申し分のない良書
拙著『日本の雇用と労働法』に対して、新空调硬座普快卧さん(なんとお読みすれば良いのでせう)が、短くも一言でこう評していただきました。
https://bookmeter.com/books/4017011
申し分のない良書。簡潔だが正確性を失わない筆者の文章は,筆者の研究の深さを雄弁に物語る。信頼できる筆者。
「申し分のない良書」という評語は、著者にとってはこの上ない言葉です。ありがとうございます。
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拙著『日本の雇用と労働法』に対して、新空调硬座普快卧さん(なんとお読みすれば良いのでせう)が、短くも一言でこう評していただきました。
https://bookmeter.com/books/4017011
申し分のない良書。簡潔だが正確性を失わない筆者の文章は,筆者の研究の深さを雄弁に物語る。信頼できる筆者。
「申し分のない良書」という評語は、著者にとってはこの上ない言葉です。ありがとうございます。
萬井隆令さんより大著『労働者派遣法論』(旬報社)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/1185?osCsid=5svkbhs71p8afg32kdket4o4d0
労働者派遣法研究の決定版!
2015年改正で、その姿を一変させた労働者派遣法。この改正で、企業は、人さえ変えればどれだけでも派遣労働者を使い続けることができるようになった。
労働者派遣法研究の第一人者が、その問題点を指摘し、本来のあるべき姿を提示する。
本書は論争の書です。あとがきには、
・・・批判や書評は、論議を呼び、派遣法論の一層の発展の契機となるし、わたし自身にとっても再吟味の契機となるので歓迎したい。
とあり、さらに送り状にも、
・・・私にとっては苦いとしても、それは私にとって再考の契機となるだけでなく、学界全体として派遣法論を依り進化させる契機となることも期待できますので、忌憚のない評論をお寄せ下さい。
とありました。
実際、本書で批判されている論者には、小嶌典明、馬渡淳一郎、大内伸哉、本庄淳志といった面々に加えて、わたし自身も含まれていますので、萬井さんの批判にきちんと答えることは責務でありましょう。
まずは激しく対立しているいわゆる派遣法と職安法の単独適用説と重畳適用説に関するところについてなのですが、実は、私の議論の一番重要な点が見落とされているのではないかと思いました。
その前に、萬井さんの正しい指摘に感謝しておかなければなりません。私は、『NBL』の松下プラズマディスプレイ事件高裁判決の評釈において、
職業安定法上、「労働者供給事業」ではない「労働者供給」を明示的に対象とした規定は存在しないが・・・
と書いてしまいましたが、これは間違いで、職安法63条は
第六十三条 次の各号のいずれかに該当する者は、これを一年以上十年以下の懲役又は二十万円以上三百万円以下の罰金に処する。
一 暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者二 公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者
と規定しています。
職安法45,46条が労働者供給「事業」を規制しているのに対して、こちらは事業であるか否かを問わず、一定の手段によるまたは一定の目的による労働者供給という行為を刑罰の対象にしているのです。
なので萬井さんの指摘はまことに正しいのですが、問題はその先です。実はこの文は、まさに事業ではない労働者供給と、事業である労働者供給事業とは異なる概念であると言うためのものだったからです。上記文を含む前後のパラグラフをやや長いですが引用します。
職業安定法における「労働者供給」の定義と、労働者派遣法における「労働者派遣」の定義は、判旨1(1)の冒頭部分にあるとおりであるが、この定義をもって直ちにそれに続く議論を展開することは実はできない。なぜならば、職業安定法が原則禁止しているのは「労働者供給」という行為ではなく「労働者供給事業」という事業形態であり、労働者派遣法が規制をしているのは「労働者派遣」という行為ではなく「労働者派遣事業」という事業形態だからである。職業安定法上「労働者供給事業」の定義規定はないが、労働者派遣法上は「労働者派遣」の定義規定とは別に「労働者派遣事業」の定義規定がある。「労働者派遣事業」とは「労働者派遣を業として行うこと」をいう(2条3号)のであるから、業として行うのではない労働者派遣は労働者派遣法上原則として規制されていないことになる。もっとも、さらに厳密にいうと、労働者派遣法上「派遣元事業主」や「派遣先」を対象とする規定は労働者派遣事業のみに関わるものであるが、「労働者派遣をする事業主」や「労働者派遣の役務の提供を受ける者」を対象とする規定は業として行うのではない労働者派遣にも適用される。労働者派遣法上、この二つの概念は明確に区別されており、混同することは許されない。職業安定法上、「労働者供給事業」ではない「労働者供給」を明示的に対象とした規定は存在しないが、44条で原則として禁止され、45条で労働組合のみに認められているのは「労働者供給事業」であって「労働者供給」ではない。これを前提として、出向は「労働者供給」に該当するが「労働者供給事業」には該当しないので規制の対象とはならないという行政解釈がされており、一般に受け入れられている。以上を前提とすると、職業安定法4条6号と労働者派遣法2条1号の規定によって相互補完的に定義されているのは「労働者供給」と「労働者派遣」であって、「労働者供給事業」と「労働者派遣事業」ではない。経緯的には従来の「労働者供給」概念の中から「労働者派遣」概念を取り出し、それ以外の部分を改めて「労働者供給」と定義したという形なので、その限りでは「労働者派遣」でなければ「労働者供給」に当たるといえるが、ここでいう「労働者派遣」「労働者供給」はあくまでも価値中立的な行為概念であり、それ自体に合法違法を論ずる余地はない。「違法な労働者派遣」という概念はあり得ない。あり得るのは「違法な労働者派遣事業」だけである。そして、「労働者派遣事業」は「労働者派遣」の部分集合であるから、「違法な労働者派遣事業」も「労働者派遣」であることに変わりはない。本判決は、「労働者派遣法に適合する労働者派遣であることを何ら具体的に主張立証するものでない」ゆえに「労働者供給契約というべき」と論じているが、ここには概念の混乱がある。労働者派遣法による労働者派遣事業の規制に適合しない労働者派遣事業であっても、それが「労働者派遣」の上述の2条1号の定義に該当すれば当然「労働者派遣」なのであり、したがって両概念の補完性からして「労働者供給」ではあり得ない。「労働者供給事業」は「労働者供給」の部分集合であるから、「違法な労働者派遣事業」が「労働者供給事業」になることはあり得ない。
おわかりでしょうか。この文章の趣旨は、なによりもまず事業ではない労働者供給とか労働者派遣という行為概念と、事業である労働者供給事業とか労働者派遣事業という事業概念を区別すべきという点にあります。
私の不注意で、「職業安定法上、「労働者供給事業」ではない「労働者供給」を明示的に対象とした規定は存在しないが」などと間違ったことを書いてしまいましたが、そういう規定が存在すればますます上記趣旨を補強することになるはずです。
ところが萬井さんは、こういう言い方をされます。
・・・濱口氏は、職安法上、業でない「『勞働者供給』を明示的に対象とした規定は存在しない」といわれるが、読み落としではあるまいか。職安法63条1号は、「業」としているかに関わりなく、暴行、脅迫等の手段を用いた労働者供給を処罰対象としている。
はい、まったくそのとおりです。しかし、
それは、労働者供給の行為そのものを反・価値と位置づけていることを意味し、44条と併せ考えれば、職安法は労働者供給を「行為」と「事業」で基本的評価を異にせず、いずれも違法と判断していることを意味する。
というのは、どう考えても論理が飛躍しています。
上記63条を見ればわかるように、同条は一定の手段、一定の目的による「職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給」の行為を処罰しているものです。
その反・価値性は一定の手段(暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段)や一定の目的(公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的)にあることは明らかであって、全く同様の罰則の下にあるからと言って、たとえば全ての職業紹介行為がことごとく反・価値であり、違法と評価されている、などというわけではないことからも明らかでしょう。「価値中立的」な行為概念とはそのことを指します。
職業紹介についても同様に行為概念と事業概念が区別され、後者が30条以下で許可制という事業規制の下にあるのに対して、前者すなわち事業ならざる単なる職業紹介行為は一般的には特段規制の対象ではないけれども、暴行脅迫などの手段だったり、アダルトビデオに出演させる目的だったりしたら違法になる、というまことに単純明快なことであって、その構造自体は労働者供給[行為]と労働者供給[事業]と全く同じだと思われます。
話を元に戻すと、上記私の判例評釈における主張は、なによりもまずこの「行為」概念と「事業」概念を区別すべきという点であり、そこらか導き出されるコロラリーとして、労働者供給事業は労働者供給[行為]の一部であり、労働者派遣事業は労働者派遣[行為]の一部であり、かつ労働者派遣法によって労働者供給(行為)と労働者派遣(行為)とが排他的に(つまり、ある行為が同時に両者に該当することはあり得ないように)定義されている以上、労働者派遣事業に該当する事業が同時に労働者供給事業に該当することは論理的にあり得ないと言っているだけなのです。
しかし、最初の10ページまででこれだけ論じなければならないとしたら、この先どれくらいになるか、少々恐ろしくなります。
ま、しかし、とりあえず、この論点についてはここまでにしておいて、そろそろ連合の労政審委員の合同会議に向けて出発しなければなりません。
(追記)
連合の労政審委員の合同会議から帰ってきてからまた読み続け、ようやく読了。
第3章第3節では、DNPファインンオプトロニクス事件判決へのわたくしの評釈が批判されていますので、そちらも言及しておきます。
これは、松下プラズマディスプレイ事件のような完全無欠の偽装請負ではなく、つまり「請負人による労働者に対する指揮命令がなく、注文者がその場屋内において労働者に直接具体的な指揮命令をして作業を行わせているような場合」ではなく、注文者と請負人の両方が労働者に指揮命令をしているといういわば不完全偽装請負とでもいうべき事案です。
実際には、請負人の指揮命令が全くなく注文者のみが指揮命令をしているという絵に描いたような偽装請負はそれほど多くはなく、両方が指揮命令をしているケースが多いように思われます。
わたしは『ジュリスト』2016年11月号の評釈で、労働安全衛生法30条の2を根拠に、注文者が指揮命令することがあっても直ちに偽装請負と見るべきではないと論じたのですが、萬井さんは、個々の指揮命令行為についてどこが労災防止の観点から正当化されるのか明らかにすへきだと批判されます。
ということは、少なくとも論理上は、安全衛生上の観点から注文者が指揮命令することがあり得べきであり、それがあったからといって直ちに偽装請負と見るべきではないという、わたくしの議論の大枠は認めていただいたということなのかなと受け取りました。
判決文という少ない情報源だけから個々の指揮命令行為がどの程度まで安全衛生上必要であり、どの程度までそうではないのかを細かく論するのは難しいのですが、一般論としていえば、原発のような職場を最右翼として、建設現場や製造現場は労働者の一挙手一投足が労災につながる可能性が高い職場であることは確かだと思います。
わたくしの評釈は、本件のような注文者と請負人の両方が指揮命令している事案において、地裁判決が前者のみに注目し後者を無視して偽装請負だと断定し、逆に高裁判決が後者のみを強調して前者をあえて無視するという都合の良い事実認定をしていることに対して、いやいや両方指揮命令しているよと指摘することに主力がありました。
あと、萬井さんの目には余りとまらなかったようですが、偽装請負かどうかを判定する上での基準となるいわゆる37号告示について、こう述べていることが、私としては議論の枠組みとして重要だと思っています。
4 では、最高裁判決が明示的に示していない注文者と請負人の双方がいずれも指揮命令をしているようなケースについてはどのように判断するべきであろうか。
5 偽装請負に関する判断根拠規定とされるのは職安法施行規則4条であり、同条各号の全てに該当する場合でなければ適法な請負とは認められず、労働者供給事業とされる。その2号として「作業に従事する労働者を、指揮監督するものであること」があり、請負人による指揮命令がなければ請負ではないことは明らかである。労働者派遣法制定に伴い制定された「労働者派遣事業と請負により行われる事業との区分に関する基準」(昭和61年労働省告示第37号)はより細かな文言で同様の趣旨を明らかにしている。しかしながら、請負人が指揮命令をすることを請負たることの必要条件とすることは、請負人に加えて注文者も一定の指揮命令をすることを請負たることの否定条件とすることとイコールではない。これら労働市場法制においては、注文者が少しでも指揮命令をすれば直ちに請負ではなくなり労働者供給事業ないし労働者派遣事業になるとされているわけではない。
これと、上記安全衛生法が求める注文者や元請け事業者の指示義務とを組み合わせると、
7 こうした立法を論理整合的に理解するためには、かかる構内請負型の場合には、雇用関係に基づく指揮命令は請負人からその雇用する労働者になされるのを原則としつつ、安全衛生に関わる指揮命令は注文者ないし元請事業者(の労働者)からも請負人の労働者になされることを求めている、としなければならない。すなわち、広義の指揮命令は両者からなされるのが前提なのである。そして、労働災害の危険性は作業のあらゆる部面において生じうる以上、具体的な作業に関わる指揮命令は安全衛生上の観点から注文者側からされる可能性があり、そのことを捉えて偽装請負の徴表とすることはできない。逆に言えば、安全衛生上の観点から正当化し得ないような具体的な作業に関わらない指揮命令が注文者から行われているならば、それは偽装請負の徴表となり得るといえる。そして、いかなる注文者や元請事業者による指揮命令が安全衛生上の観点から正当化しうるかも、各業種における作業の危険有害性によって個別具体的に判断されるべきであろう。たとえば原子力発電所も重層請負の典型的な事業であるが、電離放射線が飛び交う職場ではほとんどあらゆる行為が被曝の危険性を有し、細かな指揮命令が必然化すると考えられる。
という議論が導き出されるわけです。
それにしても、本書は大著です。連合の会議への行き帰りも使って読み続けて、心地よい疲労感が広がります。
(おまけ)
上記「公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者」に係るいくつかの裁判例を紹介したエントリを参考までに。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-d708.html(公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で労働者派遣をした者は)
鈴木不二一さんより、全労済協会『日本労働映画の百年』をいただきました。ありがとうございます。
労働映画って何?
この報告書の研究代表者である佐藤洋さん、鈴木不二一さん、そして電産研究(と最近では広電研究)で有名な河西宏祐さんが、2009年に作った「造語」だそうですが、労働運動をテーマにしたものに限らず、労働に関わる映画を指す言葉のようです。
海外では、こういう分野の研究というか資料収集整理がかなり行われているようですが、日本では散逸するばかりという状況のようで、この報告書のコアは、実は別冊の資料編にあります.これは圧巻で、明治から平成に至るまさに百年間の労働映画が、データと1行コメントをつけて、ずらりと並んでいます。
こういう活動のきっかけは、河西さんの電産研究の本に出てきた『われら電気労働者』という映画のようです。これですね。
一番最後の2016年の映画では、これらも労働映画にカウントされてました。
ちなみに、ネット上には労働映画に関するサイトがあります。「働く文化ネット 労働映画スペシャルサイト」です。
ここには、「労働映画百選通信」が定期的にポストされ、上映会の案内なども載っています。
日本の労働映画百選はこれ。
続々と甲子園に名乗りを上げる高校の中で、こんな記事が
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170726-00000006-sph-base(【秋田】明桜、甲子園返り咲き!ハローワーク監督公募から8か月…4月就任輿石監督が混迷名門救った)
・・・監督就任から4か月目。誕生までの経緯は異例だった。昨秋に学校側が野球部監督をホームページや、一時はハローワークに求人情報を出して一般公募。100人超の志望者が殺到する中、面接や模擬授業などの採用試験を経て、4月に就任。前任の帝京三(山梨)での教頭という肩書を手放し、秋田にやってきた。・・・
「この仕事できますか」
「はい、私はできます」
という、まさにジョブ型の労働市場ですな。
『ビジネス・レーバー・トレンド』8/9月号は、「働き方の未来」と題して結構大特集を組んでいます。
http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2017/0809/index.html
中心は、去る5月12日にILOと共催で開いた労働政策フォーラムで、
労働政策フォーラム The Future of Work----仕事の未来
- 基調講演 ガイ・ライダー 国際労働機関(ILO)事務局長
- 基調報告 濱口桂一郎 JILPT研究所長
パネルディスカッション
- 得丸 洋 経団連国際労働部部会長
- 安永貴夫 連合副事務局長
- 神田玲子 NIRA総合研究開発機構理事
- 濱口桂一郎 JILPT労働政策研究所所長
- 大内伸哉 神戸大学大学院法学研究科教授
わたくしが基調報告「日本的柔軟性からデジタル柔軟性へ」をお話ししており、その後のパネルディスカッションでは、司会の大内さんが2ページ近くにわたって持論を展開するなど、大変興味深いものになっております。
そのほか、
JILPT調査 AIの導入で職場はどう変わるのか、必要な準備は何か?
