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« 竹信三恵子『これを知らずに働けますか?』 | トップページ | 「こんな仕事をするために、この会社に入ったのではない!」 »

2017年7月14日 (金)

10年経っても残業代ゼロけしからん

連合の神津会長が、昨日安倍首相に労働基準法改正案について要請したことが、各紙に報じられており、連合HPにも載っています。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/news_detail.php?id=1299

神津会長から、継続審議となっている労働基準法等改正法案に関して、企画業務型裁量労働制の対象業務の拡大や高度プロフェッショナル制度の創設については、現在でも導入すべきでないと考えているが、少なくとも、①裁量労働制が営業職全般に拡大されないことの明確化、②高度プロフェッショナル制度で働く方の健康確保の強化、という点からの是正が不可欠であることを述べました。

 また、現在の裁量労働制の問題点として、裁量労働制で働く者は、仕事の進め方や時間配分に関して主体性を持ちたいと思いつつも、実際には、労働時間(在社時間)が長かったり、取引関係における短納期などの要因により業務に対する裁量性が小さかったりするなど、本来の制度趣旨に沿わない実態にあり、対象業務拡大の前に、裁量労働制の適正な運用がなされるようにすべきことも発言しました。

要請の中身については後ほど言及しますが、その前に、この要請行動について、ネット上に非常に批判的な意見が強いことに、正直違和感を禁じ得ません。

批判している人々は、はっきり言ってその言動が誰かに影響を及ぼす責任ある立場にないので好き勝手なことを言えるのかも知れませんが、労働組合のナショナルセンターとして、駄目なものは駄目と言って後のことは知らんぞよといって済ませられるような立場ではない以上、ほぼ間違いなく時間外労働の上限規制と一体の労働基準法改正案として出されてくる高度プロフェッショナル制度や裁量労働制を、それは悪いものだから全部まとめて潰してしまえなどと莫迦なことを言えないのはあまりにも当然でしょう。

脳内バーチャル空間で百万回「はい論破」と繰り返したところで、リアル空間では何の意味もない、というリアルな現実をわきまえて物事を考えるのかそうでないかの違いといえばそれまでですが、どういう政治的配置状況の下で、ほんの2年前までは考えられなかったことが実現しようとしているのかということを少しでも我に返って考えられる人であれば、ここまで無責任な言葉を紡ぎ続けられないのではないかと、正直呆れるばかりです。

現時点で、制度導入を受け入れる代わりにその修正を要求するというのは、考えられるリアルな選択肢の中ではかなり筋の良いものであったことは確かでしょう。現実にあり得ない選択肢は百万回繰り返しても意味がないので。

そもそも、この期に及んで未だに10年前とまったく同じように「残業代ゼロ法案」という手垢の付いた非難語を使っていることに、当時のホワイトカラーエグゼンプション騒動に対してこう述べた私としては、結局何も進歩しとらんわいという感想が湧いてくるのを禁じ得ませんね。

http://hamachan.on.coocan.jp/johororenjikan.html (「労働時間規制は何のためにあるのか」『情報労連REPORT』2008年12月号))

・・・一方で、国会提出法案からは削除されてしまったが、それに至るまで政治家やマスコミを巻き込んで大きな議論になったのが、いわゆるホワイトカラー・エグゼンプションであった。ところが、上記のような労働時間規制に関する認識の歪みが、この問題の道筋を大きく歪ませることとなってしまった。そもそもアメリカには労働時間規制はなく、週40時間を超える労働に割賃を義務づけているだけである。したがって、ホワイトカラー・エグゼンプションなるものも割賃の適用除外に過ぎない。一定以上の年収の者に割賃を適用除外することはそれなりに合理性を有する。ところが、日本ではこれが労働時間規制の適用除外にされてしまった。ただでさえ緩い労働時間規制をなくしてしまっていいのかという当時の労働側の批判はまっとうなものであったといえよう

 ところが、この問題が政治家やマスコミの手に委ねられると、世間は「残業代ゼロ法案」反対の一色となった。そして、長時間労働を招く危険があるからではなく、残業代が払われなくなるからホワイトカラー・エグゼンプションは悪いのだという奇妙な結論とともに封印されてしまった。今年に入って名ばかり管理職が問題になった際も、例えばマクドナルド裁判の店長は長時間労働による健康被害を訴えていたにもかかわらず、裁判所も含めた世間はもっぱら残業代にしか関心を向けなかったのである。

 ホワイトカラー・エグゼンプションが経営側から提起された背景には、長時間働いても成果の上がらない者よりも、短時間で高い成果を上げる者に高い報酬を払いたいという考え方があった。この発想自体は必ずしも間違っていない。管理監督者ではなくとも、成果に応じて賃金を決定するという仕組みには一定の合理性がある。しかしながら、物理的労働時間規制を野放しにしたままで成果のみを要求すると、結果的に多くの者は長時間労働によって乏しい成果を補おうという方向に走りがちである。その結果労働者は睡眠不足からかえって生産性を低下させ、それがさらなる長時間労働を招き、と、一種の下方スパイラルを引き起こすことになる。本当に時間あたりの生産性向上を追求する気があるのであれば、物理的な労働時間にきちんと上限をはめ、その時間内で成果を出すことを求めるべきではなかろうか。

 二重に歪んでしまった日本の労働時間規制論議であるが、長時間労働こそが問題であるという認識に基づき、労働時間の絶対上限規制(あるいはEU型の休息期間規制)を導入することを真剣に検討すべきであろう。併せて、それを前提として、時間外労働時間と支払い賃金額の厳格なリンク付けを一定程度外すことも再度検討の土俵に載せるべきである。

ということを前提にした上で、しかし今回の連合の要請書には、いささか疑問がありました。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/file_download.php?id=3993

高度プロフェッショナル制度の導入要件として、休日確保を義務とし、

制度の導入要件である健康・福祉確保措置(選択的措置)のうち、「年間 104 日以上かつ 4 週間を通じ 4 日以上の休日確保」を義務化すべきである。

それ以外を選択的義務とするという判断自体はリーズナブルであったと思います。

ところが、その選択肢の中に、

上記に加えて、疲労の蓄積の防止又は蓄積状況の把握の観点からの選択的措置を講じなければならないこととし、その内容は、勤務間インターバルの確保及び深夜業の回数制限、1 か月又は 3 か月についての健康管理時間の上限設定、2週間連続の休暇の確保、又は疲労の蓄積や心身の状況等をチェックする臨時の健康診断の実施とすべきである。

と、労働時間自体の規制だけではなく、健康診断もはいっています。これはどういう経緯でこうなったのかよくわかりませんが、制度設計としてまずいのではないかと思います。選択肢として健康診断を選ばない場合には、疲労の蓄積や心身の状況等をチェックする必要がないかのような誤解を招きかねないのではないでしょうか。いうまでもなく、それは全ての適用対象者に必要なはずで、ここに選択肢として出てくるのは大変違和感がありました。

