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2017年10月 7日 (土)

労働市場を無視した大学論は無意味@川端望

拙著に丁寧な書評をいただいたこともある東北大学の川端望さんが、いわゆる低レベル大学の存立根拠について、箇条書きながら丁寧に解説しているページがありました。

「ゼミ生討論用のノート」とのことですが、世の多くの人の討論用にこそとても有用だと思われます。以下は抜き書きですが、是非リンク先で全体を一覧いただきたい内容です。

https://plus.google.com/111914211653276243730/posts/BGg3nT86NBZ (大学の学力問題と労働市場)

・・・学力が低い大学が成り立つ理由は,需要側と供給側の双方にある。

・まず需要側。「とにかく大卒の肩書を手に入れないと不安」という親及び学生本人のニーズ。この不安は,高卒と大卒で生涯賃金の格差が依然としてある上に,高卒でつける安定した正社員の職が縮小していることに由来する。日本社会において「一定の専門的知識・能力」でなく「大卒の肩書」が求められる理由は後述する。

・次に供給側は二つに分かれる。一つは,「学生を獲得できれば良い」というオーナー。研究や学力水準は関係ない。授業料など学生納付金を得て経営の帳尻が合えばよいという傾向。もう一つは,「とにかく四年制大学を自分の傘下に持ちたい」というオーナー。こちらは採算を度外視し,学生が集まりそうもなくても大学を設立したり,甘い見通しの下で短大を四年制に衣替えしたりする。

・この両者の利害が一致したところで,教育内容よりも「とにかく大卒である」という人材を作り出す大学が成り立つ。こうした大学が,入学のハードルを異常に下げて学生を集めている。入学のハードルを異常に下げていることが,大学にふさわしい授業を不可能にすることは自明である。

Chuko さらに、こうした低レベル大学をチェックする仕組みが働かない理由を説明した上で、上の「後述」が語られます。ここは基本的に、拙著『若者と労働』等で述べているメンバーシップ型雇用システムに適応したという話です。

・低レベル均衡の根源は,就職活動時に「とにかく大卒である」ことの限界効用が高いという,大卒者の労働市場,とくに文系卒の労働市場にある。

・なぜ「大卒である」だけで価値があるか。それは,とくに企業が大卒者,とくに文系の卒業者を採用して企画・管理・事務系の正社員とする場合にはなはだしいが,企業が職務を指定せずに,学歴と,ばくぜんとした能力チェックで採用し,以後,企業内訓練をしながら職務に配置するというしくみをとっているからだ。そして,年に一度一括採用した上で,入社年度別に管理し,競争させる。

・社員にはもちろん能力や業績が求められる。しかし,それは職務を達成することではなく,長い目で見て会社に貢献することによって評価される。そのため評価基準は会社ごとにばらばらであり,あいまいになる。給与や昇格・昇進は年功的になり,競争は同期間競争という狭い範囲のものになる。転職できないことはないが,その際に自らの能力や業績を証明するのがたいへんである。

・つまり,企業は大学に,とくに文系については,学校ブランドと「会社の一員として働く能力」育成を求めているのであり,専門的な職務を遂行する能力育成を求めているわけではない。求められていないのだから,大学にも育成するインセンティブがない

ところがその前提が徐々に変わってきているために、話が複雑になります。

・「とにかく大卒である」ことにより正社員になって一定の生涯賃金を得るというコースは,まだ存在しているもののやせ細りつつある。大学生のうち,このコースに乗ることのできる割合は小さくなり,また乗ったところで不確実性が高まりつつある。

・だから,大学の定員割れが著しいことは,大学だけの問題ではない。「とにかく大卒である」卒業者を送り出す事業が,労働市場によって求められなくなりつつあることを示しているのだ。労働市場を無視した大学論は無意味だ

話がねじれてくるのは、この「とにかく大卒である」ことへの膨張された需要のおかげで、一定のアカデミック雇用機会が創出されていたという構図です。

・教員やその候補者たる大学院生,ポスドクは,できればそのような大学には就職したくない。しかし,大学院重点化で院生の数が激増したために教員労働市場は供給過剰であり,職を選ぶ余裕はないので,そのような大学にも応募は集まる。

ではこれからどうなるか?