「イノベーションへの対応状況調査」(企業調査)
「イノベーションの対応に向けた働き方のあり方等に関する調査」(正社員調査)
そして、識者の御意見が6本あり
私が考える労働の未来 AI・IoT・ロボット等で働き方はどう変わるか
- 安藤 至大 日本大学准教授
- 佐々木 俊 野村総合研究所上級コンサルタント
- 諏訪 康雄 法政大学名誉教授
- 仲 琦 JILPT労使関係部門研究員
- 松本 真作 JILPT特任研究員
- 山田 誠二 国立情報学研究所教授、人工知能学会会長
山本陽大さんのは例によってドイツの労働4.0です。
研究報告 第四次産業革命による働き方の変化と労働法政策上の課題
―ドイツにおける ”労働4.0”ホワイトペーパーが提起するもの JILPT研究員 山本陽大
さらにこういう記事もあり、
調査報告
①厚生労働省「IoT・ビッグデータ・AI等が雇用・労働に与える影響に関する研究会」報告書
②日本経済研究センター 「第4次産業革命の中の日本」
事例取材 進展するテクノロジーを踏まえた生産性向上の取り組み
①企業・労働者ともに豊かさにつながる生産性の向上を―アクセンチュアのスキル革命
②新物流システムの活用で人手不足解消へ―パルシステム連合会八王子センター
これ一冊で「働き方の未来」の諸相が見えてくるものになっています。
田中萬年さんより『「教育」という過ち』(批評社)をお送りいただきました。ありがとうございます。
(追記)版元のサイトに、非常に長大な内容紹介文が載っていますので、そちらを載せておきます
明治国家の形成過程において、"education"は「教育」とされてきたが、そもそも欧米では「学習する権利」の意味で、江戸時代の寺子屋のようなものであり、「教育する権利」のように国家に付与されるものではない。
この誤訳を定着させたのが「教育勅語」である。「教育勅語」は戦後憲法によって否定され、「教育を受ける権利」は国民の権利として尊重されるはずだったが、「教育する権利」は国家に付与されたままで、人びとが主体的に「学習する権利」ではなかった。そのため、公教育においては、逆に国家意志をとおして「教育」が推し進められ、結果、今日では教育格差を生み出し、格差社会の元凶にまでなっている。明治時代から今日に至るまで国民は「教育」についての正しい知識を紹介されずに「騙され」てきた、といえる。「教育」とは国が教え育てるの意味で、ちょうど、ウグイスなどの小鳥がホトトギスに托卵させられて孵化するように、国民は「教育」が崇高なこととして国家によって「托」教育させられているのである。それは明治以降の「教育」が「飼育」と同じ観念によって推し進められてきたからであった。
「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守系の為政者は「教育勅語」を利用しようとする。問題は「教育勅語」を排除すべきと言う人も「教育」という語を認めることによって「教育勅語」の精神を無意識のうちに許容していることである。
個人の尊厳を保障し、一人ひとりの個性を活かすことは学習権の支援でなければならない。つまり、「教育を受ける権利」を「学習する権利」(職育学)に根本的転換を図るように改定することである。
個人の「学習する権利」なら為政者の意図が介入する余地もなく、学習者の要望に応じて準備されたコンテンツ(内容)を選ぶことになる。そうすれば国家による教育行政の統制は不要となり、巨大な管理機構も不用になる。
学習権の要望は個性により異なる。個性に即した学習であれば意欲も増す。個性に即した学習を保障するためには個別学習が望ましい。全国一律の学力テストは無用となる。そうすれば、一人ひとりの個性ある能力が向上するだろう。
学習権の保障は、一人ひとりの自立意識を同時に育むであろう。自立観が育てば、職業観も育ち、多くの個性ある創造性豊かな人材が生まれ、活力に溢れるであろう。もっとも、これを保証する条件として「職業に貴賤なし」の観念が社会に浸透していなければならない。いつの時代も、どのような国も社会と無関係な人間の育成策はないからである。国家百年の計とは、目先の利益追求ではなくベーシックな構想に支えられていなければ意味がないと言える。
はじめに今日、「教育」の言葉に疑問を持つ人はいないであろう。筆者もフツーの日本人であり、日本の教育を受けて育ったので、教育に対する常識は周りの人と変わったところは無かった。
例えば、退職して研究室を片付けるとき、職業訓練指導員を経て研究生活を始めた当初に購入したある教育書の扉裏に「教育の立場より職業訓練を常に見直そう!!
」と記していたことに気付いた。職業訓練には問題があり、教育学で職業訓練を整理すれば職業訓練の問題は解決できるのではないか、との素朴な思いを持って研究生活に入っていたのである。
ところが、研究を進めていく過程で様々な事態に当面する度に、職業訓練が問題なのではなく、教育の捉え方にこそ問題があるのではないか、と考えるようになった。
寺子屋・藩校に代わり明治五年に近代学校が設立されたが、国民の多数を占めていた農民は学校が農民のためにならず、学費・経費がかさむために反発し、学校批判運動を起こした。中には学校焼き討ちまでに過激化し警察では取り締まれず、争議は軍隊により鎮圧された。寺子屋に反発した農民はいなかったが近代学校には反対したのだ。つまり、今日言われるわが国国民の学歴主義観、教育信奉の意識は学校制度が成立した時からあったのではないことが分かる。
「教育」への信奉は「教育を受ける権利」が民主的だとする信用に連なる。今日の教育策を批判する者も、「教育を受ける権利」を批判する者はいない。つまり、「教育を受ける権利」という同床の教育への異夢論であり、ここにわが国の教育論が百家争鳴を呈している根源がある。例えば、「教育権」として論じられることがあるが、国語辞典の「教育」の定義に従えばその意味は「教育する権利」となり為政者の権能を意味している。しかし、「国民の教育権」のような論があるが、いかなる国民がどのような国民を教育する権利なのだろうか。「親が子を教育する権利」を理解するとしても、これとて子の躾だという虐待や「教育虐待」の言い訳に使われている。
「教育を受ける」ことによって自立観が育たないのは疑いない(国立青少年教育振興機構「日本の高校生は受け身で消極的?」二〇一七年三月一三日)。自立観が欠如していれば就業のための学習よりも進学のために教育を受けることが楽(得)だという思いは学校で身に付くだろう。
とはいえ、国民は「教育」を誤解している、と筆者はいうのではない。国民は「教育」についての正しい知識を紹介されずに「騙され」てきた、と考えている。ちょうど、ウグイス等の小鳥がホトトギスに托卵させられ孵化させられているように、国民は「教育」が崇高なこととして「托教育」させられているのである。それは「教育勅語」の「教育」の観念によってである。
そのような中で、「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守的為政者・指導者は「教育勅語」を利用しようとする。問題は、「教育勅語」は排除すべきと言う人も「教育」を認めることによって「教育勅語」精神を無意識のうちに許容することになるのである。
ところで、「日本国憲法」を改正すべきことは国民主権を強化することであろう。個人の尊厳を保障し、一人ひとりの個性を活かすことは教育では困難であり、それは学習の支援でなければならない。
つまり、「教育を受ける権利」を「学習する権利」に改正することであろう。
それでは、「学習する権利」では何が改善されるのだろうか。
彼・彼女等が学ぶ学習内容は為政者の意図によるものではなく、学習者の要望に応えて準備されたンテンツ(内容)を選ぶことになる。したがって、学習の保障は政争の具にならない。すると、教育行政の統制は不要となり、強大な管理機構も要らない。人間育成策(教育策)が「学習指導要領」の改訂の度に振れることもなくなる。
学習の要望は個性により異なる。個性に即した学習であれば意欲も増す。個性に即した学習を保障するためには個別学習が望ましい。すると、全国一律の学力検査は無用となる。そうすれば、一人ひとりの個性ある能力が向上するだろう。個性を認めれば差別もいじめも発生しないであろう。
「学習の保障」は一人ひとりの自立の意識もあわせて育むであろう。自立観が育てば、職業観も育ち、多くの個性ある創造性豊かな人材が生まれ、活力に溢れるであろう。もっとも、これを保証する条件として「職業に貴賤なし」の観念が社会に浸透していなければならない。いつの時代も、どのような国も社会と無関係な人の育成策はないからである。
今日は他国との交流が避けられない。人間育成についても国際的に共通な土台に立つべきだろう。
educationは「教育」ではなく、「能力開発」がより近い。誤訳を定着させたのは「教育勅語」である。
education観と全く異なる「教育」観ではお互いに誤解したままで相互理解ができるはずはない。educationの観念により近い「学習支援」であればお互いの意図が通じるはずである。
今日、わが国は教育の機会が裕福層に有利となり、格差の再生産が教育によってなされていることが指摘されている。?教育が格差を拡大している?と言うことは、教育の根本原則である「教育を受ける権利」が国民の権利になっていず、負のスパイラルを拡大していることを示している。
ヒントは北欧にあるようだ。わが国よりもGDPが小さい少なくない国で幼稚園・保育園から大学までの学校教育と就職のための職業訓練を無料またはわが国に比べれば遙かに僅かな学費で、若者だけでなく国民は就労条件を高めるためのスキルと知識を得ている。
為政者、指導者、社会的成功者にとっては今日の教育制度は有効であり、改革する必要性を感じないであろう。その路線の社会の見方として「底辺に甘んじているのは『教育を受ける権利』を放棄したための自己責任だ」とする論が正しいように思われ、格差の底辺に耐えている社会的不運者(弱者)は、既存の「教育」の?常識的?考えでは問題が「教育」そして「教育を受ける権利」にあるとは思いもよらないのではなかろうか。
教育を差配する為政者に教育の改革を望むのは筋違いであり、教育の真の改革は国民の学習権の立場からしかできない課題であると考える。本書が国民の立場からの次代を担う若者の学習権について今後のあり方を考えるヒントになれば幸いである。
いつもの萬年節が全開の本、ではあるのですが、前から気になっていた「教育」という言葉に対するややマニアックなまでの追及が、「働く」ための「学び」を、というその主張を、却ってわかりにくくしているのではないかという疑問が、本書でも再び、いやむしろより強く感じられました。
「教育」という字面が主体的でなく、国家の強制を思わせるという批判は、ある種の教育学者などとは強く共鳴するのかも知れませんが、職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、そういう領域の重要性を主張する議論とは相当にすれ違ってしまっているのではないかということです。
それこそ、「教育」がけしからんのであれば、それと同じくらい「訓練」という言葉だってまことに訓練生の主体性を無視した言葉でしょう。そもそも「訓」という字は「教え諭す」という意味であり、訓育・訓戒・訓導・訓蒙といった熟語に使われるくらいです。
まあ、「職業訓練」という言葉は流行らなくなり「職業能力開発」に取って代わられ、ついには「人材開発」になってしまいましたが、それは別に「訓」の字が封建的でけしからんからというわけでもなく、世の流行を追いかけているだけのことです。
これは金子良事さんも指摘していたと思いますが、ちょっと最近の田中さんの議論はつまらない脇道に入り込みすぎている感が否めません。
そのために本筋の議論が見えにくくなってしまっては本末転倒です。
職業のための学習、教育、訓練、開発、なんと言おうが、それこそがエデュケーション・トレーニングの本筋なのだという主張こそを、もっと明確に訴えることこそ、田中さんの使命ではないかと思うのですが。
もと監督官の社労士北岡大介さんから『「働き方改革」まるわかり』(日経文庫)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.nikkeibook.com/book_detail/11379/
●17年秋には「働き方関連法」が成立する見込み。関連する法律の成立・実施をにらみ、企業の取り組みも性急になっています。各地で労務担当者を対象にした研修がさかんに実施されるなど、「今から何をすればよいか」の具体的情報がいま求められています。
●本書では、そういった疑問に答えるべく、企業の労務リスクに向き合ってきた社労士が執筆。仕事に関する時間の概念を明らかにするとともに、現在審議されている法案や考え方の方向性を示しながら、「残業させない」「しっかり休暇をとらせる」施策を解説します。「自主的な勉強会は労働時間なのか」「ダラダラ残業を防ぐには?」「労基署の動きはどうなっている?」など具体的な例を出しながら説明します。パート・派遣社員を含めて多様な働き方をする従業員が増える中、人事・労務担当者、もしくは職場のマネジャー、リーダーが知るべき内容です。
●著者の北岡氏は、元労働基準監督官で現在は社会保険労務士。政府の動き、企業の取り組みの両面をにらんで解説します。
いやあ、素早い、というか、抜け目ない、というか、3月末に働き方改革実行計画が策定されてすぐに執筆を始めたのでしょう。下記の通り、ひととおり気を配っておくべきことをまんべんなく取り上げた上に、労働の未来噺にまで及んでいます。
第1章 働き方改革の背景――なぜ、いま必要なのか?
