第60回日経・経済図書文化賞に鶴光太郎さんと山口一男さん
第60回「日経・経済図書文化賞」を受賞した5作品のうちに、本ブログでご紹介した2作品が入っています。
https://www.nikkei.com/topic/20171103.html
岩本康志・鈴木亘・両角良子・湯田道生著『健康政策の経済分析』(東京大学出版会)
神田さやこ著『塩とインド』(名古屋大学出版会)
山口一男著『働き方の男女不平等』(日本経済新聞出版社)
鶴光太郎著『人材覚醒経済』(日本経済新聞出版社)
伊藤公一朗著『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社)
5冊のうち2冊が労働関係、しかも今話題の働き方改革の中核的課題にかかわる本ですね。これもやはり時代の表れというべきでしょう。
しかもいずれも、わたくしの議論も引用しつつ、ほぼ同じような方向性を提示している本であるだけに、その受賞は大変うれしいものがあります。
まず、鶴光太郎さんの『人材覚醒経済』は、昨年9月26日付のエントリで取り上げました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-0c9b.html
鶴光太郎さんから新著『人材覚醒経済』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。
http://www.nikkeibook.com/book_detail/35702/
「一億総活躍社会」は政権の人気取り政策ではないかと考える人々も多いかもしれないが、人口減対応・人材強化が日本経済の次なる成長にとって欠かせない条件だ。だが、アベノミクス第2ステージには旧目標と新目標が入り乱れ、混沌の様相を呈している。こうした状況を脱するには「一億総活躍社会」を目指して新3本の矢を束ねる横軸が必要だ。それは「ひと」にまつわる改革。眠れる人材を覚醒させる、教育を含む広い意味での人材改革と働き方改革だ。
本書は、働き方改革の根本は多様な働き方の実現ととらえ、そのためにどのような改革が必要か、どのような社会が生まれるのかを明らかにするもの。
第2次安倍内閣成立後、規制改革会議雇用ワーキンググループの座長として広汎な雇用制度改革の議論をリードしてこられた鶴さんが、その立場から外れて一息入れて思いを書き下ろした本というところでしょうか。
オビに書かれている文句が、鶴さんの思いを結構ストレートに表現していて、左側にでかく「働き方だけで日本は変われる」とありますし、真ん中あたりに小さい字で
「成長のアキレス腱となった無限定正社員システム。
その問題点を解決できるのはジョブ型正社員だけだ。
実力派経済学者が労働改革の具体策を提示。」
という3行が。
この文句からも分かるように、この本は
「元兇は日本の無限定正社員システム」
という原認識から、ジョブ型正社員への移行によって女性、労働時間、高齢者、若者、非正規、等々あらゆる雇用問題を解決に導こうとする意欲的な本になっています。
序 章 人材覚醒――アベノミクス第三ステージからの出発
第1章 問題の根源――無限定正社員システム
第2章 人材が覚醒する雇用システム
第3章 女性の活躍を阻む2つの壁
第4章 聖域なき労働時間改革――健康確保と働き方の柔軟化の両立
第5章 格差固定打破――多様な雇用形態と均衡処遇の実現
第6章 「入口」と「出口」の整備――よりよいマッチングを実現する
第7章 性格スキルの向上--職業人生成功の決め手
第8章 働き方の革新を生み出す公的インフラの整備
終 章 2050年働き方未来図――新たな機械化・人口知能の衝撃を超えて
というところからも窺えるように、その基本認識や政策方向において、私が過去数年来書いたり喋ったりしてきたことと、(若干の違いはあるものの)ほぼ同じスタンスに立っているといってよいように思われます。
実際、本書を読んでいくと、かなりの頻度で私の著書への言及があり、どのあたりで両者の認識がつながっているかが分かるでしょう。
もちろん、法律方面から攻める私と違い、理学部数学科卒業でオックスフォードで経済学の博士号を得た鶴さんですから、随所にそれは現れています。
