう、それが社会的、一般的弊害があるおそれということで設けられた一項なんだと思うんです。私が先ほど申しましたように、労働市場とそれから経済動向は動くことがありますが、働くことということについての社会規範というものは、ある程度共通認識を持っていかないと非常に問題が多いということで、午前中、我が党の金子議員が、現時点において、特に金貸し業といいますかサラ金業者の方が、一方で職業紹介事業を併設されますと、ここにお金を貸した相手がいて、その方からお金を返していただくために、あなたにこの仕事を紹介しましょう、あなたはここで働いてください、そして私にお金を返してくださいという形で、その方の労働力を担保にとって仕事を紹介したという形態をとって、実はぐるぐる回すということも生じ得る。今、金子議員が例に引いたかどうかわかりませんが、サラ金でお金を借りると、目の玉を売れとか腎臓を売れとか、そういう脅迫まがいのことも実に起こっておりまして、私は、現下の社会情勢で、この金貸し業とそれから職業紹介業というのが並立する図を考えると、ちょっとぞっとするのであります。午前中にいただいた戸苅局長の御答弁では、ちょっと抽象的でどうするのかなと思ったけれども、この紹介業を許可する際に基準を厳しくするという御答弁でしたが、許可をする際に基準を厳しくするとは、例えば、一方でお金を貸しているような業者の方には、紹介業をその方が申請していらしたら、他と違うダブルスタンダードあるいは隠れたスタンダードを使うということなのか。何か、この基準を厳しくするとお答えになった中身について、今度は局長にお願いします。

○戸苅政府参考人 おっしゃるとおり、人身売買、中間搾取、強制労働というのが戦前に、職業安定法が制定される前に、今議論になっております飲食店、旅館、質屋、両替、そういったところでとかく行われていたということで、ILOの勧告もありということでやったところでありますが、時代も変化し、ILOの勧告も撤回されたということで、今回の法改正の一環として、兼業禁止規定を解除したということであります。ただ、正直言って、私個人的にも、貸金業を他の業種と同じような扱いでやって、本当に求職者の方の安全が確保できるのかというのは、かなり懸念をしていると言わざるを得ないわけでありまして、そういった意味で、一つは、許可する際に、許可基準として、これは所管の省庁あるいは都道府県知事の登録ということがありますので、まず、登録せずに貸金業をやっているような業者には許可を与えない。それからもう一つは、今おっしゃったように、恐らく、許可を与えるときの附帯的条件みたいなものを場合によったら検討できるんじゃないかとも思っていまして、今おっしゃったことも一つの検討材料になるかなと思います。確かに、貸金業の事業主が職業紹介をやって、それを回収のための手段にするというのも、一歩間違うと非常に危ない面もないわけでもないと思いますので、場合によったら許可の際の附帯要件として、労働者の安全が図られないというかそれが損なわれるような行為、例えば、金を貸している人に職業紹介し、それをピンはねは当然できないわけであります。基準法二十四条で直接払いになっていますから、そういうことはないとは思いますが、何か問題が起きそうなことがあるかどうか少し研究してみて、場合によったら附帯的な要件をつけた上で許可するとか、いずれにしても、求職者の方の安全が、保護がきちんと図れるような工夫は必ずしてまいりたい、こう考えております。

○阿部委員 我が国の金融の現状と申しますのは、銀行がうまく機能しない、そのかわり駅前はサラ金、やみ金ばかりと異様な国になっているわけですから、この一条、一項を、この三十三条の四を抜く前に、今戸苅さんがおっしゃったようなことも本当に真剣に検討していただきたいと思います。それくらい、働くということは、きちんと社会がその方の労働権を守っていくという覚悟がないと、現代はやれない時代だと私は思います。さらにもう一点つけ加えさせていただければ、今は一応許可制という形をとるものでも、将来、届け出制にだんだん規制緩和されていきますから、そうすると手もつけようもなくなりますから、一つ一つ慎重に臨んでいただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

2018年1月20日 (土)

「名前をつけて保存」というブログで拙著評

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda5 「名前をつけて保存」というブログで、拙著『働く女子の運命』が取り上げられていました。「 日本の労働社会のせいで日本は男女不平等なのかもしれない」というタイトルです。

http://save-as.hatenablog.com/entry/2018/01/19/183620

日本がたいへん男女不平等な国だと言われているのは、各種ニュースでご存知の通り。先日話題となった、はあちゅうを巡る騒動なんかを見ても、なんとなくそれはわかる。はあちゅう個人のおかしさををフェミニズム全体の問題と同一視するような風潮は、まさに男尊女卑的な発想が多くの人に共有されていることを示しているように思う。

だが、なぜそんなに日本は男女不平等なのだろうか? 本書にもある通り、「前近代社会からずっと、日本は決して女性の地位の低い国では」(濱口桂一郎『働く女子の運命』文春新書、2015年、p.4)なかった。それが、近代を経て現代へと至る中で、逆にどんどん女性の地位が低下していったというのは、かなり変な現象に思える。これは単なる偶然なのだろうか?

本書の主張は、日本独特の労働社会が、会社の中での男女不平等を産んでいる、ということである。・・・・

というわけで、まさに私の設定した問いに沿った形で読んでいただいています。

それはそれでうれしいのですが、たまにはかつてのようなわざと曲解するようなひねこびた書評も読んでみたいような・・・。

2018年1月15日 (月)

座談会「AIの活用と今後の労務管理上の課題」@『労務事情』1月1/15日号

Romujijo_2018_01_01_2 『労務事情』1月1/15日号が届きました。新年恒例の合併号では、座談会「AIの活用と今後の労務管理上の課題」が注目です。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20180101.html

[座談会]AI の活用と今後の労務管理上の課題

労働政策研究・研修機構 研究所長 濱口桂一郎/
株式会社FRONTEO コミュニケーションズ 取締役 山岸建太郎/
情報産業労働組合連合会 中央執行委員 松岡康司/
TMI 総合法律事務所 弁護士 柴野相雄

この座談会、わたくしがファシリテーター(要は司会)を務め、人事労務管理に係るAIのビジネスをされている山岸建太郎さん、情報労連の松岡康司さん、弁護士の柴野相雄さんの3人が大変突っ込んだ議論を闘わせておりまして、これはもう是非読むしかないという座談会になっております。

目次を挙げておきますと、

Ⅰ 人事労務領域でのAIの活用

 1 人事労務領域での活用範囲

 2 AI活用の二面性

Ⅱ AIに取り込むデータに関わる問題

 1 AIのデータはだれのものか

 2 AIによる解析の客観性

 3 個人データの使途

Ⅲ 個人データの収集に関わる問題

 1 モニタリングの是非

 2 つながらない権利

Ⅳ 人事労務領域以外でのAIの活用

 1 職場への浸透状況

 2 AIの法的責任

 3 AIが雇用に与える影響

Ⅴ 今後の展望

なお、座談会とは別に連載として、「気になる数字」は「業務中に悪質クレームに遭遇73.9%」です。これは例のUAゼンセンの調査結果を取り上げたものです。ハラスメントの問題を取り上げる際には、やはりこのお客様によるハラスメントの問題を含めて議論して欲しいですね。

イデオロギー政治と利益政治

これも本ブログで何回も取り上げてきたテーマですが、

https://www.asahi.com/articles/ASL1G61VCL1GUTFK00C.html(「連合、陳情は自民。選挙は民進。あほらしい」 麻生氏)

企業の利益の割に、(労働者の)給料が上がっていない。給料や賞与を上げてほしいと今の政権が経団連に頼んでいるが、本来は連合や野党・民進党の仕事だ。連合は、陳情は自民党、選挙は民進党。あほらしくてやってられない。

こんなやり方、いつまでやってんだと。私のことですから、会うたびに連合の方やら何やらに申し上げてきています。全然おかしいですよ。何であんたの労働組合は民進党をやっている? 我々の方がよっぽど労働組合のためになっているんじゃないですかね。

これは、この限りでは全くその通りなので、これで腹を立てる人は、おそらく政治というものの理解が違うんでしょう。

要は、、政治というのは自らが抱く信仰やイデオロギー、とりわけ自分や自分たちが属する人々社会的位置に関わる経済的社会的利害得失といった世俗的なこととは切り離された、何か空中をふわふわ漂う、あるべき正義の観念みたいなものに関わるものごとであると思い込んでいる人々にとっては、麻生氏ら自民党政権の方が労働組合のためになることをしようがしまいが、そんなこととは何の関係もなく政党を支持したりしなかったりするべきものなのでしょう。

いや、そういう政治観念というのは立派にあって、それに殉じてきた人々も山のように歴史の中に並んでいるわけですが、とはいえ、(政党じゃない)労働組合がそういう信仰政治、イデオロギー政治をやって良いのかといえばそれはまた別の話で、それはやはり「労働者が主体となつて自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体又はその連合団体」であって、「主として政治運動又は社会運動を目的とするもの」ではないと法律が明記している労働組合としては、まず何はともあれ、労働者の利益になることをするか否かで支持するか否かを決めるべきものであって、そうでなければそんな団体は労働組合の名に値しない、はずです。労働組合とは徹頭徹尾労働者の利益を追求する団体であり、その意味で世俗的利害に敏感な団体のはず。

その意味からも、労働者にとって大事な労働政策を平然と仕分けしたり、自分たちの仲間を理由にならない理由で平然とクビした政治家たちを真っ先に支持しに行くというのは、少なくともあるべき利益政治の観点からすると、いかがなものであろうかという感想を抱かせるものであることは間違いないと思いますよ。

もちろん、その上で、たまたま今労働者の味方をしているように見えるけれども長年にわたってそうじゃなかった政党よりも、政権を取ればそれよりももっと労働者のためになる政策をやってくれるはずの政党を支持するという判断は十分あり得ます。

でもね、なんだかそうじゃなさそうだからなあ。

2018年1月14日 (日)

