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2017年10月13日 (金)

『DIO』10月号

Diodio連合総研の機関誌『DIO』10月号をお送りいただきました。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio330.pdf

特集は「生活時間の視点から労働時間を考察する」で、毛塚、長谷川両氏の論考が載っています。

生活時間の確保を基軸に労働時間法制の構造転換を 毛塚勝利 …………………4
生活時間アプローチが労働者の家庭責任に関わる労働時間法にもたらす視角 長谷川聡 …………………8

毛塚理論は最近よく見ますのでご承知の方も多いでしょう。「基本は1日の最長労働時間規制と時間主権=生活主権の確立」とか、「インターバル規制の性格転換-休息時間規制から最低生活時間規制へ」、そして「時間外労働規制の性格転換―賃金清算原則から時間清算原則へ」など、残業代ゼロ論ではなく、労働時間規制の本質からたたみかけるような議論を展開しています。

その上で、最後の「監督行政まかせからの脱却―社会的モニタリングの構築」については、いやしかしだれがそれを実際にやるのか?という疑問が湧いてくるのを禁じ得ませんでした。

・・・しかし、生活時間を確保することは、労使はもとより、国・自治体を含む、すべての関係当事者の責務と考えた場合、ある企業の労働時間の有り様は、単に企業内労使の問題ではなく、地域住民、学校、取引先等、当該企業のすべてのステークホルダーの関心事でもあることを認め、当該企業の労働時間の実情をモニタリングすることが考えられてよい。・・・

・・・そのうえで、労働組合が地域レベルのNPOやNGOと連携をとりながらモニタリングを行う10とともに、市町村レベルに、労使団体、学校教育関係者、福祉施設関係者、ボランティア関係団体等の代表者で構成されるモニタリング機関を設け、労働時間の実情把握と評価を行うことである。社会的モニタリングは、長時間労働の多くが顧客や消費者の「我儘」によることを自ら認識し、生活時間の侵害を防止する社会的規範の形成にも寄与するはずである。

趣旨はまったくその通りと思いつつ、それが可能なような地域レベルのつながりが一体あるのか、労働組合がそことどれくらいつながりを持ち得ているのか、等々。

あまりにも内部労働市場に最適化してしまった日本の労働組合にそのようなイニシアティブを取れる能力が失われてしまったからこそ、今の状態になってしまっているわけでしょうから。

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コメント

早速目を通してみました〜毛塚氏及び長谷川氏の「生活時間」からの労働時間法制見直しの提言…素直にいい内容ですね、共感します。と言いますか、読んでみて、私の実感値(すなわちグローバル外資系企業で2017年現在自分を取り巻く東京及びアジアリージョンの日常感覚)からみて何ら違和感を覚えません。

逆に言えば、連合総研DIOでこのような「特集」を組んでかくも立派に「主張」されなくてはならないという事実こそ、日本企業における「働き方」が労働者の生活にとっていかに時代遅れで無茶かつ不自然なものかということが逆照射されますよね。別エントリにも先日書きましたが、わが国は労基法32条の労働時間法制(週40時間、1日に8時間を超えて労働させてはならない)が原則のはずです。これを超えて労働者を働かせる場合は社員の家庭生活に十分に配慮して事前の了解を求めたり無理な指示を出したりしないというのが先進国企業の常識です。例外規定の36協定はあくまでも「臨時」業務対応のためにあり、通常時の労働時間は週40時間がベースラインの筈ですからね。

それと、Hamachan先生ご指摘の毛塚論文最終章「6 監督行政からの脱却〜社会的モニタリングの構築」への疑問符(趣旨は尤もなるもそれを誰が実際に実行するの?)ですが、確かに今すぐ各地域にそうした機能を持つNPOなりNGOが現れるとは思えませんが、発想や方向性としては正論でしょうし、当局たる労基署が現状ウォッチ出来ない或いはカバーしきれないのであれば、いずれそうした草の根レベルの社会的モニタリングは必要かと。

とはいえ、やはり他者に頼らず、経営者及び管理者そして人事部がしっかり自社の働き方に目を配り、過剰労働させないように心掛けていくのが王道かと考えます。

現代の日本企業および一般的な日本人サラリーマンの働き方は、サッカーの試合にたとえて言えば、正規プレイ時間であるはずの前後半90分間では得点が取りきれないと悟り、試合を始める前から延長時間であるアディショナルタイムを組み込んだ試合をしているかのようです。