まあ、既に要請がされ、安倍首相から

○ 本日いただいた修正提案については、労働者団体の代表のご意見として、重く受けとめる。責任をもって検討させていただく。

○ 現在提出している労働基準法改正案の目的は、働く人の健康を確保しつつ、その意欲や能力を発揮できる新しい労働制度の選択を可能とするものであり、残業代ゼロ法案といったレッテル張りの批判に終始すれば、中身のある議論が行えないと考えていたところ、本日の提案は、中身についての提案であり、建設的なもの。

○ ご提案に沿うかたちで、私と神津会長と榊原会長との間で、政労使合意が成立するよう、私自身、最大限、尽力したい。

という回答があったようなのですが、変なミスリードにならないように何らかの軌道修正が必要な気がします。

(追記)

https://twitter.com/ssk_ryo/status/886016871740325889

けしからんもんは、けしからんもんなぁ。あと、政治的な情勢からして最悪のタイミングなんだよね。取れるものが取れそうなときに水を差したのは誰かって話。

https://twitter.com/nabeteru1Q78/status/886022404190879744

責任あるものの政治判断だというなら、答えは一つで、「政治的なタイミングがクソすぎる」で終わる。ハマちゃんは政治は分かってない。

労働弁護士お二人から、要するに「ハマちゃんは政治は分かってない」という批判が。

この「政治」ってのは、「政策」ではなくて「政局」という意味ですね。

政策という意味での政治戦略からすれば、このまま断固反対→そのまま成立、と、そのまま丸呑み→そのまま成立、の間に、いくらかでも修正を働きかけて実現できるか、を探るのが「政治」。

もっとも、上記のように、「健康診断」という選択肢を入れたことで、その修正の効果はかなり限定的になってしまったというのが私の認識ですが。

しかし、お二人にとっての政治はそういう意味ではなさそうです。多分新聞で毎日1面トップを賑わし続けているような事柄をめぐる「政局」。

ただ、私は政治学者でも政治評論家でも政治部記者でもなく、それらと同じような発想を持ちたいとも思いませんが、その乏しい政治センスだけでみても、残念ながら今の流れは労働問題に関して労働組合側の主張が大幅に取り入れられるような方向での激動ではさらさらないというのが客観的な評価でしょう。

なぜかここ1,2年の安倍政権がやや突然変異的にかつ局所的にプロレーバーな政策を打ち出し始めただけで、自民党の多くの議員たちがみんなプロレーバーになったわけでも何でもないし、民進党はますます崩壊しかかっているし、「取れるものが取れそうなとき」というのは政局判断としてもまったく違うと思われます。

あと残るのは、労働組合の政策戦略とは別次元の、純粋「政局」というか、政治部記者たちが舌なめずりしながら追いかけるようなたぐいの「政局」としてであれば、実はお二人の意見はよくわかります。

せっかく安倍政権がスキャンダルがらみでふらついているときに、なんで塩を送るんだ、と。うまくいけば安倍政権を倒せるかも知れないこの政治的「好機」に、労働組合は自分の政策的要求などという下らないことは後回しにして、政治闘争の要請に従え、と。これはこれで、一つの考えとしては理解できないではありませんが、しかしそれは労働運動を政治の侍女とする発想でしょう。

労働運動の中にもそういう発想があることは確かですが、私はそういう方向性でない考え方の方を好みます。

そして、そういう種類の「政治」に貢献することによって得られるのは、成果よりもむしろ束縛であることが多いというのが歴史の教訓であるようにも思われます。

(再追記)

上記「政局」的発想を、そのものズバリ、何のてらいもなくむき出しに表出した文章を見つけました。五十嵐仁さんの「転成仁語」ブログです。

http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2017-07-14

・・・しかも、安倍内閣支持率が急落し、都議選での歴史的惨敗もあって安倍首相は追いこまれています。そのような時に、連合の側から安倍首相に救いの手を差し伸べるようなものではありませんか。

何を大事と考え、何を大事の前の瑣事と考えているかが、よく窺える文章ではあります。私とは、大事と瑣事とが正反対であるようです。

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コメント

この10年間を翻って当時(あるいは今も)本当にわが国で実現したかったことは何だったのか?と思いを馳せると、それはまさしく欧米の人事慣行でいうところのエグゼンプト(適用除外者)だったはずです。そして、欧米のExemptとは一体何かといえば、主に管理職や事務スタッフや専門職など相対的に高度な職務に就くワーカーを対象とする「時間外法制」からの適用除外」の制度にほかなりません。

Hamachan2007論文でもいたく強調されておられた通り、そして残念ながら未だに完全に誤解されてしまった通り、本来のエグゼンプトはあくまでも「時間外法制」(overtime provision) からの適用除外に過ぎません。例えばアメリカであれば週40時間以上の労働に対する5割という割増賃金からの適用除外であって、個人ごとに週に定めらた労働時間そのものの軛から外れるような代物では決してありません。

すなわち、本来(欧米)のエグゼンプトでは、サラリーはあくまでも各人のジョブごとに定められる労働時間における「労務の提供」に対して支払われるものであって、業務委託や請負契約のような「成果物やアウトプット」に対してではありません。

ところがなぜか日本では、いつの間にか「自律的な」「高度なプロフェッショナル」「労働時間ではなく成果で処遇する」といった華やかな修辞句(タテマエ)が飾られ、それを受けて職種も年収も極めて特殊なハイレベルな領域に限定された特異な制度が生まれようとしています。

そのボタンの掛け違い、完全なる誤解がどこから始まったのか?

きっとそれは、検討当初(あるいはもしや今でも)私たちがそこで生き働いている典型的日本企業の「正社員」のあり様が、労働社会のもっとも根幹な要素であるところの「職務」という概念を明示せぬまま何とか戦後ここまでやってきたということ(その極めて特異な働き方のスタイルで居続けていること)に最大のユニークさなり特徴があり、その事実に全くといっていいほど国民的に無自覚のまま、また当時「成果主義」なる国産流行コンセプトの元で欧米型社会を誤読し、本来であればジョブ型雇用社会を前提に理解すべきだったエグゼンプトを好き勝手に都合よく(和風に)解釈してしまった故なのでしょう。

ジョブ型社会の中では、マネジャーであれ専門職であれ(つまりエグゼンプトであっても)企業や役所など組織に雇われる労働者には、それぞれ職種や職務に応じた労働時間及びサラリーが決められています。高度な職務に就いて高い収入を貰っていることと、一定の労働時間の下で働くことは全く矛盾しません。

というのも、組織に雇われる労働者はあくまで労務提供の対価としてサラリーを貰っているわけであって、個人事業主や業務請負者のように純粋な仕事の成果物(仕事の完成)で対価を得ているわけではありませんから。

いわゆる「成果型」の導入の失敗を見てると、これも我田引水やって派手にヤラカスんだろうなあという覚めた感じが。
その間にすり潰される方は(若しかしたら私もですが)たまったもんじゃないですが。

毎日、世の中がそして雇用のあり方が、少しずつ確実に動いていますね。そして、日本の労働時間法制の問題はやはり根が深いですね。

ちなみに、10年前にエグゼンプトの議論が出始めた頃と現在の状況の一番の違いは、やはり長時間労働そのものが問題とされるようになったことです。当初は、広くエグゼンプトを導入することで長時間労働問題を解決できる、一石二鳥の制度だと皆んな思った訳です。

