「BEST T!MES」(ベストタイムズと読むのでしょうか)というサイトの「新・教育論」というコラムに、「「何となく文学部」はヤバすぎる。大学選びの新常識」という記事が載っています。
http://best-times.jp/articles/-/6895
副題に「もう「つぶしの効く」学部など存在しない。「ジョブ型」への転換を」とあるので、ジョブ型教育への転換を訴えているのは確かだと思うのですが、正直言って、文学部って、もともと「つぶしの効く学部」だとは思われていなかったように思います。
メンバーシップ型雇用慣行にベストフィットして繁殖してきたのは、それ以外の一見職業レリバンスがありそうで、実は単なる一般的サラリーマン養成以外ではなかった文系学部、とりわけ経済学部だったんじゃないの?と思いますが。
その意味では、この記事は、文学部という叩きやすい犠牲の羊を血祭りに上げて見せているだけで、問題の本質からむしろ目を逸らせてしまっているのではないかと。
いうまでもなく、法学部だって法曹や法務担当者になる一部の人にとっては職業レリバンスがあるし、経済学部だって、内閣府で経済分析をする人や一部シンクタンク等で活躍するエコノミストになる人にとっては意味のある職業教育機関でしょう。しかし、当該学部を卒業する学生の大部分、経済学部の場合には殆ど全てにおいては、そうではないから、そしてそうではないにもかかわらずそれが一般的サラリーマン養成ギプスとして通用してきているからあれこれ論じられるわけです。
それに対して、文学部はそれなりに立派です。まず、文学部卒業生にとってもっとも良好な雇用機会は当該専門分野におけるアカデミックな研究職であって、これは法学部や経済学部と大きく異なるところです。これは裏返していえば、メンバーシップ型の日本の労働社会において、個々の学んだ内容はともかく、文学部に行こうなどという性向自体が、必ずしも適合的ではないと見なされてきたことがあるのでしょう。
実を言うと、にもかかわらず高度成長期に文学部がこれほど異常に肥大化したのは、嫁入り道具としての文学部という特殊事情があったからですが、これはこれで(皮肉ですが)一種の永久就職への職業レリバンスだったと言えないことはありません。それを抜きにしていうと、文学部卒というのは少なくとも法学部や経済学部に比べれば一種のスティグマを受けるものであったことは確かなので、それをつかまえて「「何となく文学部」はヤバすぎる」というのは、いささか見当外れの感が否めないわけです。
本当にヤバいのは他の文系学部、とりわけ法学部のように法律専門家になるか細い道があるところと比べても、経済分析を職業とする人になる可能性は絶無に近い経済学部ではないかと思うのですがね。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html (哲学・文学の職業レリバンス)
・・・一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。
職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html (職業レリバンス再論)
・・・哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。
<追記>
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417
「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」
おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html (なおも職業レリバンス)
・・・歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。
一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html (大学教育の職業レリバンス)
・・・前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。
これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。
・・・いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html (経済学部の職業的レリバンス)
・・・ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。
何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。
(ついでにおまけ)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d4b7.html (大原瞠『公務員試験のカラクリ』)
・・・いや、もちろん、これは「公務員試験のカラクリ」という本の中で書かれた、受験生や受験産業講師の目に映った事態の描写であって、それ以上ではありません。
実際、上にも書かれているように、国家レベルでマクロ的な経済社会政策を考える立場になれば、経済理論の素養が必要であることは言うを待ちません。
しかし、地方自治体で泥臭い業務に携わる人々に、どこまで必要なの?という疑問は確かに一理ありましょう。
この本はあくまでも公務員試験の本なのでそれ以上の突っ込みはありませんが、せっかく経済学の話題が出たので、この問題を経済学的に、それも流行の制度の経済学的に分析すれば、大学にむやみやたらに経済学部を作り、むやみやたらに多い経済学の教師がむやみやたらに多い経済学部の学生に経済学を教えるという事態を社会的に正当化する上で、(実際に就職した後でそれが役に立つかどうかはさておいて)少なくとも入口におけるスクリーニングに経済学の知識を問われるという状況を作っておくことは、経済学教授という社会的システムを真に社会が必要とする以上に膨大に維持するという個別利害の観点からして極めて合理的であることだけは間違いないように思われます。
それが、就職後に本当に役に立って、社会全体の厚生水準の向上に貢献するのかといった、マクロ社会的な実質的合理性の問題を無視すれば、という話ではありますが。(うーむ、なんと(悪い意味において)ある種の経済学者に典型的な理屈であることか!)
(もひとつおまけに)
社会保険労務士山崎正枝さんの証言:
https://twitter.com/masaeymsk/status/911955827610730498
私の時代(濱口桂一郎先生と同い年)は女子は文学部進学が一番多かった。特に英文学は偏差値が高かった。進学した同級生は、教員になった者もいるが、ほとんどは稼ぎのよさげな良家に嫁ぎ良妻賢母に落ち着いた。女子学生亡国論などが言われた時代だ。今は女子もジョブに結びつく学部の方が人気がある。
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