たとえば、よくわかっていない軽薄な経済評論家ほど「硬直的な労働法が岩盤規制だ」などと言いたがるところで、「我々の心に潜む雇用システムの「岩盤」の打破」という見出しで、雇用システムをゲーム理論を駆使して比較制度分析し、
・・・したがって、雇用制度改革の岩盤は、個々の労働規制というよりは、むしろ我々の心の中にあると考えるべきである。
そうであるのならば、無限定正社員にまつわる諸問題を解決するためには、我々の頭=「岩盤」に「ドリル」を向けなければならないのだ。・・・
と明確に言ってのけます。ここで用いられる「ナッシュ均衡」「共有化された予想」「制度的補完性」といった概念は、私が法社会学的な言葉を使って何とか表現しようとしていたことを、軽々と見事に言い表していて、やっぱ経済学者さすが、という感想を抱かせます。この辺は、鶴さんが以前在籍していた経済産業研究所の故青木昌彦さんの影響もあるのでしょう。
上記目次をみて、1章だけやや他と異なる匂いを醸しているのが第7章の「性格スキルの向上--職業人生成功の決め手」というものです。いやこれ、正直言って、鶴さんがなぜ本書にこうして盛り込んだのかよくわからないのですが。
次に山口一男さんの『働き方の男女不平等』です。今年6月9日付のエントリで取り上げました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-470e.html
山口一男さんの『働き方の男女不平等 理論と実証分析』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。ありがとうございます。山口さんは以前の『ワークライフバランス』でも大変ブリリアントな切れ味の分析を示してこられましたが、本書はさらに磨きがかかっています。
http://www.nikkeibook.com/book_detail/13471/
◆先進諸国のなかで、日本の男女平等の度合いが最低ランクなのはなぜか? 学歴の男女差が縮まり、企業が両立支援策を推進しても、なぜなかなか効果が現れず、逆に悪化している指標まであるのはなぜか? 日本を代表する社会学者が日本や海外の豊富なデータと最新の統計分析手法をもとに解明する。
◆分析の結果、現在の「働き方改革」や「一億総活躍社会」の取り組みにとっても示唆に富む、次のような事実が明らかになる。
*「女性は離職しやすく、女性への投資は無駄になりやすい」という企業側の思い込みが、女性活用の足かせとなっている。
*労働時間あたりの生産性が高い国ほど女性活躍推進を進めやすいが、長時間労働が根付く日本では進めにくい。
*管理職割合の男女差は、能力からはほとんど説明がつかず、性別や子供の年齢、長時間残業が可能かどうかが決定要因となっている。
*女性の高学歴化が進んでも、低賃金の専門職(保育・介護・教育など)に就く女性が多く、高賃金の専門職(法律職・医師など)になる割合が著しく少ないため、賃金格差が広がることになっている。
◆著者の山口一男氏は、社会学で世界最高峰の位置にあるシカゴ大学で学科長まで務めた、日本人学者としては希有の存在。
黙示目次は次の通りですが、
第1章 女性活躍推進の遅れと日本的雇用制度――理論的オーバービューと本書の目的
第2章 ホワイトカラー正社員の管理職割合における男女格差の決定要因
第3章 男女の職業分離の要因と結果――見過ごされてきた男女平等への障害
第4章 ホワイトカラー正社員の男女の所得格差――格差を生む約80%の要因とメカニズムの解明
第5章 企業のワークライフバランス推進と限定正社員制度が男女賃金格差に与える影響
第6章 女性の活躍推進と労働生産性――どのような企業施策がなぜ効果を生むのか
第7章 統計的差別と間接差別――インセンティブ問題再訪
第8章 男女の不平等とその不合理性――分析結果の意味すること
ここではちょっと毛色の変わった第1章を紹介しておきます。タイトルから窺われるように、女性が活躍できないことと「日本的雇用制度」(日本型雇用システム)との関係を概括的に考察しているのですが、わたしにとっても大変興味深い議論が展開されているからです。