しかし実際には、長時間労働の問題と、エグゼンプトの問題は、両者が影響しあうものではありますが、別々に対処していかないといけない課題です。すなわち、いま始まりつつある勤務インターバルや36協定見直しなどによる長時間労働そのもののカット。これは管理職も含めた全労働者に当てはまる話です(なぜか日本の場合、管理職は例外だと勘違いされていますが…)

もう一つが、いわゆるエグゼンプトの話。これは、例えば管理職や専門職や事務スタッフ職や外勤営業職などエグゼンプトの対象となる職種や職務を予め法で定めて、その上で年収要件(アメリカでは現在五万ドル程度)をクリアした労働者に対し、彼らをエグゼンプトとして時間外法制の適用除外とする制度ですね。

一定の年収を貰い相応のレベルの仕事をしている以上、残業代も併せた時間給で細かく賃金計算するのではなく、定められた週及び年間の労働時間に対する全般的な労務提供に対してサラリーを支払うものです。その代わり、エグゼンプト社員には年間労働時間をキープすることを条件にある程度の働き方の自由、すなわちどこで働くかどの時間帯で働くかという部分に関してフレキシビリティが与えられているのです。

日本の場合、労基法で定める管理監督者があたかも労働時間関係なく無限定に働かないといけないような錯覚がありますよね。しかし、本来マネジャーであっても担当者であっても、定めらた労働時間そのものは同じで、あくまでも残業が発生した場合にそれを割増賃金で支払うか、それは年収(サラリー)に込みだというだけの違いなのですが…。

政治(政局)にも労働法にも全くの素人なので、非常に的外れかもしれませんが。


>現時点で、制度導入を受け入れる代わりにその修正を要求するというのは、考えられるリアルな選択肢の中ではかなり筋の良いものであったことは確かでしょう。現実にあり得ない選択肢は百万回繰り返しても意味がないので。

安保法制の時にみんなの党の党首が同じように考えて同じように行動しました。みんなの党の場合も今回の連合の場合もトップとそのまわりの一部の人の判断で実行され、一般メンバ(所属国会議員や傘下の労組)には知らなかった人も多かったそうです。その事が直接の原因ではありませんが、みんなの党はその後なくなってしまいました。


>批判している人々は、はっきり言ってその言動が誰かに影響を及ぼす責任ある立場にないので好き勝手なことを言えるのかも知れませんが、労働組合のナショナルセンターとして、駄目なものは駄目と言って後のことは知らんぞよといって済ませられるような立場ではない以上、

連合に所属する組合にはこの法案や今回の修正に反対する組合もあるそうです。
これらの組合は、その言動が誰かに影響を及ぼす責任ある立場にない組合なのでしょうか?
それともナショナルセンターではないので駄目なものは駄目と言って後のことは知らんぞよといって済ませられるような立場の組合なのでしょうか?

端的に言えば、労働組合と政党は違います。それに尽きます。

政党の政治とは、突き詰めると「政策」さえ実現できればどの政党でもどの政治家でもいい、というものではありません。政党とは政治闘争するための集団であり、その意味で政党政治家が究極的に『政局』で行動するのは合理的です。

労働組合はいかなる意味でもそういう意味の政党ではありません。何が労働者の利益になるかという観点でのみ行動するのがその唯一の政治行動原則であって、それ以外のあれこれを顧慮するのは、例えば安倍政治に救いの手をさしのべることになるとか、民進党との関係がどうとかこうとかというのは、労働組合が優先的に配慮すべき事ではありません。

それを知った風な口ぶりで「政治音痴」と評してみたところで、労働組合の本旨がこれっぽっちも変わるわけではありません。

三者構成原則とは、労働組合が少なくとも労働政策労働立法においてはインサイダーでなければならない、アウトサイダーであってはならないという原則です。

しかし、小泉政権以来、第1次安倍政権も含めて、官邸や内閣府の会議体から労働組合を排除して、そこで実質的な意識決定をするというやり方が一般化してきました。

あまつさえ、今から10年前の規制改革会議では、福井秀夫氏らが、そもそも労働組合などのような既得権勢力は排除して、自分たちのような公平な経済学者が政策を作れば良いのだと主張していました。

そういう中で、実質的政策決定過程の中に労働組合の意思をいかに入れ込んでいくかを必死になって考えるのが、私の考える責任ある労働組合の責任ある政治行動です。

どこか遠い、全然影響力を行使できないようなところから、お仲間の人たちだけは一生懸命聞いてくれて拍手してくれるかも知れないが、肝心の実質的政治的意思決定に関わる人々には全然伝わらないような『叫び声』を上げていれば、何か責任を果たしたかのように思い込める幸福な人々にはできない技でしょうけど。

繰り返しますが、ILOの三者構成原則とは労働組合がインサイダーになるべきという原則です。政府がそれを嫌がって除け者にしようとするときであればあるほど、様々な手練手管を使ってそこに潜り込んでいかなくてはいけません。

それが政党とはまったく異なる労働組合という利益団体の政治責任です。それをどこかのぽっとでの政党の行動と比べること自体が、ILOに由来する三者構成原則に対する無知を露呈しているように思われます。

私の知る限り、現時点で公式に今回の連合の行動を批判している連合加盟組合は全国ユニオン一つだけだと思います。

それ以上、そういう無責任な、労働組合の政治責任とは何かをリアルに考えることのできない労働組合がたくさんあるのかどうか、現時点では私は知りません。

 皆さん、今晩は。

 まず、Alberichさん、みんなの党云々は2015年の安保法制ではなく、2013年の特定秘密保護法のことではないかと思います。みんなの党は特定秘密保護法の成立に手を貸したことで内紛が表面化し、翌2014年の総選挙を前に消滅に追い込まれました。つまり、安保法制が問題になった時にはみんなの党は存在していませんでした。

 次にhamachanさん、政労使3者会談が中止になりましたが、原因は連合内で調整がつかなかったことにあるようです。非公式の反発は強いのでしょう。

当たらずとも遠からずな感じで例えれば、

今日芥川賞・直木賞の発表があったが、今の芥川賞の選考委員には少なくとも二名以上の「非・純文学作家(通俗作家)」がいる(宮本+高樹+α)のだから、本気で純文学作家としての大成を目指す候補者・受賞者は、
「そんな内実の伴わない芥川賞は辞退すべきである。(芸術に殉ずべし)」
ということになってしまいそうだが、
しかしそんな辞退は作家本人はもとより読者(潜在読者)にとってもまるで意味のないことであり、作家は受賞して後に純文学作家として大成すればいいだけのことに過ぎない。

ついでに、ここのところの直木賞は”功労賞”的な感じになってしまって、必ずしも個別作品そのものに与えられていないきらいがある、からといって、じゃあやっぱり作家は”素直に辞退すべき”、などとなるわけはないのであって、功労賞だな、ということで受賞してこれまで通り作品を発表し続ければいいだけなのである。