第2章 「労働時間」をどう見るか
第3章 多様な労働時間制度と健康障害防止対策
第4章 働かせ方、働き方改革の進め方
第5章 働かせ方トラブル時の紛争解決制度
終 章 労働の未来と働き方改革
第4章では、ダラダラ残業防止対策としてこんな規定を提示したりしています。
第○条 従業員は、勤務にあたり、次の事項を遵守しなければならない。
1 会社の許可なく就業時刻後職場その他の会社施設に滞留してはならない。
2 会社構内、または施設内において会社の許可なく業務と関係のない活動を行わない。
3 勤務に関する手続き、その他の届け出を怠り、または偽ってはならない。
4 職場において、電話、電子メール、パソコン等を私的に使用しないこと。
終章の労働の未来噺では、先日のJILPTとILOの労働政策フォーラムまで出てきています。
『労基旬報』2017年7月25日号に「国家戦略特区における農業外国人労働の解禁」を寄稿しました。
先の通常国会は、共謀罪とかテロ等準備罪と呼ばれる組織的犯罪処罰法改正案と、とりわけ国家戦略特区における獣医学部新設問題が争点となり、会期末には政争状態となりましたが、その会期末の6月16日に国家戦略特区法の改正案がひっそりと成立していたことを報じるマスコミはほとんどなかったようです。しかしその改正法には、日本の外国人労働政策の根本原則(岩盤規制?)を大きく転換させるような内容が含まれていたのです。
そもそも国家戦略特区とは、いわゆる岩盤規制に突破口を開くために、特定の区域に限って規制を緩和するという仕組みです。ですから本来的に、特区でうまくいけば全国に拡げていくという含みがあります。国会で問題になった獣医学部新設のような箇所付け問題はむしろ枝葉末節であって、将来的な全国レベルでの規制緩和のための橋頭堡という性格こそが重要です。
その意味で、先の国会で成立した改正法に盛り込まれた「出入国管理及び難民認定法の特例」(第16条の5)の持つ政策的含意は極めて大きいものがあります。条文はわかりにくいので、2月21日に国家戦略特別区域諮問会議がまとめた「国家戦略特区における追加の規制改革事項について」から当該部分を引用しましょう。(2) 農業の担い手となる外国人材の就労解禁
・産地での多様な作物の生産等を推進し、経営規模の拡大、経営の多角化・高度化などによる「強い農業」を実現するため、農業分野における専門外国人材の活用を図ることが喫緊の課題である。
・このため、特区において、外国人の人権にも配慮した適切な管理体制の下、日本人の労働条件及び新規就農に与える影響などにも十分配慮した上で、一定水準以上の技能を有する外国人材の入国・在留を可能とするため、今国会に提出する特区法改正案の中に、特例措置等の必要な規定を盛り込む。「専門外国人材」とか「一定水準以上の技能」といった言葉をちりばめることで、外国人政策の転換ではないという印象を与えるように工夫されていますが、いうまでもなく彼らはこれまでも受け入れてきた「高度専門人材」ではありません。これまで国策として否定してきた外国人単純労働力の導入とは、清掃雑役といった真の単純労働ではなく、製造業や建設業などのいわゆる技能労働力のことですから、これは農業分野でその岩盤を突破しようとするものといえます。
もちろん、これまでも日系南米人や研修・技能実習生という形で、事実上技能労働力に相当する外国人が相当数導入されてきたことは確かですが、彼らは社会学的分析においては外国人労働者と呼ばれて誰も疑いませんが、日本国の法律上は労働力として導入された人々ではないという建前で通ってきているのです。昨年ようやく制定された技能実習法においても、「技能実習は、労働力の需給の調整の手段として行われてはならない」(第3条第2項)という建前規定が厳然と置かれています。あくまでも、「人材育成を通じた開発途上地域等への技能、技術又は知識の移転による国際協力を推進すること」(第1条)が目的なのです。
それに対して、今回の改正法では「政令で定める農作業等の作業に従事することにより、農業経営を行う者を支援する活動」(農業支援活動)を行う外国人を雇用契約に基づいて受け入れる事業について在留資格の特例を認めようとするものだと明記しているのですから、まさに「労働力の需給の調整の手段」ということになります。なお条文上は明確ではありませんが、国家戦略特区ワーキンググループにおける審議を見ると、派遣労働を活用することを考えているようです。
国家戦略特区のトピックには大小さまざまなものがありますが、半世紀以上にわたる日本の国策をいとも軽々と乗り越えてしまったという意味において、今回の改正ほどインパクトの大きいものはないのではないかとすら思われます。
ここでは、労働力需給調整の手段として、つまり農業の人手不足対策として、外国人労働者の導入を図る政策自体の是非を論じることはしません。そのためには膨大な議論が必要です。しかし、これほどの大きな政策転換につながる法改正が、ほとんどのマスコミが報じることもないまま、会期末に成立していたということは、もう少し知られてもいいのではないかと思われます。
去る7月18日、EU司法裁判所が注目されていた事件の判決を下しました。ドイツの集団的労使関係システムの一つの基軸をなす労働者参加法制がEU条約違反だという訴えを退けたのです。
判決文はこちらですが、
世の東西を問わず判決文というのは読みにくいものと相場が決まっているので、EU司法裁判所が作ったプレスリリースが比較的分かり易いので、そっちを見ていきましょう。
https://curia.europa.eu/jcms/upload/docs/application/pdf/2017-07/cp170081en.pdf
The German Law on employee participation is compatible with EU law
The exclusion of employees of a group, employed outside of Germany, from the right to vote and stand as a candidate in elections of employees’ representatives on the supervisory board of the German parent company is not contrary to the free movement of workers
ドイツの親会社の監督役会の従業員代表の選挙に投票し、その候補者として立候補する権利からドイツ国外で雇用されている従業員グループを除外することは、労働者の自由移動に反するものではない。
ドイツの監督役会(Aufsichtsrat)はしばしば監査役会と訳されていますが、日本のしょぼい監査役とは違い、執行役会(Vorstand)の上位にあってこれを監督する存在です。その監督役会に従業員代表が半分参加しているというのがドイツの労働者参加法制の特徴であることは周知のところですが、それに株主が文句をつけたという事案です。
その文句の付け方が、この企業グループの従業員のうちドイツ国内の親会社の従業員は監督役会の従業員代表の選挙権、被選挙権があるのに、ドイツ国外の子会社の従業員は、その国はドイツ風の労働者参加法制がないので、その選挙権、被選挙権がないのはおかしいじゃないか、国籍による差別であり、EU条約の保障する労働者の自由移動の原則に反するという、絡めてからのものであったわけです。
EU司法裁判所は結論としてこの訴えを退けているんですが、経済統合は熱心に追求してきた一方で、労働社会政策は控えめで、とりわけ集団的労使関係については加盟国の歴史と伝統を尊重してその調和化には極めて消極的であったことの一つの帰結がここにも露呈していると言えるのかも知れません。
Article 45 TFEU must be interpreted as not precluding legislation of a Member State, such as that at issue in the main proceedings, under which the workers employed in the establishments of a group located in the territory of that Member State are deprived of the right to vote and to stand as a candidate in elections of workers’ representatives to the supervisory board of the parent company of that group, which is established in that Member State, and as the case may be, of the right to act or to continue to act as representative on that board, where those workers leave their employment in such an establishment and are employed by a subsidiary belonging to the same group established in another Member State.
この判決を受けて、欧州労連は7月19日、欧州委員会は労働者参加に向けて行動すべきだという声明を発表しました。
The European Trade Union Confederation has already called for an EU framework for workers’ participation and says the ECJ ruling should prompt the European Commission to create EU rules on board-level representation as well as updated rules on information, and consultation of workers.
今から40年前の1970年代には、まさにドイツ式の労働者参加を義務づける欧州会社法案が話題になっていたのですが、その後一定の情報提供と協議は立法化にこぎ着けたものの、会社の最高決定機関に従業員代表の参加を義務づけるというドイツ型のシステムは、事実上アジェンダから捨てられて久しいのが実情で、欧州労連としてはここでもう一度訴えたいというところでしょう。
日本評論社から『講座労働法の再生』の残りがどさっと送られてきました。いろいろあったようですが、無事全巻完結したようです。
そのうち、第5巻の『労使関係法の理論課題』をぱらぱらと読んでいたら、ある注に拙論が引かれていて、いささかびっくりしました。いや、正面からあるテーマを扱った論文が注に引かれるのは当たり前なので別にびっくりしないのですが、そうでもなかったので。
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7462.html
それは本巻第1部第1章の
第1章 集団的労使関係の当事者…………岩永昌晃
の注19で、
19) 同様の指摘を行うものとして、濱口桂一郎「判批」中央労働時報1143号25頁以下(2012年)
と書かれていて、ああ、ちゃんと読まれていたんだ、と思った次第。これは
GABA事件(大阪府労委決定 平成21年12月22日)(別冊中央労働時報1409号1頁)
の評釈という、いささかマニアックな(だって、たかが地労委の決定で、労働委員会の機関誌というマイナーなところに書いた)ものですが、自分では結構本質的なことをずばりと述べたつもりだったので、まさにそのいいたい本質のところで捕まえてさりげに引用していただいたのは結構嬉しかったです。
2 労組法上の労働者性再考
(1) 以上は、近年の議論に沿った形で本件決定を評釈したものであるが、実はより突っ込んで考えると、最高裁二判決やソクハイ事件中労委命令でかなり明確に示され、多くの論者から妥当な判断要素として評価されている「会社組織における不可欠性」や「契約内容の一方的決定」が、なにゆえに労組法上の労働者性の判断要素であるのか、という根本的な点にいささか疑問が生じる。
(2) そもそもこれら要素は何を示すものなのであろうか。菅野和夫によれば、これらは「使用従属性と連続的な労組法独自の判断要素」であり、「団体交渉の保護を及ぼす必要性と適切性という基本的視点からの独自の判断要素」であるが、それは「企業の業務遂行に不可欠の労働力として事業組織に組み込まれており、労働条件が一方的・定型的に決定されている労務供給関係こそが、労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である典型的労働関係といえるから」である*1。
ここでは、労働組合法という集団的労使関係システムが適用されるべき対象の持つ「集団性」が、企業組織の集団性として捉えられている。それは言い換えれば、秋北バス事件最高裁判決(最大判昭43.12.25民集22.13.3459)がいう「経営上の要請に基づき、統一的かつ画一的に決定され、労働者は、経営主体が定める契約内容の定型に従って、附従的に契約を締結せざるを得ない立場」であり、労働者性の議論においては「組織的従属性」と呼ばれてきたものである。それが労働に関わる一つの「集団性」であることは確かであるが、労組法が本来想定する「集団性」であるかどうかは別の問題である。
こうした企業組織の「集団性」に着目した枠組みは、西欧の枠組みでいえば従業員代表組織やそれが締結する経営協定であり、日本でいえば過半数組合/過半数代表者、労使委員会やそれが協議を受け、締結する就業規則、労使協定であって、私的結社たる労働組合やその締結する労働協約の「集団性」とは次元が異なると考えるのが、少なくともこれまでの集団的労使関係法の発想であったのではなかろうか。
(3) その発想を前提にする限り、企業組織の「集団性」を無批判に労組法上の労働者性の判断要素に持ち込むことは、本来批判されるべきことのはずである。実際、豊川義明は港湾労働をめぐる団体交渉や労働協約を例に挙げて、そこでは「労働者の特定企業への「組み込み」は想定しがた」いと主張している*2。企業を超えたレベルで団体交渉を行い、労働協約を締結するという西欧的な労働組合モデルを前提とする限り、集団的労使関係システムが適用されるべき対象の持つ「集団性」とは、何よりも労働組合に組織され、労働組合の締結した労働協約に拘束されることを受け入れているという労働者側の「集団性」であろう。この「集団性」には、少なくとも企業組織の側からは限界は存在しない。限界は、その「集団性」が独占禁止法上の「不当な取引制限」となるところで画される。言い換えれば、私的結社としての労組法上の労働者性の判断基準は、事業者でないことに尽きるはずである。実際、不当労働行為救済制度を持たない西欧では、自営労働者が労働組合を組織することは(独禁法違反とならない限り)ごく普通に見られる。
(4) このような、従業員代表組織として必要な企業組織の「集団性」と、私的結社たる労働組合に必要な「集団性」の概念上の峻別は、しかしながら労働組合が従業員代表組織として機能してきた日本の労働社会では自明ではない、というのが、実はこの問題の背後にある最大の問題なのではなかろうか。ほとんどもっぱら企業レベルで組織され、交渉を行う日本の企業別組合にとって、企業を超えた「集団性」など存在せず、むしろ企業組織の「集団性」こそがその立脚基盤である。これに加えて、不当労働行為救済制度は、その源流であるアメリカ法が交渉単位ごとの排他的交渉代表制をとっていたことを考えれば、むしろ企業組織の「集団性」を前提とする制度という面が強いとも言いうる。菅野の「労働条件が一方的・定型的に決定されている労務供給関係こそが、労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である典型的労働関係」という説明は、この状況を前提にする限り、まさに現実に即したものとなる*3。
(5) しかしながら、話はそこで終わらない。過半数原理に立脚し、公正代表義務を伴うアメリカの団体交渉制度と異なり、複数組合平等主義に立脚するとされる日本の団体交渉制度は、企業組織の「集団性」に立脚していない企業外部の私的結社にも、企業に団体交渉に応じるよう要求する権利を認めているからである。いわゆる合同労組事案や、とりわけ駆け込み訴え事案において、「労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である」根拠がどこにあるのか、原理的には大きな問題を孕んでいるはずである。本件は、880名のインストラクターのうち10名のみが加盟する典型的な合同労組事案であり、本件団交が労働条件を集団的に決定するという意味での「労組法の予定する団体交渉」でありうるのかどうか、という問題は論じられる必要がある*4。
(6) 以上を近年の議論の枠組みで言えば、労組法3条の労働者性は企業を超えた私的結社たる労働組合の「集団性」に立脚し、それゆえ事業者性という消極的要素によってのみ限界を画されるが、労組法7条の労働者性は企業組織自体の「集団性」に立脚するがゆえに、組織的従属性を最重要の判断要素とする、ということになるであろう。・・・
岩永さんの本論文は、まさにこの問題意識の延長線上で、労組法の集団的労使関係と労働者性を突っ込んで論じていて、とても読み応えがありました。
さらに同論文は、かつて小嶌典明さんが提起した中小企業協同組合の団体交渉権にも言及し、今日独占禁止法との関係で議論になりつつある自衛的労務供給者の集団的労使関係を論じています。
数日前のエントリでは、目次だけを見て
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/45-bdcd.html
それに引き替え、第5巻の労使関係法は、この目次を見る限り、半世紀前から何も変わっていない感がにじみ出てきます。
などと失礼なことを口走りましたが、いやいやとても今日的問題意識に満ちていて面白く読めます。
ダイヤモンドオンラインにみわよしこさんが「生活保護で大学に通うのは、いけないことなのか?」を書かれています。
http://diamond.jp/articles/-/135883
厚労省は、大学等(以下、大学)に進学する生活保護世帯の子どもたちに一時金を給付する方向で検討を開始している。金額や制度設計の詳細はいまだ明らかにされていないが、2018年度より実施されると見られている。
現在、生活保護のもとで大学に進学することは、原則として認められていない。家族と同居しながらの大学進学は、家族と1つ屋根の下で暮らしながら、大学生の子どもだけを別世帯とする「世帯分離」の取り扱いによって、お目こぼし的に認められている。・・・
もちろん、これは生活保護制度のあり方の問題ですが、その背後にあるのは、大学教育をどういうものととらえているかという、日本人の意識の問題でもあります。
実は、この問題は、今から8年前に出した『新しい労働社会』(岩波新書)で採り上げた問題でもあります。
教育は消費か投資か?