だからそれが雇用システムの違い

Uadhtbcv_400x400 こういうつぶやきが話題になっているようですが、

https://twitter.com/retro_g_knight/status/951658522244038656

会社「いいか、仕事でできませんと言ってはいけない。どうすれば実現するか考えるのが真の仕事。海外はもっと厳しいぞ!」
新卒社員ワイ「ほーん、さすが社会は厳しいんやなあ」
新しく所属したメリケン会社「出来ないことは出来ないと言え。できることで利益あげるから」
ワイ「ファーwww」

https://twitter.com/retro_g_knight/status/951658897688772608

以前の会社と今の会社でだいたい言ってることが逆なの闇が深い

https://twitter.com/retro_g_knight/status/951746032261459970

ちなみにその前の会社は「海外企業に負けない!」ってやっててその外資に買収されて吸収されたんじゃがな

いやだから、それは闇とかどうとかじゃなくて、雇用システムの基本原理が全く逆にできているからということなわけです。

会社とは事業をブレークダウンした仕事の束であり、その各仕事に対して当該仕事を遂行できると思われる人間をはめ込むことが採用であり、労働者側からすれば就職である社会においては、その初めからある仕事をできるという前提で採用した労働者に当該仕事を遂行することのみを求め、それ以外の仕事に介入することを求めないのはあまりにも当たり前の話だし、

会社とは社員と呼ばれる人間の束であり、その各人間に対して、採用当時はそもそもできない仕事を習い覚えてやれるようになっていくことを大前提に社員という身分を付与することが採用であり、労働者側からすれば(間違って「就職」と呼ばれている)入社である社会において、その入社当時には全然できない仕事をできるように努力することが正社員たるものの心得第一条であり、そういう心構えを教えるのが上司や先輩であるのもあまりにも当たり前の話なわけです。

どちらのシステムにもメリットとデメリットがあるということも、繰り返し論じてきたところ。

欧米型のデメリットは、そもそも新規学卒者という、仕事ができないことが大前提である人間は「できないことはできなと言え」という社会では、「ああ、仕事ができないんなら採用できませんね」で、なかなか就職できないということに尽きます。

逆に言うと、何にも仕事ができないことがほぼ確実な若者が労働市場で「仕事ができないなんて言わずに頑張ります」でもって一番有利な立場に立てるような社会は日本以外にはまったく存在しないということでもあります。

なんで学校で勉強したことじゃなくてサークル活動やアルバイトで頑張ったことばかりをしゃべらなければならないのかとか、就職をめぐるもろもろの問題はほとんどすべてこの雇用システムの違いで説明できます。

拙著書評@「連鎖堂」

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda5 t_wakitaさんの「連鎖堂」というブログで、拙著『働く女子の運命』が短評されています。

http://d.hatena.ne.jp/t_wakita/20180113/p1

男女問わず有用。「女はすぐ辞めるから責任ある仕事は任せられない」と本当は思ってる男は多いですが、因果が逆で、「雑用しか与えないから辞める」かもしれない。しかしそれ以前に、属性で予断するのは誤りです。

 女性が統計的には辞めやすいとして、だから女性属性で雇わないとすると、個別では採用コストが節約できますが、社会全体では辞めない女性も空転するので有害です。さらに日本は能力より仲間意識を重視するため、仲間に入れたくねえという恣意が入り込みやすく、属性での予断はますます有害なのです。

t_wakitaさんには、統計的差別のところが印象的だったようです。

ビットコインは未来の通貨に非ず

Pauldegrauwe ソーシャル・ヨーロッパ・マガジンに新年早々、ポール・デ・グラウウェの「ビットコインは未来の通貨に非ず」という大変興味深いエッセイが載っていました。デ・グラウウェはLSEの教授ですが、もとはベルギー人でルーバン大学の教授でした。

https://www.socialeurope.eu/bitcoin-not-currency-future (Bitcoin Is Not The Currency Of The Future)

ヨーロッパでもビットコインバブルは猛威を振るっているようで、通貨の歴史を振り返りながら、それが未来の通貨であるどころか、むしろ金本位制時代に逆戻りする古風な、あるいはむしろ野蛮な通貨であることを諄々と論じています。確かにビットコインは「マイニング」(採掘)されるという点でも、金本位制に近いのかもしれません。

やや長いエッセイの、金融政策という観点から重要な数パラグラフを翻訳引用します。

・・・First, as the supply of Bitcoins is fixed asymptotically, its generalized use as a means of payment would lead to permanent deflation (negative inflation). The reason is that the world economy is growing and in need of an increasing supply of money to make growing transactions possible. The only way this can be dealt with in a Bitcoin economy is by declining Bitcoin prices of goods and services, i.e. negative inflation. The quantity theory of money tells us that it could also be dealt with by increasing the velocity with which Bitcoins are used, but there is a limit to that possibility. Thus a Bitcoin economy would face permanent deflation, not a very attractive situation.

まず、ビットコインの供給は漸近的に固定されているので、支払い手段としての一般的な利用は恒常的なデフレ(ネガティブなインフレ)をもたらす。その理由は、世界経済は成長し、増加する取引を可能にするために通貨の供給増加が必要であることである。ビットコイン経済でこれを可能にする唯一の方法は、財やサービスのビットコイン価格を引き下げることによってしかない。通貨の数量理論は我々に、ビットコインが使われる流通速度を引き上げることによっても可能であることを示すが、その可能性には限界がある。かくしてビットコイン経済は恒常的なデフレに直面し、決して魅力的な状況ではない。

・・・ In a Bitcoin economy where prices are declining every year this optimism is negatively affected. Price declines lead consumers to postpone their purchases and investors to postpone their projects. It is a world with less optimism and probably less growth.・・・

毎年価格が下落するビットコイン経済では、この楽観主義はネガティブな影響を受ける。価格下落は消費者に購入を延期させ、投資家にプロジェクトを延期させる。これは楽観主義の乏しいおそらく成長の乏しい世界である。

・・・There is a second and even more serious reason why Bitcoin is not suitable as a currency. In fact it would be a dangerous currency. If the world turns to Bitcoins, banks will start lending Bitcoins to households and firms in need of credit. But banking is a risky business. The problem is that as the supply of Bitcoins will be fixed, there will be no lender of last (LoLR) support in times of banking crises. And these are certain to occur. Even if the supply of Bitcoins or of other cryptocurrencies could be subjected to a constant Friedman growth rule it would not solve this problem.

ビットコインが通貨として不適当である第二のもっと深刻な理由がある。実際、それは危険な通貨なのだ。もし世界がビットコインに転換したら、銀行は貸付の必要な家計や企業にビットコインを貸し付け始めるだろう。しかし銀行業はリスクのある事業だ。問題は、ビットコインの供給が固定されており、銀行破綻の時に支援する最後の貸し手がないということだ。そしてこれは起こりうる。たとえビットコインないし他の仮想通貨の供給が恒常的なフリードマンルールに従ったとしてもこの問題を解決しない。

・・・In a monetary system where the stock of money is fixed (or growing at a constant rate), there is no such LoLR possible. This leads to the prospect of regular banking crises that will lead to failing banks and further negative domino effects on the economy. This is exactly what we observed during the heydays of the gold standard, which was characterized by frequent banking crises leading to deep recessions and much misery. Again, the Bitcoin standard, like the gold standard, is something of the past, not of the future.

通貨の総量が固定(ないし一定率での増加)されている金融制度では、最後の貸し手のようなものは不可能だ。これは銀行破綻とさらなる経済へのネガティブなドミノ現象をもたらす定期的な銀行危機をもたらす。これは確かに我々が金本位制の黄金期に見たものであり、金本位制は頻繁な銀行危機とそれによる深刻な不況と多大な悲惨で特徴づけられる。再び、ビットコインは金本位制と同様に、過去の代物であって未来のものではない。

More generally, the problem of a Bitcoin economy is that in times of financial crisis, which one can be sure will arise again, there is a generalized flight into liquidity. That’s when a central bank is needed to provide all the liquidity needed. In its absence, individuals scrambling for liquidity sell assets, leading to asset deflation and insolvency of many. A Bitcoin economy does not have this flexibility and therefore will not withstand financial crises. A Bitcoin economy will not last in a capitalistic system, which regularly generates financial crises.

より一般的には、ビットコイン経済の問題は必ずや再来するであろう金融危機の際に流動性への逃避が一般化することである。これは中央銀行があらゆる必要な流動性を供給することが必要な時である。それがなければ、われがちに流動性を求めて争う人々は資産を売り、資産デフレをもたらし、多くのものが破産する。ビットコイン経済はこの柔軟性を持たず、それゆえ金融危機に抗することができない。ビットコイン経済は定期的に金融危機を生み出す資本主義制度では持続できない。

日本でも最近ビットコインがだいぶ流行していて、特に野口悠紀雄氏などは理論的な面からビットコイン経済を大変強く推していたりするので、こういうヨーロッパ知識人の意見を紹介するのも意味があるかなと思います。

デ・グラウウェさんも、ビットコインなど仮想通貨の技術的基盤であるブロックチェーンについてはその重要性を認めます。異議を唱えるのは、ビットコインにはそれ自体に本質的な価値があるという信仰なのです。金本位制と同じだという批判は、まさにその点を指摘しているのでしょう。

デ・グラウウェさんはそこに、中央銀行のコントロールが効かない金通貨やビットコインを愛好し、法廷不換通貨を邪悪なものとみなす新自由主義のイデオロギーを見出します。

(追記)

こんなトンデモはてブが・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/354428939/comment/ksd5656

典型的な勘違い。”確かにビットコインは「マイニング」(採掘)されるという点でも、金本位制に近い”

このブックマーカー氏、デ・グラウウェさんが本気でビットコインとはどこか中国の奥地で貧しい農民工がつるはしをふるって採掘していると思い込んでこのエッセイを書いたと思い込んでいるのでしょうかね。いやはや。

全訳するのは手間なのでちょっと省略的に紹介するとすぐこういう文章の綾が読めない反応が湧いてくるというあたりが、なかなか疲れるところです。

しゃあないから関係部分を全訳しときましょう。

・・・In fact, the Bitcoin is an archaic currency like gold used to be. Archaic currencies are created by using scarce production factors. Gold had to be digged deep in the ground by using a lot of labor and machinery. Keynes called gold a “barbaric relic”.