職業教育重視の方向性についても、必ずしも薔薇色には描いていません。むしろやや懐疑的なスタンスを持ちつつ、ほかに道はないだろうというニュアンスを醸し出しています。

・裏返すと,文系を含めて,大卒者に特定の能力や知識を求める動きも,少しずつだが出てきている。この労働市場のニーズにこたえる大学が増えることにより,大学が,現在よりも有効に機能する可能性がある。つまり,大学において職業教育をより重視する方向によって,である。

・地域貢献型大学や専門職大学が,この可能性をひらくものになるかどうか,注視しなければならない。こうした動きは,労働市場の変化に対応して教育内容を変化させるという意味では「大学」の大学としての改革になり得る。しかし,入学のための学力基準を切り下げることをやめなければ,実質的に「大学」と呼びえない,新たな形の専門学校になるかもしれず,その専門学校としても機能しないのかもしれない。新しい需給が生まれて低レベル均衡が質のより高い均衡にとってかわられるのか,それとも新たな低レベル均衡に移行するだけなのか,それはまだわからない。

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コメント

> とくに企業が大卒者,とくに文系の卒業者を採用して企画・管理・事務系の正社員とする場合

文系学部卒業者がもっとも多いのは、いわゆる「営業職・販売職」ですね。文系学部出身者を採用する際にコミュニケーション能力といいますか、社交性が重視される所以でもあります。

ただ、営業職というのも、かってほど人員を必要としなくなってきていますね。今どきアポなしで飛び込み営業などできないですし、企業の調達も公募入札が増えているなど、営業職員が客先を回って御用聞きするというスタイルも段々と廃れてきています。「用もないのに来るな。必要なら呼ぶ」という顧客が増えているのではないかと。良くも悪くも、よりドライによりビジネスライクになってきています。

「何も職業的専門性はないけれど、明るく元気で体力はある」といった、かって企業が営業要員として大量に必要とした文系学部出身者の需要は先細りでしよう。今後は何かしらの職業的専門能力がなければ厳しいのではないかと思います。

「低レベル大学」がそうした需要に応えられるかといえば、それも難しいようにも思いますね。結局、「大卒」の肩書きがあっても、飲食店での接客くらいしか職がないということになりそうです。現に欧米でも日本でもそうなりつつあるわけで。

濱口様

ふたたび失礼かとは思いましたが、このエントリに関し、わたくしがよろしければとご判断は委ねてお邪魔いたします。

なにも付け加える事もないと思います。
ただし、「需給」でこの問題の解を得ようとすれば、の限定容認です。
供給側に責任があるとすれば、”それ”を経験してきた者が今は供給側として需要に応えている依存を考えないとと思います。
それあっての批判であれば正当であろうかと思います。
しかし、直近の生活給を欲する保護者と当事者、そして先述の所得依存教育者にとっては避けられない現実であろうと思います。
とすれば、労組の存在意義が吹っ飛ぶ政府による賃金闘争と同じく、政府による需要側への強権的アプローチが、善し悪しは別にこの問題の幸を得るのかもと思います。
無駄な議論の時間はもはや渇したと思っております。

失礼しました。

最近、訪日外国人が増えていることと相まってか、グローバル企業 日本法人(東京オフィス)における募集ジョブが、日本人ではなく「外国人」で締められるケースが増えています。この傾向は、欧米本社やアジア地域のレポートラインの直下にいる経営者やマネジャーのような上位ポジションだけでなく、一般スタッフポジションでも見受けられます。よく見ると、彼らはたいてい英語、母国語、そして日本語のトライリンガル(例えば中国人。英語と中国語と日本語) 。実際のところ募集ポジションの言語要件は、ビジネス世界の共通語であるビジネス英語と、ローカル言語たる流暢な日本語という「言語スキル」を求めているのであって、何もフィジカルな日本人(国籍)を求めている訳ではありません。悲しい哉、面接に来る多くの日本人候補者は、彼ら日本語を身に付けた外国人に総合的なスペックで劣り、その結果(本来、日本人に開かれているはずの)当該ポジションを獲得することが出来ないのです。

