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2017年7月25日 (火)

田中萬年『「教育」という過ち』

Devw0wkvoaagvla田中萬年さんより『「教育」という過ち』(批評社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

(追記)版元のサイトに、非常に長大な内容紹介文が載っていますので、そちらを載せておきます

明治国家の形成過程において、"education"は「教育」とされてきたが、そもそも欧米では「学習する権利」の意味で、江戸時代の寺子屋のようなものであり、「教育する権利」のように国家に付与されるものではない。
この誤訳を定着させたのが「教育勅語」である。「教育勅語」は戦後憲法によって否定され、「教育を受ける権利」は国民の権利として尊重されるはずだったが、「教育する権利」は国家に付与されたままで、人びとが主体的に「学習する権利」ではなかった。そのため、公教育においては、逆に国家意志をとおして「教育」が推し進められ、結果、今日では教育格差を生み出し、格差社会の元凶にまでなっている。

 明治時代から今日に至るまで国民は「教育」についての正しい知識を紹介されずに「騙され」てきた、といえる。「教育」とは国が教え育てるの意味で、ちょうど、ウグイスなどの小鳥がホトトギスに托卵させられて孵化するように、国民は「教育」が崇高なこととして国家によって「托」教育させられているのである。それは明治以降の「教育」が「飼育」と同じ観念によって推し進められてきたからであった。

 「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守系の為政者は「教育勅語」を利用しようとする。問題は「教育勅語」を排除すべきと言う人も「教育」という語を認めることによって「教育勅語」の精神を無意識のうちに許容していることである。
 個人の尊厳を保障し、一人ひとりの個性を活かすことは学習権の支援でなければならない。つまり、「教育を受ける権利」を「学習する権利」(職育学)に根本的転換を図るように改定することである。
個人の「学習する権利」なら為政者の意図が介入する余地もなく、学習者の要望に応じて準備されたコンテンツ(内容)を選ぶことになる。そうすれば国家による教育行政の統制は不要となり、巨大な管理機構も不用になる。
 学習権の要望は個性により異なる。個性に即した学習であれば意欲も増す。個性に即した学習を保障するためには個別学習が望ましい。全国一律の学力テストは無用となる。そうすれば、一人ひとりの個性ある能力が向上するだろう。
 学習権の保障は、一人ひとりの自立意識を同時に育むであろう。自立観が育てば、職業観も育ち、多くの個性ある創造性豊かな人材が生まれ、活力に溢れるであろう。もっとも、これを保証する条件として「職業に貴賤なし」の観念が社会に浸透していなければならない。いつの時代も、どのような国も社会と無関係な人間の育成策はないからである。国家百年の計とは、目先の利益追求ではなくベーシックな構想に支えられていなければ意味がないと言える。
はじめに

今日、「教育」の言葉に疑問を持つ人はいないであろう。筆者もフツーの日本人であり、日本の教育を受けて育ったので、教育に対する常識は周りの人と変わったところは無かった。
例えば、退職して研究室を片付けるとき、職業訓練指導員を経て研究生活を始めた当初に購入したある教育書の扉裏に「教育の立場より職業訓練を常に見直そう!!
」と記していたことに気付いた。職業訓練には問題があり、教育学で職業訓練を整理すれば職業訓練の問題は解決できるのではないか、との素朴な思いを持って研究生活に入っていたのである。
ところが、研究を進めていく過程で様々な事態に当面する度に、職業訓練が問題なのではなく、教育の捉え方にこそ問題があるのではないか、と考えるようになった。
寺子屋・藩校に代わり明治五年に近代学校が設立されたが、国民の多数を占めていた農民は学校が農民のためにならず、学費・経費がかさむために反発し、学校批判運動を起こした。中には学校焼き討ちまでに過激化し警察では取り締まれず、争議は軍隊により鎮圧された。寺子屋に反発した農民はいなかったが近代学校には反対したのだ。つまり、今日言われるわが国国民の学歴主義観、教育信奉の意識は学校制度が成立した時からあったのではないことが分かる。
  