The same can be said of Bitcoin. Bitcoins are made (“mined” as it is called in Bitcoin terminology by analogy with gold) by using large amounts of computing power. The computers needed to mine Bitcoins use a lot of electricity and thus large amounts of scarce energy sources (crude oil, coal nuclear energy, renewable energy sources). According to some estimates, the energy needed to produce Bitcoins for one year is equivalent to the energy consumption of a country like Denmark. ・・・

・・・実際、ビットコインは金がそうであったようなアルカイックな通貨だ。アルカイックな通貨は稀少な生産要素を用いて生み出される。金は膨大な労働力と機械を用いて地中深くから掘り出された。ケインズは金を「野蛮な遺風」と呼んだ。

同じことはビットコインにも言える。ビットコインは膨大な量のコンピュータ能力を用いて(金とのアナロジーによりビットコイン用語では「採掘される」と呼ばれている)作られる。ビットコインを採掘するのに必要なコンピュータは膨大な電力、それゆえ膨大なエネルギー資源(原油、石炭、原子力、再生可能エネルギー)を使う。いくつかの試算によると、1年間にビットコインを生産するのに必要なエネルギーはデンマークのような国のエネルギー消費量に匹敵する。・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年1月13日 (土)

平成35年5月16日?

おそらく労働問題に関心のある人でも誰も関心を持たないであろう二つの法律の改正案が労政審で妥当と答申されましたが、

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000190842.html

その二つの法律というのは、駐留軍関係離職者等臨時措置法と国際協定の締結等に伴う漁業離職者に関する臨時措置法なんですが、前者は1958年、後者は1977年に作られたいずれも時限立法で、それをその都度伸ばし伸ばししてきたものです。

今回も、法律の期限切れが前者は今年5月16日、後者は今年6月30日に到来するので、それを5年延長するというだけの、まあ実体的な中身のほとんどない改正なんですね。

ただね、5年延長するというのを、法律ではどう書くかというと、

http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12602000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Roudouseisakutantou/0000190834.pdf

第一 駐留軍関係離職者等臨時措置法の一部改正

駐留軍関係離職者等臨時措置法の有効期限(平成三十年五月十六日まで)を五年延長し、平成三十五年五月十六日までとするものとすること。

第二 国際協定の締結等に伴う漁業離職者に関する臨時措置法の一部改正

国際協定の締結等に伴う漁業離職者に関する臨時措置法の有効期限(平成三十年六月三十日まで)を五年延長し、平成三十五年六月三十日までとするものとすること。

いやいや、平成35年という年はそもそも存在しないことが今現在すでに確定しているでしょう。存在しない平成35年に5月16日も6月30日も存在しないでしょう。

とはいえ、では今現在、平成31年4月30日の翌日以降の日付を元号を使ってどう表現できるかといえば、こういう存在しないことが確定している架空の日付を用いるしかないということになるわけですね。

ほとんど雑件ネタですが、一応素材は労働法なので、労働法ネタということにしておきます。

ソーシャルアジアはデジタルアジア?

Dio333 連合総研の『DIO』333号が届きました。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio333.pdf

特集は右の表紙のとおり「地域のニーズに応えられる公共サービス」ですが、今号の記事のうちで一番興味をひかれたのは、第21回ソーシャル・アジア・フォーラムの報告です。

このソーシャル・アジア・フォーラム、純民間ベースで日本、韓国、中国、台湾で回り持ちで続けられており、2010年に台北でやった時には私も参加しました。

今回昨年11月には中国のアモイで開かれ、その時の各国の報告の概要が載っています。今回、日本からは、JILPTの山崎憲さんと、情報労連の北野さんが出ていますが、各国の報告をざっと見ていくと、昨年来いくつかの国際的な会議で感じたことですが、こういうデジタル経済、あるいは第四次産業革命といったことに対する感性が、日本よりも後発であったアジア諸国の方がより強いという傾向が感じられます。

詳しくはリンク先を見ていただきたいのですが、このあたりのパラドックスをどう考えたらいいのか、少しじっくりと考察してみたいところではあります。

 

 

2018年1月12日 (金)

だめな会社はさっさと潰すのも社会貢献

例のはれのひの振り袖トンズラ事件自体については、特にコメントすることもなかろうと思っていたのですが、やはり労働問題に関わってきたようです。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180112/0006084.html

成人の日に横浜市の会社と契約した振り袖が届かず晴れ着を着られない新成人が相次いだ問題で、去年の夏以降、この会社の従業員から賃金の未払いを訴える相談などが労働基準監督署に寄せられ、監督署が改善を求め是正勧告を行っていたことがわかりました。・・・

関係者によりますと、去年8月、労働基準監督署に「はれのひ」の従業員への賃金の未払いが起きているという情報が匿名で寄せられ、11月には従業員から「賃金が数か月、支払われていない」と相談があったことがわかりました。

監督署は会社側に事実関係を確認し、改善するよう複数回にわたって是正勧告を行ってきたということです。

一方で、この会社は賃金未払いの指導を受けている間も求人を続けていて、八王子市の店舗では去年11月から、横浜市の店舗では去年12月から、ハローワークを通じてそれぞれ正社員を3人ずつ募集していました。

しかしハローワークは、会社と連絡が取れないことから募集を止めたということです。・・・

確か福岡では、経営者がトンズラしたにもかかわらず従業員がお客に一生懸命対応していたと美談よろしく報じられていましたが、いやいやこんな会社がずるずると生き延びていたこと自体が間違っているやろ、という感じですね。

ダメな会社はさっさと潰した方が社会貢献になるということかもしれません。

2018年1月11日 (木)

早見俊『労働Gメン草薙満』

894278これは本屋でたまたま見かけて、タイトルが労基小説だぞ!と訴えていたので買って読んだのですが、正直微妙でした。

http://www.tokuma.jp/bookinfo/9784198942786

労基小説と言えば、かつて本ブログで紹介した沢村凜さんの『ディーセント・ワーク・ガーディアン』は、内容的にも立派な労基小説でしたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-748a.html(本邦初の労基小説! 沢村凜『ディーセント・ワーク・ガーディアン』)

こちらはタイトルがいかにもであるにもかかわらず、中身はB級の警察小説、犯罪小説に監督官を狂言回しとしてくっつけただけという感じです。

たぶん、一昨年末に労基のかとく部隊が電通にどやどやと入る映像を見て、これ使える、と思って書き下ろしたんじゃないかと思いますが。

大手化学メーカーに勤務する村瀬一雄が帰宅途中に服毒自殺した。村瀬の妻から相談を受けた労働基準監督官の草薙満は、村瀬が退社後にアルバイトをしていたことを突き止める。アルバイト先を張り込み中、草薙を不審者と勘違いして職務質問してきたのが、ひばりが丘警察署の安城沙也加だった。村瀬の自殺の真相を探るうち、草薙と沙也加はある謎に直面する――。熱血“労働Gメン”登場!

いや、熱血はいいんだけど、女性警察官と一緒になって覚醒剤密造の犯罪捜査に熱中しているというのは、労働基準監督官としてどうなの?としか・・・。警察が民事不介入で強制捜査できないところを、労基は臨検監督できるからといいように使われているだけというのは、いくらなんでもひどくないか、と。

挙げ句の果てには、こんな台詞まで飛び出してきて、いや労基小説書くんならもう少し労働基準法を勉強してから書いてよね、と。

沙也加が満の背中を指でつついた。

満も労働Gメンの使命感が湧き上がってきた。

飛び出すと、

「労働基準監督官です。臨検を行います」

証票を右手で示した。

大塚は一瞬、満を睨んでいたがすぐに満だと気づき、戸惑いの表情となった。満の横に沙也加がやってきて、

「段ボールの中身は何ですか」

と厳しい声を出した。

口を閉ざした大塚に向かって、満が、

「大塚さん、従業員へのパワハラ行為は労働基準法に違反しますよ」

はぁ?

2018年1月10日 (水)

JILPT労働政策フォーラム「改正労働契約法と処遇改善」

来る3月15日に、JILPT労働政策フォーラム「改正労働契約法と処遇改善」がひらかれます。

www.jil.go.jp/event/ro_forum/20180315/20180315flier.pdf

基調講演が菅野JILPT理事長、調査報告が荻野JILPT副所長で、4人の企業の人事担当者の方々が事例報告をされます。

わたしはそのあとのパネルディスカッションの司会役です。

Jilptforum

 

 

 

低賃金にすればするほどサービスが良くなるという思想(再掲)及びその前説

本日の下記エントリで世界標準語とアメリカ方言の話でからかった立憲民主党の公務員人件費削減公約ですが、やや真面目に論じるとすると、労働基本権を回復して団体交渉で労働条件を決定するようにすることで人件費削減を目指すというのが一体全体どういう頭の回路で出てきているのかが興味あります。

https://twitter.com/CDP2017/status/950513453013327872

■公務員の労働基本権を回復し、労働条件を交渉で決める仕組みを構築するとともに、職員団体などとの協議・合意を前提として、人件費削減を目指します。

このツイートに山のようなコメントがついていますが、その中で、あるべき姿の方向性としては全く逆でありながら、物事の客観的な姿としてはそうだろうな、と思われたのが、人件費削減が大好きで経済の緊縮を目指しているらしい「りふれは」こと高橋洋一氏でした。

https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/950738305921896454

人件費削減に反応している人が多いが。ちょっと文章全体をみると、①労働基本権回復、②労働条件を労使交渉、③人件費削減。①は団体交渉権と争議権付与。②は人事院廃止、人勧なしで労使交渉。となると、給与アップでしょう。○○前提と断りを入れて、給与アップをカモフラージュしたのか笑笑

https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/950739547461046273

本当に給与カットしたいなら、②で人事院廃止ではなく、今の人勧の計算方法を変更することが近道。それをしないなら、人件費カットを狙っていないのでしょう。というわけで、人件費カットに過剰反応している人は肩すかしを食らうというのが、オレの深読み

人間とは、本音を隠して口当たりのいいことを言って人をだましたがるものだという人間観を持った人にとっては、こういう解釈が自然なのでしょう。高橋氏にとっては、人件費削減などと正義ぶって実は給与アップするつもりの立憲民主党は嘘つきでけしからんということのようです。あるべき価値判断のベクトルを別にすれば、私もそれに近い考えです。

やや法制的に言うと、民主党政権時代に国会に提出した国家公務員労働関係法に基づいて、団体交渉権は付与するけれどもスト権は付与しないという仕組みになったとすれば、実際に生じうるほとんど唯一の道は、団体交渉では妥結せずに中労委の仲裁裁定にいくということであり、そうなると、(今の民間の賃上げが継続しているのであれば)それに準拠したような仲裁裁定となるでしょうから、それで人件費削減するということは無理筋です。

いやまあ、民間労働者についても(自公政権の路線を転換して)断固人件費抑制賃下げ路線だというなら別ですが、さすがにそんな馬鹿なことはないでしょうから。

というのが、普通の人間観を前提にした発想なのですが、もしかしたら、この一見矛盾に満ちた公約は嘘偽りのない本音なのかもしれないという可能性もないわけではありません。

というのは、世の中には(経済学をちょっとでもかじれば信じがたい話ですが)本気で公務員の処遇を引き下げれば引き下げるほど一生懸命働くものだと本気で信じ込んでいるらしい人がいるからです。

そんな人どこにいるって?