後述の生活保護には生活扶助に加えてそのこどものための教育扶助という仕組みがあります。これは法制定以来存在していますが、その対象は義務教育に限られています。実は1949年の現行生活保護法制定の際、厚生省当局の原案では義務教育以外のものにも広げようとしていたのです。高校に進学することで有利な就職ができ、その結果他の世帯員を扶養することができるようになるという考え方だったのですが、政府部内で削除され、国会修正でも復活することはありませんでした。
これは、当時の高校進学率がまだ半分にも達していなかったことを考えればやむを得なかったともいえますが、今日の状況下では義務教育だけで就職せよというのはかなり無理があります。実際、2004年12月の社会保障審議会福祉部会生活保護制度の在り方に関する専門委員会報告は、高校への就学費用についても生活保護制度で対応することを求め、これを受けた厚生労働省は法律上対象が限定されている教育扶助ではなく、「生業に必要な技能の修得」を目的とする生業扶助として高校就学費用を認めることとしました。これは苦肉の策ともいえますが、考えてみると職業人として生きていくために必要な技能を身につけるという教育の本質を言い当てている面もあります。
現在すでに大学進学率は生活保護法制定当時の高校進学率を超えています。大学に進学することで有利な就職ができ、その結果福祉への依存から脱却することができるという観点からすれば、その費用を職業人としての自立に向けた一種の投資と見なすことも可能であるはずです。これは生活保護だけの話ではなく、教育費を社会的に支える仕組み全体に関わる話です。ただ、そのように見なすためには、大学教育自体の職業的レリバンスが高まる必要があります。現実の大学教育は、その大学で身につけた職業能力が役に立つから学生の就職に有利なのか、それとも大学入試という素材の選抜機能がもっぱら信頼されているがゆえに学生の就職に有利なのか、疑わしいところがあります。
生活給制度の下でこどもに大学教育まで受けさせられるような高賃金が保障されていたことが、その大学教育の内容を必ずしも元を取らなくてもよい消費財的性格の強いものにしてしまった面もあります。親の生活給がこどもの教育の職業的レリバンスを希薄化させる一因になっていたわけです。そうすると、そんな私的な消費財に過ぎない大学教育の費用を公的に負担するいわれはないということになり、一種の悪循環に陥ってしまいます。
今後、教育を人的公共投資と見なしてその費用負担を社会的に支えていこうとするならば、とりわけ大学教育の内容については大きな転換が求められることになるでしょう。すなわち、卒業生が大学で身につけた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされる時に、これはなかなか難しい課題です。
で、実はこの本に対してとりわけ大学アカデミズムの方々から寄せられた最大の批判は、まさにこの最後の大学教育を職業的に役立つものにすべきという部分であったことを考えると、大学教育を正々堂々と生活保護上の生業扶助として給付するということに対する最大の障壁は、大学というのはそんな下賤なものじゃないと声高に叫ぶ方々なのかも知れないな、と改めて痛感するところでもあります。
大学教育が年功賃金でまかなえるような、「必ずしも元を取らなくてもよい消費財的性格の強いもの」であると、多くの国民から認識され続ける限り、そんな贅沢品を生活保護で暮らしているような連中にまで与える必要はない、と認識され続けることになるのでしょう。
教育と労働と福祉はかくも密接に絡み合っているのです。大学人の主観的認識はいかにあれども。
世間の目が連合にばかり集まっている中で、経団連が「2007年労働時間等実態調査 集計結果」 を公表していました。
http://www.keidanren.or.jp/policy/2017/055.pdf
経団連会員企業が対象なので、まともな大企業が中心で、「36協定?なにそれおいしいの?」みたいな会社は入っていません。
いくつか興味深い図を引用したいと思いますが、まずは、労働組合って、意外に効いているかもという図。
労働組合がある企業は、ない企業より年間100時間程度は短くなっているようです。
そもそも、36協定でどれくらいまで時間外労働を認めているかというと、
原則の360時間以内というのは2割強で、例外の720時間以内まで含めても3分の2。3割以上がこれからは原則アウトということのようです。
もちろんこれは上限であって、実際の時間外労働はもっと短い人が多いのですが、それでも原則の360時間以内は7割前後であって、特にこれからは原則アウトの720時間超が、全体で2%、非製造業では4%いるというのは、結構厳しいものがあります。
こちらはもっとひどくて、原則の45時間以内は2割弱、例外の年平均の60時間まで含めても4分の1、特例の特例でみてもアウトになる100時間超が15%と、この辺はますます厳しい。
もちろん、これも実際はセーフの範囲内の人が多いのですが、それでも年平均で見たらアウトになる60時間超が7%、非製造業では9%に上ります。
森直人さんのブログ「もどきの部屋 education, sociology, history」に、「矛盾の『解決』」というエントリがアップされているのですが、
http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20170719/p1
なんだか、私の「「生活」と「能力」のアポリア」が、若干語り口を変えて延々と引かれているのですが、あれ?森さんどうしたんだろう?と思って読み進んでいくと、ようやく
「制度を構想、設計し、再編する」というときに、私たちはつい複数の理念・正義のあいだの「矛盾」を「解消」してしまおうと発想する。あるべき望ましい未来設計に「矛盾」などあってはならないのだと。優等生の発想だ。そうではなく、「矛盾」に定位するのだというときに、今度はそれを「敵対」する理念・正義のあいだの「闘争」関係とのみとらえてしまう思考法へとあまりに容易に裏返る。反逆者然とはしているものの、これもまた裏返しの優等生にすぎない。
そのいずれでもなく、矛盾と対峙する。矛盾の「解決」は、解消であってはならない(解消などできないのだから)。矛盾を解消するのではなく、保持しつづけること、そして「発展」させること。
と、森さんの言葉が出てきて、ああ、これが言いたかったんだ、と。
そして、そこから終戦直後の教育刷新審議会における技能連携制度の議論とつなげていくわけですが、それはともかく、私の議論をこういう風に他分野に応用可能な一般論的に読んでいただいたのは、多分森さんが初めてのような気がします。
『情報労連REPORT』7月号が届きました。特集は「悪質クレームと向き合う」です。悪質クレーム?「俺様は神様だぞ」とばかりにかさにかかっていじめてくる悪質な「お客様」の問題ですね。
冒頭の池内裕美さんによれば、クレーマーはやはり中高年男性に多いそうで、「私はどこそこの営業部長をやっていたんだが」と権威を笠に着て上限関係でものというタイプとか、威嚇・激昂型とか、これには「訴えるぞ」のほかに、最近では「ネットに書くぞ」タイプも見られるようで、こうしたタイプは論理的な説明を用いるとかえって威嚇をしてくるので注意が必要とか。
コールセンターの覆面座談会でも、「女性に対して高圧的になる男性が多いです。男性上司に電話を替わった時点で怒鳴るのを辞めたりとか」と、中高年男性の行状がよく出ています。
4月号の特集「パワハラをなくそう」に載った、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/report-238f.html
パワハラ防止措置を法制化する動き 民進党内で石橋みちひろ議員らが推進 石橋みちひろ
を紹介しましたが、そこで
そしてもう一つは、昨今、問題が大きくなっていますが、消費者や公共サービス等の利用者などから労働者や公務員に対して起きるパワハラです。例えば、モンスターペアレントやモンスターペイシェントなど、教育機関や医療の現場などで度を超した悪質なクレームによる被害が拡大しています。いわゆる「感情労働」問題ですが、これを第三類型として議論の俎上に載せました(図表2)。
と述べていたことが、今回
民進党がパワハラ防止対策法案の中に悪質クレーム対策を盛り込む方向で検討中 石橋みちひろ
という記事でさらに詳しく書かれています。
それによると、パワハラと悪質クレーム対策の規定を分け、後者については、雇用主は従業員が悪質クレームの被害に遭わないよう施策を講じること、万一そのような被害が生じた場合には適切な措置をとること、を事業者に課し、あとは業種業態ごとに指針やガイドラインを作成するという考え方のようです。
その参考ともなったらしい韓国の動きをJILPTの呉学殊さんが紹介していますが、ソウル市では感情労働従事者保護条例が制定されたとのことです。
なお労働組合としての取り組みとして、UAゼンセンと自治労の取り組みが紹介されています。
これは、労働問題の枠をはみだす難しい問題がいろいろありますが、サービス経済化が進む中でますます労働環境の大きな要因になっていく問題でもあるので、情報労連だけではなく、多くの労働組合や、それ以上に企業経営サイドも真剣に取り組んでいって欲しいところです。
「追い風」さんの「順風Essays Sequel」というブログで、拙著『働く女子の運命』への書評がされています。
http://oikaze.hatenablog.jp/entry/books-201707#働く女子の運命結婚と家族のこれから
学生時代、労働・社会法分野は将来最も重要になると考え、興味を持ち続けてきた。実際にそのとおり「働き方改革」など課題の中心となっているが、私が仕事としてこれらの問題に関わることができていないのは少し残念に思っている。もっとも、学生時代は直接的に自分自身に降りかかる問題ではなかったが、現在は家庭を築いていく上でまさに直面しているところであり、自分自身の問題として考えていくために購入した。
「自分自身の問題」と言われていますが、それに続いて書かれているのは追い風さんのお母様の話です。
戦前から時代の流れを追っていく部分では、10年ほど銀行勤めをし、過労で入院もしてそれでも働けないか病院までお願いが来たといった逸話のある私の母が、男性に較べて待遇が上がらないことを不満だったと話していたこととオーバーラップしてきた。私は男性であるが、女性と同様に家事を行って生活を組み立てていくのを理想としているところ、限界がどこで来るのか、具体化して解決していくことができないか考えている。最後の「マミートラックこそノーマルトラック」という考え方に大きく賛成するところではあるが、日本人の道徳・倫理にも関わる部分であり、現場で摩擦なく進むことは難しそうだ。
このお母様がおいくつくらいの方なのか、言い換えれば、なくてはならないくらいの仕事をさせながら銀行が差別的扱いをしていたのがいつ頃のことなのか、よくわかりませんが、こういう風に、世代ごとに異なる記憶をもたらせるのが、この分野なのですね。
最近いくつかのマスコミでちらちらと報じられていた話ですが、ようやく公正取引委員会のサイトに、「人材と競争政策に関する検討会」の告知が載っています。
http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h29/jul/170712.html
終身雇用の変化やインターネット上で企業と人材のマッチングが容易になったことなどを背景として,フリーランスや副業など就労形態が多様化し,雇用契約以外の契約形態が増加している。技能人材など一部職種については,需給が逼迫しているとの指摘がある(注1)。
就労形態を問わず,国民が自由に就労し,働きがいを得るとともに,その労働の価値を適切に踏まえた正当な報酬を受け,また,他方で,使用者が有為な人材を適切に獲得することができるためには,使用者による人材獲得競争が適切に行われることが重要となる可能性がある。・・・
就労形態を巡る上記の環境変化を踏まえ,使用者の人材獲得競争等に関する独占禁止法の適用関係(適用の必要性,妥当性)を理論的に整理するため,「人材と競争政策に関する検討会」を設置する。
検討会においては,主として,複数又は単独の使用者による引き抜きの防止,賃金の抑制に関する協定の締結,転職・転籍や取引先の制限といった競争を制限する可能性のある行為に関して,内外の実態・判例(注3)(注4),労働関係法制における規律の状況,一般的な財とは異なる人材の獲得競争の特殊性,当事者の自治の状況,使用者による人材投資を促進する必要性等を踏まえつつ,独占禁止法や競争政策上の課題を理論的に整理する。
ということで、その委員は次のような方々です。
荒木 尚志 | 東京大学大学院法学政治学研究科教授 |
大橋 弘 | 東京大学大学院経済学研究科教授 |
風神 佐知子 | 中京大学経済学部准教授 |
川井 圭司 | 同志社大学政策学部教授 |
神林 龍 | 一橋大学経済研究所教授 |
座長 泉水 文雄 | 神戸大学大学院法学研究科教授 |
高橋 俊介 | 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授 |
多田 敏明 | 日比谷総合法律事務所 弁護士 |
土田 和博 | 早稲田大学法学学術院教授 |
中窪 裕也 | 一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授 |
中村 天江 | リクルートワークス研究所労働政策センター長 |
和久井 理子 | 大阪市立大学大学院法学研究科特任教授 |
労働法からは荒木、中窪と鉄壁の布陣のほか、スポーツ法という超ニッチな分野をされている川井圭司さんも入っていますね。また、労働経済では神林さん、リクルートから中村さんという布陣です。
拙著を読んでいる人には耳タコな話ではありますが・・・・。
あるブログにこんなエントリがありまして、
「こんな仕事をするためにこの会社に入ったんじゃない」「電話番をするために入社したんじゃない」「雑用をするために就職したんじゃない」
最近はこのように主張する若者や、こう言って辞めてしまう新入社員がいるのだという。こんな近頃の若者にどう対応したら良いのかわからないと嘆く先輩社員や上司もいる。
初めは私も、40~50代の先輩社員らと大体同じ意見を持っていた。
雑用をこなしてわかること・身につくことも多いだろうし、電話応対で得られるものはきっと大きいだろう。何事においても「基礎固め」はつまらないものだ。でも最初にしっかりと土台を作ることは大切であるし、それが後々力を発揮するのだ。
これらの経験は将来自分がやりたい仕事に就いたり、希望する部署で働くためにも欠かせないと考えていた(もちろん確かにそういう面はある)。
でも今は、「こんな仕事をするために」と言って辞める若者には一理も二理もある、むしろ真っ当な判断だと思うようになった。
だいたいにおいて、この手の話は常に、そもそもどっちが正しいか、とか、あるべき姿は何か、みたいな論じられ方をするわけですが、いうまでもなく雇用という契約関係において重要なのは、両者間で明示にせよ黙示にせよ、どういう約束になっているのかということです。
日本以外の世界の常識からすれば、
「この仕事をできる人はいますか?」
「はい、私はその仕事をできます」
「では、この仕事をしてください」
と言って雇われたのに、それとは全然違う「こんな仕事」をやらされたりしたら、それこそ契約違反であり、詐欺ですらあります。
そういう社会においては、およそまともな社会人であれば「こんな仕事をするためにこの会社に入ったんじゃない」というのが当たり前、どころかもし言わないとすれば、自分の最低限の権利すら守る気のない人間失格と思われるでしょう。
メロンを買う契約をしたのにニガウリを渡されて、黙って受け取ってむしゃむしゃ食ってたら、ただのあほと思われるのと一緒です。
ジョブ型社会というのは、要するにそういうことですね。
ところが、この日本では、そもそも雇用というのはそういう約束だと思われていない。
「我が社の仕事は何でもやりますか?」
「はい、御社の仕事は何でもやります」
「では、我が社に入社して、ますはこれをしてください」
という約束なので、それがどんな仕事であろうが、命じられたらやるのが当然、それに文句をつけるなどというのは天地ともに許されざる悪逆非道、ということになるわけですね。
連合の神津会長が、昨日安倍首相に労働基準法改正案について要請したことが、各紙に報じられており、連合HPにも載っています。
https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/news_detail.php?id=1299
神津会長から、継続審議となっている労働基準法等改正法案に関して、企画業務型裁量労働制の対象業務の拡大や高度プロフェッショナル制度の創設については、現在でも導入すべきでないと考えているが、少なくとも、①裁量労働制が営業職全般に拡大されないことの明確化、②高度プロフェッショナル制度で働く方の健康確保の強化、という点からの是正が不可欠であることを述べました。
また、現在の裁量労働制の問題点として、裁量労働制で働く者は、仕事の進め方や時間配分に関して主体性を持ちたいと思いつつも、実際には、労働時間(在社時間)が長かったり、取引関係における短納期などの要因により業務に対する裁量性が小さかったりするなど、本来の制度趣旨に沿わない実態にあり、対象業務拡大の前に、裁量労働制の適正な運用がなされるようにすべきことも発言しました。
要請の中身については後ほど言及しますが、その前に、この要請行動について、ネット上に非常に批判的な意見が強いことに、正直違和感を禁じ得ません。
批判している人々は、はっきり言ってその言動が誰かに影響を及ぼす責任ある立場にないので好き勝手なことを言えるのかも知れませんが、労働組合のナショナルセンターとして、駄目なものは駄目と言って後のことは知らんぞよといって済ませられるような立場ではない以上、ほぼ間違いなく時間外労働の上限規制と一体の労働基準法改正案として出されてくる高度プロフェッショナル制度や裁量労働制を、それは悪いものだから全部まとめて潰してしまえなどと莫迦なことを言えないのはあまりにも当然でしょう。
脳内バーチャル空間で百万回「はい論破」と繰り返したところで、リアル空間では何の意味もない、というリアルな現実をわきまえて物事を考えるのかそうでないかの違いといえばそれまでですが、どういう政治的配置状況の下で、ほんの2年前までは考えられなかったことが実現しようとしているのかということを少しでも我に返って考えられる人であれば、ここまで無責任な言葉を紡ぎ続けられないのではないかと、正直呆れるばかりです。
現時点で、制度導入を受け入れる代わりにその修正を要求するというのは、考えられるリアルな選択肢の中ではかなり筋の良いものであったことは確かでしょう。現実にあり得ない選択肢は百万回繰り返しても意味がないので。
そもそも、この期に及んで未だに10年前とまったく同じように「残業代ゼロ法案」という手垢の付いた非難語を使っていることに、当時のホワイトカラーエグゼンプション騒動に対してこう述べた私としては、結局何も進歩しとらんわいという感想が湧いてくるのを禁じ得ませんね。
http://hamachan.on.coocan.jp/johororenjikan.html (「労働時間規制は何のためにあるのか」『情報労連REPORT』2008年12月号))
・・・一方で、国会提出法案からは削除されてしまったが、それに至るまで政治家やマスコミを巻き込んで大きな議論になったのが、いわゆるホワイトカラー・エグゼンプションであった。ところが、上記のような労働時間規制に関する認識の歪みが、この問題の道筋を大きく歪ませることとなってしまった。そもそもアメリカには労働時間規制はなく、週40時間を超える労働に割賃を義務づけているだけである。したがって、ホワイトカラー・エグゼンプションなるものも割賃の適用除外に過ぎない。一定以上の年収の者に割賃を適用除外することはそれなりに合理性を有する。ところが、日本ではこれが労働時間規制の適用除外にされてしまった。ただでさえ緩い労働時間規制をなくしてしまっていいのかという当時の労働側の批判はまっとうなものであったといえよう