国道134号鎌倉殿

訂正ありがとうございます。
うろ覚えでいい加減な投稿をしてしまい、申し訳ありませんでした。

数日前の日経新聞の「人間発見」というコラムにウェルスナビ社長の柴山和久が次のような記事を投稿されており、興味深く拝読しました。一部抜粋します。
__________________
『普通の人を楽にリッチに』
=日本の働き方 妻に通用せず=官僚辞め仏の経営大学院に=
 帰国し財務省主計局の課長補佐に。働き盛りで帰宅は連日深夜。
それが当たり前と思っていたが、米国人の妻にはそんな日本の官僚の生活がまったく理解できなかった。
 英国財務省に出向していた時も、日本の財務省に戻ってからも、仕事は同じ予算作りです。
英国時代、勤務時間は10時から16時まででした。
それが帰国後は日付が変わっても帰ってこないし、泊まり勤務も珍しくない。
日本の官僚社会では、それが普通だと説明しても、妻は全く聞いてくれません。
「あなたが大うそつきか、日本の財務省が狂っているか、どちらかだ」。
もう辞めるしかないなと思いました。妻の言い分も、もっともだと思ったからです。
______________

国際労働比較によると2015年の一人あたり平均年間総実働労働時間は日本1734時間、米国1795時間、フランス1399時間と、日本の労働時間は米国より少ないのです。

しかし、筆者が米国で働いた実感も、柴山さんと同じようなものでした。

労働時間と残業代の議論、10年前とあまり変わっていないようです。官庁あるいは大企業で働く正規社員の労働の実態は昔も今もあまり変わっていないようです。

日本の長時間労働に対する考え方は、欧米とは根本的に違います。欧米では残業をしないのがデフォルト、日本(正社員)では残業するのがデフォルトです。

日本の労働者は、残業を前提として、残業代を含む賃金をローンの支払いや子供の教育などの生活費に充てています。彼らにとって、長時間労働は生活費の源泉であると考えられます。

一方、欧米流の残業をしないのがデフォルトの社会では、高度プロフェッショナルは成果をもって評価され、自由な働き方が許されます。

(残業することがデフォルトの社会では)高度プロフェッショナルと普通のサラリーマンの境界を定める必要があります。高度プロフェッショナルでもない普通のサラリーマンに労働時間ではなく、成果で賃金を支払うということになれば、それは問題でしょう。

普通のサラリーマンに対しては、労働時間に応じた残業代は支払われる必要があります。同時に残業時間を少なくするための努力が労使双方でなされる必要があるでしょう。

制度的には、労働時間の上限規制、残業コストの引上げが長時間労働の抑止になるのではないでしょうか。

安部首相の回答にある、
「現在提出している労働基準法改正案の目的は、働く人の健康を確保しつつ、・・・」
は違和感のあるところです。

長時間労働の規制は、働く人の健康の問題だけではなく、冒頭紹介した元財務省氏の発言、
「米国人の妻にはそんな日本の官僚の生活がまったく理解できなかった。・・・」
が本質をついているように思われます。

「健康」の問題だけでなく、長時間労働は「生活」を犠牲にしていることを、認識するべきです。

いつもながら全くの私見ですが…まさに上でご指摘にあったわが国の「残業することがデフォルト」の古き雇用慣行のあり方を、大至急そうではない方向(ワークライフバランス)に変えていくための実現手段こそが同一労働同一賃金やダイバーシティやワークシェアリングやテレワーク等の一連の「働き方改革」であるという前提に立てば、今回の高度プロ制度のようなこれらの改革を撹乱するオプションは(混乱要因でこそあれ)今急いで導入するだけの合理的な理由を見つけるのはやはり相当無理があると言わざるを得ませんね。

おそらく、それは2025-30年くらいでしょうか?我々日本人の働き方や意識が(上述の改革が奏功した結果)世界中の人達と同じようになった頃に初めて、労働改革で積み残した残りの重要なテーマ(転勤法制や解雇法制やエグゼンプトなど)の改革に、抜本的な労働法の見直しと併せて取り組んでも遅くないと思うのです。

優先順位をつけて、本当に重要な課題から一歩一歩解決していくことこそが、この複雑で捻れた日本の雇用社会の改良に一番望まれる姿勢ではないでしょうか。

今朝の日経一面記事曰く「連合、「脱時間給」容認を撤回、政労使合意は見送り」…との結果ですね。

NewsPicksのコメントを見ても、果たして様々な論者がにぎやかに賛否両論、議論はかなり混沌としています。

そこで、近い将来にこの同じテーマが日本の労働法改革のアジェンダに再々浮上してきたときのことを想定して、これまでの拙コメントを整理する意味でも以下の備忘録を勝手ながら記載させてください。

ー 日本人の長時間過重労働からの脱却というテーマ(「働き方改革」)はいま正に始まったばかり。このモメンタムを継続していくことで、諸外国と同様の「残業しないことがデフォルト」の雇用社会を実現していくことが今後5-10年間の最優先課題となるはず。

ーそれを実現するための手段として、残業規制の強化(36協定の上限時間や残業割増率の見直し)、勤務インターバル制度の導入、フレックスやテレワーク、ワークシェアリングなどの各種人事施策の推進が重要。

ー上記手段とは別次元の重要な手段として、ダイバーシティ(女性活躍推進)及び同一労働同一賃金の推進。これによりワークライフバランスの実現も近づいてくる。

ー今回見送りになった「高度プロフェッショナル制度」(略称、高プロ)は、今後も政労使の客観的な議論のもとでその必要性や適格性が入念に再検証されるべきテーマだろう。

ーというのも、欧米のExempt制度(時間外規定からの適用除外制度)と「高プロ」は(きっかけは同一なるも)結果的に仕上がった姿は全く以って非なるもの。

ーその誤解の大元の原因は、われわれ日本人が自分たちの寄って立つ雇用社会(メンバーシップ型契約)と世界標準のジョブ型との大きな違いに無自覚のまま(その前提条件の違いの重要性に気づかずに)検討を進めてしまったこと。

ー本来のExemptはあくまでも1週間あたりの労働時間の時間外規定(割増賃金)からの適用除外であって、労働時間規定そのものをなしにするものでもなければ、自律的に働く個人が「成果」で処遇されるとの個人事業主さながらの請負契約ライクのものでもない。(そもそも「高プロ」は雇用契約が当てはまるのか?労基法上の「労働者」なのだろうか?)

ー将来的に、日本の雇用社会が「残業しないことがデフォルト」になった暁に、満を持してExemptを是々非々で議論すればよい。

そして、以下は想像(空想)といいますか、私個人のささやかな期待でありますが…

ーその時には日本企業のダイバーシティもさらに進み、同一労働同一賃金のもとで各人の働きに応じた賃金がより正当に支払われ、各社とも中途採用の人材争奪戦によって労働市場も活性化することで賃金上昇圧力が生じ、外部労働市場によるサラリーの相場感が形成されていくだろう。

ーこれらの結果、日本人の労働生産性や賃金やエンゲージメントといった労働指標が改善され、社外に開かれたジョブ/ポジションの公募機会をめざして国内外/社内外から意欲ある候補者が競争しあうイメージ…。

それでは改めて、現実問題として、この日本の現行の労働時間法制性下で、残業代支給対象の彼ら管理職手前のホワイトカラーに対し、上のマネジャーポジション(残業代非適用者)と逆転しないように、どのように処遇すればよいのか?

