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2017年8月 6日 (日)

上限もなければ下限もない

日本の労働時間と賃金をめぐる議論の混迷の根源は、やはりジョブという形でタスクをまとめ、それをよりどころに労使双方の権利と義務を確定するというやり方を取らないというところに淵源すると痛感する。

ジョブディスクリプションがないということは、それ以上やらなくてもいいタスクの上限が存在しないということを意味すると同時に、そこまではやらなくてはならないタスクの下限も存在しないということをも意味する。

誰にどのタスクを課するかという基準がジョブという形で明示的に存在しない以上、それはその時の企業の状況と、個々の労働者の業務遂行能力を見繕って行われることになる。

そしてここに、もう一つ日本型雇用の秘部ともいうべき「能力」をめぐる二重基準が絡む。

日本企業において、「能力」は二つの意味を持つ。本当にあるタスクをやらせてちゃんとそれをこなせるか、実績を上げられるかという意味での「能力」。その労働者にいくらの賃金を支払うべきかを正当化する根拠としての、実際の職務とは切り離された「職務遂行能力」という名の「能力」。

もちろん、企業の中で誰にどのタスクを課するかというときには、そんな空虚な「職務遂行能力」なんかに頼ったら回る仕事も回らなくなるので、本当にタスクをこなせる能力のある人のところに仕事が集まってくる。そして、それ以上やらなくてもいいタスクの上限がない日本では、その能力の限界を超えるタスクが押し寄せてきても、それでもそれをけなげにこなし続けるので、ますます大変なことになる。

ちなみに、この二つの「能力」をごっちゃにして、日本企業は労働者の職務遂行能力を的確に判断してそれに基づいて賃金を支払っているなどという記述が出てくるような本があったら、どんなに高名な学者の本であっても、そこでその本をそっと閉じて、それ以上読まないようにすることが吉です。「秘部」であるが故に、企業自身がそうむくつけに語ることは殆どないとはいえ、組織の中で働いた経験がある人でそれに気がついていないような人がいるとすればそれだけで失格。いやまあこれは閑話休題。

さて、これを何とかするには、そもそもジョブディスクリプションをとか迂遠なことをいってみても始まらないので、とにかく労働時間に上限をはめて、それ以上は物理的にできなくしてしまうしかない。

これが労働時間をめぐる一つの極の噺。そして、長年にわたって言い続けてきたこともあってか、最近になってようやくそういう噺が焦点になってきた。

なんだが、労働時間と賃金をめぐる噺にはもう一つの極がある。「それ以上やらなくてもいいタスクの上限が存在しない」ということからくる問題が一つの問題であるのと同様に、「そこまではやらなくてはならないタスクの下限も存在しない」ということからくる問題というのも、日本型雇用の宿痾として存在し続けており、それが実は常に歪んだ形で労働時間問題として提起され続けてきた。

問題の本質は、実は労働時間そのものにはない。「能力」に二種類あり、誰にどのタスクを課するかというときには実際にそのタスクをこなせるかという「能力」で判断され、その結果、「そこまではやらなくてはならないタスクの下限も存在しない」ので限りなく成果の低い労働者の存在もありうる構造でありながら、賃金計算上は「職務遂行能力」があることになっている労働者にそれに応じた高い賃金を払わざるを得ないという点に存する。もっとも、就業規則上労働時間に「下限」はあるので、そこまではやむをえす払うのもやむを得ないと思っている。

しかし、その矛盾がもっともよくクローズアップされるのは、そういうものが(企業にそれほど貢献しているわけではない)時間外労働をすると、基本給の高さに比例した極めて高い残業代を払わざるを得なくなるという地点である。いうまでもなく、それは企業が勝手にジョブ無限定(上にも下にも)をとり、職能給を取ることによって自らもたらしていることなのだが、それが自社だけではいかんともしがたい社会的制度として認識されるとき、それを法制度で何とかしてくれという悲鳴が上がることになる。

かくして、本当は労働時間問題ではないことが労働時間問題としてアジェンダにのぼせられ、ホワイトカラーエグゼンプションとか高度プロフェッショナル制度などという名で呼ばれる。