ただ、実際のサッカーの延長時間は前後半あわせて30分まで、そこで決着付かなければPKで終わらせる訳です。その点、日本のサラリーマンは成果が出るまで無限定かつ事実上(36協定はあっても特別条項と休日別規定の抜け穴によって)無制限に働かせられる宿命にあり、「ノー残業デー」なる奇語も「残業することがデフォルト」なる(誤った)固定観念が労働者の頭にあることを前提にいいように使われてます。

想像してみて下さい〜90分間で勝負を付けようとしている士気の高い欧米のクラブチームを相手に、それと同じくらいの延長時間を含めた2倍或いは3倍の試合時間で戦おうとしている日本のチームが対戦した場合、果たしてどのような試合展開になるか…延長時間をデフォルトにした場合、守りを固めることに窮し最初からは全力で働けませんよね。これでは勝負には勝てません。

最後に「週1ー2回飲みに行く日だけは不思議と残業なしで帰れるよ、ただ家に早く帰れる訳ではないけどね」という、タチの悪い冗談(古きよき昭和の名残⁉︎)からもそろそろ本気で卒業しませんか…(家庭で居場所がなくなりますよ〜。)

N産自動車の不正検査、K戸製鋼のデータ改善…。相次ぐニッポン大企業の不祥事に海外メディアもメイドインジャパンの信頼性に厳しい目を向けています。

拙者の視点からこれらの事象に敢えて一言付言することが出来るとすれば、やはり日本人全体の無意識のプレッシャーであるところの「納期の遅れは許されない」というドグマが、余りに過度に経済社会全体に行きわたっているように感じられることですね。その点、外資系はどこももっとユルいですよ〜厳しくやろうにも関係者の誰かが必ずバケーションで休んでますから、どんなプロジェクトもスラックタイムを織り込んで気長に進めざる得ません。

言わずもがな仕事の三要素たる「品質」「コスト」「納期」(QCD)はトリレンマです、何かを得るには何かを妥協しないと進みません。社内に必要なケイパビリティがないまま、コストを抑え納期を死守せんとすればその結果は自ずと「納期」に向かいましょう。すると、納期の遅れはさらに弱い立場の者や下請系列企業に水面下で皺寄せされ、記者会見で正直に社長は「知らなかった」と述べるのでしょう。

私の見る限り、多くの日本人(ホワイトカラー含む)は、納期のプレッシャー(無理な期限)を前にしても、あまり上司や依頼主と期限の交渉をせずに(相手にわからないように黙って)仕様を変えたり自分の解釈で条件を動かすように見受けられます。おそらく問題を解決出来るキーマンのは担当者ではなく現場の実態も見えている「(優秀な)マネジャー」です。全体と個別の状況を踏まえ、ステークホルダーと再交渉し、どの部門にも「無理な皺寄せ」がいかないよう目配りし、地道に細かい調整を各部門としていくこと。

優秀な担当者がミスした時に理由を聞くと、開き直ってエクスキューズすることがありませんか。あたかも社会の法律や会社のポリシーは単なる「ガイドライン」であって、いざとなれば担当者の一存で(上司に相談せずとも)勝手にいじっても「今回の状況では仕方なかった」とでも言わんばかり。

上記コメント一部訂正します。
データ改善、改め、データ改竄(第1パラ)
自ずと「納期」へ、改め、自ずと「品質」へ(第3パラ)
〜本文にも書きました通り、自分でも急いでいるとチェックも甘くなりミスを誘発してしまうようですね。

K製鋼さん、今回のデータ改ざん偽装は規模も期間も大きそうです。もしや、ハンドリングを間違えると会社経営そのものにインパクトを与えかねません。

クルマのように対象車種をすぐリコールしたり食品のように即製品回収できるようなものと異なり、鉄板や樹脂のような「素材」は直に目に見えるような消費者や顧客へのインパクトなりダメージが「見えづらい」(関連性づけしづらい)ということもあり、こうしたデータ改ざんという「甘え」の遠因になっているのか?

小生が指摘したかった点は、自分自身の担当者時代も振り返りつつ、一般的な日本人労働者の間に顧客や後工程への「納期」を死守せんとして(とくに子会社や下請けが親会社の受注で動いている場合)「品質」(それも目立たない程度に)を犠牲にするという心的傾向が見られるのではないか、という点でした。

現在私は某外資系プロフェッショナルファームのTokyo事務所で人事総務全般のアドミをみていますが、毎週数回の割合で様々なHRデータ(給与、ヘッドカウント、人事情報システム、社内規程など)についてGlobalまたはRegionalからの要請にもとづいてHR Auditing(人事情報監査)を自ら実施しています、というか点検作業させられてますね。