いや、まさにこのブログに過去出現したんですよ。

2011年ですからもう7年近くも前ですが、こんなエントリがあります。今読み返してみても大変面白い。

さすがに、天下の(?)立憲民主党がこういう発想で公約を書いたとは信じたくはないですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-ee80.html (低賃金にすればするほどサービスが良くなるという思想)

まあ、城繁幸氏の場合は、実のところは官民問わず賃金処遇制度の問題であると意識しながら、あえて釣りとして(はやりの時流に乗って)公務員叩きをしてみせた気配が強いのですが、

http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/cfe86d13b5103d8cf8e1b72a3e754a0b公務員の賃金をいくら引き下げても構わない理由

http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/e3ad8b0a11acf9c195d542929f8b86d0訂正:公務員は別に流動化しなくてもいいです

こういう釣り記事を真っ正面から受け止めて、本気に信じてしまう(あるいはむしろその先に突き進んでしまう)人々がやはりいるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/AMOKN/20110520【コラム】公務員の賃金をいくら引き下げても構わない理由 解説編

>いわゆる土方と呼ばれる仕事を見れば分かりますが、給料安くても不正もせずに過労死ギリギリまで働いていたりします。

以前、考察したときは下記の2点で縛られているからと考えていましたが、これを経営者側の立場で考えるとなるほどと思えることがあります。

おまえの代わりはいくらでもいるんだよ。

好きでやっているんだろう。

>いくつかの病院で働いていた時、凄く不思議だったのは一番プロフェッショナルだった病院はもの凄く看護婦さんの給与が低かったことです。患者にとって何が一番心地よいかを考えて、常に改善しようと心がけていました。仕事は過酷ですから、どんどん辞めていくわけですが、それを補うために看護学校も経営してどんどん若い看護婦を補充していくわけです。若い方が給与は安いですから経営上も利点があります。

そんなところで働いているなんて可哀想かと思うとそうでもないですね。彼女らはそこでの経験が後の仕事をしていく上で、大学出の看護婦とは全然次元の違う看護が出来るようになっているはずです。

これらに共通しているのは、誇りを持っていたり、好きな仕事なのに給与安いとどうなるかということです。

自分は金のために働いている訳じゃないということを嫌が上でも自覚せざるを得なくなるわけです。

じゃあ、何のために働いているのか。

それはお客さんや患者さんに喜んで貰うためなんだという凄くシンプルな答えに行き着くわけです

いやあ、なんというか、天然自然の何の悪意も感じられないほどのブラック企業礼賛。

ここまで来ると、いっそ清々しい。

このあとがさらにすさまじい。

>逆に給与が仕事の内容に比べて高いとどうなるでしょうか。

自分は金のために働いている。こんな楽して儲けられるのはこの仕事しかない。この仕事は手放さないようにしようと考えます。でも、こんなに手を抜いてもこれだけ貰えるなら、クビにならない程度に手を抜いておこうとなるわけです。別にクビになるわけでも、給与が減るわけでもないなら、仕事を改善する必要もなくね。変にクレームが付かないように前の人と同じようにしておこうとなるわけです。

まさにどこかで見た勤務態度でしょ。

よって、給与を下げるとどうなるか。

恐らく劇的に公共サービスは改善されるでしょう。

金やそれに付随する社会的地位のために働いていた人達はまず最初に辞めていきます。

そして、自分が誰のために働いているのか、その人達のために自分が何をすべきかを考える人達だけが残っていくでしょう。もちろん、そういう人達もどんどん辞めていくでしょう。その代わり、もっと良い行政サービスができる、したいという人達が入ってきます。要するに市場原理が働くわけです。

えっ!?それが市場原理なの???

ケインズ派であれフリードマン派であれ、およそいかなる流派の経済学説であろうが、報酬を低くすればするほど労働意欲が高まり、サービス水準が劇的に向上するなどという理論は聞いたことがありませんが。

でも、今の日本で、マスコミや政治評論の世界などで、「これこそが市場原理だ」と本人が思いこんで肩を怒らせて語られている議論というのは、実はこういうたぐいのものなのかも知れないな、と思わせられるものがあります。

労働法の知識の前に、初等経済学のイロハのイのそのまた入口の知識が必要なのかも知れません。あ~あ。

(追記または謝罪)

上述の批判は、俗流ブルジョワ経済学説に毒されたモノトリ主義的労働貴族思想のしからしむるところであったのかも知れません。

上記リンク先に昨日書き込まれたコメントは、そのような俗物思想に対し、強烈な打撃を与えるものでありました。

http://d.hatena.ne.jp/AMOKN/20110520#c

>少年時代にマルクスの著作と出会って以来、一貫して共産主義を信奉している者です。この2010年代においてもなお、本物のコミュニストと出会えたことに感動しております。

「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」。これこそが我々共産主義同志の理想であり、本来ならば労働者の敵であるはずの資本家の側にも、我々コミュニストと同じ思想信条をお持ちの方がおられることに対して、大変驚いております。

貨幣から解放された労働、労働それ自体を目的とする労働。まさにコミュニズムの真髄です。とくに、経営者の報酬は1円で良いはず。当然、AMOKN様は有言実行しておられますよね。資本家でありながらコミュニストとしての闘いを続けておられるとは、頭の下がる思いです。

共産主義の同志に対して、「えっ!?それが市場原理なの???」とは、まことに失礼千万なものの言いようであったと深く反省しております。

ただ、わたくしはかかる崇高な理念に殉じるにはあまりにもマテリアリストでありますので、おつきあいするのは控えさせていただきたいと存じます。

ねじれにねじれたリベラルのねじれていないところ

立憲民主党が公務員の人件費削減を目指すと呟いたとかで、ネット上の労働クラスタが騒いでいますが、いやいや日本的「リベラル」らしいというべきでしょう。

本ブログで百万回繰り返してきたように、「リベラル」には世界標準語とアメリカ方言があります。戦後日本で長らく二大政党だったリベラル民主党と日本ソーシャル党という名前は、明確に世界標準語の用語法に立脚していました。しかしいまやそれは忘れ去られてしまい、誰もがアメリカ方言を当たり前に思うようになりました。

リベラル民主党という名前の政権政党の党首にして総理大臣が自分の政策をリベラルだというのは、世界標準語で見ればあまりにも当たり前のはずですが、本人の意図はそうではなく、リベラル民主党政権は(アメリカ方言では)リベラルじゃないはずなのに、毎年賃上げ要求したり、同一労働同一賃金とか長時間労働の抑制とか、世界標準語で言えばソーシャルな政策をやっていることを捕まえて、(アメリカ方言で)リベラルだと言っているらしい、というところからしてもうすでにねじれが感極まって泣き出したくなるところですが、その相方の方はもっとねじれています。

彼ら、日本ソーシャル党の末裔のはずの人々は、既にどっぷりアメリカ方言に漬かってひたすら自分たちをリベラルリベラルと叫びたがるのですが、その中身はアメリカ方言で言うリベラルでありすなわち世界標準語で言うソーシャルである、はずなのですが、そこがそう簡単に問屋が卸してくれず、なぜかそこにアメリカ方言ではリベラルじゃない、つまり世界標準語でソーシャルじゃない、正真正銘のリベラルな政策がでかい顔をしてどんと居座っているんですね。

そういうのをここ数十年のファッションで「市民的リベラル」というそうですが、まあ、まさに世界標準語で言う「市民的」すなわち反労働者的であり、「リベラル」すなわち反ソーシャルな発想が、この人々のもっとも強固な思想であるらしく、それで繰り返し繰り返し、冒頭で述べた公務員の人件費削減を目指すという話が出てくるわけですね。

いや、アメリカ方言ではねじれているけれども、もう一回世界標準語に戻ると、全てが当てはまってしまう、360度のねじれという奴ですか。

2018年1月 8日 (月)

EU透明で予見可能な労働条件指令案に兼業容認規定が・・・

これは久しぶりに、ガチにEU労働法政策ネタです。だって、欧州委員会がが昨年末に公表した「EUにおける透明で予見可能な労働条件に関する指令案」の話ですから。

これについては、その直前までの状況、つまり労使への第1次、第2次協議の内容を、『労基旬報』1月5日号にやや長めに紹介しておいたところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/eu201815-c128.html (EUにおける新たな就業形態に対する政策の試み@『労基旬報』2018年1月5日号)

そこでは触れられていなかったトピックが、今回指令案ではわざわざ1条をとって取り上げられています。それは、日本でも昨年の『働き方改革実行計画』で盛り込まれ、つい先日の検討会報告でガイドライン案が示された兼業副業の容認にかかわるトピックです。

関係の指令案その他の文書はここにアップされていますが、

http://ec.europa.eu/social/main.jsp?langId=en&catId=157&newsId=9028&furtherNews=yes

大部分は上記労基旬報に書いた中身ですが、そこになかったこんな条文が入り込んでいたのです。

Article 8
Employment in parallel
1. Member States shall ensure that an employer shall not prohibit workers from taking up employment with other employers, outside the work schedule established with that employer.
2. Employers may however lay down conditions of incompatibility where such restrictions are justified by legitimate reasons such as the protection of business secrets or the avoidance of conflicts of interests.

