今野晴貴『ブラック奨学金』
POSSEの今野晴貴さんより『ブラック奨学金』(文春新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611126
容赦ない裁判での取り立て、雪だるま式に膨れ上がる延滞金地獄……
学生をしゃぶりつくす“高利貸し”の正体!
突然、身に覚えのない多額の借金の請求書が自宅に届く――。今、全国各地でこんなことが相次いている。奨学金を借りた若者たちが返済に行き詰まり、その保証人が日本学生支援機構(JASSO)に訴えられるケースが続発しているのだ。
長引く不況から、奨学金を借りる学生は増加し続け、いまや大学・短大生の約4割が奨学金を利用している。1人あたりの合計借入金額は、平均300万円以上にもぼる。新社会人になった若者の約4割がこれほどの借金を背負って社会に出て行くのだ。
だが、大学を卒業しても奨学金の返済に窮する若者が急増している。その背景には、雇用情勢の不安定化や「ブラック企業」の存在がある。
滞納が一定期間続くと、JASSOは延滞分だけではなく、将来返済する予定の金額(元本および利子)も含めて、裁判所を通じて「一括請求」を行う。そのため、400万円、500万円といった莫大な請求が、突如、親類に及ぶことになる。また、それら全体に「延滞金」が年間5%もかかってくる。
借りた本人が返済できない場合、請求は保証人に及ぶ。奨学金の借入時には親族が連帯保証人及び保証人になることが一般的だ。両親はもとより、祖父、祖母、おじ、おばにまで請求がいくこともまったく珍しくはない。
延滞金は、訴訟が提起され、本人が自己破産し、保証人に請求が行くまでに雪だるま式に膨れあがっている。まるで、かつての消費者金融被害のような様相を呈しているのだ。
奨学金返済の延滞に対し、2015年度に執られた法的措置は、なんと8713件にも及ぶ。
著者はNPO法人POSSEの代表を務め、これまで200件以上の奨学金返済の相談に関わってきた。本書では生々しい実例を豊富に紹介しているほか、すでに返済が難しくなってしまった人のために、どのように対処すればよいのかも詳しくアドバイスしている。
というわけで、前半は奨学金地獄に突き落とされた人々の姿がこれでもかこれでもかとひたすらに描き出されます。
後半で、なぜ日本はそんなことになってしまったのか、という絵解きがされていくわけですが、それは突き詰めると、
・・・背景には、日本の福祉政策全体に通底する、家計・企業への依存体質がある。日本の社会保障は、国によって幅広く保障される代わりに、「企業主義的」に形作られてきた。企業は労働者に年功賃金を保障することで、年齢とともに上昇する住居・教育の必要性を満たしてきたのだ。・・・
と言うところに行き当たります。この点は昨年わたしが『POSSE』32号に寄稿した文章でもやや詳しく論じたところですが、今野さんが「ブラック」と糾弾する有利子奨学金制度が一般化した1980年代というのは、まさに日本型雇用万歳の最盛期だったのですね。
・・・ 矢野眞和さんは『「習慣病」になったニッポンの大学』(日本図書センター、2011年)で、日本型大衆大学を日本型家族と日本型雇用と三位一体のシステムと捉え、その諸外国に類をみない18歳主義、卒業主義、親負担主義という3つの特徴を指摘しています。ここで言う日本型家族というのは大学の授業料を親が負担するという点に着目したものですから、それを可能にするような年功的な生活給を企業が労働者に支払うことを含意しています。かつては大学進学率自体が極めて低かったのですから、子どもが成人に達した後まで親の生活給で面倒をみるのが当たり前というのは、1970年代以降に確立したごく新しい「日本型」システムであることに留意すべきでしょう。
そして、「日本型」システムが常識化していくとともに、それ以前に世界標準に近い形で形成されていた制度は、非常識なものとして急速に「日本型」に適合するような形に変形されていきます。国立大学の授業料は1975年の3.6万円から1980年に18万円に上昇し、21世紀には50万円を超えるに至りました。私立大学は80万円を超えています。親がそれだけの給料をもらっていることを前提とすれば、まことに常識に沿ったやり方だったのでしょう。
一方、本号の特集との関係でいえば、奨学金制度を有利子による金融事業へと大きく転換させた1984年日本育英会法改正は、学校卒業後誰もが日本型雇用システムの中で年功賃金を受け取っていくことを前提とした仕組みです。1980年代の改革を後の新自由主義につながるものとして解釈することも可能ですが、日本型雇用システムへの賞賛が最盛期に達していた時代であり、その時代の精神的刻印を濃厚に受けているということを忘れてはならないでしょう。授業料の引き上げも、奨学金の金融化も、少なくともその始まった時代には「常識」に合わせるための改革だったのです。しかし、その「常識」はやがて周辺部から崩れていきます。・・・しかしながら、日本型雇用の全盛時代たる1980年代に時代精神に合わせる形で有利子金融化された奨学金制度が、そこからこぼれ落ちた彼らに襲いかかります。彼らは学生時代に、メンバーシップ型正社員としての自分たちの未来を担保に入れる形でお金を借りていたわけです。しかしその未来は不確実なものでした。不確実なものを確実であるかのように見せていたものは何か。日本型雇用への信仰としかいいようがありません。その不確実性が露呈したとき、奨学金という名の(本来教育分野における社会保障政策であるはずの)制度が、乏しい収入から毎月かなり高額の利子つき返済を強いられる制度に転化していきます。
