「リベラル」関係エントリ大公開
フランス人としてごく普通に育った女性が、日本人マンガ家と結婚したために、アメリカ方言と日本独特のニュアンスに満ちた言語に違和感を感じるのは、あまりにも当たり前なのですが、あまりにも日本独自の言語空間にどっぷりつかったまるどめな人々には理解できないようです。
https://twitter.com/karyn_poupee/status/914071602450522112
海外では「リベラル」と言ったら「右側」という意味ですが、日本では「左側」ですね。例えば、仏大統領マクロン氏は「超リベラル派」と言ったら「大企業と富裕層を重視する」という意味です。こんな批判は左側から来る。
だから日本政治についての記事を書く時に説明しないと海外で誤解が生じる。
と、偉そうなことをいっている私だって、20年前にヨーロッパに勤務して向こうの言語空間を浴びていなかったら、多分多くのまるどめ諸氏と変わらなかったはず。
逆に、いったんこの言語空間の異様さに気がつくと、その原因を探りたくなるのは必定。
というわけで、せっかくなので本ブログにおける過去10年以上にわたる「リベラル」関係のエントリを大公開します。マスコミを占領している特殊日本的「リベラル」なる言葉の異様さを、少しでも感じるよすがになれば幸いです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_a90b.html (リベじゃないサヨクの戦後思想観)
リベじゃないサヨクの戦後思想観要は、戦前の開発独裁(という評価は些かどうかと思いますが、それはともかく)を否定すべく、日本はもっと市民社会にならなくちゃいけない、もっと個人の自由を、という「近代の不足」を基調とする戦後思想の中で、多くの戦後知識人が自由主義の本格的批判を経験せず、素通りしてきた。近代的自由の本格的規制の問題に知識人の関心が向かわなかった。自由というと、国家からの自由と市民的自立という側面でのみとらえられ、自由主義の持つ野蛮な市場至上主義や非民主的性格に関心が向かわなかった、とまずは戦後リベラル知識人たちを批判します。
そして、福祉国家問題に対してもきちんと格闘せず、市民法と社会法の区別云々というのも法律学の世界でしか問題とならず、いわば敵対的無関心が支配的であったというんですね。これはまったくそうですね。実は、日本の政党の中で社会のあるべき姿として福祉国家を唱え続けてきたのは今はなき民社党だったのですが、サヨク的なリベラル知識人は、これを大変いかがわしいものでも見るように見ていたのです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_5af3.html (リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い)
こういう左がリベラルで右がソーシャルという奇妙な逆転現象の背景に、当時の憲法改正をめぐる動向があったようです。当時の憲法調査会報告は「憲法第3章を眺めると、それは18世紀的な自由国家の原理に傾きすぎており、時代遅れである」「20世紀的な社会連帯の観念、社会国家の原理にそれを切り替える必要があり、基本的人権の原理については、現代福祉国家の動向に即応すべきである」と強調していました。サヨクの皆さんにとって、福祉国家とは国民主権の制限の口実に過ぎず、ただの反動的意図にすぎなかったのでしょう。
かくのごとく、日本のサヨク知識人はリベラルなことノージックよりも高く、アンチ・ソーシャルなことハイエクよりも深し、という奇妙奇天烈な存在になっていたようです。そうすると、福祉国家なんぞを主張するのは悪質なウヨクということになりますね。これを前提にして初めて理解できる発言が、「構造改革ってなあに?」のコメント欄にあります。田中氏のところから跳んできた匿名イナゴさんの一種ですが、珍しく真摯な姿勢で書き込みをされていた方ですので、妙に記憶に残っているのです。
>稲葉さんの偉さは、一左翼であることがリフレ派であることと矛盾しないことを左翼として始めて示した点だと思う。それまでの左翼は、ある意味ネオリベ以上の構造派で、つまりはアンチ・リフレであったわけだから。それに対して、稲葉さんはそれが「ヘタレ」にすぎないことを左翼として始めて断言したわけで、これは実はとても勇気のあるすごいことだと思う。