「Employment in parallel」って、ある雇用と並行して別の雇用が存在するというイメージの言葉なんでしょうか。まさに兼業副業ですね。

第8条
兼業副業
1 加盟国は、労働者が使用者との間で確立した労働スケジュール以外の時間において、他の使用者との間で雇用されることを、当該使用者が禁止することのないよう確保するものとする。
2 ただし、使用者はかかる制限が営業秘密の保護または利益相反の回避のような合法的な理由によって正当化される場合には不適合の条件を定めることができる。

ふむむ、なんだか、昨年末に例の検討会が示したモデル就業規則案と妙に符合していますね。もちろん、欧州委員会と日本の厚生労働省が示し合わせているなどという陰謀説みたいな話はないので、似た話がタイミングよくかち合ったということなんでしょうけど、いろいろと興味深いです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000189518.html

  (副業・兼業)
第65条 労働者は、勤務時間外において、他の会社等の業務に従事することができる。
2 労働者は、前項の業務に従事するにあたっては、事前に、会社に所定の届出を行う  ものとする。
3 第1項の業務が次の各号のいずれかに該当する場合には、会社は、これを禁止又は  制限することができる。  ① 労務提供上の支障がある場合  ② 企業秘密が漏洩する場合  ③ 会社の名誉や信用を損なう行為や、信頼関係を破壊する行為がある場合  ④ 競業により、会社の利益を害する場合

 

 

 

 

 

2018年1月 6日 (土)

東方三賢人のブラックフェイス

これも労働法政策とは直接関係のない雑件ネタですが、EUネタの端っこくらいに配置するかもしれません。

20180106194708_2 新年早々、ネット上ではダウンタウン浜田雅功がテレビ番組で黒人の真似をして顔を黒塗りにして登場したことが黒人差別だとして炎上しているようです。

Threekingsprocessionma012 そのすぐ後に、たまたまテレビで衛星放送を見ていたら、スペインの平和なニュースとして、1月6日の東方三賢人の日(子供にプレゼントをあげるクリスマスみたいな風習)の映像が流れ、その三賢人の一人がまさに黒塗りの顔で練り歩いていたものですから、こっちはどうなんだろうと思ったわけです。

いやもちろん、黒人の顔にもそれぞれの社会にはそれぞれの文脈というのがあるのであって、アングロサクソン系の白人たちがアフリカから連れてきた黒人を奴隷として酷使したアメリカにおける文脈と、中世以来のヨーロッパにおける東方三賢人では文脈が違う。

まあそもそも、聖書には三賢人の内訳など書いていないので、うち一人が黒人なんてのも中世ヨーロッパ人の勝手な妄想ですが、その妄想が何百年間伝統として続けられて来ているので、今更ついこないだできたばかりのアメリカの文脈に引きずられる必要もないということなのでしょうか。

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『POSSE』37号(加筆の上再掲)

1今月末に刊行予定の『POSSE』37号の書影と案内がアップされていたので、こちらでもご紹介。編集長とキャッチコピーが変わるようです。

(1月6日付)

案内がより詳細になっていたので、リンクを付け替えるとともに、目次も紹介します。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237156

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というわけで、わたくしは第1特集の「これまでの10年、これからの10年」にちらと顔を出しております。表紙をざっと見た限りでは、一番面白そうなのは、常見陽平さんの「スポーツとブラック企業」なる文章ですね。例の日馬富士事件を常見さんがどのように料理しているのか楽しみです。

◆特別インタビュー
どこでもぼちぼち生きていくヒント 津村記久子(作家)

◆新連載
スポーツとブラック企業
第1回 貴ノ岩になりたくない営業マン、出会う部下すべて狂わせる日馬富士営業部長 常見陽平(人材コンサルタント)

◆第一特集「これまでの10年、これからの10年」
労働運動と貧困運動の連携と発展 これまでの10年をふりかえりながら 藤田孝典(NPO法人ほっとプラス代表理事)

貧困の現場から社会を変えていくために 反貧困運動10年の成果と変節 稲葉剛(つくろい東京ファンド代表理事)

『POSSE』10年の功績と、次の時代に期待する役割 ブラック企業とAI時代の運動戦略 濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構労働政策研究所長)

編集長が変わる雑誌が変わる 渡辺寛人(新編集長)×坂倉昇平(前編集長)

◆第二特集「憲法と労働」
伊藤真に聞く「憲法改悪にどう対抗していくか」 憲法が護ってきたもの、憲法で護っていくもの 伊藤真(法学館憲法研究所所長)

憲法28条の労働基本権は、死文化してしまうのか? 基本的人権としての労働基本権 宮里邦雄(弁護士)

若者の労働・貧困こそ争点化されるべき 「見えづらい」現代の貧困を社会運動が可視化することを通じて 原田仁希(首都圏青年ユニオン執行委員長)×栗原耕平(AEQUITASメンバー)×渡辺寛人(NPO法人POSSE事務局長)

◆特別企画「過労死対策はこれでいいのか?」 「ブラック産業医」はなぜ生まれてしまうのか? 広瀬俊雄(産業医学センター長)

ブラック研修の闇に挑む ゼリア新薬新入社員過労自死事件の経緯と意義 玉木一成(弁護士)

父の過労死事件と闘う 遺児学生が過労死問題を社会化することの意味 本誌編集部

医療現場を超えて、最良のサポートのために 医療現場と労働・貧困の専門機関との連携 片岡修雪(臨床心理士)

◆単発
求人詐欺は「合意」しても無効 京都地裁の画期的判決 本誌編集部

イタワリ仮面 平八(アマチュア漫画家)

書評 エキタス・今野晴貴・雨宮処凛 著『エキタス』 渡辺寛人(POSSE事務局長)

書評 河野真太郎 著『戦う姫、働く少女』 本誌編集部

日本における貧困観の転回と再転回 新しい反貧困運動のための一考察 渡辺寛人(NPO法人POSSE事務局長・本誌編集長)

在日ビルマ市民労働組合の挑戦 ビルマ難民のための労働運動からミャンマー人技能実習生の権利擁護運動へ ミンスイ(在日ビルマ市民労働組合議長)×小山正樹(ものづくり産業労働組合(JAM)参与)

◆連載
My POSSEノート page4 闘い、歌い、社会を動かす。 岩間寛佳(POSSE ボランティアスタッフ)

若者の貧困のリアル vol.9 ブラックな公務員から即貧困

立ち上がる 第2回 休学費をめぐる闘い

それぞれの町で 第2回 「地方」の絶望のなかに楽しみを見出す術 小松理虔(フリーライター)

知られざる労働事件ファイル No.11 通販会社・オペレーター職の解雇撤回と労使関係の構築 志水輝美(連合福岡ユニオン特別執行委員)

キーワードで読むゼロ年代の労働問題 No.4 「ブラック企業」

ブラック企業のリアル vol.21 酒造会社

労働問題NEWS vol.10

いまどきの大学生 第8回

ともに挑む、ユニオン 団交file.18 大手コンビニでの労基法違反、学業への無配慮
北出茂(地域労組おおさか青年部書記長)

文化と社会 第6回 アートが浮かびあがらせる多様な都市/社会 高山明

労働と思想 37 ハーバーマス 宮本真也(明治大学情報コミュニケーション学部准教授)

POSSE最新ブックレビュー

編集長の部屋

INFORMATION

※「やりがいが悲惨に変わるとき」「ブラックバイトでわかる業界の裏側」「意外な労働の世界」は休載させていただきます。

前書きと、新編集長の渡辺さんの言葉です。

2008年に創刊された雑誌『POSSE(ぽっせ)』は、2018年で刊行10周年となります。1月刊行の『POSSE』vol.37よりリニューアルし、創刊号から編集長を務めた坂倉昇平から渡辺寛人に編集長を交代。
キャッチコピーを「新世代の雇用問題総合誌」から「Life/Work/Culture... Solidarity」として新たな情報発信を行ってまいります。

【新編集長 渡辺寛人より】
 NPO法人POSSEの活動や理念、社会状況を発信するジャーナルとして、2008年、雑誌『POSSE』は創刊されました。当時はまだ若者の貧困や労働環境の悪化は、社会的に共有されていませんでした。そのなかでPOSSEは、若者の労働・生活環境を可視化させ、それを「ブラック企業」という言説で表現し、社会に影響を与えてきました。雑誌『POSSE』は、現場の実践から見えてくる最前線の問題を取り上げ、自己責任とされていた若者の問題を、社会的に取り組むべき問題として世間に周知することに貢献してきたと自負しています。
 そこから10年、状況の共有はできましたが、改善はまだこれからの課題として残されています。幸いなことに、社会の矛盾が可視化されるなかで「おかしい」と思ったことに声をあげる人たちは着実に増えつつあります。ブラック企業・ブラックバイトに抗議する労働運動はもちろんのこと、労働・貧困に限られない様々な領域で若い世代を中心に声が上がりはじめています。こうした声は、ただ現状に対して不満を述べているだけではなく、より生きやすく持続可能な社会へと転換していく萌芽でもあるのです。
 これからの雑誌『POSSE』は問題の発信とあわせて、現場の様々な「声」をとりあげ、未来のために何が必要なのか、「解決・改善」の取り組みを発信する媒体として発展していきたいと思います。

 

 

 