ところが、この問題が政治家やマスコミの手に委ねられると、世間は「残業代ゼロ法案」反対の一色となった。そして、長時間労働を招く危険があるからではなく、残業代が払われなくなるからホワイトカラー・エグゼンプションは悪いのだという奇妙な結論とともに封印されてしまった。今年に入って名ばかり管理職が問題になった際も、例えばマクドナルド裁判の店長は長時間労働による健康被害を訴えていたにもかかわらず、裁判所も含めた世間はもっぱら残業代にしか関心を向けなかったのである。
ホワイトカラー・エグゼンプションが経営側から提起された背景には、長時間働いても成果の上がらない者よりも、短時間で高い成果を上げる者に高い報酬を払いたいという考え方があった。この発想自体は必ずしも間違っていない。管理監督者ではなくとも、成果に応じて賃金を決定するという仕組みには一定の合理性がある。しかしながら、物理的労働時間規制を野放しにしたままで成果のみを要求すると、結果的に多くの者は長時間労働によって乏しい成果を補おうという方向に走りがちである。その結果労働者は睡眠不足からかえって生産性を低下させ、それがさらなる長時間労働を招き、と、一種の下方スパイラルを引き起こすことになる。本当に時間あたりの生産性向上を追求する気があるのであれば、物理的な労働時間にきちんと上限をはめ、その時間内で成果を出すことを求めるべきではなかろうか。
二重に歪んでしまった日本の労働時間規制論議であるが、長時間労働こそが問題であるという認識に基づき、労働時間の絶対上限規制(あるいはEU型の休息期間規制)を導入することを真剣に検討すべきであろう。併せて、それを前提として、時間外労働時間と支払い賃金額の厳格なリンク付けを一定程度外すことも再度検討の土俵に載せるべきである。
ということを前提にした上で、しかし今回の連合の要請書には、いささか疑問がありました。
https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/file_download.php?id=3993
高度プロフェッショナル制度の導入要件として、休日確保を義務とし、
制度の導入要件である健康・福祉確保措置(選択的措置)のうち、「年間 104 日以上かつ 4 週間を通じ 4 日以上の休日確保」を義務化すべきである。
それ以外を選択的義務とするという判断自体はリーズナブルであったと思います。
ところが、その選択肢の中に、
上記に加えて、疲労の蓄積の防止又は蓄積状況の把握の観点からの選択的措置を講じなければならないこととし、その内容は、勤務間インターバルの確保及び深夜業の回数制限、1 か月又は 3 か月についての健康管理時間の上限設定、2週間連続の休暇の確保、又は疲労の蓄積や心身の状況等をチェックする臨時の健康診断の実施とすべきである。
と、労働時間自体の規制だけではなく、健康診断もはいっています。これはどういう経緯でこうなったのかよくわかりませんが、制度設計としてまずいのではないかと思います。選択肢として健康診断を選ばない場合には、疲労の蓄積や心身の状況等をチェックする必要がないかのような誤解を招きかねないのではないでしょうか。いうまでもなく、それは全ての適用対象者に必要なはずで、ここに選択肢として出てくるのは大変違和感がありました。
まあ、既に要請がされ、安倍首相から
○ 本日いただいた修正提案については、労働者団体の代表のご意見として、重く受けとめる。責任をもって検討させていただく。
○ 現在提出している労働基準法改正案の目的は、働く人の健康を確保しつつ、その意欲や能力を発揮できる新しい労働制度の選択を可能とするものであり、残業代ゼロ法案といったレッテル張りの批判に終始すれば、中身のある議論が行えないと考えていたところ、本日の提案は、中身についての提案であり、建設的なもの。
○ ご提案に沿うかたちで、私と神津会長と榊原会長との間で、政労使合意が成立するよう、私自身、最大限、尽力したい。
という回答があったようなのですが、変なミスリードにならないように何らかの軌道修正が必要な気がします。
(追記)
https://twitter.com/ssk_ryo/status/886016871740325889
けしからんもんは、けしからんもんなぁ。あと、政治的な情勢からして最悪のタイミングなんだよね。取れるものが取れそうなときに水を差したのは誰かって話。
https://twitter.com/nabeteru1Q78/status/886022404190879744
責任あるものの政治判断だというなら、答えは一つで、「政治的なタイミングがクソすぎる」で終わる。ハマちゃんは政治は分かってない。
労働弁護士お二人から、要するに「ハマちゃんは政治は分かってない」という批判が。
この「政治」ってのは、「政策」ではなくて「政局」という意味ですね。
政策という意味での政治戦略からすれば、このまま断固反対→そのまま成立、と、そのまま丸呑み→そのまま成立、の間に、いくらかでも修正を働きかけて実現できるか、を探るのが「政治」。
もっとも、上記のように、「健康診断」という選択肢を入れたことで、その修正の効果はかなり限定的になってしまったというのが私の認識ですが。
しかし、お二人にとっての政治はそういう意味ではなさそうです。多分新聞で毎日1面トップを賑わし続けているような事柄をめぐる「政局」。
ただ、私は政治学者でも政治評論家でも政治部記者でもなく、それらと同じような発想を持ちたいとも思いませんが、その乏しい政治センスだけでみても、残念ながら今の流れは労働問題に関して労働組合側の主張が大幅に取り入れられるような方向での激動ではさらさらないというのが客観的な評価でしょう。
なぜかここ1,2年の安倍政権がやや突然変異的にかつ局所的にプロレーバーな政策を打ち出し始めただけで、自民党の多くの議員たちがみんなプロレーバーになったわけでも何でもないし、民進党はますます崩壊しかかっているし、「取れるものが取れそうなとき」というのは政局判断としてもまったく違うと思われます。
あと残るのは、労働組合の政策戦略とは別次元の、純粋「政局」というか、政治部記者たちが舌なめずりしながら追いかけるようなたぐいの「政局」としてであれば、実はお二人の意見はよくわかります。
せっかく安倍政権がスキャンダルがらみでふらついているときに、なんで塩を送るんだ、と。うまくいけば安倍政権を倒せるかも知れないこの政治的「好機」に、労働組合は自分の政策的要求などという下らないことは後回しにして、政治闘争の要請に従え、と。これはこれで、一つの考えとしては理解できないではありませんが、しかしそれは労働運動を政治の侍女とする発想でしょう。
労働運動の中にもそういう発想があることは確かですが、私はそういう方向性でない考え方の方を好みます。
そして、そういう種類の「政治」に貢献することによって得られるのは、成果よりもむしろ束縛であることが多いというのが歴史の教訓であるようにも思われます。
(再追記)
上記「政局」的発想を、そのものズバリ、何のてらいもなくむき出しに表出した文章を見つけました。五十嵐仁さんの「転成仁語」ブログです。
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2017-07-14
・・・しかも、安倍内閣支持率が急落し、都議選での歴史的惨敗もあって安倍首相は追いこまれています。そのような時に、連合の側から安倍首相に救いの手を差し伸べるようなものではありませんか。
何を大事と考え、何を大事の前の瑣事と考えているかが、よく窺える文章ではあります。私とは、大事と瑣事とが正反対であるようです。
竹信三恵子さんより『これを知らずに働けますか?─学生と考える、労働問題ソボクな疑問30』(ちくまプリマー新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480689856/
「バイトは休暇が取れない?」「どこまで働くと過労死する?」そんな学生の率直な疑問に答えます。仕事選び、賃金、労働組合、ワークライフバランス、解雇など、働く人を守る基礎知識を大解説。これを知らずに社会に出て行ったら、あぶない!
何にも判っていない学生たちに噛んで含めるように説明していく労働法の初歩の初歩、というところです。
なんでこんな本を書こうとしたのかを、「はじめに」で竹信さんがこう語っていますが、
・・・ところが、いざ大学で授業を担当してみると、社会に出た経験のない多くの学生たちにとっては、労働問題はどこか他人事のようです。特に困ったのは、私たちの世代には常識と思われてきた働くルールの『基本のき』さえ聞いたことがない学生が少なくないことでした。たとえば、賃金は労使交渉で決まると話すと、「先生、それは変です、賃金は会社が決めるものじゃないんですか」と聞かれます。過労死をなくすには極端な長時間労働を是正しなければならない、というと、「先生、会社は慈善事業ではありません、日本の会社は長時間労働でもっているのでは?」とたしなめられました。・・・・
なかなか頭を抱えたくなるような会話ですが、まあでも今日の風潮では、普通に育った素直な若者ほどこうなるのでしょうね。
会社は慈善事業じゃないですが、労働者も慈善事業じゃないはずですが、なぜかそこだけはメンバーシップ感覚が色濃く世代で受け継がれているようではあります。
・・・勤め先の大学だけではありません。ある有名大学の教員から、「先生、労組って悪い人たちなんですよね、と学生が聞くんですよ」と嘆かれたことがあります。労働組合は働く人が団結して職場の問題点を解決する組織だと、普通に語られていた時代とは、どうやら様変わりしてしまったらしいのです。・・・
ははぁ、労組は悪の結社ですか。
というわけで、今どきの普通の若者が素直にどういう質問をぶつけてくるのかという怖い物見たさで読むと良いかもしれません。
山川隆一編『プラクティス労働法[第2版]』をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.shinzansha.co.jp/book/b297707.html
2009年の初版と同様、若手-というか8年前はバリバリの若手だったかも知れないけれど、もう若手と言ってはいけない年頃になりつつある感もありますが、まあそういう年齢層の研究者による教科書です。
皆川宏之、櫻庭涼子、桑村裕美子、原昌登、中益陽子、渡邊絹子、竹内(奥野)寿といった研究者の方々は、いずれもわたくしが東大に客員教授として派遣され、毎週労働判例研究会に顔を出していた頃の大学院生や助手でおなじみの皆さんばかりです。弁護士の野口彩子、石井悦子のお二人は山川先生の慶應ロースクール時代のお弟子さんですね。
基礎を的確に身につけるコンセプトで作られた新感覚標準テキスト。具体的かつ的確なイメージを5行程度の〔illustration〕事例で確実に把握し、また章ごとの演習用ケース問題で、知識の定着を図り、応用力を養成。巻末に、第一線の弁護士の解説つきの横断的な「総合演習」も掲載。これ一冊で基礎から、高度な知識の入口まで、読者を的確に導く好評テキスト。
既に第1巻から第3巻、そして拙論も含む第6巻が刊行済みの『講座労働法の再生』ですが、残る第4巻と第5巻の案内が、ようやく日本評論社のHPにアップされたようです。
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7461.html (講座労働法の再生 第4巻 人格・平等・家族責任)
総論 人格権、雇用平等、家族責任に関する法理の新たな展開…………和田 肇
第1部 人格権の保護
第1章 プライバシーと個人情報の保護…………長谷川聡
第2章 ハラスメントと人格権…………根本 到
第3章 労働者によるコンプライアンスの実現…………山川和義
第4章 キャリア権の意義…………両角道代
第2部 雇用平等
第5章 雇用平等法の形成と展開…………柳澤 武
第6章 保護と平等の相克…………神尾真知子
第7章 非正規雇用の処遇格差規制…………櫻庭涼子
第8章 差別の救済…………斎藤 周
第9章 雇用平等法の課題…………相澤美智子
第3部 ワーク・ライフ・バランス
第10章 ワーク・ライフ・バランスと労働法…………名古道功
第11章 年休の制度と法理…………武井 寛
第12章 育児介護休業法の課題…………柴田洋二郎
第13章 労働法上の権利行使と不利益取扱の禁止…………細谷越史
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7462.html (講座労働法の再生 第5巻 労使関係法の理論課題)
第1部 労働組合と団体交渉
第1章 集団的労使関係の当事者…………岩永昌晃
第2章 労働組合の法理…………富永晃一
第3章 団体交渉権の構造…………三井正信
第2部 労働協約
第4章 労働協約の法的構造…………水島郁子
第5章 労働協約の規範的効力…………桑村裕美子
第6章 労働協約の一般的拘束力…………小嶌典明
第3部 団体行動
第7章 団体行動権の意義と構造…………中窪裕也
第8章 争議行為の意義と正当性…………石井保雄
第9章 争議行為の法的効果…………國武英生
第10章 組合活動の法理…………渡邊絹子
第4部 不当労働行為
第11章 不当労働行為制度の趣旨・目的…………中窪裕也
第12章 不利益取扱いの禁止…………野田 進
第13章 団交拒否…………戸谷義明
第14章 支配介入…………山本陽大
第15章 労働委員会の救済命令…………森戸英幸
全巻刊行される頃になっていうのもなんですが、「非正規雇用の処遇格差規制」が第4巻第2章の「雇用平等」の中に入れられているのは、性差別を中心とした人権法的な差別禁止法制と、賃金制度論との関係でこそ論じられるべき雇用形態による処遇格差の問題がごっちゃになっている感が強く、いかがなものだろうかという感想を持ちます。読む前に言うのもなんですが。
あと、キャリア権は「人格権」なんだろうかとか、「労働法上の権利行使と不利益取扱の禁止」という労働法の実効性という意味でまさに労働法の総論で論じられるべき話がワークライフバランスなんだろうか、とか、いろいろと疑問が湧いてきます。
まあ、それもこの第4巻の「人格・平等・家族責任」というテーマが、まだ定番化されきらない不定形の面が多いからなのでしょうけど。
それに引き替え、第5巻の労使関係法は、この目次を見る限り、半世紀前から何も変わっていない感がにじみ出てきます。
講座という性格からするとしかたがないのでしょうが、今喫緊の課題となりつつある従業員代表制のような問題は第1巻に委ねられているのですね。
経団連出版の讃井さんより、鈴木孝嗣『グローバル展開企業の人材マネジメント-これだけはそろえておきたい英文テンプレート』(経団連出版)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。
https://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=473&fl=1
これはもう、まさにタイトル通りの本です。
「良い人材を採用・配置・育成・評価して定着させる」という人材マネジメントの基本は全世界共通ですが、日本を本国としてグローバルに事業を展開する企業が外国人を相手に外国語でマネジメントするには、日本人相手の手法とは異なる工夫が必要です。
そこで本書では、グローバルビジネスで日々奮闘している経営管理者、言いたいことを英語で伝えることに苦労している実務担当者、優秀な外国人を管理する方法がわからない人事担当者などが、より効果的な人材マネジメントを実践するためのテンプレートを一冊にまとめました。
日本を代表する大手企業などで20年以上にわたりグローバル人材マネジメントに携わってきた筆者が、グローバル人材マネジメントの標準的な枠組みを短期間で効率的に構築し、日本企業の強みや良さを前面に打ち出したグローバル経営を推進するための具体的ノウハウを解説します。
ということなんですが、副題にあるとおり、そのまま使えるテンプレートが一杯掲載されていて、これはもう便利というしかないでしょう。
◆Talent Managementに用いる必須テンプレート
ローカルスタッフ名簿/職務記述書[Job Description]/採用申請書[Staff Requisition Form]/雇用契約書[Employment Contract]/退職面接 [Exit Interview]/雇用契約終了確認書[Termination Agreement]/個人別研修プログラム/年間教育計画/有望な人材の発掘・育成[High Potential Talent List Curriculum Vitae]/後継者育成計画[Succession Planning]/業績評価ガイドライン[Performance Appraisal Guidelines]
こういう書式を見るにつけ、日本の人事というのはこういうのを使わない文化なんだなあ、ということがじわりと感じられてきます。
先日のNHKの報道に続き、今朝の朝日が、
http://www.asahi.com/articles/DA3S13033518.html(移籍制限は独禁法違反? 芸能人・スポーツ選手・プログラマー… 公取委議論)
芸能タレントやスポーツ選手、コンピュータープログラマーなど、特殊な技能を持つ人と企業などとの契約について、公正取引委員会は、移籍などの制限が独占禁止法の規制対象になるかを検討するため、有識者会議を来月から開催する。・・・
と報じています。いよいよこの問題に本格的にメスを入れるようですね。
しばらくは成り行きを見守ってみましょう。
本日、労働政策審議会労働条件分科会が開かれたようで、その資料がアップされていますが、
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000170998.html
そのなかに「資料No.2-2 民法改正に伴う消滅時効の見直しについて」というのがあります。
その詳しい資料はこれですが、
要するに、民法の大改正で短期消滅時効がなくなり、一般債権は原則5年に統一されたのに、労基法の時効だけは2年のままであるのをどうにかしようという話です。
仮に5年に統一されるとなると、未払い賃金も5年分、未取得年休も5年分となり、労働関係法曹の皆さんにとっては結構大きな話になりそうです。
(追記)
既に海上さんのコメントがついていますが、未払賃金の5年分はどんなに膨大な額になろうが払わなかった使用者の責任と言えますが、未取得年休の5年分は、現行法上労働者が取ると言わないと(計画年休を取った場合の5日分を除けば)使用者が無理に取らせることができない制度設計であることを考えると、なかなか難しい問題です。
年休100日分というのは、週休2日で概算すると5か月分に相当します。それだけ年休を貯められる仕組みというのはやはり考え直す必要はありそうですが、とはいえ、時効の改正をするつもりが年休制度の抜本見直しの話に入ってしまうと、いつまで経っても結論が出ない危険性もあり、悩ましいですね。
今まで本ブログで何回も書いてきて、いい加減書き飽きたネタであり、読者も読み飽きたネタだと思いますが、
http://www.sankei.com/economy/news/170712/ecn1707120018-n1.html(生産性本部、日本のサービス品質、米より10~20%上回る)
日本生産性本部は12日、日本と米国のサービス産業の品質比較を発表した。これによると、調査対象の28分野すべてで、日本のサービス品質が米国よりもよく、10~20%上回っているという。日本のサービス産業の労働生産性は米国の約半分とされるが、日本の高いサービス品質が価格や生産性に十分反映されていないとし、同本部では「サービスを『見える化』して、価格に転嫁すべき」としている。・・・
まさに、アメリカよりも高いレベルのサービスをディスカウントして「おもてなし」しているから、金額ベースの(付加価値)生産性が低くなるわけですね。
ということを、日本生産性本部がここまではっきりと言ってくれるようになったということに、改めて感慨深いものがあります。
ただ「「サービスを『見える化』して」という言葉の意味が今一つわかりにくい感はあります。サービスは見えているので、その見えているサービスにふさわしい対価をちゃんといただくようにスルニはどうしたらいいか、というところが問題なのでしょうけど。
WEB労政時報に「労働法と競争法の重なる領域」を寄稿しました。
https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=671