私の知る限りこの問題の唯一の解決策は(外資系でよく)「セミエグゼンプト」と呼ばれる手法。これは、毎月の所定残業代(例えば45時間、36協定に合わせる)を予めベースに含めておく(ただし本人への給与明細で明記要)か、固定残業手当として別費目で別途支給することで、ベースサラリーを底上げして年収水準を一定値に(上のマネジャーポジョンと逆転せぬよう)コントロールする仕組みです。もちろん、彼らは(管理職や裁量労働者とは異なり)時間管理の対象者ですから、所定残業45時間を超えた場合は超過分の残業代を貰えます。

まあこれは、別に目新しい制度でも全くなく、外資系(日本法人)であればどこでも導入しているいわばストリートワイズかつリーガルディフェンシブな実践知…。ただ、労組のある日本の大企業では導入はやや難しいのかなぁと思っていた矢先に…とうとう出ましたね。

本日の日経新聞一面によれば、トヨタのホワイトカラー組合員の上位半数7800人対象に導入意図。希望者を募る、とのこと。またその日経記事の取り扱いも「政府で議論が進む「脱時間給」の要素を現行法の枠内で先取りする」と熱く、ようやく「高度プロ」や「脱時間給」の果てしない議論から「脱する」ことができそうかな、と胸を撫で下ろしましたね。

以下、小職なりに若干のコメントを…

新制度導入希望を募る対象者7800名(主任級。係長含む。ホワイトカラー組合員の上位半数)のどれだけが応募するか?が勘所ですが、勝手な予想では4分の3(7、8割)くらいでしょうか。上位層は固定残業手当の一定額17万円では不利益変更になるでしょうし、目玉でもある自由な働き方(テレワーク&フレックス)にまだあまり魅力を感じないコアな(若き)保守層も少々いるでしょうから。

この制度(セミエグゼンプト)がトヨタで奏功し、他の日本企業もこの制度の導入の流れが起きれば、現行の「働き方改革」、長時間労働削減の流れに勢いが生まれ、日本の雇用社会が望ましい方向(ワークライフバランス)へ一歩近づくでしょう。

その意味で、流石日本を代表するトヨタさん。
大きな一石を投じましたね。

先週1/22から始まった通常国会では「働き方改革」が憲法改正と共に重要なアジェンダとなり、安倍首相は「『働き方改革』を断行する。子育て、介護などさまざまな事情を抱える皆さんが意欲を持って働くことができる、誰もがその能力を発揮できる柔軟な労働制度へと抜本的に改革する」。そしてこの「働き方改革」を「70年ぶりの大改革」と評し、長時間残業削減、同一労働同一賃金、高度プロフェッショナル制度の実現に強い意欲を示しています。他方(労働者の立場にすれば当然とは思いまが)野党はいっせいに「高度プロ制度(脱時間給)」に反対を表明し、対立姿勢を崩していません。

もちろん小職も最終的には(日本国民の一人として)当国会の審議に委ねるしかありませんが、やはり「二兎を追う者は一兎をも得ず」、すなわち、日本人の働き過ぎを防ぐことを目的に法律で規制強化をしようとする正にこの時機に、その「抜け穴」の嚆矢とも見えかねないトリックスターを急いで導入する理由がどこにあるのでしょうか? 現実のマネジメント及び人事労務屋の実務的な観点からも(上述昨年7月26日のコメントの通り)、合理的理由が現時点であるようには全く思えませんね。

それにしても… 。現在国会で審議中の例の不適切な裁量労働者時間外データ問題。優秀な厚労相の担当者があのような超初歩的ミスをするわけがありませんよね。すると、やはりここでもお得意の「忖度」が働いたと見るのが自然です。働き方改革法案…、本当に大丈夫なのでしょうか?JILPTさんの調査力をもってすればより適切なデータや統計は出せるはずですよね。ニッポンの正確な現状認識を欠いたまま、本来ならば働く人たちを守るための労働法を、一連の「規制改革」の標的とする考え方自体にもっと慎重にならなければなりません。なお私自身は、Exemptという雇用形態に本来的には賛同していますが、いまのニッポンの働く人たちの実態を見る限り「時期尚早」という立場です。優先順位をつけて、長時間労動削減や同一労動同一賃金など重要なイシューから取り組んでいくことが、私たちの雇用社会をより魅力的で確かなものにしていけると考えます。

最近、そもそも「裁量労働制」という(欧米でいうExemptを和風にアレンジした)制度自体が少なくとも当面の間、日本企業では効果的に機能しないのでは?という根本的疑問を感じています。

いままさに「働き方改革」国会で企画業務型裁量労働制に新たな2オプション(提案営業職とPDCAを回す業務⁉︎)が加えられようとしていますが、専門型裁量労働制はまだよいとしても企画業務型は本当に大丈夫なのでしょうか?

さらには、そもそもの話として裁量労働制の前提としている仮説、その妥当性を以下に検討してみます。

前提1 労働時間ではなく「成果」で賃金を払う、ということがどれだけ適切/可能なのか?

回答1 ジョブ型でいうExemptは、あくまでも時間外法制(時間外手当)からの除外であり、労働時間や出退勤時間という「時間管理」の概念がなくなるわけではない。Exemptは、労働時間および勤怠管理をなしにする日本の裁量労働制とは全く異なる。

前提2 労働者本人が「自律的」に業務を遂行する(業務遂行の「方法を大幅に本人にゆだねる」)ということがどれだけ適切/可能なのか?

回答2 「専門型」は適切かつ可能なものがあるとは思われるものの、企画業務型(今回の「提案営業職」や「裁量的にPDCAを回す仕事」を含む)は、この「自律性」や「方法を大幅に本人にゆだねる」という点でかなり無理があるのではないか?

前提3 そもそも「長時間労働」の問題が解決されていない企業(マネジメントや労務管理が不適切な会社)において、「裁量労働制」をどれだけ適切に運用できるのか?