投稿 一観客改め一イナゴ | 2006/09/20 14:46:18
普通の人がこれを読んだら頭を抱えてしまうでしょう。特にヨーロッパ人が見たら、「サヨクは市場原理主義者であるはずなのに。稲葉氏はめずらしくソーシャルだ、偉い」といってるようなもので、精神錯乱としか思えないはず。でも、上のような顛倒現象を頭に置いて読めば、このイナゴさんは日本のサヨク知識人の正当な思考方式に則っているだけだということがわかります。
しかし、いい加減にこういう顛倒現象から抜け出さないといけませんね。その点(だけ)はわたしはゴリゴリサヨクの後藤氏と意見を同じくします。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_c7ac.html (リベラルとソーシャル)
しかし、少なくとも欧州的文脈でいえば、リベラルとソーシャルという対立軸は極めて明確。それが日本でぐちゃぐちゃになりかけているのは、ひとえにアメリカの(本来ならば「ソーシャル」と名乗るべき)労働者保護や福祉志向の連中が自らを「リベラル」と名乗ったため。それで本来「リベラル」と名乗るべき連中が「リバタリアン」などと異星人じみた名称になって話がこんがらがっただけ。そこのところをしっかり見据えておけば、悩む必要はない。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html (赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)
問題は、赤木さんの辞書に「ザ・ソーシャル」という言葉がないこと。そのため、「左派」という概念がずるずると彼の思考の足を引っ張り続けるのです。
彼の主張は、思われている以上にまっとうです。「俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ」と言ってるわけですから。そして、戦争になればその可能性が高まるというのも、日中戦争期の日本の労働者たちの経験からしてまさに正しい。それこそ正しい意味での「ソーシャリズム」でしょう。
ところが、「左派」という歪んだ認識枠組みが、自分のまっとうな主張をまっとうな主張であると認識することを妨げてしまっているようで、わざとねじけた主張であるかのような偽悪的な演技をする方向に突き進んでしまいます。
自分が捨てたリベサヨ的なものと自分を救うはずのソーシャルなものをごっちゃにして、富裕層がどんな儲けても構わないから、安定労働者層を引きずり下ろしたいと口走るわけです。安定労働者層を地獄に引きずり下ろしたからといって、ネオリベ博士が赤木君を引き上げてくれるわけではないのですがね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-a130.html (特殊日本的リベサヨの系譜)
あえてわたくしの関心に引き付けすぎた物言いをしてしまえば、イギリス流の「シビル・ソサエティ」でもなければドイツ流の「ビュルガーリッヒ・ゲゼルシャフト」でもない(にもかかわらず、それらそのものだと信じ込んで拵えあげた)、はっきり言えば戦時中の「暗い谷間の時代」に日本のインテリゲンチャが勝手に脳内で膨らませた妄想に過ぎない「しみんしゃかい論」という代物の、そして戦後高度成長期になっても依然としてそれを膨らませ続けたその脳内妄想ぶりをこれでもかこれでもかといじめ抜くように露呈せしめている本です。
高島善哉、内田義彦、平田清明といった、著者にとっては師匠筋に当たる人々の脳内妄想ぶりをここまであからさまに書くというのは、わたしにはよく分かりませんがなかなかすごいことなのではなかろうかと想像されます。
まあ、わたくしにとっては、ここで露呈されている脳内妄想の系譜こそが、まさに本ブログで何回か述べてきている「リベラルサヨク」な発想の一つの源流ではないかと思われ、そういう関心もあって買って読んでみたわけですが。
(最近、ついった上でわたくしの名前とともに「リベサヨ」なる言葉が散見され、いささか違うのではないかと思われる解釈がされいるやに見受けられることもあることから、念のため付言しておきます)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-6bcb.html (リベサヨって、リベラル左派の略だったの?)