その虚構性に比べたら、一部労働弁護士の間では極めて評判の悪い「脱時間給制度」というのは、ものごとの本質、というか本音レベルの真実をよく物語っているというべきだろう。そう、企業が求めているのは、日本国の法制度は何ら要求してはいないが社会的制度として強制されている(と感じている)上記ジョブ無限定と職能制のもとで生じる主として賃金分配上の不合理を何とか是正したいということなのだから。

かくもねじれにねじれた噺を、解きほぐすこと自体がなかなか一仕事であり、下手にやり出すと「それ以上やらなくてもいいタスクの上限」が見えなくなってしまうという八幡の藪知らずに陥ってしまうのですがね。

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コメント

そういえば、ひと昔前まで日本企業で長期雇用で働く会社員が身につける特徴的な能力として「企業特殊能力」という言葉が盛んに使われていたと記憶しています。

これは言葉どおりその会社でしか通用しない業務プロセスや製品知識や社内人脈などの「特殊な能力」なのですが、Hamachanの本エントリを拝読して改めてもしや⁈と思ったのは、おそらく日系企業において各社の独自色が強くなかなか明文化(客観化すなわち一般化)されない難しい特殊スキルとは、異動で新しくアサインされた(上限も下限も明示されない)「マイジョブ」を前にして、周囲の期待や空気を読みながら自分なりに「仮想JD」を脳内で作りあげていく力かなと。

もっともこの「仮想JD」を想像するスキルは、オフィスの勤務中だけで身につく訳ではなく、おそらく日々のアフター5の居酒屋コミュニケーションなどで同僚や同期から率直な指摘を受けるなどして次第に磨かれ、社員は徐々に自社色に染まっていくのでしょうね。

高度な社会言語ゲームを繰り広げながら「自分に期待されている役割や労働時間はこのくらいだろうか?」と想像して自己決定していくことこそが、メンバーシップ型、職務無限定労働者の最大のチャレンジなのかもしれません。

投稿: 海上周也 | 2017年8月 6日 (日) 21時12分

あまりにも誤字が酷かったので再投稿します。すみません。(先の投稿は削除しても結構です。)

タスクの下限が存在しないことが問題となっている職場が、今の日本にどれほど存在するのでしょう?そんな問題は公務員やその周辺の職場でしか通用しないのではないでしょうか。(昇給抑制、役職の付与・剥奪で相当の給与格差をつけることで対応されているのではないのでしょうか。)

現在の日本の労働現場に目を見開いているのでしょうか。声が聞こえやすい周囲にしか耳が傾けられていないのではないでしょうか。

タスクの上限を労使で画すことが、世間一般で普通にされるようになってからでないと、問題が多過ぎやしませんか。

本記事のような、正面からの議論が、一般労働者・国民に開かれた形で議論されて、未来の日本社会がより良いものになっていくことを願います。

投稿: 万年係員 | 2017年8月 7日 (月) 12時57分

万年係長様、恐れ入りますが、

おおっぴらに半年前の記録を失くしたり、大事なはずの記憶を失くしたりして恥じないセンセー方ならまだしも、「公務員やその周辺の職場」について「タスクの下限が存在しないことが問題となっている」ことを立証するだけのエヴィデンスをご教示ください。

投稿: 通行人弐號 | 2017年8月 8日 (火) 00時03分

通行人弐号さん
本ブログの7月9日の国鉄関連の記事で、タスクの下限がないことの問題が顕在化した例が提起されていたことがあったこと(かなり昔の話ですが…)と、解雇(分限免職)が極稀であること、民間企業と比べ年功要素が強い賃金体系となっていることから、下限がないことが問題となる例が多いものと(類推)し記載しました。

証拠を用意するのは現実的ではないでしょう。調査するとすれば、同じ職務等級号俸で最上位の作業能率のものと、最低のものと平均値の比較を官民交えてしないといけないかと。そのような調査ができたとすれば結果は明らかであると思いますが…

投稿: 万年係員 | 2017年8月 8日 (火) 21時29分

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