おそらく日本企業の人事総務部長(同等ポジションの管理職)であれば、このように多い頻度で細かい人事データそのものを部長クラスの人間に直々に日々チェックさせる作業そのものが存在しないのではないかと想像します。それだけ、現代のグローバル企業はデータの監査や信頼性にシビアなのではないかと思うのですが…上記あくまでご参考まで。

ある外資系人事マン殿


>90分間で勝負を付けようとしている士気の高い欧米のクラブチームを相手に、それと同じくらいの延長時間を含めた2倍或いは3倍の試合時間で戦おうとしている日本のチームが対戦した場合、果たしてどのような試合展開になるか

日本人サラリーマンは仕事をサッカーの試合ではなく、(昔の)米作りや受験勉強と考えている人が多いのではないでしょうか?つまり投入リソースは考慮せず収穫だけを考慮する(農作業の時間が2倍になっても収穫が1割増えればよい)という考え方です。
hamachan先生の最近の記事に”「ここからは残業時間になるよ」という「境界」を、そもそも一度も「意識せず」に働いている人々がいる”という記述がありましたが、受験生の時に学校の授業が終わるとそのまま塾や家で勉強をしていた人が、正規労働時間が終わるとそのまま残業して仕事をするようになるのではないでしょうか

例えば競合2社が見積とスケジュールを提出したとして、見積金額が同じなら納期の短い方が採用されます。

この場合、短い納期は納期内に予想外のトラブルでバッファで抱えきれない遅延が発生する確率が納期が長い方よりも高いのですが、日本のクライアントの場合「なんとかせい」で何とかさせてしまっているので基本的に納期は短く、バッファが少なくなっています。

また、契約の概念が欧米より薄いため仕様の追加や変更を平気でします。

基本的、全体的にはこれが日本で長時間労働が発生する大きな要因となっています。

対処として単純に考えられるのは、労災等あった場合にクライアントに責任を負わせる用法改正することなのですが、現実的に難しいと思います。

Alberichさん
これまで多くの日本人中高年男性(私自身含めて)はおおむねそんな感じでダラっと学生から社会人になって以来ずっと一所懸命に労働時間を意識せず働いてきたのですね。先の大戦後、人材も資源もお金も何もかも失いかけたわが国で、それでも唯一有り余るほどあったのが「時間」というリソースだったことが大きなきっかけでしょうか。ところで、これは勝手な想像ですが.…過去わずか一世紀半の間に我々日本人が怒涛のごとく経験させられた両時代の「境界」も〜江戸と明治の「境界」(江戸城無血開城)及びその後帝国日本(日清、日露、日中、太平洋戦争)の戦中と戦後の「境界」(玉音放送)も〜きっと大多数の国民にとってあっという間に通過した出来事だったのでしょうか…境界を意識することなく新しい時代環境への「適応」に一生懸命となって働いて、今に至る…。

日産自動車、神戸製鋼、スバル、三菱マテリアル、そして本日、東レよ、お前もか…。

これでもか、これでもかと品質不正の発覚が後を絶たない。とても残念ですが、きっとこれらの事例は「氷山の一角」に過ぎません(ハインリッヒの法則…)

それにしても、なぜかくもニッポンの大企業組織でこうした重要な「意思決定」にたびたびミスが起こるのか?という疑問が最近なかなかアタマから離れません…。そりゃ人間のサガでしょ、簡単に片づけるわけにはいかないはずです。(これらはメンバーシップ型組織風土ゆえのアキレス腱かもしれない…。)

そこで、これは全くの仮説であり私見ですが、日本の大組織の多くはいまだにシングルレポートラインすなわち事業部制組織または機能制組織のいずれかの組織形態で運営されているからではないか?経営トップを唯一のハイエラキーの頂点とする、単純なピラミッド型の組織構造で動いているからではないか?と思うのです。

つまりは「組織デザイン」がすでに時代遅れなせいではないか…と。

あのインターネットの登場から早20年が経過するも、企業組織のカタチ(あるいは組織論)がそれ以前の教科書どおりのオーソドックスな形態では、この現代のグローバル経済のスピードと変化の中、経営の意思決定の質と量にフレキシブルかつ的確に対応できるとはとても思えません。

では、グローバル外資系企業ではどうしているか?というと、私の知る限りそれは「マトリクス組織」です〜事業(ビジネス)と機能(ファンクション)のダブルレポートライン。これが、現代の企業組織のスタンダードですね。(あるいはネットワーク・分散型組織がポイントですが、今回はこれには触れません)