自分で揶揄的にでっち上げた言葉のはずですが、いつのまにか流通するうちに意味のシフトが起こっていたそうです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-31a0.html (リベサヨのちょうど正反対)
ソーシャルが欠如してしまうまでに定向進化してしまった特殊日本的リベサヨのちょうど正反対の地点に、そのリベサヨ的感覚を憎むあまり、もともと何の関心すらなかったソーシャルな問題意識をぎりぎりまで追求してしまうネトウヨな人々が発生するという、このアイロニーは、しかし、西欧人には全く理解を絶する現象でしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-787c.html (自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について)
「左翼=リベラルというイメージがしっかり張り付い」たまま、「リベ=サヨ」を目の敵にするいわゆるネトウヨの諸氏は、やはり一度、自由民主党の英語名を復誦してみるところから始めた方がいいのかもしれません。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0183.html (EUとイギリスとリベラルとソーシャルと)
かつて、創設当時のEECは名前の通り市場統合のみを目指す経済共同体であり、その頃は保守党がEECに入りたがって、労働党はイギリス流の福祉国家に悪影響があるのではないかと疑って批判的でした。ソーシャルなイギリスとリベラルなヨーロッパという構図。
ところがサッチャー政権下で労働運動が徹底的に叩かれ、福祉が大幅に切り下げられるようになると、イギリスの左派はEC,EUを頼るようになります。逆に、保守党からすると、EC、EUがやたらにソーシャルな政策を押しつけてくるのが気にくわない。リベラルなイギリスとソーシャルなヨーロッパの時代。イギリス保守党の反EUは、これを受け継いでいる。今でもキャメロン首相は、EUの社会条項からの脱退を訴えていたりする。
ところが経済危機以降のEUは、むしろギリシャをはじめとする加盟国に緊縮を押しつけてくるリベラルの側面が強くなり、、欧州全体として反EU感情が高まってきている。今回の労働党の党首選もそれの現れで、リベラルなEUに対する左派の反発といえます。
複雑なのは、ソーシャルなヨーロッパに反発する保守党とリベラルなヨーロッパに反発する労働党の異なる反EU政策が国内政治的に同期化している点で、それぞれの党内の「そうはいっても」というリアリズムとのせめぎ合いが興味深いところです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-cef9.html (バズらせる力)
ジョブ型、メンバーシップ型はともかく、「リベサヨ」については、私が使い出したときに意図していた意味(西欧的な「リベラルな右派 対 ソーシャルな左派」という世界共通の対立図式を当然の前提としつつ、肝心要の「ソーシャル」が希薄になった、というより欠如した左派、自らをリベラルと自称したがる奇妙な「左派」な人々を、揶揄する趣旨)とはまるで全然違う意味の言葉(リベラルすなわち左派というアメリカ特有の用語法に基づく単なる左翼に対する悪口としての重畳語)として世間では「バズ」ってしまっているのですから、「バズらせる」能力はゼロどころかマイナスというべきではないでしょうかね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-8198.html (リベラルは経済右派に決まってる(アメリカ方言を除く))
いや、アメリカ方言という特殊な言語を除けば、それこそまさに「リベラル」の本質でしょう。
ヨーロッパの労働関係の本を見れば、「リベラル」ってのは市場原理、自由放任、構造改革、規制緩和等々を掲げる思想の謂いなのであって、その反対は「ソーシャル」。
労働法の教科書で「リベラル」な法学者の代表はたとえばエプスタイン。それが常識。
アメリカ方言では「ソーシャル」を「リベラル」と呼び、本来の「リベラル」を「ネオリベラル」とか「リバタリアン」と呼んでいるのに引きずられると、訳が分からなくなる。
世界中で、手を使ってはいけないのを「フットボール」と呼んでいるのに、アメリカ方言ではわざわざ手を使っていいゲームを「(アメリカン)フットボール」と呼んでいるようなものですが、だったらちゃんと分かるように、「アメリカンリベラル」と言って欲しい。
アメリカ以外では、上の言葉はすべて意味不明。「リベラル」を「ソーシャル」に入れ替えて初めて意味が通る。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-3292.html (リベサヨとソーシャルのねじれにねじれた関係)
いやいやいやいや、鳥越氏が「オールド左翼」だって?