日本型雇用については、70年代に隅谷・舟橋論争があったことは、労働研究者くらいしか知らないかもしれませんが、山口さんも若い頃はドリンジャー・ピオレの内部労働市場論自体、あるいはロバート・コールの機能的代替物論によっていたそうですが、次第に舟橋の指摘する「日本企業が雇用者のイニシアティブや意志を考慮しないという点は、実はかなり本質的な違いであると思えてきた」そうです。つまり、「無限定な職務内容や不規則な残業要求への従属を課すことによる拘束と高い雇用保障をすることの交換という機能をも持つ」という点ですね。この「無限定性」への着目が、女性の活躍できなさとつながるポイントになるわけです。逆にいうと、そこを無視した機能的代替物論は、男女均等法以前的視座に立った議論だったと言えるのでしょう。
そしてそこから山口さんは、村上・佐藤・公文の『文明としてのイエ社会』論が、日本型雇用が機能的にも欧米と異なる説明になっているとして、彼らが「イエ社会」の特徴としてあげた4つの点について詳しく検討していきます。
村上・佐藤・公文の「系譜性」対「利潤最大化」の対比、そして筆者のいう「報酬の連帯性」対「報酬の個別性」の対比は、ともに機能の違いを意味する。これらの違いはわが国企業の雇用制度・慣行が単に欧米の内部労働市場の機能的代替物とみなすことは出来ないことを意味していると考えられる。そして「報酬の連帯性」は報酬が個人の業績・成果にたいして与えられるべきという規範が存在しないわが国の文化的初期条件の下で可能であった。また村上・佐藤・公文のいう「縁約」が日本企業の特性となったことは、「契約」の内容である「労働と賃金の交換」に加え、「会社という疑似家族のメンバーになること」と「会社への忠誠心」の交換という側面を正規雇用に付与したと思われる。またこのためわが国企業が正規雇用に新卒者を重視し、転職者・離職者を「忠誠心に欠ける者」として軽視する慣行が生まれたと考えられる。
この議論だと、近世以前の「イエ社会」がそのまま現代の日本型雇用に流れ込んだようですが、そこは労働研究者周知の通り、山のような議論があってですね、少なくとも西欧の中世ギルドと近代労働組合の関係以上に、そう簡単に直接のつながりを議論できないと思います。
というか、そのすぐ後で、わたしを引用してこう述べています。
第2点目は労働法学者の濱口が『日本の雇用と労働法』(2011)で展開した「メンバーシップ型(典型的日本企業)」と「ジョブ型(典型的欧米企業)」の対比は構造面(縁約 対 契約、無限定の職務 対 役割分業の明確な職務)での村上・佐藤・公文の日本企業と欧米企業の対比とほとんど変わらないという点である。ただ濱口はわが国の労働関係法が成立時の概念において西洋の法に基づきながら、その適用において日本的雇用メンバーシップ型)の雇用慣行実態に合うよう解釈されてきたという実例の記述を多数提示しており、そこは濱口独自の貢献で、わが国の労働関係法の適用の曖昧さを理解する点でも参考になる。
それに続くのは、日本型雇用の「戦略的合理性」の議論です。戦略的合理性というのは、「一旦ひとつの制度を持つと、他の制度の合理的選択に影響を及ぼすことをいい、伝統の異なる国が合理的制度を持つ近代になっても、異なる制度を持つことの説明として使われることが多い」そうで、経路依存性とも呼ばれるようです。それがなんの関係があるのかというと、
筆者は日本的雇用慣行・制度は戦略的に合理的な一連の制度の選択により出来上がったが、外的条件の変換の中でその均衡の劣等性が顕著になっても、より合理的な制度への変換ができなくなっており、それが日本企業の人材活用を一般的に非合理的にし、その結果女性の人材活用の進展も強固に阻んでいると考えるからである。
もう少し女性政策史に即していうと、日本型雇用を維持するということがあまりにも大前提であったがゆえに、それを揺るがしかねないような男女平等はダメ、で、それまでの男性の働き方のコースにそっくりそのまま女性を入れる形でしか進められなかったため、結局女性の活用も進められなかった、という風に言えるのでしょうか。
もう一つ、第7章で突っ込んで分析されている統計的差別の問題について、最後の第8章の冒頭のアリスとクイーンの会話が抱腹絶倒なので、引用しておきますね。
〔ハートのクイーン〕女性雇用者たちがおる。彼女たちは離職の罰を受けて、賃金をカットされておる。離職がどの程度のコストを生むかはいつ離職するかによるが、まもなく算定されるであろう。そしてもちろん離職は最後にやってくるのじゃ。
〔アリス〕でも、もし彼女たちが離職をしないなら?