回答3 まずは「労働時間の管理」をしっかりと行う(長時間残業の削減等)ことができて初めて、その次のステップ(Exempt)へ進むことができるのではないか?日本企業でそれが可能な組織はまだまだ少数である。

やはり裁量労働制というか、本来のExemptが機能するためには「ジョブ型雇用」が前提として必要なのではないでしょうか。なぜなら労働者が「自分のなすべき職務」が客観的に明確化/限定されてこそ、言葉どおり「自分の裁量」で仕事が進められるようにと思われるからです。

そもそも、メンバーシップ型雇用と裁量労働制の相性はよろしくないのですよ。

本日、最新号の「Challenges for Workplace regarding the Autonomy of Working Hours: Perspective for the Prevention of Overwork(働く時間の「自律性」に関する職場の課題:長時間勤務の防止に向けた展望〜最新「Japan Labor Issues」 (Feb-Mar, 2018. JILPT掲載。T. Takami執筆)を大変興味深く、拝読しました。これはまさしく、現在働き方改革国会で喧喧諤々の「裁量労働制」をめぐる問題点を客観的に分析したタイムリーな論考ですね。その論文(要旨)曰く:

◉働く時間を本来自分で決められるはずの裁量労働者であっても、実際には毎日の業務内容と仕事量を自分でコントロールできない場合が多い。

◉個々人の具体的な職務(業務内容と量)が会社や上司によって(一方的に)決められるとき、労働者個人に自分の労働時間を決める自由があるとはいえ、労働時間が増大することがわかった。

◉顧客との関係性や取引きによって業務の詳細な仕様が決められるとき、過剰な顧客サービスがもたらす担当者個人の過重労働を避けることが難しくなる。

◉したがって、マネジメント(管理者)が労働者の長時間労働をケアするためにもしっかりと各人の仕事量を見極め、業務量を最適化するために職務を定める際には労働者個人の意見を考慮することが重要。さらには、適宜休憩や休息を入れるなど管理者によるキメの細かい進捗管理によって各人の業務量を配分する上司の役割が重要となる。
ーーーーーー
さて、このレポートを読んで改めて私なりに考えてみた裁量労働制の「あるべき姿」は次のとおりです。

■過重労働防止という労働者保護の観点からも、裁量労働制は現行の運用ルール(労使協定などの制約)だけでは不十分だろう。

■とはいえ、マクロ経済及び企業経営的な観点から裁量労働制をこのタイミングでどうしても「拡充」したいのであれば、例の「高プロ」で導入企図していた2要件、すなわち「勤務時間インターバル」と「ジョブディスクリプション」(職務定義書)を裁量労働対象者全員に適用させることで労働者にとっての「セーフティネット」を設けるべき。

■その場合、(集団的な)「労使協定」に加えて、各ジョブディスクリプションの職務内容に関する裁量労働者「個人の同意」も要件の一つとすべき。

■JDには職務内容だけでなく「みなし労働時間」(すなわち1日の適正な標準労働時間)もあわせて記載されることで、マネジャーが過重労働防止に配慮していくべき。

実はこれらの話は真新しい話でも全くなく、いま私がいるような(日韓を除く)グローバル企業すなわち「ジョブ型雇用」の世界では普通にどこでもごく普通に見られる個別労働契約の締結時の通常のやりとりなのです。そして、本来問われるべきは「時間データの不備」の検証ではなく、そもそもの議論〜われわれの「裁量労働制という制度そのもの」に不備や要改善点がないかどうかという観点のはずです。(なお、これで「高プロ」はあってもなくても大勢に影響なし。いま緊急で必要な制度であるわけでもないですし反対している人がこれだけ多い訳ですから、やはり「見送る」のが筋でしょうね。)


おそらく現時点でもっとも重要な論争テーマである、現状の「働き方改革」国会における「裁量労働の時間外データ」をめぐる議論、そしてそもそもの「裁量労働」について…。これを「とんでもない失策/混乱〜できうれば一切回避したかったゴタゴタ」と否定的に見るのか、あるいは、そうではなく「本来なら事前段階でなされるべき正当な論争〜遅かれ早かれいかなる形であれ政労使の誰かから突つかかれるべきだったポイント〜現状の裁量労働の法制度とそのリアルな運用実態に関する労働者サイドからのいたって当然の反論」とやや肯定的(というか開き直って)見るかによって、現在まさに起こっている想定外の事態をより冷静かつ正確に捉え直すことができるのではないかと考えてみたいのです。

Hamachan ブログ読者は重々承知のとおり、多くの日本企業で働くニッポン人労働者が置かれた現状は、そうでなくても「あまりに人間的な」「いつでもどこでも何でもあり」の「無限定性」をベースラインとした集団的雇用慣行の世界で生きています。そこでは、諸外国では雇用契約の基本/大前提であるところの「各人の職務」(業務の内容と責任)が定められておらず、過大な雇用保障の代償としてか、各人のジョブ(勤務地も含めて)使用者の裁量で一方的に決められています(余計なお世話かもしれませんが、本当に今後もずっとこのままでよいのでしょうか…?)

このようなメンバーシップ型雇用慣行を前提にした(和製Exemptたる)「裁量労働制度」がそもそも日本企業で適切にワークするのか?という論点は本来であればそもそもかなり大きな疑問符のはずであり、それを検証せずに見切り発車してしまっている現状は(ある意味で)壮大な社会実験を見せられているかのようです。少なくとも裁量労働制度の対象者を拡大する前に、まず現状の法制度及びその趣旨と企業における理解度や運用実態における「乖離」をしっかりと正視することで、関係者の現状認識を一致させていく必要がありそうです。

…いつものようにかくも心に移りゆくよしなし事をつらつらと夢想していたところ、いたく参考になりそうな興味深いレポートを見つけましたので早速目を通してみました〜以下に主なポイントを記載しますが趣旨がずれていた場合はお詫びします。

◎ディスカッション・ペーパー「第四次産業革命による雇用社会の変化と労働法政策上の課題-ドイツにおける“労働4.0”をめぐる議論から日本は何を学ぶべきか?」(By Y. Yamamoto、JILPT)

◆デジタル時代における良質な働き方(Gute Arbeit)のための4つの目標

第一の目標:あらゆる個人の「エンプロアビリティ」(就業能力)の確保。アドホックではなく、各人の生涯キャリア全体にわたるもの(cf. キャリア権)

第二の目標:働き方の多様性の拡大、柔軟化(自己決定性、時間主権)のさらなる確保

→これは「雇用を前提とした労働時間/場所の柔軟化」と「独立自営業への移行」という2つのベクトルをもつ。

第三の目標:「独立自営業」という働く方を促進するための社会的セーフティネット

第四の目標:労働者の「健康面やプライバシー」に対するリスクからの保護

◆第二の目標(労働の多様化、雇用の柔軟性)に関する労働時間政策の具体的な提言

提言1:「期限つきパートタイム労働への転換権」(復帰権)の創設

→これは、パートタイムに固定化されてしまう弊害(いわゆる「パートタイムトラップ」)を防ぐための手法

提言2:「労働時間選択法」の整備

→これは、労働者が労働の「時間と場所の柔軟化」に関して「使用者と協議する権利」を認めるもの。

◆第四の目標(過重労働のリスク)への配慮

上記の労働時間選択法に関する提案では「相当に厳格な形での要件設定」が行われており、この法律で「労働時間規制からの逸脱」が認められるためには、使用者側は労働者側の利益代表(労働組合と事業所委員会)との間で労働協約と事業所協定をそれぞれ締結する必要がある。