労働法と競争法(独占禁止法等)はいずれも民商法の特別法ですが、少なくとも日本ではこれまであまり相互のつながりはありませんでした。「少なくとも日本では」というのは、労働法の教科書にあるように、労使関係法とりわけアメリカの労使関係法制は、反トラスト法(シャーマン法)という競争法による弾圧からの解放の歴史でもあるからです。労働者の団結や団体交渉といったことが取引を制限する共謀として刑事上、民事上の違法行為とされていた時代は、アメリカでは1932年のノリス・ラガーディア法の制定まで続きました。その後、1935年のワグナー法によってむしろ労働者の団結や団体交渉が保護されるようになりますが、これは雇用される労働者のみの権利であって、自営業者が同じことをやれば元に戻って競争法違反となります。この法的状況はヨーロッパや日本でも同じです。
その中で、近年世界共通に個人請負型就業者の拡大が見られ、・・・・・
本屋で見かけてからずっと気になっていた牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』(講談社)を昨晩から一気に読み上げました。
本書は国鉄が崩壊、消滅に向けて突き進んだ二十年余の歴史に再検証を試みたものである。昭和が平成に変わる直前の二十年余という歳月は、薩長の下級武士たちが決起、さまざまな歴史上の人物を巻き込んで徳川幕藩体制を崩壊に追い込んだあの「明治維新」にも似た昭和の時代の「国鉄維新」であったのかもしれない。少なくとも「分割・民営化」は、百年以上も続いた日本国有鉄道の「解体」であり、それはまた、敗戦そして占領から始まった「戦後」という時間と空間である「昭和」の解体をも意味していた。
この30年の間に、様々な立場の人々による回想録も多く出されましたが、その前史も含め、ここまで包括的に国鉄の解体を描き出した本は初めてでしょう。国鉄という経営体の中の暗闘も、政治家の思惑も生々しく描き出され、思わず引き込まれますが、やはり一番興味深いのは国労、動労といった労働組合の動き、というよりもむしろ、本書のはじめの2章で詳しく書き込まれている、国鉄の現場の労使関係のあり方です。
なまじ政治のレベルでは、中曽根元首相が明言しているように、総評、ひいては社会党を潰すための手段であったという「説明」が分かり易すぎるために、かつての国労や動労の運動路線は単純に「左派」と片付けられてしまいがちですが、しかしここに描き出されている現場の姿は、少なくとも欧米の労使関係の枠組みに慣れた者の目にはあまりにも「異様」です。
その出発点は「現場協議制」。ふつう、労働条件における労使対立を前提にした「団体交渉」に対し、業務運営における労使協力を前提に行われる「現場協議」が、駅長をはじめとする現場管理者を吊し上げる仕組みと化し、それを改善しようとして始められた生産性向上運動が不当労働行為として批判を浴びた結果、後の富塚三夫氏の言葉では「一部の職場では、当局も組合の中央指導部も、コントロールしがたい状況が生まれたのです」。
皮肉なことに、この現場協議制の導入は、公労委の「現場に発生する紛争は,なるべくその現場に近い労使のレベルにおいて迅遠かつ実清に即した解決をはかることが望ましいという労使関係の一般的な考え方は,国鉄の場合にもあてはまるとい べきである」という、それ自体としてはまことにもっともな勧告に基づいて導入されているのです。
今では、かつて国鉄の現場にそんな状態があったということ自体歴史になりつつありますが(だから本書が歴史書として出るわけですが)、しかしその姿は日本型雇用、日本型労使関係というものが、条件がいくつか異なればこういうものにもなりうるという警告でもあるように思います。
全てをトップで決めて下に従わせるのではなく、現場に権限を下ろし、現場でヒラの労働者も管理職と同様に創意工夫をこらして、現場レベルで自主的に仕事を進めていくから、日本型労使関係は強いのだ、日本型雇用が強靱なのだ、というのは、ある時期までの日本型雇用礼賛における定番の議論の筋道でしたが、その「現場の強さ」「現場力」が、経営体、事業体としての国鉄にとってかくも逆機能的に作用してしまったことの皮肉の意味は、実は今日に至るまで必ずしもきちんと総括されきっているわけではないように思います。
これは、日本型雇用システムの本質としての「職務の無限性」について、ややもすると一定の方向性でのみ理解する傾向が強いことととも関わりがあります。職務記述書に示される「職務の限定」とは、いうまでもなく、「これ以上の仕事はやらなくてもいい」という意味と、「ここまでは仕事をしなければならない」という両方向の意味があります。というか、欧米の人事管理の本には必ず書いてある常識ですが。
「職務の無限定性」とは、その両方の意味において限定性が曖昧化するということを意味します。それがどういう風に現れるかは、経営側と労働者側の信頼関係と力関係によるとしか言えません。
近年のブラック企業のように、労働者側が経営共同体的感覚をけなげに追い求める一方で、経営者の側が使い捨ての感覚を持っている場合、「これ以上の仕事はやらなくてもいい」が限りなく希薄化し、まさに無限の労働義務がかかってくることになります。
しかし、同じ土壌であっても、信頼関係と力関係のベクトルが全く逆であるような状況下では、その同じ「職務の無限定性」が、労働者側において「ここまでは仕事をしなければならない」という規範を希薄化し、そのツケが全て経営側に回されるという(今となってはほとんど信じられない)事態が現実のものとなり得るのです。
『昭和解体』から、その状況をいくつか引用しますと、
・・・アンケート調査結果によると、助役が休暇を取れない理由は、組合員がポカ休をしたり、現場協議に出席して職員の数が足りなくなるため、助役たちが改札の切符切りなど部下の組合員の肩代わりをしなければならないことであり、この「下位職代行」は全管理局の大半の現場で見られた。とくに長野鉄道管理局では助役が一ヶ月の半分以上を代務に追われ、高崎管理局では助役だけでは手が回らず、現場長である駅長が一般職員の仕事をしていた。・・・
・・・回答用紙にはさまざまな意見も書き込まれていた。「国鉄は国労という組織に食われすぎている。管理というのがないのが現状である・・・」「現場管理者は人間ではない。労働者の魂を売ったものであるから、犬、豚、畜生であり、使うだけ使えと組合にいわれ、非番中も夜中まで使われている」「昨春着任以来、組合役員の指示によって正月になって初めて一日休んだ」など悲痛な叫びが伝わってきた。・・・
なんというか、ブラック企業を、その形は全くそのままでその主体だけ見事に入れ替えて作ったフェッセンデンの宇宙という感じですが、組合側が「ここまでは仕事をしなければならない」を希薄化したツケを、経営側の「職務の無限定性」で何とか取り繕っていたという状況が伝わってきます。
実は、本書では使われていませんが、国鉄改革が始動し始めた頃の1983年に出されたある本が興味深い視点を見せています。それは、占部都美・大村喜平『日本的労使関係の探求』(中央経済社)です。同書は実に奇妙な本で、第1部の「日本的労使関係の成立」は戦前から戦後の歴史をひもときながら、労使協議中心の労使関係を「先進性と近代性」を持っていることを強調しています。当時の労働研究の主流の議論で、素直に読んでいくと、第2部の「日本的労使関係の崩壊」で、当時の国鉄の現場の惨状がこれでもかこれでもかと描き出されていくのです。
日本的労使関係が素晴らしいというその代表選手のはずの現場レベルの労使協議制と、国鉄の現場をずたずたにしてしまった現場協議制は、一体何がどう違うのか、どこで歯車が狂ってこうなってしまったのか、同書は当時の国労や動労の使っている言葉に沿って、それを簡単に「階級闘争主義」と称していますが、そういうできあいの言葉で簡単に理解してしまってはいけない何かがあるように思います。
実は、日本型雇用の原点の一つには終戦直後の生産管理闘争があります。日本の労使関係を深くその本質まで突っ込んで考えるということは、実はそれほどキチンとされてきていないのではないか。というようなことまでいろいろ考えさせられました。
戦前から経営家族主義の伝統を持ち、民間企業に先駆けて工場委員会を設置するなど、日本型雇用のある意味で先進選手であった国鉄の労務史は、もっといろいろなことを検討すべきではないかと語りかけているように思われます。そういう感想を抱かせてくれた本書は、やはり名著と言えましょう。
シンガポールの中国語新聞『聯合早報』に、拙文が載ったようです。
http://prd.zaobao.com/forum/views/opinion/story20170706-776849 (滨口桂一郎:走得太快的中国非正式雇佣问题)
中身は、5月に開かれた日中雇用労使関係シンポジウムの感想、というか、その時の本ブログのエントリのコメント欄でのやりとりを膨らませたものです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-5962.html (日中雇用・労使関係シンポジウム(再掲))
同じシンポに出席された梶谷懐さんも『東洋経済』にエッセイを書かれています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-b911.html (新たな労働問題に悩むシェアリング経済先進国@梶谷懐)
というわけで、このトピック、結構使い回しされております。
今年5月20日至21日两天,笔者出席了日本明治大学举行的“第三届日中雇佣及劳资关系专题讨论会”,并就日本非正式雇佣的历史做了报告。来自日中两国的20多位研究者参加此次专题讨论会,进行了热烈活跃的讨论。然而,其间笔者却有一种很不相容的感觉。
在讨论会上,包括笔者在内,日本出席者把讨论的焦点对准了临时工、派遣劳动者等传统的非正式雇佣形态。日本出席者论述中国非正式雇佣问题的报告,也提到农民工户籍区别和战前以来承包劳务供应的“包工头”,让两国非正式雇佣问题有共通之处。中国出席者的报告则基本上关注共享经济、平台经济这一走在时代最前列的新型非正式劳动问题。究竟是什么原因造成了日中对此问题的认识差异呢?
或许其中一个答案是,在数字技术就业新形态的发展上,中国已远远走在日本的前头。在日本,除了极少一部分地区,绝大部分地区尚未解除对优步(Uber)的禁令。反观中国,除了优步,中国自行创建的“滴滴出行”等,早已在私人出租车共享经济领域占据相当大的份额。从这个意义上来看,在讨论会上出现的日中差异,似乎是先进的中国对比落后的日本。
不过,正如日本出席者所指出的,农民工和包工头这种传统的非正式雇佣形态,在现代中国依然是深刻的问题,丝毫没有得到解决。从另一个角度来说,中国缺乏像日本、欧美等发达国家维护权利的完善劳动法制,无法应对或解决整个集体劳资关系,在劳动政策上显露出极其落后的一面。
中国非正式雇佣情况远比日本先进、又极其落后,看似很矛盾,但在本质上其实是相通的。可以说,也正是由于法制和劳资关系未确立,中国传统的非正式雇佣情况依然广泛存在,新型的非正式劳动又无限制地迅速发展,这导致了矛盾的中国非正式雇佣情况。
过去,处于经济高增长时代的日本,曾经针对“正因为近代的东西尚未扎根,所以毫无抵抗地接受现代最先进的东西”这一命题进行过广泛的讨论。由前几代日本知识分子所阐述的这一观点,完全适用于描绘现在的中国。有这种感觉的恐怕不只笔者一人。
目前,围绕数字化新就业形态的讨论,在日本还相当不活跃,但在欧美各国和中国却相当盛行。笔者认为,在欧美和中国看似同样盛行的讨论,实际上存在着很大的差别。尤其在欧洲,如何把传统雇佣形态已确立的社会保障制度和集体劳资关系的框架,扩大到数字化新就业形态上,已成为一个重要的讨论主题。因此,笔者认为,今后确立社会保障制度和集体劳资关系,才是中国社会应该直面的真正课题。
作者是日本劳动政策研究及研修机构研究所长
http://www.asahi.com/articles/ASK77659RK77ULFA02L.html (電通、ずさん労務管理あらわ 社員が「違法残業状態」)
広告大手、電通(本社・東京)の違法残業事件で、東京地検は7日、法定労働時間を超えて社員を働かせるために労使が結ぶ「36(サブロク)協定」が労働基準法の要件を満たさず、無効だったと発表した。1日8時間を超えて働く本社の社員が一時期、違法残業の状態にあったことになる。電通のずさんな労務管理が改めて浮き彫りになった。・・・
これ、記事は簡単に斬って捨てていますが、実は結構深い論点がいっぱいあります。
そもそも、集団的労使関係システムでは、労働組合が締結した協約はその組合の組合員にのみ適用されるのが原則という一つの原理と、(一定の要件を満たす)労働組合の締結した協約がその組合の組合員以外にも適用されるというもう一つの原理とがあります。日本の労組法にもその両方の原理があります。
一方、労働基準法の36協定というのは、制定過程からすればもともと上記集団的労使関係システムにおける過半数組合の協約の一般的拘束力的な性質を持ちつつ、それに無組合企業における過半数代表者をくっつけてできたややキメラ的な存在であり、しかも戦後70年間集団的労使関係法制では複数組合平等主義が一貫して取られてきたために、労働組合が過半数であるかとか4分の3以上であるかといったことが組合法プロパーの問題としては殆ど議論にならないまま推移してきてしまったため、終戦直後にはいくつか試みられた多数原理の残存物のようになってしまいました。
しかし、労働組合法それ自体において過半数かどうかが重要であるならば、例えば労働委員会で過半数組合であることの認証をすることで、その過半数組合の締結した協約の効力を確保するといった仕組みがあり得たかも知れませんが、まったく行政系列の異なる労働基準法システムにおいて、持ってきた36協定にサインしている労働組合が過半数組合であるかどうかをどこかが確認するという仕組みは、少なくとも公的にはまったく存在しないのですね。
そして、36協定という制度の問題としては、これは現場の人はみんなわかっていることですが、過半数組合かどうかは別として労働組合がちゃんと結んでいるなら御の字で、一体何者がサインしているんだか疑いだしたら切りのない過半数代表者という労働者一個人がサインした36協定が圧倒的大部分であるわけです。
労基法施行規則の規定からすれば、これはちゃんと選挙等で選出されたのかどうかを確認しなきゃいないわけですが、窓口でそうですね、そうですよといわれたらそれまでで、いちいちその会社に出かけていって、この過半数代表者ってのはほんとに選挙で選ばれたのかどうかを確認しなきゃいけないということになったら、まあ全国の監督署は麻痺するでしょう。それでも、最近の裁量労働制の判決などもあり、これからより厳しく見ていく必要が出てくると思いますが、それよりさらにまっとうな、確かにそれなりの労働組合が存在しているところで、それが本当に過半数をクリアしているかどうかを、さあ一体誰がどうやって確認するのか。
電通広報部は取材に対し、「正社員の労働組合には過半数が加入していたが、非正社員が増えたことで全従業員に占める加入者が半数を切ってしまった」と説明。昨年11月の厚労省による強制捜査後に指摘を受け、選出した従業員の過半数代表者と36協定を結び直し、現在は違法状態を解消したとしている。
正社員のみを組織する正社員組合という性格を維持したまま、労働者の非正規化を進めてきた結果、それまでの過半数組合が過半数組合ではなくなってしまったという事態は、実は過去十数年間あちこちの職場で起こっています。一部の労働組合は積極的に非正規の組織化を進めることで対応しようとしていますが、そういうめんどくさいことをしないで解決しようとすると、電通のように、過半数じゃない組合があるのにそれとは別に過半数代表者と協定を結ぶということになってしまいます。さてそれは労働法の本来の趣旨に沿っているのでしょうか。
わたしはここは、個別労働法制と集団労働法が原理レベルで絡み合っているので、解きほぐそうとするといろんなことどもがぞろぞろと全部引きずり出されてくる分野であると思っています。朝日の記事がいうほど単純な話ではないのです。
NHKがこういう報道をしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170707/k10011048971000.html (大手芸能事務所など不公正な契約ないか調査 公取委)
芸能人の所属事務所からの独立や移籍をめぐってトラブルになるケースが相次いでいることから、公正取引委員会が大手芸能事務所などを対象に独立や移籍を一方的に制限するなど、独占禁止法に抵触するような不公正な契約が結ばれていないかどうか、調査を始めたことが関係者への取材でわかりました。
芸能人と所属事務所の関係をめぐっては、事務所側が認めなければ独立や移籍ができなかったり、事務所を辞めた後の芸能活動を制限したりする契約を結んでいるケースがあり、専門家はこうした契約が芸能人の独立や移籍をめぐるトラブルの背景にあると指摘しています。
このため、公正取引委員会が芸能人と所属事務所の間で独占禁止法に抵触するような不公正な契約が結ばれていないかどうか、調査を始めたことが関係者への取材でわかりました。
調査の対象となるのは、大手芸能事務所や業界団体などで、芸能人の独立や移籍を一方的に制限したり、独立や移籍をした芸能人の活動を妨害したりする行為をしていないかどうか調べるということです。・・・
あれですね、SMAPとか「のん」(能年玲奈)とか清水富美加とか、最近話題が続きましたが、これ、本ブログで以前いくつか取り上げた、芸能人の労働者性の問題とも繋がっています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-8a7f.html (ゆうこりんの労働者性)
・・・判決文には《タレントは労働者なので契約は無効であり、契約に縛られず自由に辞めることができる》といった主旨が書かれていた。
つまりタレントはOLと同様の労働者で、会社を辞めるのも移籍も自由という判決なのである。・・・
その他、芸能人、スポーツ選手、その他様々な人の労働者性についてのエントリへのリンクがここにまとまっていますので、ご参考までに
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/1765-9678.html (17歳アイドル 異性交際規約違反で65万賠償命令)
JILPTの英文ページに、拙文「The Role of “Agreements” in EU Labor Law Policy 」が掲載されました。
http://www.jil.go.jp/english/researcheye/bn/RE019.html
On January 27th this year, I published EU no rōdōhō seisaku (EU labor law policy) through JILPT. This is a complete reworking of EU rōdōhō no keisei (Formation of EU labor law), published in the days of the Japan Institute of Labor in 1998. It adopts a historical viewpoint in describing nearly every topic raised as legal policy – both those that have borne fruit as directives and those that have yet to do so – across the whole spectrum of EU labor law, based on various published materials, media reports and so on. Running to more than 500 pages in quite fine print, the book introduces detailed EU legal policy on issues currently topical in Japan, namely equal pay for equal work and regulation of long working hours; on a broader level, however, it is full of knowledge and information that will be of use for people with an interest in labor law policy in the UK, France, Germany and other EU member states.