「教育」への信奉は「教育を受ける権利」が民主的だとする信用に連なる。今日の教育策を批判する者も、「教育を受ける権利」を批判する者はいない。つまり、「教育を受ける権利」という同床の教育への異夢論であり、ここにわが国の教育論が百家争鳴を呈している根源がある。例えば、「教育権」として論じられることがあるが、国語辞典の「教育」の定義に従えばその意味は「教育する権利」となり為政者の権能を意味している。しかし、「国民の教育権」のような論があるが、いかなる国民がどのような国民を教育する権利なのだろうか。「親が子を教育する権利」を理解するとしても、これとて子の躾だという虐待や「教育虐待」の言い訳に使われている。
「教育を受ける」ことによって自立観が育たないのは疑いない(国立青少年教育振興機構「日本の高校生は受け身で消極的?」二〇一七年三月一三日)。自立観が欠如していれば就業のための学習よりも進学のために教育を受けることが楽(得)だという思いは学校で身に付くだろう。
とはいえ、国民は「教育」を誤解している、と筆者はいうのではない。国民は「教育」についての正しい知識を紹介されずに「騙され」てきた、と考えている。ちょうど、ウグイス等の小鳥がホトトギスに托卵させられ孵化させられているように、国民は「教育」が崇高なこととして「托教育」させられているのである。それは「教育勅語」の「教育」の観念によってである。
そのような中で、「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守的為政者・指導者は「教育勅語」を利用しようとする。問題は、「教育勅語」は排除すべきと言う人も「教育」を認めることによって「教育勅語」精神を無意識のうちに許容することになるのである。
ところで、「日本国憲法」を改正すべきことは国民主権を強化することであろう。個人の尊厳を保障し、一人ひとりの個性を活かすことは教育では困難であり、それは学習の支援でなければならない。
つまり、「教育を受ける権利」を「学習する権利」に改正することであろう。
それでは、「学習する権利」では何が改善されるのだろうか。
彼・彼女等が学ぶ学習内容は為政者の意図によるものではなく、学習者の要望に応えて準備されたンテンツ(内容)を選ぶことになる。したがって、学習の保障は政争の具にならない。すると、教育行政の統制は不要となり、強大な管理機構も要らない。人間育成策(教育策)が「学習指導要領」の改訂の度に振れることもなくなる。
学習の要望は個性により異なる。個性に即した学習であれば意欲も増す。個性に即した学習を保障するためには個別学習が望ましい。すると、全国一律の学力検査は無用となる。そうすれば、一人ひとりの個性ある能力が向上するだろう。個性を認めれば差別もいじめも発生しないであろう。
「学習の保障」は一人ひとりの自立の意識もあわせて育むであろう。自立観が育てば、職業観も育ち、多くの個性ある創造性豊かな人材が生まれ、活力に溢れるであろう。もっとも、これを保証する条件として「職業に貴賤なし」の観念が社会に浸透していなければならない。いつの時代も、どのような国も社会と無関係な人の育成策はないからである。
今日は他国との交流が避けられない。人間育成についても国際的に共通な土台に立つべきだろう。
educationは「教育」ではなく、「能力開発」がより近い。誤訳を定着させたのは「教育勅語」である。
education観と全く異なる「教育」観ではお互いに誤解したままで相互理解ができるはずはない。educationの観念により近い「学習支援」であればお互いの意図が通じるはずである。
 今日、わが国は教育の機会が裕福層に有利となり、格差の再生産が教育によってなされていることが指摘されている。?教育が格差を拡大している?と言うことは、教育の根本原則である「教育を受ける権利」が国民の権利になっていず、負のスパイラルを拡大していることを示している。
ヒントは北欧にあるようだ。わが国よりもGDPが小さい少なくない国で幼稚園・保育園から大学までの学校教育と就職のための職業訓練を無料またはわが国に比べれば遙かに僅かな学費で、若者だけでなく国民は就労条件を高めるためのスキルと知識を得ている。
為政者、指導者、社会的成功者にとっては今日の教育制度は有効であり、改革する必要性を感じないであろう。その路線の社会の見方として「底辺に甘んじているのは『教育を受ける権利』を放棄したための自己責任だ」とする論が正しいように思われ、格差の底辺に耐えている社会的不運者(弱者)は、既存の「教育」の?常識的?考えでは問題が「教育」そして「教育を受ける権利」にあるとは思いもよらないのではなかろうか。
教育を差配する為政者に教育の改革を望むのは筋違いであり、教育の真の改革は国民の学習権の立場からしかできない課題であると考える。本書が国民の立場からの次代を担う若者の学習権について今後のあり方を考えるヒントになれば幸いである。