重要なのは、これがもともと悪意で作られた制度ではない、ということです。若者がほとんどみんな正社員として「入社」でき、その後メンバーシップ型正社員として年功的な生活給を享受できるはずという「常識」が国民の多くに共有されていたからこそ、その正社員としての悠々たる未来を担保に学生に多額の金を貸すというビジネスモデルが受け入れられたのです。確かに80年代改革を主導したイデオローグには、当時アングロサクソン諸国で有力であったネオリベラリズムの影響がかなり強く見られましたが、80年代改革が広く国民に受け入れられたのはそれが日本型雇用を所与の前提にしていたからです。そして皮肉なのは、90年代以降日本型雇用が収縮し、むき出しのネオリベラリズムが唱道されるようになると、学生に自分の将来を担保に利子付きの金を貸し付けるというビジネスモデルが、原理的に正しいものとして正当化されるようになります。80年代に国民的合意の根拠となった日本型雇用の収縮と入れ替わるように、今度は市場主義的な自己責任論が正当化の根拠になっていきます。経済アクターは常に合理的な計算をして行動すべきであって、いつまでもフリーターをしていて借りた金もまともに返せないような者が悪いということになるのです。
そして、それゆえにわたしは、ただただひたすらに奨学金のブラックさを糾弾するだけでは本当の意味では視界は開けていかないと思っています。
同世代人口の過半数が進学する高等教育機関が、職業教育訓練とは無関係の純粋アカデミズムの世界を維持できていたとすれば、それはその費用が親の年功賃金で賄われていたからであり、しかも、「入社」後は会社の命令でどんな仕事でもこなせるような一般的「能力」のみが期待されていたからでしょう。大学で勉強してきたことは全部忘れても良いが、それまで鍛えられた「能力」は重要であるという企業側の人事政策が、その中身自体は何ら評価されていないにもかかわらず大学アカデミズムがあたかも企業によって高く評価されているかのような(大学人たちの)幻想を維持していたわけです。
しかしその結果、ジョブ型社会であれば当然であるはずの、大学生が卒業後多様な職業に就き、社会に貢献することになるがゆえに、その費用も社会成員みんなが公的に賄うべきという発想が広がることが阻まれました。なぜなら、大事なのはどういう教育を受けたかによって異なる個別的な職業能力ではなく、何でも頑張ればこなせる個人の「能力」である以上、教育の中身自体を公的に賄うべき筋合いはないからです。
本書は現実を突きつける糾弾の書であり、同時に奨学金地獄に落ちた人のためのいかにそこから抜け出すかの実用書でもあるので、そういうやや迂遠な話はあまり盛り込まれていません。しかし、問題を一歩進めて社会のあり方に関する議論にまで持っていくのであれば、ここを抜きにした議論はやはり空疎なままでしょう。
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コメント
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「同世代人口の過半数が進学する高等教育機関が、職業教育訓練とは無関係の純粋アカデミズムの世界を維持できていたとすれば、それはその費用が親の年功賃金で賄われていたからであり…」
この言明のつながりがよくわかりません。むしろ,親がその資金をまかなうようだと,純粋アカデミズムは滅びそうな気がしますが?
投稿: 高木 亮 | 2017年6月16日 (金) 14時40分
純粋消費財として気前よくお金を出してくれる人がいることが、実用性に乏しい学問分野に、その再生産に必要な以上の膨大な人数の「研究者」を「大学教授」という名目で維持できる要件であるということです。
典型例:花嫁釣書用の飾りとしての英文学需要が、全国津々浦々の女子大における英文学教授への労働需要を生み出していた。
分野によってその程度は様々ですが、大まかな傾向としては上記言明に不明な点はないはずです。
投稿: hamachan | 2017年6月16日 (金) 21時17分
とにかく返済の必要のないものだけ「奨学金」の名称を使えるようにして、利子がつかなくとも返済が必要なものは「学資ローン」と言う名称だけ使えるようにしましょう。
ややこしすぎる。
投稿: Dursan | 2017年6月18日 (日) 12時15分
濱口先生,どうもありがとうございます。しかし,やはり完全にはつながらない感じです。
典型例として掲げられたものは,確かにある時期の女子学生の親は積極的に勧めた事例かも知れませんが,「同世代人口の過半数が進学する」時代にあって,そういう選択にたいして「純粋消費財として気前よくお金を出してくれる」人がどのくらいいるものでしょうか。
私は工学系の大学で教える人間ですが,自分の身の回りで親を眺めていると,むしろ純粋アカデミズムなんか目指そうものなら親こそが反対しそうな気がします(純粋アカデミズムは別に文学に限って存在するわけでもないので…)。学生よりは,曲がりなりにも社会に出て何10年か経過している親のほうが,そういうことには「シビア」であるように思います。だから,親が純粋アカデミズムを encourage しているように見える場合でも,いろいろな環境を親なりに咀嚼したうえでのそのような「シビアな判断」の結果そうしている可能性があるように思います。なお,ここではそうした親の判断が妥当であるかは措いて議論しています。
なので,今回掲げていただいた「典型例」以外の事例を挙げていただけると,より理解が深まると思いますが…。いずれにせよ,定量的な根拠が欠けた議論で申し訳ありません。
投稿: 高木 亮 | 2017年6月19日 (月) 09時58分
別エントリ「学問は就活か」でもちらりと書きましたし、拙著『若者と労働』でかなり詳しく敷衍していますので、申し訳ないですが同じことを何度も書くのは面倒なので、そちらを一通りご覧いただいて、なおまだ疑問点があればお問い合わせ下さい。
なお、ごく簡単にまとめたものとしては、労基旬報に書いた「教育と労働の密接な無関係の行方」があります。
投稿: hamachan | 2017年6月19日 (月) 10時49分