日本人として生まれ、日本の一流大学で教育を受け、流暢な日本語を話せる教養ある好青年…というくらいの無色なスペックでは、日本語も英語も流暢に話せるアジアの外国人に対し競争優位に立てないという身も蓋もない現実が、すでに見えています。

昨夜、如水会館にて「日本の社会科学を考える」(一橋大学公開講座)を拝聴しました。現役の文部科学大臣補佐官の鈴木寛氏の講演です。セミナーの要旨は次の通りです。

ー 残念ながら日本は過去の失われた20年間、経済も停滞し、世界の中で相対的に文系の大学及び人材レベルが劣化してきた。

ー例外は、理工系人材。戦後ずっと理工系重視教育でやってきた結果、近年ノーベル賞は科学分野で花開いた反面、社会科学分野は世界の中で通用しない、アジア各国と比べても見劣りする水準にある。

ー日本の企業が修士号及び博士を取得した人材を十分に活用できていないこと、親が学士までしか教育費を負担出来ないことが、日本のビジネスにおいて修士及び博士人材が少ない理由。

ー実は、日本は先進国の中では低学歴社会である。日本に比べて、人口100万人あたり英国は5倍、米国は4倍、フランスと韓国は3倍の修士号取得者がいる。今の日本は学歴ではなく学校歴社会。その意味で、日本はもっと学歴社会になっていく必要がある。

ー総じて、日本の文系大学は大きな構造転換が迫られている。戦後70年の低投資政策のツケを返すには相当の時間とエネルギーを要するだろう。

…やはり、高等教育は社会全体の中で独立した象牙の塔では済まされず、経済産業界と併せてDNAの螺旋階段のようにパラレルに発展していくべきものなのでしょうね。その点、日本は文系大学とビジネスの世界が分断され、人材もお金も交流が少ない。ますます外国人旅行客が増える中で、かえってインバウンドの内向きの雰囲気が蔓延しつつあるように感じられる。一方で、人生100年時代とは唱導されながらも未だ多くのサラリーマンがビジネスやローなどの大学院教育や専門資格なしでもそこそこ今の会社でやっていけている…。

講演終了後、居酒屋ひしめく竹橋駅地下街を傍目に通り過ぎながら、このままでは本当にこの国は西太平洋ガラパゴス諸島の住民となるもしれないなという軽い憂鬱とめまいを感じた次第…。

先日、蔵書整理をして我が家で見つけた新書からですが。

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20世紀後半、先進諸国は積極的な大学拡張政策を展開した。その結果、1960年から2000年までの40年間に、大学生数はイギリスで16倍に拡大したのを筆頭として、フランスで7倍、ドイツ、アメリカ、日本では、それぞれ4倍に拡大した。
・・・
・・・ 多くの青年層に学校・大学で学ぶ機会が与えられ、中等教育、大学が拡大した。しかし、その反面では、働くべき職場を見出すことができず、社会的な居場所を失った青年層も増加した。今や大学は、その彼らを吸収して、何らかの意味のある事柄を提供することが期待されている。

潮木守一著「世界の大学危機 新しい大学像を求めて」(中公新書1764, 2004年)
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イギリス、フランスでは「社会的な居場所を失った青年層」が暴動を起こしていましたね。

なお、この本には、フランスのシラク大統領が、日本の大学入試制度を参考にバカロレアの改革を行おうとした、という話があって、探していたのですよね。

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シラク政権は、バカロレア合格者が無条件で希望する大学に入学できる、従来の制度を改め、大学による選抜制度を導入しようとした。
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・・・ 大学入試、前期課程から後期課程への進級試験といった制度は、日本からヒントを得たものだといわれている。
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・・・ 相次ぐ学生数の膨張にもかかわらず、大学予算の増額は行われず、かくしてフランスの大学は「ミルクをもらえない孤児」と呼ばれ、「ポチョムキン大学化」の道をたどることとなった。
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我が国には、フランスのバカロレアを参考にして、日本の大学入試制度を改革すべし、という声がありまして、となりの芝生は青くみえるの実例というべきですかね。

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