いつもの萬年節が全開の本、ではあるのですが、前から気になっていた「教育」という言葉に対するややマニアックなまでの追及が、「働く」ための「学び」を、というその主張を、却ってわかりにくくしているのではないかという疑問が、本書でも再び、いやむしろより強く感じられました。

「教育」という字面が主体的でなく、国家の強制を思わせるという批判は、ある種の教育学者などとは強く共鳴するのかも知れませんが、職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、そういう領域の重要性を主張する議論とは相当にすれ違ってしまっているのではないかということです。

それこそ、「教育」がけしからんのであれば、それと同じくらい「訓練」という言葉だってまことに訓練生の主体性を無視した言葉でしょう。そもそも「訓」という字は「教え諭す」という意味であり、訓育・訓戒・訓導・訓蒙といった熟語に使われるくらいです。

まあ、「職業訓練」という言葉は流行らなくなり「職業能力開発」に取って代わられ、ついには「人材開発」になってしまいましたが、それは別に「訓」の字が封建的でけしからんからというわけでもなく、世の流行を追いかけているだけのことです。

これは金子良事さんも指摘していたと思いますが、ちょっと最近の田中さんの議論はつまらない脇道に入り込みすぎている感が否めません。

そのために本筋の議論が見えにくくなってしまっては本末転倒です。

職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、それこそがエデュケーション・トレーニングの本筋なのだという主張こそを、もっと明確に訴えることこそ、田中さんの使命ではないかと思うのですが。

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コメント

 ご紹介をありがとうございました。
 ただ、濱口さんの拙著の引用文らしい紹介は、(私ではない者が)PR用に拙文をアレンジしたものであり(誤りも有り)、本文からのではなくやや残念です。
 例えば、メンバーシップ精神は教育によって学校で形成されていること、そしてそのような教育によって今日の労働問題が生じていることに甘んじる精神が育成されていることを記していますが、この辺のとらえ方をどのように評されるのかを濱口さんには一番期待していたのですが…。
 また、濱口さんは「教育と労働との密接な無関係」としているのを拙著では「教育と勤労との密接な関係」としています。それでも教育にマニアック過ぎる、というのであれば、濱口さんの「教育」のとらえ方をお聞きしたいものですね。今の教育を温存していて、労働問題の精神が払拭できるとは思いませんので。
 今日の労働問題の根源に「教育」のとらえ方がある、という視座が問題であれば、それは立場の違いだ、というしかないですが…。

投稿: 田中萬年 | 2017年7月25日 (火) 19時29分

 もう一点、研究の方法について。
 濱口さんの拙論への極めて残念な意見は、最後に記されているが(「それこそ」の意味が不明ですが)「田中さんの使命ではないかと思うのですが」、という論である。
 何故に、私は研究の使命を指示されなければいけないのだろうか。このようなことを濱口さんの言葉から聞かされるとは思ってもいなかった。
 研究とは誰でもできる、ということが私の自論である(私の力量は別として)が、その研究はやろうとする者の関心で進むからこそ自由な研究として意味があると言える。もっとも、強制される研究もあるが、それを排除してきたのも研究者であったはずである。
 私も、研究生活に入った当初は真に職業訓練の重要性に関して追究してきた。しかし、残念ながらそれを評価してもらうことは少なかった。
 しかし、職業訓練を卑下する者として、最も大きなグループとして私は“革新的”教育学研究者に感じていた。
 私が、「教育」に疑問を持ち、その問題の根源を追究するのは自然なことであり、職業訓練の研究と全く同じ事であり、その延長にある。
 換言すれば、「教育」の誤解を解かねば職業訓練の正当な評価はなされない、と考えている。
 「教育」の問題の私の整理に問題があるのならその問題を指摘してくれればありがたいが、マニアックだとの批判は、研究者はマニアックにならねばならないと思うが、研究者の本質を批判されるのであろうか、極めて疑問だと言わざるを得ない。

