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金子さんは誰を批判しているのだろうか?

20170603225520_2先日本ブログで紹介した、『労働情報』の「年功給か職務給か?」にコメントしたことについて、最初の対談に登場した金子良事さんがかなり長大なエントリで、批判をされています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-9189.html(年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-469.html(賃金水準を下げている「職務」概念について)

ただ、金子さんに似合わずやや興奮気味に書かれたためなのか、一体誰を標的に批判しているのかよくわからない文章になってしまっています。

たとえば、

対談の冒頭で新しい賃金論と言っているけど、ずいぶん、クラシックなものを持ってきたなあと言っていますが、一番の問題は、職務給や職能資格給の厳格な運用で、仕事が変わらなければ賃金を上げないというロジックで、企業が賃金を抑えてきたのに、水準問題を抜きに、その意図はどうであれ、企業側と同じように職務給を提唱するのは利敵行為ではないか、ということです。この「利敵行為」は対談原稿が上がってきた段階ではまったく違う表現に変えられていましたが、編集の段階で私が元に戻しました(なお、これは校正ではありません)。

「利敵行為」に対する怒りはふつふつと伝わってきますが、しかし、職務給が「新しい賃金論」だなんて言っている人はどこにいるのでしょうか。それこそ、経営側も政府も半世紀前以前はひたすらそういう議論をしており、労働側はもっぱら防戦一方だったということは、わたしだけでなくこの問題をまともに論じている人はみんな語っていると思いますが。

そもそも論でいえば、二百年前の産業革命以来、それ以前のトレードの伝統を受け継いで、労働組合が構築してきたのがまさにジョブに基づく雇用のあり方であり、ジョブに基づく賃金のあり方なのであってみれば、それこそが産業社会の保守本流であることは誰の目にも明らかなのであって、労働問題に最近参入してきた一部評論家が新しがっていようがそんなことは何の意味もないはずですが、なぜか金子さんはそこにこだわりがあるようです。

保守本流といいました。そう、労働組合とはただ賃金が高ければ良いという存在ではありません。彼らなりの正しい賃金秩序を追い求める存在なのであり、その正しさの根源にあるのは、中世のギルドに淵源する交換の正義のはずです。

ところが、金子さんは、わたしの文章の一番鍵になるこの「交換の正義」という言葉を全く逆に捉えているように見えます。

上に書いた私の挑発的な問題提起に対して、まっすぐ答えてくれたのは濱口先生だけです。濱口先生は水準の問題と制度の問題を、分配の正義と交換の正義という言い方で、この両者のバランスを取ることを提言されています。今の問題は、私は交換の正義だと思っていて、連合評価委員会最終報告や禿さんや遠藤さんや遠藤さんの小池批判を援用し続けてきた濱口さんの議論が、企業側に利する水準の切り下げにしか役立っていない、ということです。

全く逆です。水準の切り下げにつながるというのは、「分配の正義」の問題であって、いかなる意味でも「交換の正義」の問題ではありません。

このアリストテレスに由来する言葉を賃金問題に使っているのはほかにあまりいないと思いますが、わたしはもう10年前からこうして使っています。最低賃金と生活保護という文脈はかなり違いますが、言っている本質は同じです。

http://hamachan.on.coocan.jp/hutatsunoseigi.html(二つの正義の狭間で(『時の法令』(そのみちのコラム)2007年4月15日号))

・・・ 確かに賃金は労働の対価である。そこにおける正義とは交換の正義、「等しきものに等しきものを」という正義であろう。これは市場経済の根本にある正義の観念であって、経営側だけがそういう正義を振り回しているわけではない。同一労働同一賃金の原則とはまさにこの交換の正義の具現だ。「私の労働はこれだけの価値があるはずなのに、これっぽっちの対価しか与えられないのは不当だ」という感覚は、まさに市場プレイヤーとしての「差別が正義に反する」という観念だろう。そして、そういう交換の正義を貫いていけば、市場の内側にあるにもかかわらず等価交換になっていない部分があるとすれば、正義に反するものとして非難の対象となる。最低賃金と称して、その労働者の生産性に対応すべき賃金よりも不当に高い賃金を強要するなど、不正義の極みであろう。実際、多くの経済学者はそう論ずる。それはそれとして筋が(筋だけは)通っている。