不思議なことに、なぜかこの分野(組織デザイン、組織開発)から日本企業(あるいは日本の経営学)は大きく取り残されてしまったようですね。

トヨタ自動車を始めグローバルな日本企業は数多くあるはずも、なぜかグローバルな企業経営・組織デザインという点ではほとんどその(相応の)成果が聞こえてこない…。やはり、古来ニッポン人は「ものづくり」は長けていても「組織づくり」や「仕組みづくり」は苦手なのか…。

もちろん世界的に有名な経営学者 野中氏「知識経営論」を信奉&称賛しつづけるのは全く構わないが、知的なコンセプトだけではリアルな世界、虚実・欲望渦巻くわれわれの事業をマネジメントできませんよ。

その点グローバルな外資系企業の組織デザインは、ほぼ例外なく煩雑ながらも「マトリクス組織」「ダブルレポートライン」でマネジメントされてますよね。そこでは、たとえ経営陣や営業などのフロント部門から強いプレッシャーがかかっても、スタッフ/職能部門は相応の独立性とプロ意識を持ち緊張関係を保ってマネジメントに「対峙」することが可能だし、それがどのファンクションでも個人に求められるですね。例えば、担当者は上位者の指示命令を鵜呑みにせず、何よりもジョブのルールたるPolicyを確認すること…。

これらの意思決定要因とその結果は、そこに働く個々人の能力・実力もさることながら、社員をどうマネジメントするかに、すなわち組織全体のデザインやレポートラインの的確性やオペレーションやシステムの稚拙に大きく影響されうるということを、一体どれだけ多くの経営者や経営学者は理解しているのでしょうね。残念ながらマスコミでも、組織デザインや経営システムの議論はほとんど見られず、経営トップ個人の資質やカリスマを賛美/批判する傾向があるかと…。

つまりは組織デザインの不適切さ(レポートラインの単純さ、職務権限の曖昧さなど)が大組織トップの不適切な意思決定や現場とのコミュニケーション不全を許容する温床になっていると思われるのだが、いかがだろうか?

とりわけ人事や経理や法務といったバックオフィスの機関組織がマトリクスになっているか?ファンクション組織の規律が、すなわち専門性の規範が、時々の経営状況に殊更に左右されず組織に根づいているか?(変更する場合でもその周知や説明責任を果たしているか?)

例えば、ファイナンス&アカウンティング(経理部門)。不正会計を強いる(あるいは「忖度」を迫られる)経営陣のプレッシャーからの「独立性」が保たれているか?

例えば、HR(人事)。サービス残業やハラスメントの対応は如何に?わざわざ労働組合や監督署から言われずとも、自浄努力で労務コンプライアンスは守られているか?

実のところ、多かれ少なかれわれわれ外資系バックオフィス組織で働く社員は、この手の「倫理上のジレンマ」に日々悩まされることが極めて多い。そこでは、企業(経営)の利益を取るのか?、従業員や顧客や納入業者)の利益を取るか?(そして、自分自身の進退は?…)という他者には安易に相談できぬ難しいジレンマに担当者は悩まされるのです。

こうした経営上の意思決定ファクターとそのパフォーマンスは、そこに働く経営者個人(=人間)の能力もさることながら、彼らをどうマネジメントするか、その組織のデザインやオペレーションをどう設計するかという非人間的要素(=システム)に大きく左右されるもの。

組織としてのバックアップ、ダブルチェック、異議申し立て(ちょっと待った!)の体制づくり…。少数の個人に巨大な権限が集中すること自体に伴う、意思決定の潜在リスクや機能不全…。個々の人間の力を信用しすぎる(過信する)組織は危ないのです。

やはり企業・役所を問わず、現代の大組織は「性悪説」でデザインされるべきなのです。

最近の国会のドタバタ劇を見ていると、政治家あるいは官僚という「個々人」のビヘイビアや資質の問題というよりは、むしろ受注発注ステップの不透明性や競争見積り時のアカウンタビリティ欠如といった「プロセスの不適切さ」が気になりません? いつの時代でもたかだか個人はヒトとしての能力限界がありますし、自己に有利に働くよう振る舞うことは自明です。で、何かもっと仕組み全体で虚偽の答弁や書き換えやハカリゴトが未然に防止できるようマネジメントや組織開発の知見から何とか構造的な対策をアプローチできないものでしょうか。

先述コメントの通り、現代のグローバル企業では「性悪説」に立ってダブルレポートラインという組織デザインを行い、内部監査部門の独立性を確保するという方法が常套手段。特定の部門や個人の力量や記憶力に頼りきったマネジメントはサステイナブルではありませんから。政治の世界もビジネスやマネジメントの知見も借りながら、彼らの「働き方」を見直した方がいいように思います。

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