小池ファンは小池理論を全く逆に取り違えている件

昨日は午後、連合の新年交換会に行きましたが、マスコミの皆さんの関心はもっぱら政治的な面にあったようで、鏡割りの際の政治家の並び方が最大の関心の的のようでした。

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それはともかく、会場である方から、拙著で小池理論を批判していることについて疑問を呈せられるということがあり、さすがにごったがえす旗開きの場で詳細な説明をするわけにもいかず、むにゃむにゃと済ませたのですが、これはやはりきちんと説明すべきことだと思い、こちらのブログで詳しく述べておきたいと思います。といっても、中身はほぼ1年前にWEB労政時報に2回にわたって掲載したエッセイです。

その冒頭に述べているように、世の多くの小池ファンの小池理論観は、小池氏が論じているところとは全く逆のものなのではないかという疑問を追求したものです。やや長いですが、最後までじっくりとお読みいただければ嬉しいです。

 日本型雇用システムについての議論では、ほぼ必ず小池和男氏の理論が道しるべとして用いられます。しかし、世間の人々が小池理論を理解している理解の仕方は、実は必ずしも小池氏が一貫して説き続けてきていることとは異なるのではないか、むしろその理論的方向性においては逆向きに理解されてきているのではないかという風に、私は感じるようになっています。「理論的」方向性とは、政治的とか社会的な方向性、いわゆるイデオロギー的な傾きのことではありません。実を言えば、そういう方面からの批判や称賛は山のようにありますが、そういう類いの議論は全て、小池理論の「理論」たる根幹のところを取り違えてしまっているのではないか、取り違えて褒めたり貶したりしてしまっているのではないか、という疑問です。
 今回は、実務的な本サイトの性格からするとやや違和感があるかも知れませんが、上述した違和感を、小池氏の著作の文言そのものを正確に把握することを通じて確認してみたいと思います。今まで著書で部分的に論じてきたことを、この際まとめておきたいという気持ちもあります。

 私自身の「メンバーシップ型」「ジョブ型」論も含め、日本型雇用システムに関する議論はほとんどすべて、欧米の雇用社会と日本の雇用社会が対照的であるという「常識」に立脚して論じられてきました。この「常識」はもちろんあくまでも事実認識として共有されているということであって、価値判断としては真っ向から対立する思想を含みます。むしろ、「ジョブ型」万歳論も「メンバーシップ型」万歳論も、一見対立しているように見えて、その土俵となる事実認識としてはほぼ同じ認識枠組を共有してきたということがここでは重要です。
 この「常識」を共有するさまざまな見解を、その時々の時代の主流となった意見の順番に見ていくと、まず1960年代までの経営側と政府の考え方は、①日本も欧米型職務給を目指すべき、というわりと素朴なジョブ型推進論でした。その当時の労働側の主流(総評)は、②いや建前上からはそうかも知れないけれど、そんなことをしたら労働者とりわけ中高年に不利益になるから反対だというものでした。もっともその頃でも、労働側の非主流派には、③経営側の主張する職務給ではなくて西欧のような横断賃率を目指すべきだと主張する人々もいました。ところが1969年の日経連『能力主義管理』ととりわけオイルショックを過ぎて、世の中の雰囲気は一変し、④いやいや日本型の方が効率的で人間的で素晴らしい、という考え方が世の中に広まりました。1970年代から1980年代はこの思想が世の中を覆った時代です。恐らく世の中の圧倒的に多くの人々は、小池理論とはこの④の見解を実証に基づいて説いたものと思われているのではないでしょうか。ところが1990年代にバブルが崩壊した後は、⑤やっぱり日本型はダメで欧米型を見倣うべし、という考え方が「常識」として政策を駆動していくことになりました。
 と見てくると、方向性は目まぐるしく変わっているように見えますが、いや確かにそうなのですが、日本型と欧米型が対照的であるという(価値判断以前の)事実認識の次元においては、何ら変わることなく一貫していることが分かると思います。そう、私が言う「理論的」とはこの次元のことです。そして、恐らく圧倒的に多くの読者にとって意外に聞こえると思いますが、この「理論的」次元において、一貫して上記さまざまな意見と異なる地点にいたのが、実は小池和男氏の理論だったのです。すなわち、これらベクトルはさまざまでも基本構造は共通の「常識」とはまったく異なり、「欧米型は実は日本型と同じなんだ」という「常識はずれ」の理論を一貫して唱え続けてきたのが小池氏なのです。

 小池氏が初めて自らの賃金理論をまとめて世に問うた『賃金 その理論と現状分析』(ダイヤモンド社、1966年)から、その理論のエッセンスを抜き出してみましょう。小池氏は言います。

・・・わが国の通説は、日本の賃金や労働組合が欧米諸国に比べきわめて特殊だ、と強調している。熟練は本来企業をこえて通用し、労働者は企業間を移動できるはずなのに、日本の労働者は終身雇用によって個別企業に結びつけられ、その企業にしか通用しない「年功的熟練」をもつにすぎない。賃金は本来職種ごとにきまり、企業や年齢によって異ならないはずなのに、日本の賃金は企業によって差があり、また年齢によってはなはだしく異なる。労働組合は本来職業別あるいは産業別の「横断組織」であるはずなのに、日本の労働組合は企業別だ、というのである。
 ここで日本を特殊だという基準は、欧米諸国の「実態」におかれている。あるいは、よりあいまいに「近代的」という言葉が使われている。たしかに・・・右の基準は産業資本主義段階では充分妥当する。だが・・・それらの条件が独占段階に入ってもなお支配的に存在するかは、きわめて疑わしい。近時独占段階の資本蓄積様式の研究が進み、かなり著しい変化が確かめられている。それらは労働力の性質や賃金などにはほとんど及んでいないけれども、変化がそこにも起こっていると推測させるに充分である。そしてわずかに見出された若干の事象をみると、これまで「日本的」とされていたものと少なからず類似している。吟味が要求される。
 まず労働力の性質について、「内部昇進制(job promotion)」と「先任権制度(seniority)」という現象が注目される。・・・先任権制度が確立するなら、労働者は原則として未経験工として入社し、勤続を重ねながらしだいに上級の仕事に進むことになる。他社に移ると勤続による利得を失うことになるから、労働者は個別企業と深く結びつく。その本質はなお吟味されねばならないが、一見日本の「年功的熟練」と似た事象が見出されてくるのである。
 勤続に応じてより上級の仕事につくのが一般的傾向であれば、賃金率が仕事ごとにきまっていても、結果的には勤続に応じても上昇する。この点を確かめるべき資料に恵まれないけれども、充分推測される。そうすると、勤続や年齢に応じて上昇する日本の年功賃金と似ていることになろう。また労働者がひとつの企業に長く勤続するなら、その賃金は企業をこえてまったく共通するとは限らないだろう。・・・こうした類似点は、たんに表面的なものにすぎないのであろうか。それとも、独占段階一般の傾向なのだろうか。その点の研究はまだきわめて貧しく、以下、まだ市民権を得ていない筆者の仮説-ありうべきひとつの説明を提示するほかない。・・・

 誤解の余地はないでしょう。小池理論とは、「欧米諸国でも内部昇進制や先任権制度があるから、日本と変わらない、つまり日本は全然特殊ではないという議論」であって、前記④ではありません。せいぜい、同じ方向に進む同士の中で若干先進的という程度です。そしてその理論的根拠は、これまた多くの人にとっては意外かも知れませんが、今ではあまりはやらなくなった宇野派マルクス経済学の独占資本主義段階論であり、本人自ら実証的根拠はないと認識していたことがわかります。

 いやそれはもう半世紀以上も昔の若い頃の議論であって、その後は変わっているんじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。既に上記④が終わりつつあった1994年に出版された『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)でも、一見紛らわしいその標題にもかかわらず、「日本は全然特殊ではない」という議論を全面展開しています。

・・・通念によれば、日本方式とは、なによりも「年功賃金」「終身雇用」「年功的昇進」「企業別組合」そして「集団主義」である。「年功賃金」で暮らしに応じた賃金を払い、「終身雇用」で雇用が確保されれば暮らしが保障される。ただし、保障されたからといって、人はよく働くものではない。かえって心を安んじ、怠ることも大いにあろう。にもかかわらず日本の職場にそれが起こらないとすれば、それは集団主義という気風の賜だ。企業という集団を重視し、働く仲間に気配りしながら働く。そのゆえに職場の効率が高い、と説く。
 だが、一体絵に描いたような「年功賃金」や「終身雇用」が日本に存在し得ようか。ときに「年功賃金」を、ほとんど勤続や年齢で賃金額が決まるもの、働きにあまり関係なく暮らしで決まるものと想定する。・・・日本では、毎年定期昇給があることをもって、先のように誤解したりする。だが、いうまでもなく、定期昇給制は、毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う。・・・個人の働きぶりによって長い期間をとれば、賃金はかなり差がついていく。そもそも働こうが怠けようが賃金に差がつかなければ、誰がよく働こうか。

 自称小池ファンの多くは無意識的に④の立場に立って、日本型システムのすばらしさを実証している理論だと思い込んでいるようですが、小池著をちらとでも読めばそれは全く逆であって、そういう「通念」「常識」を批判しているのが小池理論であることがわかります。
 ただし、その議論の仕方はあまりにもアンフェアと言わざるを得ません。ほとんど非現実なまでにカリカチュアライズされた④をこしらえて、その非現実性を叩くというやり方です。本来問題の立て方は、なぜ欧米では一般労働者層には個人査定はないのに、日本では末端に至るまで「毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う」のか?でなければならないはずなのに、そういう疑問が生じないように議論を誘導することで、雇用・賃金システム論を封じ込めてしまっています。
 しかしむしろ問題は、そういう議論の構成であるにも関わらず、つまり日本型は欧米型と変わらず、むしろ欧米よりも欧米型であること(=普遍性)がその「強み」だという議論であるにも関わらず、なぜか世間では欧米型に対する日本型の「強み」を実証した議論だと理解されているという皮肉な事態にあります。
 その背景事情には、青木昌彦企業論における「J企業論」とともに、日本経済の全盛期にその活力の理由を説明する理論として「消費」されたからではないかと思われますが、圧倒的に多くの小池読者たちは、こういう文章を目の前に読みながらその文字通りの意味を理解しようともせず、脳内で勝手に小池理論を上記④の議論だと思い込んでしまい、この壮烈なパラドックスを的確につかまえられていないのではないかと思われるのです。

