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2017年7月 1日 (土)

生産性革新に向けた日本型雇用慣行の改革へのチャレンジ@経済同友会

去る6月29日に、経済同友会が「生産性革新に向けた日本型雇用慣行の改革へのチャレンジ -未来志向の「足るを知る」サスティナブルな成長社会の実現-」というタイトルの提言を発表しています。

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2017/pdf/170629a_1.pdf

正直、タイトルの中の言葉が互いに相克し合っているような印象で、何なんだろうか?という感じですが、とにかく「日本型雇用慣行の改革」ということなので早速中を読んでみると、冒頭いきなり

「岩盤」と言われている日本型雇用慣行の見直しに関しては、先人たちによる数多くの先見性ある提言がなされてきた。・・・

我々はなぜこれらの提言を実現できていないのだろうか。言葉ではその必要性を訴えながら、実は企業経営者も従業員も「変えたくない」「変わりたくない」という意識が根強く働いていたのではないか。

今回、日本型雇用慣行の在り方を考え、改めるにあたり、まず日本人の伝統的な特徴を考察したうえで、現在の日本型雇用慣行が形作られた高度経済成長期まで遡り、これまでの日本企業における働き方を振り返っていくこととする。

と来て、どう振り返るのかと思っていると、「日本人の伝統的な特徴」として司馬遼太郎の『この国の形』から、

①「公の意識」

私の立場を離れて、社会、組織等の全体に尽くす意識。新渡戸稲造『武士道』の「忠義」や、十七条憲法3の「第一条:和を以って貴しと為す」にも表れている。日本人の勤勉性・協調性、組織・企業に対する忠誠心・帰属意識に通じている。

②「名こそ惜しけれ」

はずかしいことをするな、という教えであり、『武士道』の「名誉」にも表れている。日本人における、秩序・規律の遵守意識の高さ、潔さを尊ぶ倫理観、奉仕精神の強さに通じている。

③「異文化の取り込み」

島国である日本は、海を隔てた異国の文化に憧れ、柔軟に取り入れて独自の日本文化を形成してきた。江戸時代の鎖国は、かえって海外への知的関心をかきたて、その後の近代化の支えとなり、明治初期の文明開化(洋服、街灯、教育、郵便制度など)を短期間に実現していった。

このような3つの特徴により、日本人は「労働は美徳」と位置づける傾向が強い。

いやあ、ちょっといきなり、ちゃんとした労働史は読まないで、自分の読んだポピュラー系の本に書いてあったいかにもな言葉を得々と持ち出して語るある種の偉い人々の典型例みたいな文章が飛び出してきて、思わず絶句してしまいます。

そこを何とか気を取り直して、日本型雇用をどうしようと言っているのかと先を読み進んでいくと、

切迫した日本の現状を打破するためには、日本型雇用慣行をどのように見直すべきなのか。

欧米企業の先進的な事例に関する研究やその雇用慣行の導入を指南する意見は多数見られ、いずれも重要な示唆があるが、欧米方式そのままでは日本企業にマッチしない。

日本企業が、日本人の特徴(心の態度)を活かしながら、生産性およびエンゲージメントの向上を通じて「日本の目指す姿」を実現していく視点が大切であり、そのためには、日本人にとって納得感ある「日本の目指す姿」とその実現に向けた日本型雇用慣行の方向性を明確にしておく必要がある。・・・

ふむ、ではどうハイブリッドするのかというと、

①「公の意識」

私の立場を離れて社会のために役立とうとする従業員の意識を活用し、エンゲージメントおよび生産性を向上させることが求められる。

公の意識に基づく組織への貢献を適正に評価するため、チームワークの観点を取り入れた職務(ミッション)を設定する、日本型のジョブ・ディスクリプション(職務記述書)を開発する必要がある。

また、日本型のジョブ・ディスクリプションを運用していくにあたっては、各人の成果をはかる評価軸を見直すことが求められる。即ち、「従来のインプット主義(労働時間数による評価)から、アウトプット主義(単純な成果評価ではなく、『社会への価値創造に対する評価』)へ転換」する必要がある。→「職務/ミッション/評価」に関する課題

いやいや、「職務」(ジョブ)に「ミッション」とふりがなを振ってはいけないでしょう。日本的な「ミッション・ディスクリプション」を作り出すというのなら、論理的にはあり得ますが、それはいかなる意味でも「職務記述書」ではありえない。というか、職務記述書と同じようなレベルで「ミッション」て記述できるんでしょうかね。「公の意識」があるから大丈夫?じゃあ、ちょいと一つか二つ作ってみてくれませんか。まともに使えそうなのを。

②「名こそ惜しけれ」

「名こそ惜しけれ」の意識を、生産性を向上させる形で活用することが求められる。従業員が惜しむべき「名」を「外形(労働時間)」から「実質(成果)」に変え、企業内の多様な構成員の個々人のベクトルを上向きにしていく。

特に、要員構成上のウェイトが今後高まることが見込まれ、かつ社内失業等によりモチベーションが低下している中高年層がポイントとなる。

中高年層のプライドに再び火を灯し、成果を挙げ続ける人材を活用していくためには、成果者に報いる「評価・処遇」、全体を底上げする「教育」、および成果を引き出す「雇用形態」へ転換していくことが求められる。即ち、リ・スキルによる人材力の強化とともに、これまでの年齢基準による一律の退出の仕組みについて、アウトプット(価値創造)基準に基づき制度を弾力化する必要がある。

