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2017年8月18日 (金)

56年前に全て言われ尽くしていた

Bunshun_3755_5a1d_1「文藝春秋」1961年12月号に載ったソニーの盛田昭夫氏の文章がなぜか今ごろになって発掘されていますが、読んで見ると、拙著に書いてあるジョブ型とメンバーシップ型の話は全て言われ尽くしていますな。

http://www.excite.co.jp/News/economy_g/20170817/Bunshun_3755.html(ソニー創業者・盛田昭夫が56年前に書いた「新・サラリーマンのすすめ」)

・・・ 前にもいったように、日本人の就職の思想は「奉公」だった。アメリカでは、それが「契約」なのである。

「私はコレコレの仕事をする能力がある」と就職志願者が会社に自分を売り込み、会社がそれを認めたら、そこに契約が成り立つ。契約であるから、もしその人員が違反したら、つまり、「コレコレの仕事」をしなかったら、会社は即座にかれをクビにするのである。その代り、かれが思ったより以上の仕事をした場合、給料でそれに報いることをしなければ、その会社はあぶない。いつなんどき、競争会社が、かれを引き抜いていかないともかぎらないのだ。

・・・ というのは、アメリカでは、前に述べたように、会社が人を傭うのは、物を買うのと同じことなのである。物を買うということには、むずかしくいえば、その物の価値が要求されてるという前提がある。人間が買われる?場合も「コレコレの仕事をする」という能力への要求がある。それがつまり、買われる人間のポジションだ。

となるとアメリカでは、人間よりもポジションが先にある、といってもいいだろう。会社の組織だとか職務分掌だとかいうものが先にあって、人間はあとからはめこまれるのである。野球のポジションのことを思っていただけばいい。セカンドがひとり抜けたから、補充しなければならん、ということと、この仕事をする人間がいないから一人入れよう、ということと、まったく同じことなのである。ラインとかスタフなどはこうしたアタマの国の産物だ。

ところが、日本では事情はまるきり違う。経営者は、大学を出たての海のものとも山のものともわからない人間を採用するのである。採用したら、さっきの話で、しまったと思ってもやめさせるわけにはいかないし、とんだ拾い物だった、という場合だってあるわけだ。つまり、仕事より人間が先にあるのである。・・・

というわけで、ジョブ型だのメンバーシップ型だのと看板だけカタカナにしただけで、言ってる中身は半世紀以上昔から言われ続けてきたことの繰り返しであることがよくわかりますね。

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コメント

日本は「奉公」、アメリカは「契約」。
なんて端的な表現。
そしてそれが50年来、変わっていない。
ということは、これこそが社会的規範であり、国による違い、なのでしょう。
奉公人として腑に落ちる表現です。

投稿: ちょ | 2017年8月19日 (土) 08時28分

いえいえ、社会規範というのは時代によって如何様にも変わりうるのものでしょう。

とはいえ、今回のような「根の深い」テーマは一種の「文化」ともいえるレベルまでどっぷり根付いている(〜わが国で1000年以上の永きにわたって続いた封建身分社会)ため、一人ひとり(特に中高年世代)が「意識」を変えるのは言うほど簡単ではないでしょうが…。

もちろん(正社員の特権とも言えなくはない)職務&勤務地&労働時間の「無限定」な身分契約ですが、最近ようやく働き方改革なる国民的イニシアチブによって「労働時間」については官民とも働く皆さんの意識が確実に変わりつつありますよね。

そして「労働時間」の次なるテーマとしては、きっと「奉公」の踏み絵的な意味をもつ「配置転換」や「転勤(単身赴任)」というアイテムが議論の俎上に乗るかと。個々の労働者が追求しうるワークライフバランス(労契法3条)に対し、メンバーシップ型日本企業が従来アプリオリにもつとされてきた会社の「人事権」の正当性をどこまで今後も堂々と主張できるのかが問われるでしょう。

最後に。わが国の社会規範たる「世間」はなかなか変わりづらいものですが、歴史を振り返っても変わる時には一斉かつ一気に社会は変わるものですし、私たちニッポン人にはそうした時代的変革や危機に対処できる十分な柔軟性と適応力、いざとなれば率先して機敏に対応しうる行動力が備わっていると信じています。

投稿: 海上周也 | 2017年8月19日 (土) 12時25分

我が国の「同一労働同一賃金」をめぐる議論をみていても、結局メンバーシップの発想からは抜け出せていない、と感じますね。「同一労働なのに同一賃金でないのは不公平」という感情にもとづいている、というよりは「同一の職場にいるのに同一の賃金でないのは不公平」という感情にもとづいているように思います。

その証左のひとつとして、異なる企業・異なる職場の間で同一労働が同一賃金とならないのは、所与の前提として受け入れられているようです。

また、「男性の非正規労働者」がもっぱら問題としてとりあげられ、正規非正規の賃金格差が男女間の賃金格差でもあり、間接的な形での女性差別になっている、という視点もあまり前面には出てこないですね。

結局、現代においても、男性稼ぎ手モデルを前提としたメンバーシップ雇用による生活給、という規範から抜け出せずにいるように思いますね。表面上だけ「同一労働同一賃金」や「ホワイトカラー・エグゼンプション」といった欧米由来の言葉で飾られているだけなのではないかと。

投稿: IG | 2017年8月19日 (土) 19時02分

上記IGさんのご指摘、ごもっともですね。

まさに男子正社員による年功序列終身雇用(願望)を前提に作り上げてきた戦後のメンバーシップ法理なる壮大な社会規範ですが、そうした既存の社会制度を疑わない(崩したくない)メンバーから見れば、昨今の「同一労働同一賃金」なる異物なぞ、きっと自分たちの全ての既得権を無化しうる「パンドラの箱」以外の何物にも思えないでしょうからね。

とはいえ「戦後1945年のブラックホール」(昨晩のNHK特集)ではありませんが、我々日本人は速やかにそこから脱し、新たな社会経済秩序に対応しうる民主的で最適な雇用システムを早急に構築する必要があります。

ご懸念の「同一労働同一賃金」ですが、日本における最初の一歩はひとまず「内部公平性」が担保されることだけでも(社内の正規非正規格差が解消するだけでも)差し当たり十分ではないでしょうか。

さらに「同一労働」とは何ぞや?と試される「外部公平性」については、それを個別企業を超えた枠組みで誰がどのように成しうるのか、それを法律でどのようにサポートできるのか?という課題がクリアにならない内は簡単には対処できないでしょうから。

繰り返しますが、そこに向かうために必要なツールは職務分析とJD、外部労働市場の職種別給与データ(あるいは産別労働協約と職種別賃金テーブル)といったものではないでしょうか?

投稿: 海上周也 | 2017年8月21日 (月) 09時01分

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