 さらにその後、1999年に出された『仕事の経済学(第2版)』(東洋経済新報社、1999年)では、その「第13章 基礎理論と段階論」で、30年以上前の宇野マルクス経済学の段階論のロジックを繰り返しています。それによると、まず4つの労働力タイプ論が提示されます。

A 技能がやや高く、時間によっても不変のタイプ(熟練労働者タイプ):
B 技能が低く、時間によっても不変のタイプ(不熟練労働者タイプ)
C 技能が時間によってかなり高まるタイプ(内部昇進タイプ)
D 技能が時間によってやや高まるタイプ(半熟練労働者タイプ)

 これを産業化の2段階論と組み合わせると、こうなります。

(1)クラフトユニオンの時代:AタイプとBタイプが主役、組合が熟練を形成し、職種別賃金率。
(2)産業別組合の時代:CタイプとDタイプが主役。
(3)これをさらに前期と後期に分け、前期はDタイプがやや主役でCタイプは専門管理職的ホワイトカラーにとどまるが、後期はCタイプが生産労働者にも広まる。

 つまり、日本型特殊性論を否定し、それ(「ブルーカラーのホワイトカラー化」)を産業別組合時代後期の一般的性質に解消する議論なのです。しかし、再びその実証的根拠は希薄です。その正否はともかく、宇野マルクス経済学の段階論で一貫している点だけは明らかです。そして、殆どすべての小池読者たちが(表面上の価値判断の片言隻句に囚われて)見落としてきたのもこの理論的一貫性です。
 では現実に存在する各国間の差異を小池氏はどう説明するのでしょうか?

・・・それぞれの発展段階には、それぞれ最も適合した経済や技術の方式があるのみならず、さらに最も適した労働力タイプ、労働組合、労使関係などの社会制度があろう。・・・第1段階が長い間反映すると、それに適合した社会制度が十二分に発達し、深く根を下ろして確立する。第2段階になっても前代の制度があまりに強く確立しているためにその廃棄、従ってその移行コストが高くなりすぎ、第2段階の社会制度の普及がかえって遅れる。
・・・そうじて第2段階の社会制度をより広く十分に確立させたという点で、日本の技能形成制度、労使関係制度は、世界の流れを半歩先んじている。
・・・なお、単なる後発効果の強調ですむなら、後発の国は他に多い。なぜ今のところ日本だけが先んじているのであろうか。恐らく第2段階への移行の時期と、日本の当時の内的発展の高さがうまく適合したのであろう。他の多くの国は第2段階がかなり進んでから産業化に乗り出し、第2段階の先頭を切るには遅すぎた。

 正直言って、本気か?と言いたくなります。あまりにも「常識はずれ」です。もっとも、小池氏はあまりにも宇野マルクス経済学に忠実なので、いかなる社会も同じ道を進歩していくという考え方以外が目に入らないのかも知れません。そういう単線発展論の土俵の上で「日本のふつうの議論は長らく日本の遅れによる、とみてきた。はたしてそうか。」という反論をしているつもりなのでしょう。議論が壮大にすれ違っているわけです。

 ここで、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
 労使関係論とは何でしょうか?一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。
 戦時賃金統制と電産型賃金体系が確立した生活給自体は政治的産物であるので、その合理性を経済学から演繹することはできません。しかし生活給を変形した(厳しい個人査定付き)年功的職能給制度の合理性は経済学的に説明することが可能です。
 いわば、小池理論とは、労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論なのです。

 この労使関係論なき純粋経済学ぶりは、賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも明確に現れています。上記『賃金』(1966年)を見てみましょう。小池氏は、当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論して、こう述べます。

・・・だが、右の議論には納得できない疑問点が数多く見出される。第一に、賃金率の上がり方と決め方が混同され、区別されていない。決め方とは、ここの賃金率を直接規定する方式のことである。・・・これに対して、賃金率が結果としてどのような趨勢をとるかが「上がり方」の問題である。
重要なのは、この二つが全く次元の異なったものだということである。例えば、決め方が職務給でも、上がり方が年齢に応じて上昇することもあり得る。・・・この両者のうち、より一層重要なのは上がり方である。そこに生活がかかっているからである。ところが右の年功賃金論は、この区別を知らない。職務給をとれば上がり方も緩やかになる、と考えている。だが職務給はもともと決め方にすぎないのであって、決め方を変えたからといって、上がり方がそれによって変わるものではない。・・・だから、そもそも上がり方としての年功賃金を、決め方としての職務給と対立させるのがおかしいのであり、両者は両立しうるのである。・・・

 さらっと読むと一見もっともらしく見えますが、生活給とは「上がり方」そのものを「決め方」で規制する仕組みであり、結果としてこういう上がり方になりましたというものではありません。労使関係論者であれば労使の抗争と妥協の中でどういう「ルール」になったかが最大の関心になるはずですが、小池氏にとっては(当事者が決定した)「ルール」よりも「より一層重要なのは」(当事者ではなく外部の観察者が調査しグラフ化して初めてみえてくる)「上がり方」であるという点に、その純粋経済学者としてのスタンスが現れています。
 とりわけトリッキーなのは、「そこに生活がかかっているからである」という台詞です。「そこに生活がかかっているから」こそ、電産型賃金体系は直接に「ルール」でもって「上がり方」を「決め」ようとしたのです。つまり確実に上がるような「決め方」が大事なのであって、労使当事者が決められる「ルール」の外側の経済学者が観察しグラフ化してはじめてみえてくる「上がり方」などに委ねようとはしなかったのです。

 よく知られているように、1969年の『能力主義管理』は、日経連の20年に及ぶ職務給化唱道からの撤退宣言です。「職務」による決定を「職務遂行能力」による決定に「転進」させることで、生活給に由来する年功的「上がり方」を経済学的に合理的なものとして運用することが可能になりました。それゆえそれは運用次第で生活給的な運用にも「能力」を理由とした大きな差のつく運用にもなりえます。「能力」概念の曖昧さが、年功ベースでも経済学的に合理的な運用を可能にするというパラドックスです。それを初めからそのように構築されたかのように説明するのは、歴史感覚の欠如した経済学的思考にすぎません。
 この「能力主義」を経済学的に説明する道具として70-80年代に活用されたのが小池氏の名と共に人口に膾炙した「知的熟練論」です。しかしその原型は『賃金』(1966年)にあるとおり、中小企業と大企業の賃金の上がり方の違いの経済学的に見える説明でした。今ではほとんどの人がその原型を知らずに使っていると思いますが、「知的熟練論」とはこういうものだったのです。

・・・この傾向を素直に解すると、5~10年以上の勤続の意味が、大企業と中小企業とでは、ちがうらしい。大企業では5~10年をこえても勤続年数はなお技能(広い意味での)と相関し、それゆえ賃金も上昇していくのであろう。それに対し中小企業では、それまでは技能とかなり深く相関し、それゆえやはり賃金も上昇していくのだが、それをこえると、もはや技能との相関が浅くなり、そのため賃金も鈍化ないし横ばいとなっていくのではあるまいか。いいかえれば、大企業の労働能力は、10年をこえてもなおより高い職務へと昇りつづけるのに対し、一般的にいって中小企業の労働力は、必要経験年数が5~10年どまりの職務の遂行にとどまっているのではあるまいか。要するに、中年長勤続層における著しい格差は、労働能力の性質のちがいによると推測される。だから労働市場の逼迫によっても、依然格差が残ったのではあるまいか。・・・
では、なぜ中年長勤続層では労働能力の種類のちがいが生じるのだろうか。・・・大企業の機械設備が中小企業に比べ概して巨大で複雑なことを想起する必要がある。・・・大企業の巨大な複雑化した機械体系は、・・・しばしばそうした「知的熟練」を強く要求している。ひとつのスイッチを押すにも、機械体系全体の仕組みについての理解が要求され、そのために関連する多くの職務を遍歴してその「知的熟練」を身につける必要があり、かくして、想像以上に長い経験年数が必要とされる。・・・要するに、中年長勤続層のはなはだしい格差は、おもに労働能力の種類のちがいによるものと考えられる。

 正直な感想を言えば、「あるまいか」の連発のあげくの「知的熟練」という万能の説明であり、笑止千万としか言いようがありません。言うまでもなく、日本には欧米のような企業を超えてその職業能力を認証する仕組みは存在しません。本当に大企業の中高年労働者の能力がその高賃金に見合うだけ高く、中小企業の中高年労働者の能力がその低賃金に見合うだけ低いのかどうかを客観的に測定する物差しは、どこにも存在していないのです。小池氏の説明は、現実に存在する大企業と中小企業の年功カーブの格差を、労働能力の格差を反映しているに違いないと推測しているだけです。存在するものは合理的というヘーゲル的な論理というべきでしょう。

 しかしこの説明の仕方は、後年の『中小企業の熟練』(1981年)でも全く変わっていません。証拠のない仮説のままで。

・・・かくて、労働力の質を強調する仮説が残る。この仮説にとって有利な状況は、大企業は、そこに働くすべての労働者に対して、より高い賃金を払ってはいない、ということである。大企業の仕事をしていても、季節工、社外工、下請、臨時という形で、かなりの人々には、中小企業労働者や不熟練労働者と変わりない賃金が支払われている。本工とホワイトカラーだけが、より高い賃金を支払われているに過ぎない。そして、その人々は、かなり広い範囲の職務を遍歴する内部昇進制の下にある。その内部昇進制が、他のグループとは違った労働力の質を形成しているのではないか、というのである。
・・・この仮説の難点は、労働力の質について経験的研究が乏しく、それを直接支持する証拠が提出されていない、ということである。労働能力それ自体について、統計的資料など存在しない。ごく若干のケースについて細かい観察があるに過ぎない。これはまだ証拠に恵まれない、一つの仮説に過ぎない。ただこの仮説を採ると、他のいくつかの仮説も生きてくる。・・・
・・・大企業と中小企業の労働力の質について、前節で見た規模別賃金格差の実態がまことに示唆的である。労働需給が逼迫して久しい時期にもかなりの格差が残る。残る格差は、製造業ブルーカラーに著しい。・・・これだけの格差があれば、そして需給関係にその原因を求められないとすれば、何らかの労働力の質の差、あるいは労働力タイプの違いとみるのは、けだし当然であろう。