投稿: 田中萬年 | 2017年7月25日 (火) 22時29分

いえ、仰る主張には同感なんですよ。ただ、それはそれをなんという言葉を使って呼ぼうが、「教育」「学習」「能力開発」のあり方そのもの、「労働」、「勤労」「仕事」のあり方そのものとして論すべきであって、それを「教育」という言葉、「勤労」という言葉に対する批判、その言葉は良くなくって、こっちの言葉が良いんだみたいな議論にまとめてしまうことは、却ってその主張を矮小化しているんじゃないか、という疑問なのです。

世の中には「まず名を正さんか」が必要な領域もあることを否定はしませんが、田中さんが取り扱っている領域でそれにかまけすぎることは、正直言って、よくわかっていない(けれどもよくわかっていると思っている)たぐいの読者に、どの言葉を用いるかが最重要の一大事であるかのごとき誤解を与えかねないと危惧しているのです。挙げ句の果てに、教育勅語がいけないみたいな噺に回収されてしまっては、何のためにここまで苦労して議論しているんだかわからなくなります。

投稿: hamachan | 2017年7月25日 (火) 22時34分

職業訓練をはなから馬鹿にして「教育」を祭り上げている愚かな「教育」至上主義者に対しては、お前の思っている「教育」は、本来の教育(エデュケーション)のごくごく一部でしかないへんぴなものなのだということを論ずべきなのであって、そんな奴の用語法に乗っかって、「教育」という言葉叩きに力を注いでみても仕方がないでしょう、と言っているつもりなんですが。

も一つ、教育学者の中の、全然職業教育訓練なんか大事に思っていないけれども「教化」が嫌いな人の議論と下手に一緒にやらない方がいいと思います。つまらないイデオロギー論争に巻き込まれるだけで、職業教育訓練の地位向上には役に立たない。下手をすると逆効果にすらなりかねないと思いますよ。

むしろ、田中さんが世の評価に対して唱道しようとしている「徒弟制」とは、そういうたぐいの議論とはあんまりそぐわないでしょう。

投稿: hamachan | 2017年7月25日 (火) 22時47分

昨夜、会社帰りに丸ノ内オアゾ丸善書店で本書を手に取って読んでみました。もちろん僅かな時間の立ち読みでは全く組み尽くせないほど教育に対する「熱い思い」が詰まった興味深い論考ですね…。

ところで、限られた経験ながら拙者の日系及び外資系企業の人材開発の実務経験からの気づきでは、やはり第一に「いい仕事」、good job assignment に勝る社員への教育あるいは人材育成施策(learning and development initiatives) はありません。ただし、それはあくまでも人間味に溢れたよき上司につくことが大前提でしょう。次に社内外の「人脈づくり」、英語でnetworking 。最後に「トレーニング」の順番となります。もちろん、リアルな職場や人間関係だけからではなく、サイバー空間からの気づきや学びも大きいのが現代の特徴でしょうか。

また外資系の人事で「L&D」と呼ばれるこの分野の最近のトレンドは、よく聞かれるキャリア、メンター、フィードバック、エンゲージメントといった取り組みですね、いずれもしっくりくる翻訳語(漢語)がないため、こうして日本語で話す際にもついついカタカナ語で通してしまいがちなのですが、そもそもこうしたOB(組織行動学)の基本概念がなかなかしっくりくる適切な日本語に訳せないのは今更ながらなぜなの?と不思議に思います。

投稿: 海上周也 | 2017年7月27日 (木) 20時57分

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