こういうリベラルだけは全開だけど、ソーシャルはいかにもとってつけたような表層的ジャーナリストを「オールド左翼」と呼んでしまうくらい、日本の政治思想地図というのはねじれきってしまっているわけですね。
そういうねじれの原因は、つまりヨーロッパのように素直に右派リベラル対左派ソーシャルという対立図式にならない理由は、わたしはずっとアメリカ方言の「リベラル」が諸悪の根源だと(やや単純化して)言ってきたわけですけど、そのアメリカで、自らをデモクラティックなソーシャリストだと公然と標榜するサンダース氏が大統領候補としてあれだけ善戦したことを考えれば、有力政治家の誰一人としてソーシャルを掲げない日本はあまりにも特殊ですね。
少なくとも、サンダース氏の言っていることは、リベサヨがはびこり出す以前の「オールド左翼」に近いはずなので、上の引用文のねじれっぷりは気が遠くなるような思いがします。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-1fcd.html (保守とリベラルというアメリカ方言でものを考えるのはもうやめよう)
いやだから、何よりかにより、近代社会の基本構造では、保守の反対語は革新、進歩主義であり、リベラルの反対語はソーシャルなのだから、こういう本来対にならないのを対にして「もうやめよう」とかいうのもそろそろもうやめたいところなんですけど。
つうかさ、だいたいリベラル・デモクラティック・パーティ(自由民主党)から分裂してできたいろんな政党の一つのなれの果てが「自由党」(リベラル・パーティ)と名乗り(いわゆる自自公政権)、それがさらに分裂して「保守党」(コンサバティブ・パーティ)になった(いわゆる自公保政権)んだから、20世紀末の日本でも、ほぼ「保守」≑「リベラル」だったはずなんですけどね。
(追記)
というわけで、「バズらせる力」どころか、本来意図したのとまったく違う意味合いで言葉を勝手に流通されてしまった非力な悲しき私に対して、
https://twitter.com/omotesando24ji/status/914481884763062272
後藤和智は俗流サヨク批判に怒ってる暇あるなら、twitter界隈へのリベサヨ概念輸出元先の濱口桂一郎先生を討伐すべきだろう。hamachan先生は手強い相手だけど、twitter界隈でスライム狩っててもレベル上がらないでしょ?
と、討伐せよとまで慫慂されてしまいましたがな。
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右派リベラルと左派ソーシャルがヨーロッパで主流の分類なわけがない
それなら社会主義・社民主義以外全部リベラル政党になるんで。
仏や伊の右翼・保守政党は(リベラル右派とは別に)存在しているんですが…
二大政党じゃない国のほうが多いんで、保守・リベラル右派・リベラル左派・革新くらいには最低でも分類しないと説明できない。
ソーシャルというか個人主義自由主義に依拠しないコテコテの左翼は日本の国情に合わないと思う。
既にその反個人主義という位置に右翼がいる。
市場経済や自由や個人主義を重視する左翼があっていいじゃないですか?
第三の道みたいなものですね
ソーシャルというのは人から自由を奪って追い込んでいく怖い思想です。
投稿: 揚田信夫 | 2020年12月12日 (土) 13時44分
リベラルとソーシャルの対立という概念では、記事にあるフランスの例では
ル・ペンとメランションを(反自由=反リベラルという意味で)同じ極にくくれるか?ということ。
もちろんそういう政治観を持つ人もいるし、極右と極左にソーシャルの共通価値?を見出しての支持層の移動もある。
日本のツイッター界だと山本太郎あたりが左右の全体主義者みたいなのを引き付けてる例がある。
ただ一般的な現象ではない。
民社党の生き残りのオッサンには「反別姓、反同性婚、伝統的家族」みたいなコテコテの「極右社会主義」という人がいる。これを日本の一般的なソーシャルと見做すのは困難。
投稿: 揚田信夫 | 2020年12月13日 (日) 17時25分