 「労働需給」で説明できない部分は「労働力の質」で説明するしかない、というこの発想!言葉の最も正確な意味で「労使関係論なき純粋経済学」の名に値します。労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論です。そして純粋経済学であるがゆえに、「証拠なき仮説」が平然と通用してしまうのです。

 しかし、「証拠なき仮説」はいかに紙の上の議論としては通用しても、現実社会では企業行動自体によって裏切られてしまいます。上記『日本の雇用システム』(1994年)ではこう高らかに論じているのですが、

・・・しばしば日本の報酬制度は、単に「年功」つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた。職場における能力とは、端的には技能にほかならない。ところが、技能の伸長と報酬との関係はあまり立ち入って吟味されなかった。技能はそれほど長期には伸びないと想定されていたかのように思われる。だが、これまで最も深く技能を吟味した業績によれば、勤続20年を超えて、なお技能は伸び続けるという結果が得られている。・・・知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。この二つは、普通の報酬の方式では促進できない。

 問題は、その「知的熟練」が、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。

・・・では現代日本の解雇の方式に何の問題もないのか。いや、そうではない。通念とは全く逆に、日本の方がコストの高い人たちを解雇しているかも知れないという疑問である。
・・・この日独の差は何を意味するか。中高年の解雇は、本人にとってその損失がはなはだ大きい。 ・・・日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。・・・そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしも、それをまったく知らずに実施しては、失うものが甚だしい。肝心の変化と問題をこなす高い技量の形成を妨げよう。それは、職場で経験をかさね、実際に問題に挑戦して身につける。長期を要する。雇用調整が早すぎると、その長期の見通しを壊してしまいかねない。いったん崩れると、その再建は容易でない。

 何でしょう、この無責任ぶりは。欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が、肝心の中高年の取扱いになると、それがまったくわかっていない愚か者に変身するというのは、あまり説得力のある議論ではありません。
 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音でしょう。
 「職務遂行能力」にせよ「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできません。リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているのです。

 そろそろまとめておきましょう。
 戦後日本の労働政策において、中高年雇用は常に問題であり続けました。高度成長期にはその問題点は極めて明確で、経済的合理性に反する年功賃金制のため、企業が中高年雇用を選好しないためでした。職務給を唱道する経営側だけでなく、生活給を死守しようとした労働側も、問題構造の認識は同じだったのです。それゆえ当時は賃金制度改革が答えでした。「常識」に立脚しつつ「存在するものは(必ずしも)合理的ではない」という非ヘーゲル的認識からの経済学的答案です。
 ところが、小池理論は中高年の高賃金を知的熟練論で論証することにより「存在するものは合理的」にしてしまいました。つまり問題そのものを消去したのです。
 しかし紙の上で問題を消去しても、現実世界の問題は消え失せてくれません。その理論上の「合理性」に反する(不況のたびに繰り返される)企業行動を批判する小池理論は、矛盾を内在するパラドックスになってしまったといえましょう。
 その原因は挙げて、ほとんどすべての当事者たちが共有していた「常識」「通念」に反する理論構成をしたためです。
 「常識」はずれの議論は、いかにアクロバティックな論理展開で人を酔わせても、最後は破綻するのです。

 

 

日本人は個人として優秀なのか集団として優秀なのか?

これはどちらかというと漫談風のエントリですが、経済産業研究所のサイトの新春特別コラムのとりわけタイトルにとても違和感を感じたので、その違和感のよって来るところをちょっと考えてみたいと思います。

https://www.rieti.go.jp/jp/columns/s18_0006.html (個人では超優秀な日本人が、企業体になるとなぜ世界に負けるのか;日本企業の極めて低い生産性の背景に何があるのか by 岩本晃一)

ところが、超優秀な日本人が大人になり、会社に就職して組織で仕事を始めると、どういう訳かとたんに、アウトプットは貧しくなる。就職した若者は、仕事の手を抜いている訳ではない。毎日夜遅くまで、必死で仕事をしているにも関わらず、組織としてのアウトプットは世界的に見て、極めて低い。いまや日本人の労働生産性の低さは世界的に有名だが、いまだに日本人の多くが日本が世界的に強いと信じ込んでいる「ものづくり」の分野でも、日本人の生産性は先進国のなかで、ほとんどビリに近い(図表1)。一体、日本の企業組織のどこがおかしいのだろうか。先日、ある友人が「うちの会社に入ってくる新人は、入社時は目がきらきらと輝いているが、1年経つと、死んだ魚のような目になる」と言っていた。その表現が必ずしも全ての若者を表現している訳ではないが、一面では真実であろう。・・・

いやいや、ちょっと待ってくれ、日本人は個人では超優秀だって?そして企業体になると世界に負け続けるって?

少なくともバブル崩壊までの日本では、全く逆の言説が世間で主流であったことは、一定年齢以上の人々であればみな覚えているでしょう。

曰く、日本人は個人では諸外国にかなわないが、集団になれば一致団結して頑張るからここまで成長できたんだ云々と。

欧米人は個人主義、日本人は集団主義という、今となってはかなりの程度疑わしい議論も堂々と通用していたその頃は、それと日本経済の強い競争力を絡めたその手の議論が様々な意匠をまといつつ流されていました。

さらには、これは中国人から、「中国人は一人では龍だが、三人だと豚になる」という議論もあって、これは裏返して言うと、「日本人は個人では豚なのに三人だと龍になる」という意味でした。

まあ、個人で行動したがるということと、その個人が成果を出せるということは別ですし、集団で行動したがるということと、その集団が効果を発揮するということは別ですから、安易な議論はすぐ底が抜けるのですが、とはいえ、時代が変わると、かつてどんな議論が流行っていたかが完全に忘れ去られて、全く逆の議論が栄えるという姿を見ると、こういうたぐいの議論にはあんまりかかわらないほうが(後世の見る人の目を意識するのであれば)身のためという気もします。

 

 

2018年1月 5日 (金)

水町さんが集団的労使関係派に?

経営民主ネットワークの『経営民主主義』という雑誌は、私も何回か登場したことがありますが、66号(12月号)では「日本の働き方改革を問う」と題して、水町勇一郎さんを呼んで討論をしています。それを読んでいって、正直水町さんが思った以上に非正規処遇問題の集団的労使関係による解決ということを考えていることが分かりました。

まず最初の問題提起のところで、「労働組合の役割」と題して、こう述べています。

・・・例えば、同一労働同一賃金の実現のためには、正規労働者の意見・利益だけでなく、パートタイム労働者、有期契約労働者、派遣労働者の意見・利益も吸収して、議論を重ねていくことが求められる。

このプロセスは、法的にも重要な意味を持つ。制度を作り上げた後に、裁判所でその制度の適法性が争われた際に、非正規労働者の意見・利益も適切に吸収・反映させながら労使の合意を得て制度を築き上げてきたことは、制度の適法性の判断に大きく貢献する事実となりうる。とりわけ、非正規労働者の多くが労働組合員として組織化されている労働組合と協議・交渉を重ねて合意が得られていることは、待遇の相違が不合理でない(適法である)ことを後押しする重要な事実となるだろう。その意味で、非正規労働者を組織化している労働組合が存在し、その組合と生産的な話し合いを行うことができることは、法的安定性・予見可能性をもって制度の設計と運用をしたい使用者にとっては、極めて重要な意味を持つ。・・・

これはまさに、私が『新しい労働社会』以来繰り返し論じてきたことでありますし、この間の政策決定過程においても、働き方改革実現会議や同一労働同一賃金検討会で岩村さんや神吉さんなどが繰り返し述べていたことなのですが、そういう場で水町さんはどちらかというとそういう集団的労使関係がらみのことにはあまり関心を示さず、司法的解決を中心に見ているのかな、という印象を持ってきました。

も少しいうと、この間の政策決定にもっとも影響を与えた水町さんが、この集団的労使関係による解決に消極的(あるいは少なくともそれほど積極的ではない)ので、結果として法案には(派遣の部分を除き)そういう趣旨の規定は盛り込まれなかったのではないかという印象があったので、この場での発言には正直意外感がありました。

それならもっと早く言ってよ、みたいな。

その後のパネル討論で、小林良暢さんの問いに答えつつこう述べています。

・・・今回の働き方改革がもしかしたら、組合の最後のチャンスかも知れない。実際、労働組合の組織率が17%を切るか切らないかで、このあとさらに組織率が減って、本当に労働者の代表なのかという問題を押しつけられている中で、ここでもう一回盛り返して労働者の代表なんだという方向に持っていく最後のチャンスであるかも知れません。同一労働同一賃金がふたを開けてみると、非正規を代表して非正規労働者の声を反映している組合と使用者が話し合いをし、同意していれば裁判に行って、不合理性を判断するときにプラスに評価されるだろう。

これは正社員組合だと、正社員組合と会社がサインし労働協約とか就業規則変更でサインしたとしても、むしろ自分たちの利益を守るために非正規社員の処遇を低くした合意をしているのではないか。この同一労働同一賃金で、均等均衡とか不合理が裁判になった時に、会社の一番敏感に感じているのは組合問題でなくて、この裁判なんですよ。・・・

いやまさにそうすべきだと言ってきたことをそのまま水町さんが述べていて、全く同感なんですが、だけどそれならなぜ政策プロセスでそういう方向に論じてくれなかったのかな、という思いが。

2018年1月 3日 (水)

兵庫県勤労福祉協会平成29年度 第5回「労働問題研究会」

兵庫県勤労福祉協会の平成29年度 第5回「労働問題研究会」のご案内です。

http://hyogo-roudou.jp/publics/index/1/detail=1/c_id=3/page3=1/type014_3_limit=5/#page1_3_76

Hyougo

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