とりわけ「労働時間の記録とリスク評価の実施」が定められなければならない。さらに「対象労働者本人の同意」も必要となる。
ーーーーーーー
以上のレポートから分かる点ですが、労働先進国たるドイツですらここまで慎重に進めようとしていることを思うと、職務範囲が無限定のメンバーシップ型雇用がデフォルトの日本企業で現在論争中の「裁量労働制度の拡大」という方向性に進むこと自体が、いかに無思慮かつ無防備で、労働者にとってリスクを孕むものか〜一方で使用者に対して過大なフリーハンドを与えるものか〜ということです。

すなわち今回の「働き方改革」国会で現状の制度と運用の問題点を直視せぬまま、労働法の「大改革」と称していっそうの裁量労働制度の適用拡大を目指すことはいかにも不適切であり、決して「ニッポン(人)」のためにはならないことが分かります。

今がとても重要かつセンシティブな局面であることは小生ももちろん理解しているつもりです。そうであるからこそ、関係者皆さんが「誤った現状認識」の下、国民全体にとって極めて影響度の高い政策をミスリードして一国の舵を誤ってあさっての方角へ切らぬよう、切に願う次第です…。


◉本日午前のニュース記事〜「首相、裁量労働制「実態把握に相応の時間」 法案提出先送り示唆(2018/2/28 11:20)

これでひとまず、内心ホッとしているのはまさかHamachanブログ読者で私だけではないですよね…。ここでゆめゆめ勘違いして頂きたくないのですが、私自身は短時間勤務やテレワークなどのフレキシブルでアジャイルな働き方(働かせ方、ではなく)や、世界でExemptと呼ばれるovertime provision 非適用者に対する裁量性の高い人事制度そのものには大賛成ですし、どんどん推進していくべきだと思っています。ただ、そうだからといって、現行のニッポンの裁量労働制度のような「労働時間という概念そのもの」をなしにする、あるいは「みなし労働」というテクニックで各人の超過勤務そのものを無視/無化してしまう制度はおかしいですよね、と申し上げているのです。

別コメントにも書き入れましたが、現行ニッポンの特殊な「無限定性雇用」をベースにしたままで、さらにそこから裁量労働という美名の下で「労働時間」というそもそものの雇用管理のベースラインを外してしまうのはいかがなものでしょうか…。そうでなくても「何でもあり」な現状にさらに拍車をかけて事態が収集つかなくなってしまう恐れが、ブラック企業や過労死や過労自殺といった問題がますます顕在化してしまうという懸念が残るのです。

やはりこの機会に既存の「専門型裁量制」についても、労使協定だけではなく「本人同意」も認定基準に加えるなどの見直しが必要でしょう。さらに出来ればジョブディスクリプションも付帯した方がいいでしょう。加えて、過去から「高プロ」の議論でずっと揉めていた、件の「年収制限」についてもこの機会に「裁量労働者」に対し適用すべきかどうかも是々非々できちんと議論したらよいと思います。

いずれにせよ、このまま「強引に法案可決」という(日本の全労働者にとっての)ワーストシナリオだけは何とか避けられたことに、ひとまず安堵しています。


(引き続き、現在の「働き方改革国会」審議の実況中継ないしは備忘録も兼ねてコメントを入れさせていただきます。)
今朝一番のニュースによれば「「裁量労働」 今国会は断念 政府、働き方法案から分離」と、関連法案そのものの見送りという最大のリスクを避けるためか、安倍首相もやっと裁量労働制パートの切り離しを決断されました。色々な意味で、極めて適切なご判断だと思います。

さて、今後の焦点は「高プロ」(脱時間給)に移りました。これまでもこの場で様々な観点から身勝手にもコメントさせていただきましたが、この「政局」を受けて以下の点にあえて言及します。

経済同友会代表幹事小林氏のいう「(裁量労働制の対象拡大に関し)せめてそれぐらいやらないと世界標準から遅れる」とのご指摘は、全くいかがなものでしょうか。何をもって「世界標準」と仰るのか?部分的には正確であってもニッポンの雇用システム全体像への正確な現状認識や目配りを欠くこのような粗雑なコメントには到底納得できませんね。ニッポンの「いつでもどこでも何でもあり」の無限定正社員は、あるいは現行労基法の裁量労働制及び変形労働時間制度は、(ひとたび正社員として雇用されてしまえば)現時点においてすでに「柔軟性」が十二分に高く、使用者にとって「自由度」が高いものです。ニッポン社会が抱える課題を受けて、より緊急かつ重要な課題として「長時間労働削減」や「同一労働同一賃金」という雇用施策によって労働者の生産性向上と格差是正を実現せんとする最中に、それらの施策と相反する「さらなる柔軟化」をもたらしかねない施策を「同時」に実施することには相当無理がありましょう。いみじくも「世界標準」という言葉を持ち出すのであれば、すでに「あまりにも人間的」な日本型メンバーシップ雇用制度での労働時間法制のさらなる柔軟化に伴うメリットデメリットをいっそう慎重に検証する必要があるはずです。

一方で、野党某党首の「一体で提起したのだから、一体で断念することを求めたい」という昨夜の主張にも、あまりリアリティというか責任感が感じられませんね。上述の通り、長時間労働是正と同一労働同一賃金は国民的にも緊急性と重要性の高い極めて重要なテーマ。これらまで一緒くたに廃案に持ち込もうとは、まさか考えてないですよね…。

さて、では今改めてこのような状況の中で最大の懸案たる「高プロ」(脱時間給)はどのように捉えればよいのか…。

混乱が続く「働き方改革国会」…。

もっとも裁量労働制度の無防備な拡大には私も強くNoと申しましたが、様々な関係方面のご意向や私個人のビジョンやニッポンの将来への期待や雇用社会の展望(および諸々の政局や時勢など)を踏まえますと、以下に記載する「高プロ導入の4要件」を前提にあえてこちらにはYesといってみたい気持ちになったのです…。

というのも、遅かれ早かれ来たるべき「ジョブ型雇用社会」に対して不必要なアレルギーを持たず、少しでもいいから早めに「慣れていく」ことがニッポン人総体にとって極めて重要と考えるからです。そのためにも、実験的に制度対象者を(少なくとも当面の間は)相応のハイレベルな人材に限定し、労使であるいは本人と上司と人事部でしっかりと制度運用をモニタリングしてノウハウを積んでいくことが求められます。

具体的には、すでに新たな「高プロ」の法案の中で全て検討/包含されているとは思いますが、私が考える制度導入の「4要件」は次の通りです。

1、定められた高位水準の「年収」(平均給与の3倍)を上回ること

2、職務を限定し、「ジョブディスクリプション」によって対象者の職務範囲を特定すること

3、「本人同意」が得られサインされていること

4、一定の休息時間や休暇など「健康への配慮」がなされていること、また「労働時間の記録」を行い超過勤務のリスク評価を定期的に行なうこと

上記全ての条件(高プロ導入の4要件)をクリアした場合に当該対象者について高度プロの適用を認めるということであれば、おそらく大多数の一般的な労働者にとって(裁量労働制度で懸念されていたような)大きな問題やリスクはほぼないでしょう。

そして部分的とはいえ、これはニッポンの雇用社会が世界標準の「ジョブ型雇用システム」に近づく第一歩となりえます。とりわけ各人の職務範囲を限定する「ジョブディスクリプション」が初めて義務化されるという点に目覚ましいエポックと可能性を見い出し、期待したいのです。