→「職務/ミッション/評価」に関する課題

「年齢による一律の退出」に関する課題

いやいやいや、中高年問題を「名こそ惜しけれ」で解決できるんなら、こんな楽な話はないと思いますけど。毎日その「岩盤」に頭を悩ましている人事部の諸氏が怒り心頭に発しそうな・・・。

経済同友会の提言って、かなりラディカルな議論を敢えて展開することも多く、結構批判も浴びてきていますが、立場の違いを超えて、その水準は結構高かったと思います。しかし今回のは、いささか司馬遼太郎のエッセイに無理矢理合わせて作った作文という感が否めず、とりわけ企業の人事担当者が勢い込んで読んだら、相当な肩すかし感を感じるのではないかと推察しています。

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コメント

経済同友会の本報告書...。ざっと全体に目を通してみましたが、細かい所で多少の違和感は残るものの(例の司馬遼太郎の引用や、ミッションとジョブの用語法など)、日本企業の改革の方向性や全体的な結論に関しては(私の目からは)概ね妥当な内容に見えますね。

とりわけ、日本企業の「新卒者」一辺倒の人事慣行とその結果生じたモノカルチャーが様々な側面で制度疲労を起こし、人材の多様性やエンゲージメントを失っているという実態を鑑み、今後は「中途採用者」を一定数(例として年間の採用者数の3分の1)を組織に注入していくという点、それを実現する手段として「JD」(日本型とかミッション〜とか、よく分からない点はひとまず置いておくとして)を整備していくという点、転勤制度を見直し個人のキャリアを尊重する点、そして定年延長も含め定年制度を見直そうという点。

これらの提言は(表現こそ違えど)メンバーシップ型から世界標準のジョブ型を志向していくことに他なりません。ただ、そこで現行のメンバーシップ型の利点を活かしつつ、ジョブ型の良い点だけをちゃっかり取り入れたいという思いが、司馬遼太郎の引用に現れているのでしょうね。

司馬遼太郎は、幕末、明治維新から日露戦争に至る、一大ロマンを描写した。一連の作品の中で、この時代に登場する志士達の、私信を捨てて公に奉仕する勤勉さ、「名こそ惜しけれ」という武士道の精神を憧憬の念をもって描いた。

しかし、司馬は日露戦争以降の歴史について小説を書いていない。軍部が暴走し大東亜戦争を始め敗戦にいたる歴史、敗戦後、経済復興を果たし経済大国になった歴史について、描写することはなかった。

司馬は、日本の将来について漠たる危惧を抱いていたという。

司馬が憧憬をもって描いた私信を捨てて公に奉仕する武士道の精神こそ、彼の抱いていた危惧と重なっていたのではないだろうか。

滅私奉公を美とする精神にこそ、危うさがあるのではないか?お国の為に命を捧げて戦った兵士達、会社の為に個人の生活を犠牲にして深夜まで働いたサラリーマン・・・

日本社会は、上位者が下位者の利益を計らうことを前提として、上位者に奉公するという色合いが濃く、「己を捨てて公のために尽くす」ということを称える美学がある。

しかし、そこに欠けているのは、自分で判断し自分で行動する自立した個人である。自立した個人があり、個人の連帯が社会を構成するという欧米の考え方と対極にある。

国と地方の関係においても、類似したパターナリズムの構造がある。国は地方に地方交付税や国庫補助金を交付し、地方の自主財源を絞ることで地方を統治する。地方行政は財源を国に依存するため、住民に対して向けるべき顔が国に向く。そこに、自立した地方自治はない。

ドンがいて、住民に見えないところで利害調整を行う旧来の政治に対して、小池百合子は地域政党「都民ファースト」を立ち上げ、都議選で圧勝した。都民のための都民の政治が行われ、日本の政治風土が変わっていくことを見守りたい。

経済同友会の提言は、生産性革新に向けた日本型雇用をどのように変えていこうと提言しているのだろうか?

雇用のコストを抑え、従業員のモチベーションを高め、企業の利益を最大化するという企業にとって都合のよい論理しか見えてこない。

アベノミクスによる金融緩和で円安になり、企業は莫大な利益を得ながら、国内経済への利益の還元はわずかである。経済同友会の小林喜光代表幹事は、記者会見の場で、「日本企業が成長戦略を進める上でも、グローバル化に対応する上でも、付加価値を高める努力が必要なのではないかという指摘もあるが、所見をお伺いしたい」という質問に対して、次のように答えている。

・・・少し言い過ぎかもしれないが、国内は人口が減り、高齢化社会になり、あまり(内需拡大が)期待できないだろう、よくてフラット(横ばい)だろうと思っている経営者は多いと思う。だから、ものすごくアグレッシブに海外に行き、中国やインドで失敗したり、あるいはアメリカでガバナンスがうまくいかず失敗したりもしているが、私は今の経営者はそんなに軟弱ではないと思う。たまたま国内に投資していない(だけである)。・・・

企業の利益を日本経済の好循環に繋げようという、「公のために尽くす」という精神は伺えない。

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