これは3月に掲載された和文エッセイの英訳です。
http://www.jil.go.jp/researcheye/bn/019_170310.html(EU労働法政策における『協約』の位置)
金属労協JCMの機関誌『JCM』の2017年春号については、既に先月14日のエントリで紹介していましたが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-9791.html (欧州におけるデジタル経済と労働に関する動向@『JCM』2017年春号)
その後、ようやくJCMのホームページに全記事がPDFファイルでアップされ、読めるようになったので、改めてリンクを張ってご紹介しておきます。
http://www.jcmetal.jp/news/kouhou/kikanshi2/20809/
巻頭言 ふたつの「デジタル化」浅沼弘一 PDF
主張 価値を認めあう社会の実現にむけて宮本礼一 PDF
特集リード 第4次産業革命とものづくり産業の未来リード PDF
特集1(インタビュー) 第4次産業革命のもたらす影響中沢孝夫(聞き手:浅沼金属労協事務局長) PDF
特集2-1 第4次産業革命と働く者の未来 浅井茂利 PDF
特集2-2 インダストリー4.0の現状と将来 川野俊充 PDF
特集2-3 ドイツにおける゛労働4.0”ホワイト・ペーパー 山本陽大 PDF
特集3 欧州におけるデジタル経済と労働に関する動向 濱口桂一郎 PDF
ワールドナウNo.101 欧州労働組合運動のポジション 小島正剛 PDF
ジュネーブ便り第13回 スイスにおけるインダストリー4.0の潮流 松﨑 寛 PDF
政策・制度解説コーナー 40 CSRとユニオン・ショップ 浅井茂利 PDF
組合訪問記 昭和飛行機労働組合 川上晴司執行委員長他 PDF
加盟組織一覧表 地方ブロック一覧表 PDF
フロントページ解説 昭和飛行機工業株式会社 編集後記 PDF
私の文章の一部を引いておきます。中身のあんこ部分はリンク先で読んでください。
ここ数年来、経済のデジタル化に関わって労働の未来についての議論が世界的に急速に高まってきました。日本でも、厚生労働省が昨年2016年8月に『働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために懇談会報告書』をまとめていますが、どちらかというとふんわりした評論家風の議論になっており、欧米における詳細に突っ込んだ議論といささか落差があるように見えます。
本稿では、主として欧州において経済のデジタル化によって急速に拡大しつつあるビジネスモデル-シェアリング・エコノミーとかコラボラティブ・エコノミーとかプラットフォーム・エコノミーとか呼ばれている仕組み-に着目して、公的機関や労働組合が議論している文書をいくつか取り上げ、日本における議論の示唆として貰えればと思います。
1 欧州生活労働条件改善財団の報告書
2 欧州委員会の「コラボラティブ・エコノミー」文書
3 欧州議会の「コラボラティブ・エコノミー」に関する分析
4 欧州労研の「デジタル経済」に関する報告書
5 インダストリオール欧州のデジタル化関係文書
6 フランクフルト・ペーパー
7 最後に
残念ながら日本ではまだこうした議論が労働の世界で本格的に展開されるまでに至っていません。連合がようやくクラウドワークの調査を始めたところであり、欧米に比べて数年遅れの状態と言えます。とはいえ、現実はかなり先を行っているようです。本稿で紹介した諸文書も参考にしながら、今後日本でもこうした問題が労働組合の中で、あるいは労働法や労働経済などの研究者の間で、熱心に議論されるようになることが期待されます。
一青妙『わたしの台南』(新潮社)を、いただきました。え?という人の顔が浮かぶようですが、もちろん、一青窈さんのお姉さんである著者からではありません。台湾労働部政務次長(日本でいえば、厚生労働副大臣)の郭國文さんより、お手渡しでいただきました。
http://www.shinchosha.co.jp/book/336271/
というのは、昨日、郭國文さんに日本の労働事情、労働政策の動向についてレクチャーをする機会があり、その際にいただいた本です。
郭さんは、台湾労工陣戦秘書長、全国産業総工会秘書長と、労働運動で活躍されたあと、民進党(いうまでもなく台湾の、最初からその名前だったれっきとした政党です)の政治家となり、めぐりめぐって今度は労働行政の側にやってきたというわけです。
しかし彼は同時に出身地である台南の熱心な広報宣伝役でもあり、わたしが一度台北には行ったことがあるというと、是非台南にも訪れるようにと強く進められました。で、最後の詰めがこの本というわけです。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%9C%8B%E6%96%87
郭國文(1967年3月11日-),臺灣民主進步黨籍政治人物。臺南關廟人,現戶籍於臺南市永康區。曾任臺南市議會第1、2屆議員[1][2],於議員任內曾任臺南市議會民主進步黨黨團團總召集人。現任中華民國勞動部政務次長。
で、一青妙さんの本の方ですが、
今は亡き父母、そして妹・一青窈の一家四人で過ごした思い出の国を再訪し出会った、旧きよき時代の面影。地元のソウルフードから流行のスイーツまで美食の街を食べ歩き、人情深く人懐こい人々に触れ、その歴史と文化を訪ねた著者が心を込めて綴る台南への誘い。大都市・台北、高雄だけじゃない台湾のもう一つの魅力がここに!
というわけで、いろんな料理がカラー写真ではいっていて、読むととても魅力的に感じられます。是非生きているうちに訪れてみたいところです。
『生活経済政策』7月号も届きました。特集は「真に求められる『働き方改革』〜雇用平等実現のための5つの提言」ですが、
http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/
特集 真に求められる『働き方改革』〜雇用平等実現のための5つの提言
- はじめに/杉浦浩美
- 雇用平等の展望と包括的差別禁止法/浅倉むつ子
- 非正規労働者の賃金の「公正な評価」をどのように行うか ー ポジネットからの提案:同一価値労働同一賃金法の立法化に向けてー /森ます美
- 賃金平等に向けた司法・行政の課題/中野麻美
- 女性活躍推進法の実効ある改正のために/皆川満寿美
- 職場における妊娠・出産の権利/杉浦浩美
わたしにとってはなじみの議論が並んでいるので、その後のこれが興味深かったです。
短期連載[報告]
- 国際ワークショップ「ポスト政党政治時代のデモクラシー」その2
- 第1部「フランスにおける政権交代と左派の混迷」
- フランス選挙政治と左派勝利の条件/ジョルジュ・ソニエ
『月刊連合』7月号が届きました。特集は「日本人の「働き方」考」ということで、ロバート キャンベルさんと神津会長の対談です。
https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html
「KAROSHI」が世界共通語になるほど、深刻な日本の長時間労働問題。敗戦後の復興から高度経済成長を経て経済大国へ。それを可能にしたのは、日本人の勤勉さであることは間違いないが、時代は大きく変わっている。心豊かに働くために、「働き方改革」をどう進めればいいのか。日本文学研究者として多彩に活躍するロバート キャンベル氏と神津会長が語り合った。
中身の議論は、山田久さんと村上陽子さんの対談、渥美由喜さんの講演などがならんでいますが、働き方改革実行計画でも入れて貰えなかった教師の長時間労働について、尾木ママこと尾木直樹さんが特別寄稿しています。
日本の教員は、なぜこれほどの長時間労働を強いられているのか。是正をどう進めればいいのか。中学、高校、大学の教員として、44年間教壇に立ち、教育現場の問題を発信し続ける「尾木ママ」こと尾木直樹さんが、一刻も早い解決に向けてメッセージを寄せてくれた
逢見事務局長の「ココだけの噺」は、「コショウを買いに行くのは共謀罪?」と題して、古典落語の「くしゃみ講釈」とからめていますが、さてオチは・・・。
こんな記事がありまして、
https://mainichi.jp/articles/20170702/k00/00m/040/143000c (類塾 講師を「名ばかり取締役」 残業代未払い提訴も)
大阪、奈良両府県で進学塾65校を運営する「類(るい)設計室」(大阪市淀川区)が講師らスタッフの大半を「取締役」に就任させ、残業代を払わなかったとして訴訟が相次いでいる。登記簿上の取締役は6月現在で約400人。複数の訴訟で代理人を務める渡辺輝人弁護士(京都弁護士会)は「取締役とは名ばかりで、実態は従業員。会社は労働法規を守るべきだ」と訴えている。・・・
就労の実体は労働者なのに、契約形式は取締役、つまり使用者側に仕立てるという事案です。
こういう話は実は類塾だけでなく、いろいろ類例があります。労働基準法ができる前の、工場法時代にもやはり似たような話がありまして、それをエッセイに書いたこともあります。
『労基旬報』2017年3月25日号に載せた「労働者性に関する大審院判例」です。
合資会社の社員とか民法上の組合の組合員とか、ちょっと紛らわしい概念が出てきますが、要するに全て出資者側であって、労務と引き替えに報酬を受け取る雇用契約ではない人々、という建前で働かせていた事案です。
・・・これは昭和8年4月14日大審院判決(昭和7年第1720号)で、三重県の浴布製造業者山田豊を被告とする工場法違反事件です。彼はもともと工場法の適用を受ける浴布工場を経営していたのですが、昭和6年まず自分の妻子や旧職工を社員とする合資会社という形をとり、これが工場法違反の疑いで取り調べを受けると、今度は妻子や旧職工を組合員とする共同浴布製造組合(民法上の「組合」)を設立し、工場法の適用を受けないと主張していました。これに対し三重県当局は工場法違反として安濃津区裁判所に告発したのですが、同区裁判所は「本件ノ如ク組合契約ヲ原因トスルモノニ対シテハ工場法ノ適用ナキモノト言ハザルベカラズ」として昭和7年5月10日無罪を言い渡しました。控訴審の安濃津地方裁判所も同年10月19日、「縦令事実上ハ前記ノ如キ関係ニアリトスルモ法律上ハ他組合員ハ被告人ニ対シ組合契約ニ因ル組合員タル地位ニ在ルモノニシテ雇傭契約ニ基ク職工ノ地位ニ在ルモノニ非ザル」を以て「被告人ト他組合員トノ関係ニ付キ工場法ヲ適用スベキ限リニ非ザルモノ」としてやはり無罪の判決を下していたのです。労働の実態よりも契約形式を重視したがる裁判官の感性は戦前にも強かったわけですね。
これに対する上告審の判決は、原判決を破棄し、有罪を言い渡しました。そのロジックを見ていきましょう。同判決は同「組合」で就労している職工たちの証言をいくつか引用しています。「自分ハ十五歳ノ時ヨリ山田浴布工場ニ通勤シ居レルガ同工場ハ其ノ後組合トナリ自分等モ組合員ト為リタル故金十五円ヲ以テ出資スルコトト為リタルモ自分等ハ金ナキ故山田ガ立替ヲキ呉レタルコトゝナリ居レリ而シテ従来自分ハ飯代ヲ差引キ月六円宛月給トシテ貰ヒ居リタルガ同工場ガ組合ト為リタル後モ月給ハ従来通リニシテ少シモ変リナシ」(谷口はる)など、就労の実態を垣間見せてくれます。
それを踏まえて大審院は、「本件組合ニ於テハ・・・該組合ノ事業遂行ノ為被告人ガ其ノ業務執行代表者ト為リ総事業ノ執行監督利益分配並組合員ノ加入脱退除名ニ関スル全般ノ事務ヲ掌リ爾余ノ組合員ハ総テ被告人ノ指揮監督ノ下ニ組合ノ工場ニ於テ工業的作業ノ労働ニ従事シ其ノ労務ニ応ジ月給日給及製品出来高等ノ標準ニ依リ毎月其ノ報酬ヲ受ケ之ヲ各人生活ノ資ト為シ因テ以テ右組合員タルト同時ニ一面組合ニ従属シテ傭使セラレ居ル事実ヲ観取シ得ベシ然リ而シテ工場法ニ所謂職工トハ鉱業主ニ対シ従属的関係ニ於テ有償ニ工業的作業ニ従事スル工場労働者ヲ云フモノト解ズベキヲ以テ叙上被告人以外ノ組合員ガ各自該組合ノ一員タルト同時ニ一面同組合ノ職工ニ該当スルコト勿論ナリ然レバ被告人ヲ其ノ一員トスル本件組合ガ被告人以外ノ組合員ヲ職工トシテ同組合ノ工場ニ使用シ以テ常時十名以上ノ職工ヲ使用セル事実ハ其ノ証明十分ナリ」と判示しました。
大審院は、この企業体が民法上の組合として適法に設立され、運営されていることを否定していませんし、そこで就労する労働者たちがその民法上の組合の組合員であることも否定していません。民法上の組合の組合員だからといって工場法の適用を受ける職工でなくなるわけではなく、後者の判断は契約上の地位如何ではなくて就労の実態から判断するのだというのが、この大審院判例のもっとも重要なところであり、今日においても熟読玩味すべき点であろうと思われます。
今日、労働法の適用は就労の実態で判断すべきということは、司法関係者にもある程度共有された認識になっていることは確かでしょう。しかし、その意味については必ずしも的確に共有されているとは限らないように思われます。つまり、契約形式は雇用契約ではなく請負や本件のように組合契約であっても、就労の実態が雇用であれば、その契約を雇用契約であると性格認定すべきであるという風に理解している場合が多いのではないでしょうか。しかしそういう風にものごとを考えていくと、双方の合意で成立している契約形式をあえて否定するだけの根拠が必要ということになり、労働者性の認定が難しくなってしまうのではないでしょうか。
民法上の契約類型としては雇用契約ではなく請負契約や場合によっては組合契約であるかも知れないが、そうであると「同時ニ一面」において、労働法上の労働者であるということは十分あり得るのであり、むしろこういった限界事例においては積極的にそういう判断をしていくべきなのではないか、といったことを、この80年以上も前の大審院判例はわれわれに考えさせてくれます。
昨日のエントリで取り上げた日銀審議委員の原田泰氏の発言が、ついにサイモン・ウィーゼンタール・センターの目にとまり、謝罪声明を出すに至ったようです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-5ae3.html (「りふれは」の自業自得的オトモダチ効果)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170701-85661668-bloom_st-bus_all (ヒトラーの経済政策「正しい」発言に国際的な非難-日銀が謝罪声明)
・・・原田委員は自身の発言について、日銀広報を通じ、「一部に誤解を招くような表現があったことについては、心よりおわび申し上げたい」とコメントした。日銀も「審議委員の発言に誤解を招くような表現があったことについては遺憾に思っており、こうしたことがないよう、今後とも注意してまいりたい」との声明を発表した。
まあ、話の中身については昨日のエントリに付け加えるべき事はそれほどあるわけではありません。
ナチスに先立つワイマール時代の政権、とりわけ労働者の利益を代表するはずの社会民主党が、時代の必要性からも彼らの立場からも当然取るべきであったケインジアン的経済政策を拒否し、それまでの「オーソドックス」な経済政策に固執したことが、致命的な失政であったことを嘆き悲しむのであれば、それは(池田信夫のような人々からは批難されるかも知れませんが)多くの進歩的な人々から共感を呼ぶ発言であったでしょう。
それが、本ブログで繰り返し紹介してきたシュトゥルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』で力説されていることでもあります。