〔クイーン〕それは一層良いことじゃ。
〔アリス〕もちろんそれは一層良いことだわ。けど、彼女たちが罰せられるのは一層良いこととは言えないわ。
〔クイーン〕そなたはともかく間違っておる。そなたは罰を受けたことはあるかの?
〔アリス〕悪いことをしたときにはね。
〔クイーン〕それごらん、罰は良いことなのじゃ。
〔アリス〕けど、わたしの場合は罰に値することをまず先にしたのよ。そこが彼女たちとは大きな違いだわ。
〔クイーン〕されど、その罰に値することを、もししないならば、それはなおさら、なおさら、なおさら良いことなのじゃー。
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人の状況は一概に比べられないのでなかなか確信を持って言えないのですが、女性であるために能力開発の機会をもらえていないのではないか、というのは常々感じるところです。
能力開発してもらえないし、従って昇給の機会もなく、転職しか給料アップができない、従って離職率が高い、ということはあると思います。その上このエントリの後半で取り上げられているように、どうせすぐ辞めるからといって、もともと給料が低いならもう目も当てられない状況ということですね。
こういうのは世代交代しないとダメなんでしょうね。せめて今の30代40代の人たちにこの状況を理解して欲しいので、濱口先生の言論活動は頼もしく感じています。
投稿: ありす | 2017年11月 5日 (日) 09時37分
今回の日経経済図書文化賞の評者の一人でもある八代尚宏氏は、かつてご自身の著書「人事部はもういらない」(1998)の中で平成不況に喘ぐ当時の日本企業&日本人に激烈なメッセージを送りました。その初版帯に曰く「昇進、異動、採用の権限を社内のひとつの組織が独占することは、弊害あって一利なし。人事部を解体することこそが、企業の活性化と社員の利益に直結する」「社員が人事部から解放されることは、家族や国民生活に大きなプラスの影響を及ぼすとさえ言えるのだ」と…。
それから早20年が過ぎるも、この間、日本企業のみならず世界各国のどのグローバル企業からも「人事部は不要だ」とか「人事部が解体された」という話は一切聞こえてきません。その代わり、労組加入率が世界的に減少していく中、エンプロイーチャンピオン(従業員代表)も兼務していく人事部の重要性が世界的にも一層高まっています。
もっとも同氏の日本型人事部解体にまつわる「予言」は的外れでしたが、今改めて同書を冷静に読み返してみると、著者が当時そこで言わんとしたことは(説明する用語こそ異なれ)従来のメンバーシップ型の中央集権人事から市場や契約という側面を重視した従業員主体の人事への大転換でした。すなわちそれは無限定性からの脱却であり、事業部門主体の市場型、いわゆるジョブ型採用への移行だったのです。
さらには、日本企業が歴史的或いはアプリオリに持つとされてきた「強大な人事権」を労使当事者が勇気をもって見直し、個々人の労働者が主体的に働く場所と時間と職務を選択できる権利を取り戻していくこと。その長期的な労働条件の調整過程で、交渉カードとして「解雇」金銭解決等のオプションに使用者側は安易に飛びつくことなく、面談プロセスや説明責任に基づく「合意退職」の労使ガイドラインを構築していく努力が今後求められると小生は考えます。
投稿: ある外資系人事マン | 2017年11月 5日 (日) 20時23分
ところで目次が黙示になっちゃってます。
投稿: ありす | 2017年11月 5日 (日) 22時43分
ほんとだ、直しておきました。
投稿: hamachan | 2017年11月 6日 (月) 09時33分