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« 人材と競争政策に関する検討会@公正取引委員会がそろそろ報告? | トップページ | EUにおける新たな就業形態に対する政策の試み@『労基旬報』2018年1月5日号 »

2017年12月28日 (木)

教員免許がなくてもできる仕事は致しません

昨日のエントリ「学校における働き方改革に関する緊急対策」に関わって、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-38e2.html

Logo_mextある方から、この問題を所管している初等中等教育局初等中等教育企画課長の矢野和彦さんが、文科省の初等中等教育局メールマガジンに、こういうコラムを書いているよと、お知らせいただきました。「「学校における働き方改革について」というコラムです。

メルマガなので、現時点ではまだ一般公開されていないのですが、国の機関のメルマガなのでプライベートなものではないはずですし、時間が経つと文科省HPに公開されているようなので、興味深かったところを紹介したいと思います。

http://www.mext.go.jp/magazine/backnumber/symel.htm

なかなか本音ベースの表現が炸裂していまして、学校という業界がどういう顧客の皆様に取り囲まれているかが浮かび上がってきますが・・・、

・・・その一方で、世間からは、「子供が問題を起こした。」「トラブルに巻き込まれた。」「事故に遭った。」といえばまず学校に連絡が来たりします。また、通学路、あるいは、地域で何か事件が起これば翌日には、教師たちが早朝から通学路に立ったり、集団登校の引率をしたりします。
 一義的には子供の保護責任は保護者にあるはずで、「緊急」の名のもとに教師たちが本来業務でもないにもかかわらず対応しているわけですが、もし、その対応を誤った場合、事故が起きてしまった場合、いったいだれがその責任を取るのでしょうか。
 また、「放課後は行き場のない子供たちのために学校を使わせてほしい。そこに先生がいるのだから、何かあったら子供たちの面倒を見てやってほしい。」「自分たちはこ~んないいことをする。だからぜひ学校は保護者や子供たちに協力するよういうべきだ。」などなど多くの「善意」が持ち込まれます。一つ一つは確かにいい話なのですが、しかし、見方を変えれば、単に学校や教師の「善意」に「フリーライド」しているだけです。こうやって学校や教師が「ボランティア」を迫られ続けるのです。
 なぜ、学校がこんな状況になり、多忙化しているのか、要因については、今回の「中間まとめ」で書かれた通りですが、私は、文部科学省の責任は大きいと思います。・・・

で、しばらくその文科省の反省が続きますが、そこを飛ばして少し先に行くと、本エントリのタイトルになる決めぜりふが出てきます。

・・・ところで、何かの番組で「医師免許がなくてもできる仕事は致しません。」という決めゼリフがありましたが、「教員免許がなくてもできる仕事は致しません。」と教師が言える現状に果たしてあるでしょうか。

 欧米諸国と違って、おおざっぱに言えば、日本の学校では教師以外のスタッフは1校に1人の事務職員、養護教諭、用務員(主事)がそれぞれ配置されている程度で、それ以外のスタッフの人数は非常に少ない、というのが実情です。アシスタントティーチャーなどが教師の数以上にいるようなイギリス、教師と同レベルの資格をもつ生徒指導専門員のいるフランスなど、欧米諸国の学校には、大勢の教師以外のスタッフが存在します。また、学校の「守備範囲」自体が、「知徳体」を標榜し、全人格的な完成を目指す「日本型学校教育」=「大きな学校」に比較すると、欧米諸国の学校の「守備範囲」は、やや乱暴に言うと「知育」+αに特化しているといえ、「小さな学校」とな っています。全然、比較する土台が違います。 ・・・

そう、話は結局そこにたどり着くのですね。世界的には「先生」と言われる高度専門職のはずが、「いつでも、どこでも、なんでも」の3拍子揃った典型的な無限定正社員型の働き方になっているわけです。

そしてそれを支える、「いつでも、どこでも、なんでも」子どもの面倒見てくれるのが当たり前という親という名のお客様の群れ・・・。

そこから矢野さん、ご自分のローマ駐在時代の経験を語り出します。

・・・話はやや脱線しますが、私がイタリアの日本大使館に勤めていた際に、ローマ市立の幼稚園に息子を通わせておりましたが、就園年齢は、2~4歳なので当然「おもらし」もあります。1年目は、用務員さんが「おもらし」の対応をしてくれていたのですが、2年目からは、学校と用務員さんとの間で交渉が「決裂」し、「おもらし」の対応は学校はしないことになりました。その結果何が起きか、、、、、。なんと、その度に親が学校に呼ばれ「対応」を求められることになったのです。その時の担任の教師の言葉は、“mi dispiace”((自分は悪くはないが)お気の毒です。)というものでした。我が国ではまず考えられませんがおらくこれが欧米諸国においてはかなり一般的な感覚なのだと感じます。

 我が国の教育関係者が明治以来培ってきた「日本型学校教育」では、このような結論を見出すことはおそらくないのではないでしょうか。 ・・・

そう、「教員免許がなくてもできる仕事は致しません」というのは、つまりそういうことなんです。誇りある職種のジョブ・デマ-ケーションという奴です。

日本の学校の先生方の仕事のかなりの部分が、もう少し上の年齢層の子供たちの「おもらし」対応になっているという気持ちが、にじみ出てくるようなコラムですね。

逆に言うと、この問題の根の深さが窺い知れようというものでもあります。

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コメント

日本の学校教員が専門職ではなく総合職的な無限定正社員型の働き方となっていることが、現在の学校が抱える諸問題の根源にあることは間違いないでしょう。

しかし、そのような働き方を引き受けることで、引き換えに学校教員が日本型雇用的な年功賃金の恩恵を受けていることも指摘しておかなければなりません。

学校が抱える問題を解決するためには、学校が果たすべき機能は何なんなのか整理したうえで、その機能に応じた専門職スタッフの集合体として学校を再編成する必要があるでしょう。しかしその場合、専門性、負担や責任の重さに応じた賃金制度に移行する必要がある。誰もが横並びで昇給していく年功賃金とは決別しなければならない。

文科省が学校改革を進めるならば、まさにその焦点は賃金システムにある。ここに抜本的にメスを入れられなければ、改革は失敗するでしょう。しかし、現状では文科省の政策は、賃金システムには手をつけず、教員の負担を減らすための専門スタッフの活用という弥縫策にとどまっているように思えます。

戦後日本の学校は、教員たちの独立王国的共同体として運営されてきた。教員の労働運動もそのような方向性を志向してきたと思われます。その結末が現在の学校の惨状でしょう。願わくば教員自らが王国の解体を率先して行ってほしいが。。

であれば、授業に出てこない生徒への働きかけは、誰が行うのでしょうね。課外の「いじめ」は先生の責任ではなく、ましてや学校の責任ではないということなのでしょうね。それを徹底する気が文部科学省にあれば、でしょうが。

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