 ところが残念ながら、世の中は交換の正義だけで成り立っているわけではない。分配の正義、「乏しきに与えよ」という正義が、憲法25条に立脚して「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に保障している。そして、その福祉の世界は市場の世界と境を接している。そうすると、市場の世界では交換の正義に基づいて、その低い生産性に基づき、一生懸命働いていながら不健康で非文化的な最低限度以下の生活を余儀なくされている人が、一歩境をまたいで福祉の世界に逃げ込めば、働かなくても健康で文化的な最低限度の生活を保障されるということになる。ここに究極のモラルハザードが発生するが、これは我々の住む社会が二つの異なる正義の観念に立脚していることに由来するわけだ。
 正義はその性質上純粋であることを求める。不純であることを要求する正義はない。交換の正義も、分配の正義もそうだ。交換の正義にとっては生産性に相当する賃金が支払われることが正義であって、彼が生活保護を受け出したらもっといい生活ができるなどということは関わりがないし、分配の正義にとっては健康で文化的な生活を確保することが正義であって、彼が働きだしたら生活水準が下がってしまうなどということは関わりがない。しかし、この境界線近傍には両方の正義が境を接している。経済学者や福祉研究者には見えなくても、「向こう側の正義」はごく身近な存在なのである。正義が純粋であればあるほど不正義をもたらすという事態がこれほどくっきりと現れることも珍しい。
 我々は正義を純化するのではなく、不純化する方向を自覚的にとらなければならないのではなかろうか。交換の正義の中に分配の正義という不純物を持ち込み、等価交換原理に反する最低賃金を、今のような生活保護未満の水準ではなく、働いて最低賃金を稼いだ方が得になるような、そう、経済学者から見れば市場を歪めるような仕組みを持ち込まなければならないのではなかろうか。最低賃金はいかなる意味でも正義ではない。不純な不正義だ。だからこそ必要なのだ。
 逆に、分配の正義の中に交換の正義という不純物を持ち込み、困窮しているから、生きていくのに必要だからお金をあげるのではなく、一生懸命働こうとしているから、それに向けて努力しているから、その努力と苦労に免じて、いわば仮想的な交換原理に基づいて給付を与えるべきなのではなかろうか。それはもちろん正義ではない。不純な不正義だ。福祉に命を懸けてきた人から見れば、許しがたい冒涜とすら見えるかも知れない。しかしだからこそ必要なのではなかろうか。
 実は、これこそ近年欧米諸国で論じられているワークフェア(就労を福祉給付の条件とすること)の議論である。

水準がどうであろうが、そういう分配の正義の問題とは独立に、そもそも同じ仕事に同じ賃金をという交換の正義の問題は存在しており、それはそれ独自で正義として自らを振り回すことが可能であり、その結果として場合によっては分配の正義に反する結果をも招き寄せうる、というのは、労働の世界に正義が複数あることを前提とすればあまりにも当たり前なのですが、そこのところが金子さんの目には余りよく見えていないのでしょうか。

わたしの文章は、そんなことは全て当然の前提にした上で、交換の正義抜きに成立した日本の生活給的年功給が、、職務給のイデオロギー攻撃に晒される中から、「職務遂行能力」という交換の正義っぽい説明の仕方をまとうようになったという話なのです。

その先、その「職能給」という名のアマルガムが、どの程度交換の正義的であり、どの程度分配の正義的であるかは、個々の運用次第と云う事になります。その点で言えば、成果主義以来の企業行動についての金子さんの説明はかなりの程度事実に沿っている面はあります。しかしそれはせいぜいここ20年のことです。

日本の賃金の歴史的事実に即して言う限り、

私は今、年功賃金の能力給説も、生活給説も、かなり後付けの説明だと思っています。

というのは半分正しく半分間違っています。「年功賃金の能力給説」はまさしく上に述べたように高度成長期末期になってようやく出てきた「後付けの説明」ですが、「生活給説」は、日本に年功制などほとんど存在しなかった頃の伍堂卓雄(「貞夫」じゃなく)に始まり、戦時賃金統制で強制され、戦後労働組合運動によって広がった年功賃金のそもそもの理由です。

そして、かかる賃金制度を掲げた日本の企業別労働組合(終戦直後における工場委員会的それ)は、いかなる意味でも中世ギルド的な(外部)労働市場をコントロールする市場アクターではなく、企業という組織内部のアグレッシブなアクターとして登場してきたがゆえに、その構築した賃金制度は交換の正義ではなく分配の正義にもっぱら拠るものとなったのだと思います。

