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2017年7月23日 (日)

労組法上の労働者性再考

07462 日本評論社から『講座労働法の再生』の残りがどさっと送られてきました。いろいろあったようですが、無事全巻完結したようです。

そのうち、第5巻の『労使関係法の理論課題』をぱらぱらと読んでいたら、ある注に拙論が引かれていて、いささかびっくりしました。いや、正面からあるテーマを扱った論文が注に引かれるのは当たり前なので別にびっくりしないのですが、そうでもなかったので。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7462.html

それは本巻第1部第1章の

第1章 集団的労使関係の当事者…………岩永昌晃

の注19で、

19) 同様の指摘を行うものとして、濱口桂一郎「判批」中央労働時報1143号25頁以下(2012年)

と書かれていて、ああ、ちゃんと読まれていたんだ、と思った次第。これは

GABA事件(大阪府労委決定 平成21年12月22日)(別冊中央労働時報1409号1頁)

の評釈という、いささかマニアックな(だって、たかが地労委の決定で、労働委員会の機関誌というマイナーなところに書いた)ものですが、自分では結構本質的なことをずばりと述べたつもりだったので、まさにそのいいたい本質のところで捕まえてさりげに引用していただいたのは結構嬉しかったです。

2 労組法上の労働者性再考

(1) 以上は、近年の議論に沿った形で本件決定を評釈したものであるが、実はより突っ込んで考えると、最高裁二判決やソクハイ事件中労委命令でかなり明確に示され、多くの論者から妥当な判断要素として評価されている「会社組織における不可欠性」や「契約内容の一方的決定」が、なにゆえに労組法上の労働者性の判断要素であるのか、という根本的な点にいささか疑問が生じる。

(2) そもそもこれら要素は何を示すものなのであろうか。菅野和夫によれば、これらは「使用従属性と連続的な労組法独自の判断要素」であり、「団体交渉の保護を及ぼす必要性と適切性という基本的視点からの独自の判断要素」であるが、それは「企業の業務遂行に不可欠の労働力として事業組織に組み込まれており、労働条件が一方的・定型的に決定されている労務供給関係こそが、労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である典型的労働関係といえるから」である*1。

 ここでは、労働組合法という集団的労使関係システムが適用されるべき対象の持つ「集団性」が、企業組織の集団性として捉えられている。それは言い換えれば、秋北バス事件最高裁判決(最大判昭43.12.25民集22.13.3459)がいう「経営上の要請に基づき、統一的かつ画一的に決定され、労働者は、経営主体が定める契約内容の定型に従って、附従的に契約を締結せざるを得ない立場」であり、労働者性の議論においては「組織的従属性」と呼ばれてきたものである。それが労働に関わる一つの「集団性」であることは確かであるが、労組法が本来想定する「集団性」であるかどうかは別の問題である。

 こうした企業組織の「集団性」に着目した枠組みは、西欧の枠組みでいえば従業員代表組織やそれが締結する経営協定であり、日本でいえば過半数組合/過半数代表者、労使委員会やそれが協議を受け、締結する就業規則、労使協定であって、私的結社たる労働組合やその締結する労働協約の「集団性」とは次元が異なると考えるのが、少なくともこれまでの集団的労使関係法の発想であったのではなかろうか。

(3) その発想を前提にする限り、企業組織の「集団性」を無批判に労組法上の労働者性の判断要素に持ち込むことは、本来批判されるべきことのはずである。実際、豊川義明は港湾労働をめぐる団体交渉や労働協約を例に挙げて、そこでは「労働者の特定企業への「組み込み」は想定しがた」いと主張している*2。企業を超えたレベルで団体交渉を行い、労働協約を締結するという西欧的な労働組合モデルを前提とする限り、集団的労使関係システムが適用されるべき対象の持つ「集団性」とは、何よりも労働組合に組織され、労働組合の締結した労働協約に拘束されることを受け入れているという労働者側の「集団性」であろう。この「集団性」には、少なくとも企業組織の側からは限界は存在しない。限界は、その「集団性」が独占禁止法上の「不当な取引制限」となるところで画される。言い換えれば、私的結社としての労組法上の労働者性の判断基準は、事業者でないことに尽きるはずである。実際、不当労働行為救済制度を持たない西欧では、自営労働者が労働組合を組織することは(独禁法違反とならない限り)ごく普通に見られる。

(4) このような、従業員代表組織として必要な企業組織の「集団性」と、私的結社たる労働組合に必要な「集団性」の概念上の峻別は、しかしながら労働組合が従業員代表組織として機能してきた日本の労働社会では自明ではない、というのが、実はこの問題の背後にある最大の問題なのではなかろうか。ほとんどもっぱら企業レベルで組織され、交渉を行う日本の企業別組合にとって、企業を超えた「集団性」など存在せず、むしろ企業組織の「集団性」こそがその立脚基盤である。これに加えて、不当労働行為救済制度は、その源流であるアメリカ法が交渉単位ごとの排他的交渉代表制をとっていたことを考えれば、むしろ企業組織の「集団性」を前提とする制度という面が強いとも言いうる。菅野の「労働条件が一方的・定型的に決定されている労務供給関係こそが、労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である典型的労働関係」という説明は、この状況を前提にする限り、まさに現実に即したものとなる*3。

(5) しかしながら、話はそこで終わらない。過半数原理に立脚し、公正代表義務を伴うアメリカの団体交渉制度と異なり、複数組合平等主義に立脚するとされる日本の団体交渉制度は、企業組織の「集団性」に立脚していない企業外部の私的結社にも、企業に団体交渉に応じるよう要求する権利を認めているからである。いわゆる合同労組事案や、とりわけ駆け込み訴え事案において、「労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である」根拠がどこにあるのか、原理的には大きな問題を孕んでいるはずである。本件は、880名のインストラクターのうち10名のみが加盟する典型的な合同労組事案であり、本件団交が労働条件を集団的に決定するという意味での「労組法の予定する団体交渉」でありうるのかどうか、という問題は論じられる必要がある*4。

(6) 以上を近年の議論の枠組みで言えば、労組法3条の労働者性は企業を超えた私的結社たる労働組合の「集団性」に立脚し、それゆえ事業者性という消極的要素によってのみ限界を画されるが、労組法7条の労働者性は企業組織自体の「集団性」に立脚するがゆえに、組織的従属性を最重要の判断要素とする、ということになるであろう。・・・

岩永さんの本論文は、まさにこの問題意識の延長線上で、労組法の集団的労使関係と労働者性を突っ込んで論じていて、とても読み応えがありました。

さらに同論文は、かつて小嶌典明さんが提起した中小企業協同組合の団体交渉権にも言及し、今日独占禁止法との関係で議論になりつつある自衛的労務供給者の集団的労使関係を論じています。

数日前のエントリでは、目次だけを見て

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/45-bdcd.html

それに引き替え、第5巻の労使関係法は、この目次を見る限り、半世紀前から何も変わっていない感がにじみ出てきます。

などと失礼なことを口走りましたが、いやいやとても今日的問題意識に満ちていて面白く読めます。

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