しかし、原田氏がやらかしたのは、権力を掌握したナチスが諸々の極悪非道、悪逆無道とともに遂行したある種の軍事ケインズ主義を賞賛(しているかのように受け取られる恐れのある発言をあえて)するという事態であったわけです。そしてその国際的帰結が上記国際ユダヤ組織による抗議と、日銀という組織自体による謝罪であったわけですね。
私自身がリフレ派やその中の「りふれは」に妙な言いがかりをつけられたりした経験から思うに、この事態には、リフレ派諸氏に共通するある種の心の構えの歪みが露呈していると思われます。
それは、物事をただただひたすらマクロ経済政策という特定の視角からのみ見ることが絶対的正義であり、それ以外の観点を混入させることは天地ともに許されざる悪行であるかのごときものの言い方をする傾向が、程度の差はあれ、なにがしか観察されるということでした。
物事をただひたすらマクロ経済政策の観点からのみ見るならば、今回の原田発言とシュトゥルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』はほぼ同値と評することができるでしょう。実際、昨日のエントリで私自身、
ここで言われていることの歴史学的ないし社会科学的意味自体で言えば、その言説は殆ど正しい。というか、それは本ブログで繰り返し紹介してきたシュトゥルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』の認識と殆ど変わらない。
と述べたとおりです。この点に関する限り、原田氏はシュトゥルムタールと同じ側におり、居丈高に彼を批難する池田信夫氏の反対側にいる。
しかし、もちろん(リフレ派諸氏の認識とは異なり)世の中で大事なのはマクロ経済政策『だけ』ではないわけです。
本ブログの過去ログを見ると、マクロ経済政策以外のこと、例えば社会政策的な観点を少しでも論じようとすることに対して信じられないくらい居丈高に批難しまくるりふれはの異常な姿がこれでもかこれでもかと浮かび上がってきます。とりわけある種の「りふれは」は、ただひたすら金融緩和政策のみをあがめ奉ればよいので、それ以外のことに少しでも言及すると異教徒に対するような猛爆撃が降り注いできたものですが、そういう物事に対する心の構え方が、今回の事態の背景にあったのではないかと、これはりふれはの誹謗中傷に晒されたことのある身としては心から思います。
物事をただただひたすらマクロ経済政策という特定の視角からのみ見ることが絶対的正義であり、それ以外の観点を混入させることは天地ともに許されざる悪行であるならば、たしかに社会民主党の失政を嘆くこととナチスの善政を褒めちぎることとは同値であり、
原田発言のどこが問題なのか全くわからない。因縁つけてるやつはみんなバカか悪意があるかどっちか。
ということになるのでしょう。
残念ながら、世の中ではそれ以外のことも、とりわけナチスに関してはそれ以外のことの方が遥かに重要なのです。
そういう常識を、自らの自発的マクロ経済への視野狭窄によって見えなくしてしまったことの一つの帰結が今回の事件であったと言えましょう。
去る6月29日に、経済同友会が「生産性革新に向けた日本型雇用慣行の改革へのチャレンジ -未来志向の「足るを知る」サスティナブルな成長社会の実現-」というタイトルの提言を発表しています。
https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2017/pdf/170629a_1.pdf
正直、タイトルの中の言葉が互いに相克し合っているような印象で、何なんだろうか?という感じですが、とにかく「日本型雇用慣行の改革」ということなので早速中を読んでみると、冒頭いきなり
「岩盤」と言われている日本型雇用慣行の見直しに関しては、先人たちによる数多くの先見性ある提言がなされてきた。・・・
我々はなぜこれらの提言を実現できていないのだろうか。言葉ではその必要性を訴えながら、実は企業経営者も従業員も「変えたくない」「変わりたくない」という意識が根強く働いていたのではないか。
今回、日本型雇用慣行の在り方を考え、改めるにあたり、まず日本人の伝統的な特徴を考察したうえで、現在の日本型雇用慣行が形作られた高度経済成長期まで遡り、これまでの日本企業における働き方を振り返っていくこととする。
と来て、どう振り返るのかと思っていると、「日本人の伝統的な特徴」として司馬遼太郎の『この国の形』から、
①「公の意識」
私の立場を離れて、社会、組織等の全体に尽くす意識。新渡戸稲造『武士道』の「忠義」や、十七条憲法3の「第一条:和を以って貴しと為す」にも表れている。日本人の勤勉性・協調性、組織・企業に対する忠誠心・帰属意識に通じている。
②「名こそ惜しけれ」
はずかしいことをするな、という教えであり、『武士道』の「名誉」にも表れている。日本人における、秩序・規律の遵守意識の高さ、潔さを尊ぶ倫理観、奉仕精神の強さに通じている。
③「異文化の取り込み」
島国である日本は、海を隔てた異国の文化に憧れ、柔軟に取り入れて独自の日本文化を形成してきた。江戸時代の鎖国は、かえって海外への知的関心をかきたて、その後の近代化の支えとなり、明治初期の文明開化(洋服、街灯、教育、郵便制度など)を短期間に実現していった。
このような3つの特徴により、日本人は「労働は美徳」と位置づける傾向が強い。
いやあ、ちょっといきなり、ちゃんとした労働史は読まないで、自分の読んだポピュラー系の本に書いてあったいかにもな言葉を得々と持ち出して語るある種の偉い人々の典型例みたいな文章が飛び出してきて、思わず絶句してしまいます。
そこを何とか気を取り直して、日本型雇用をどうしようと言っているのかと先を読み進んでいくと、
切迫した日本の現状を打破するためには、日本型雇用慣行をどのように見直すべきなのか。
欧米企業の先進的な事例に関する研究やその雇用慣行の導入を指南する意見は多数見られ、いずれも重要な示唆があるが、欧米方式そのままでは日本企業にマッチしない。
日本企業が、日本人の特徴(心の態度)を活かしながら、生産性およびエンゲージメントの向上を通じて「日本の目指す姿」を実現していく視点が大切であり、そのためには、日本人にとって納得感ある「日本の目指す姿」とその実現に向けた日本型雇用慣行の方向性を明確にしておく必要がある。・・・
ふむ、ではどうハイブリッドするのかというと、
①「公の意識」
私の立場を離れて社会のために役立とうとする従業員の意識を活用し、エンゲージメントおよび生産性を向上させることが求められる。
公の意識に基づく組織への貢献を適正に評価するため、チームワークの観点を取り入れた職務(ミッション)を設定する、日本型のジョブ・ディスクリプション(職務記述書)を開発する必要がある。
また、日本型のジョブ・ディスクリプションを運用していくにあたっては、各人の成果をはかる評価軸を見直すことが求められる。即ち、「従来のインプット主義(労働時間数による評価)から、アウトプット主義(単純な成果評価ではなく、『社会への価値創造に対する評価』)へ転換」する必要がある。→「職務/ミッション/評価」に関する課題
いやいや、「職務」(ジョブ)に「ミッション」とふりがなを振ってはいけないでしょう。日本的な「ミッション・ディスクリプション」を作り出すというのなら、論理的にはあり得ますが、それはいかなる意味でも「職務記述書」ではありえない。というか、職務記述書と同じようなレベルで「ミッション」て記述できるんでしょうかね。「公の意識」があるから大丈夫?じゃあ、ちょいと一つか二つ作ってみてくれませんか。まともに使えそうなのを。
②「名こそ惜しけれ」
「名こそ惜しけれ」の意識を、生産性を向上させる形で活用することが求められる。従業員が惜しむべき「名」を「外形(労働時間)」から「実質(成果)」に変え、企業内の多様な構成員の個々人のベクトルを上向きにしていく。
特に、要員構成上のウェイトが今後高まることが見込まれ、かつ社内失業等によりモチベーションが低下している中高年層がポイントとなる。
中高年層のプライドに再び火を灯し、成果を挙げ続ける人材を活用していくためには、成果者に報いる「評価・処遇」、全体を底上げする「教育」、および成果を引き出す「雇用形態」へ転換していくことが求められる。即ち、リ・スキルによる人材力の強化とともに、これまでの年齢基準による一律の退出の仕組みについて、アウトプット(価値創造)基準に基づき制度を弾力化する必要がある。
→「職務/ミッション/評価」に関する課題
「年齢による一律の退出」に関する課題
いやいやいや、中高年問題を「名こそ惜しけれ」で解決できるんなら、こんな楽な話はないと思いますけど。毎日その「岩盤」に頭を悩ましている人事部の諸氏が怒り心頭に発しそうな・・・。
経済同友会の提言って、かなりラディカルな議論を敢えて展開することも多く、結構批判も浴びてきていますが、立場の違いを超えて、その水準は結構高かったと思います。しかし今回のは、いささか司馬遼太郎のエッセイに無理矢理合わせて作った作文という感が否めず、とりわけ企業の人事担当者が勢い込んで読んだら、相当な肩すかし感を感じるのではないかと推察しています。
https://twitter.com/shinichiroinaba/status/880636848271392768
原田発言のどこが問題なのか全くわからない。因縁つけてるやつはみんなバカか悪意があるかどっちか。
本当に心の底からそう思っているならば、稲葉氏も病膏肓に入ったとしか言いようがない。
http://jp.reuters.com/article/haraada-germany-polcy-idJPKBN19K1JT (原田日銀委員、ヒトラーが「正しい財政・金融政策」 悲劇起きた)
日銀の原田泰審議委員は29日、都内での講演で、ナチス・ドイツ総統だったヒトラーが「正しい財政・金融政策をしてしまったことで、かえって世界が悪くなった」と述べた。
原田審議委員は、1929年の世界大恐慌後の欧米の財政・金融政策に言及。「ケインズは財政・金融両面の政策が必要と言った。1930年代からそう述べていたが、景気刺激策が実際、取られたのは遅かった」と述べた。・・・
そのうえで「ヒトラーが正しい財政・金融政策をやらなければ、一時的に政権を取ったかもしれないが、国民はヒトラーの言うことをそれ以上、聞かなかっただろう。彼が正しい財政・金融政策をしてしまったことによって、なおさら悲劇が起きた。ヒトラーより前の人が、正しい政策を取るべきだった」と語った。
原田審議委員は、合わせてナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺と第2次世界大戦によって、数千万人の人々が死んだとも述べた。
ここで言われていることの歴史学的ないし社会科学的意味自体で言えば、その言説は殆ど正しい。というか、それは本ブログで繰り返し紹介してきたシュトゥルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』の認識と殆ど変わらない。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-7008.html (『ヨーロッパ労働運動の悲劇』を復刊して欲しい)
・・・経済学の専門家であるヒルファーディングは、高度に発展した資本主義経済の複雑なメカニズムに強い印象を受けたので、彼はそれに対するほとんど全ての干渉を危険なものと考えるに至った。すなわち彼は、マンチェスター派の自由主義者に接近していった。彼は、イギリスでスノーデンが演じたと同じ役割を演じ、恐慌中に提案された繁栄の回復を早めるための多くの計画を拒絶した。そのような努力は、よくいってさらに悪い経済的破局の道を用意するに過ぎないと確信してであった。・・・
・・・社会民主党は、異常な強度と持続性を持つ恐慌を洞察しなかった。経済的暴風が全勢力をもって吹き荒れていた1931年になってすら、彼らは、危機自体の緩和にはあまり役立たず、ただ労働階級の直接的苦悩を軽減することを主眼とした政策を固執した。多くの社会民主党と労働組合の指導者たちは、オーソドックスの理論に執着していた。それは、国家の干渉は目先の救済をもたらしはするが、それはただその代償として危機を一層長期にわたらしめ、さらに性質において一層厳しいこともあり得るような別の恐慌を準備するに過ぎないという理論である。従って社会民主党と労働組合は、政府のデフレイション政策を変えさせる努力は全然行わず、ただそれが賃金と失業手当を脅かす限りにおいてそれに反対したのである。・・・
・・・しかし彼らは失業の根源を攻撃しなかったのである。彼らはデフレイションを拒否した。しかし彼らはまた、どのようなものであれ平価切り下げを含むところのインフレイション的措置にも反対した。「反インフレイション、反デフレイション」、公式の政策声明にはこう述べられていた。どのようなものであれ、通貨の操作は公式に拒否されたのである。
・・・このようにして、ドイツ社会民主党は、ブリューニングの賃金切り下げには反対したにもかかわらず、それに代わるべき現実的な代案を何一つ提示することができなかったのであった。・・・
社会民主党と労働組合は賃金切り下げに反対した。しかし彼らの反対も、彼らの政策が、ナチの参加する政府を作り出しそうな政治的危機に対する恐怖によって主として動かされていたゆえに、有効なものとはなりえなかった。・・・
しかし、同じことをその政策をとるべきであったのにとらなかった社会民主主義の側から論ずるか、その政策とともに悪逆無道の行為を行ったナチスの側から論ずるかで、その与える印象がいかに変わってくるかは、極めて高いレベルの公職に就いているものが常に心得ていてしかるべきことではありましょう。
ただし、それはあくまで一般論。
原田氏は自他共に認める「リフレ派」であり、その強固なお仲間意識で知られるこの思想集団の中には、シュトルムタールとともに社会民主党の失政を悔やむどころか、むしろナチスによる善政を喜ぶ心性の持ち主ではないかと疑われるような言動をあちらこちらで行っている人々がおり、そしてここが重要なのだが、そういう人も同じリフレ派だからと言ってやたらに親友づきあいしていると誤解されますよという心からの忠告に対して、あたかもリフレーション政策に対する誹謗中傷を聞かされたかのごとく逆上してみせる多くの「りふれは」が、これは極めて多数存在することも、これまた多くの傍観者が目の当たりにしてきたことでもあります。
断固としてお仲間意識に基づき、あいつらは少なくともその一部はナチスにシンパシーを感じている連中なんじゃないかという疑念を抱かせる、或いは少なくともその疑念を積極的に払拭しようと懸命に試みてこなかったという意味において、今回の騒ぎは、確かにその歴史学的ないし社会科学的なコアの部分だけでは誤解ないし曲解と評すべき点があるのは確かですが、いままでの「リフレ派」諸氏の諸々の言動を踏まえて考えれば、ある程度までは「自業自得」と評されてもやむを得ない面があることは確かだろうと思われます。
まあ、そう言われて心得違いをすぐ直すような人々ならこんなことにはならないわけですが。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-6f0b.html (シュトゥルムタール『ヨーロッパ労働運動の悲劇』を直ちに再刊せよ?)
訳書を刊行した岩波書店編集部は、稲葉氏を犯罪者に陥れないために、直ちにシュトゥルムタール『ヨーロッパ労働運動の悲劇』(Ⅰ・Ⅱ)を再刊するように。
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