金子さんはそういう歴史に、下手をすればわたしなんかよりもずっと詳しいはずなのに、なぜか「利敵行為」に対する怒りによってその文章が全て覆い尽くされているようです。

職務給が古くさい話であるように、それに対する怒りの歴史も半世紀以上の時を経ています。

これも11年前に『季刊労働法』に書いた「賃金制度と労働法政策」の中で、当時の労働組合、とりわけ総評の困惑を明示しています。

・・・労働組合はこの点で歯切れがよくありません。それでも全労会議や同盟は、「同一労働同一賃金原則の実現に向かって」、「属人給的な年功序列型賃金体系を克服し、仕事を中心とし職務に結びついた賃金体系へ移行」するとしつつ、一挙に変革を図ることは特に中高年齢層に混乱を招くので漸進的に進めるべきだとしていて方向性が明らかですが、総評は口先では「同一労働同一賃金の立場から格差をなくす闘いをいっそう強める」などといいながら、「職務給は・・・特に中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるものであるから断固反対」という立場にたち、「職務給は年功序列に代わる必然的な賃金体系という宣伝で、青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んでその拡大をねらっているのだから、職務給の理論的、実際的な分析を行い、反対して闘う」と述べていました。しかし、理論的反駁はどこにもなく、要は都合が悪いから反対しているだけだったようです。一見急進的なスローガンを掲げつつ行動は保守的という左派運動の典型と言えるかも知れません。

まさに、「中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるもの」ですから、そんなものにうかつに賛成する労働組合は「利敵行為」だと言いたいのはよくわかりますが、「青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んで」という言い方に、その足下でそういう総評的「分配の正義」によって自分たちの「交換の正義」が無視されていると感じる労働者がいたことが示されています。

ほらね、全然新しくもない、本当に古くさい話です。わたしはそういう話をしてきているつもりです。

本来、古い因縁のある話なんだよ、ということを諄々と説き聞かせるのが、少なくともアカデミズムで労使関係史、賃金制度史をやっている金子さんの任務ではないかと思います。

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コメント

10年前のコラム「二つの正義の狭間で」を大変興味深く拝読させて頂きました…。

二つの正義とは何か?小生の理解したところでは「交換の正義」とは健全なる競争社会のベースとなる理念であり、各人の「働き」に応じて(努力して結果を出した人に対して相応に)報いる実績主義。メリトクラシー。人事の世界では有能な人を相応のポジションにつけてその働きに応じて処遇すること(そうでない人はその逆とすること)。一方、「分配の正義」とは一種の社会福祉的な価値観で、資源を(働きではなく)当人の「必要」に応じて分配させる論理。福利厚生あるいは社会保障…。

外資系人事の世界では、おそらくどの企業も両者を混同することはないでしょう。すなわち、コンペンセーション(報酬、給与、賃金)はあくまでも「働き」(各人の能力や経験、職務と成果)に応じたもの。ペイフォージョブ、ペイフォーパフォーマンス。その際の公正さを図る三つの観点が「内部均衡」「外部均衡」そして「個人間均衡」(それぞれinternal equity, external equity, individual equity.)、最近ではこれにprocess equity を加えた4つを公正基準に基づいて各人の賃金の公正さ(pay fairness. いわば交換の正義)をレビューしています。

すると後者の「分配の正義」は本来、一企業内でカバーするには限界があり、国の社会保障施策として全国民に満遍なく提供すべきベネフィットと考えられます。もちろん優良企業は社員食堂やスポーツジムや各種休暇や保険など、社員全体をカバーする福利厚生(ベネフィット)も充実していますが、そこは本当に余力のある優良企業ならではの独自の「フリンジ」だといえそうです。

そして、前者の「交換の正義」を維持する上で重要な情報こそ、やはりマーケット情報、つまり競合同職種の賃金相場(昇給動向)なのです。その点、現行の経団連主導の「ベア(抑制)」はある意味で一種のカルテルにも見え、健全な日本企業の労働市場と労働者の賃金水準(価格)形成にどれだけ実際に前向きに貢献しているのか、正直疑問を感じますね。

投稿: 海上周也 | 2017年6月16日 (金) 09時05分

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