いやいや、まさか本制度導入によって(安倍首相のいう)「柔軟な働き方」や「生産性向上」がそのまま達成されるなどという希望的観測をそのまま信じるほど私もウブではありませんよ。過去に何度も説明したように、じっさい前者の柔軟な働き方は現行の変形労働時間法制化でも十分実現可能ですし、後者の生産性向上は長時間労働削減の取り組みで主に達成していくべきものです。むしろ私がこうしてそれなりに楽観的で平静でいられるのは、仮に導入や運用が多少うまくいかなかった場合でも高プロの対象者はいたって少数で影響範囲は極めて限定的だと思えるからです。

新たな時代を目前にし、国家として、国民として、まったくの新しい仕組みや考え方に対し早めに準備や経験をして自分たちなりの「免疫」を積んでいくことはとても大事なことです。戦後日本で発達したメンバーシップ型雇用から、現代の世界標準の働き方としてのジョブ型雇用へ。今がまさにその過渡期にある中、出来るところから一歩ずつ将来への布石を打っておくことに越したことはありません。ところで、「高プロ」という名称はいかにも言いづらい。いっそのこと「高度限定社員」でも改めて名付けましょうか。

裁量労働制度の規制緩和

裁量労働制度の規制緩和、今回は引っ込められたようである。規制緩和の狙いがどこにあったのか、未だによくわからない。

・自由な働き方で生産性を上げる。
・みなし労働時間を超える分の残業代を抑制する。

どちらに狙いがあるのだろう?

1998年の労働法の改正で、企画業務型裁量労働制が創設され、2003年の改正で企画業務型裁量労働制の導入要件の規制が緩和された。

この時の労働法の改正は、残業代を抑制するものであったと思われる。データを検証すればわかるだろう。今回の規制緩和の狙いはどこにあるのだろう?

一方「働き方改革」は、長時間労働を抑制し、労働生産性を上げようというものである。みなし労働時間を超える分の残業代を抑制するものであれば、それは長時間労働を助長することになる。厚生労働省の政策の軸足がどこにあるのか?

海外で裁量労働制なるものがあると聞いたことがない。
米国では、エグゼンプト社員を除く労働者に対して法定労働時間を週40時間とし、それを超えて働いた社員には5割増しの賃金を払うという。日本でも割増賃金を増やすことで、時間あたりの労働生産性を高くする努力をすればよい。

企業も高い割増を払うならば、雇用者の労働時間を厳密にチェックし、不要な残業をさせないだろう。労働生産性も上がるだろう。

企画職あるいは営業職の社員に対しては、個々の社員の希望でエグゼンプトを選ぶかどうかを決めたらよいではないか?当然、エグゼンプトの社員の賃金は残業時間相当以上に高くするべきである。

あくまでも私の想像ですが…、今回おそらく政府は「働き方改革」なるキャッチフレーズのもとで(あまり深くは考えずに)関係各方面みなさんからの期待やリクエストを一斉に盛り込み「三方よし」を実現したかっただけかと…。すなわち、政界からは格差社会是正に向けた「同一労働同一賃金」を、経済界からは生産性向上(労務費削減)を狙っての「高度プロフェッショナル制度」と「裁量労働制の拡大」を、そして労働組合からは過労死や過労自殺の防止及びワークライフバランス実現に向けた「長時間労働削減」を…。こうした諸課題を一気にいっぺんに「70年来の労基法大改革!」と勢いに任せてエイヤーで打ち出されたのではないでしょうか。ただ、改革のスコープがあまりにも広かったゆえ、実は個々の政策が互いに干渉し合い効果が相殺されてしまう(副作用)について、正確に想いを馳せることが出来た人はあまりいなかったのでしょうね。

とはいえ、労働分野の専門家たる厚労省(旧労働省)やJILPTやわれわれ人事実務家の目からは、これらの諸施策を今の時期に一斉に実施するのは不適切かつ容易ではないことは明らかでしたから、もっと早く違った形でNo!というvoiceを上げるべきでしたね。

この時期に2018 年総括を本当になさるのであれば…、やはり今年はこのテーマ〜働き方改革国会とりわけ裁量労働制とExempt導入〜から目を背けることは出来ないかと…。お立場はあるかと思いますが、Hamachan先生(又は読者諸氏からの)忌憚なきご意見を拝聴したく…。

昨今のコロナ禍における在宅勤務への働き方大シフトに比例するかの如く、日本の大手企業やベンチャー企業を中心に「ジョブ型」への関心が急激に高まっています(実際、他業界から小職へのプチ相談も増えてますし…)

そこで改めて「なぜ、今、ジョブ型」なのか?と自戒:回想すると、すでに二年半前の「この時」のディスカッションでほぼ重要な論点は出尽くしていたかな?と。すなわちそれは「無限定性からの脱却」であって、(JDを作ることで)自分のなすべき事となさざる事を「フォーマルに見える化」し、それらを会社上司のみならず「社会全体と共有する」ことなのかと。そのようなオープンマインドな取り組みであれば、私も(外資系)人事マンとして大いにそうした会社を支援したいし、結果的にそこで働く労働者をもサポートしうるのではないかと考えるのです。

そうでなくても「前のめり」なわれわれ近代人の甲斐性に対して、師走のこの時期には多少とも同時代の加速度に抗いながら過去を顧みて遅々と歩を進めることも必要でしょう。

とりわけ今年丸一年に及ぶ世紀のコロナ禍でおそらく大都市圏の一部オフィスワーカーは通勤負担から解放された結果(働き方改革が奇しくも半ば意外な形で達成され)、在宅勤務で大いに浮いた時間を家事や趣味やネットサーチなど様々な活動に費やしているはず。そこで、あのとき(3年前の)裁量労働制と高プロの大論争を、冷静になった今、改めて振り返ってみれば新しい発見や気づきがあるかもしれません。というのも(小職の記憶に誤りがなければ)この時多くの国民や為政者は、未だ自分たちの日本社会(正確には日系企業)が当たり前に拠って立つ組織構造〜すなわちメンバーシップ型雇用の特徴と特殊性〜にほとんど無自覚のままさらなる裁量労働制の拡張や高プロ制の導入を叫んでいました〜あたかも自分が今どこにいるかも知らずにどこでも別の場所に行きたいと叫ぶ子供のように〜が、ようやく自らの姿の比較対象としての「ジョブ型」というソリッドな概念を国民的に掴みつつありますので。

WEとはずれるけど医師に対しては、残業代は払わない、労働時間制限もしない、かといって個人事業の請負化による節税や柔軟な働きかたも許さない、というのが厚労省の公式発表なんですが。
濱口氏の言う政治の貢献はこの業界に対してはゼロどころかマイナスでしょ。
看護師不足が問題になってるが医師も重税&過労というアホな国とアホな有権者に対してボイコットすべきと思うわ
ストなんて需要があればあるほど有効なんだし患者に脅威を与えないストなんて無意味なんで。

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