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2017年6月18日 (日)

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を

Friedrich_engels1840cropped 労働組合の保守本流のこの思想を、古くさいと言って斬って捨てたのが周知の通りエンゲルスでした。

これは、これまで50年間も、イギリス労働運動のスローガンとなってきたものだ。・・・しかし、時代は移ることをやめず、そして、50年前には、否、30年間にさえ、望ましく、かつ、必要でもあった相当多くの事柄が、今や時代遅れになっており、やがて完全に居場所を失うだろう。この古く、かつ由緒あるスローガンもまた、その種の事柄に属するのだろうか?

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を、というのか?だがそもそも、公正な1日の賃金とは何か、そして、公正な1日の労働とはなんなのか?・・・これに対する解答は、倫理学、あるいは、法と衡平法といった学問に求めるべきではなく、また、人間愛、正義、あるいは、慈善とか、一切の感傷的な感情にも求めてはならない。道徳的に見て公正なもの、法律上公正であるものでさえ、社会的に公正であることとは無縁な場合があり得る。何が社会的公正とか不公正とかいうことは、専ら、一つの科学-生産及び交換という物質的事実を取り扱う科学、経済学(political economy)という学問によってのみ、結論が与えられる。・・・

・・・公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を!・・・以上で明確にされたことからして、この古いスローガンは過去のものとなり、今日ではほとんど妥当性がなくなっていることは、全く明瞭である。・・・したがって、この古いスローガンを永久に葬り去って、別のスローガンと取り替えよう。

労働者自身による、労働手段-原料、工場、機械-の所有を。

(エンゲルス「公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金」宮前忠夫訳『新訳・新解説 マルクスとエンゲルスの労働組合論』より引用)

労働運動がその活動の前提とする市場経済をそもそも否定するイデオロギーに立脚するのであれば、そのような言説になるのはある意味で当然でしょう。140年前に公正賃金を古くさいと罵った「最新」の思想が、今なお最新なのか、罵った相手よりも遥かに「古くさい」ものになっているかは別ですが・・・。

しかし、古い新しいという下らぬ話はともかく、あくまで市場経済の中で労働者の地位の向上を目指す労働組合にとっては、「公正な賃金」とは何よりも目指すべき目標でありました。というようなことは、労使関係論の教科書の最初の方に必ず出てきますね。

さて、先日のエントリに金子さんのリプライがありました。はじめから順番に並べると、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-9189.html (年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-469.html (賃金水準を下げている「職務」概念について)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-fa0b.html (金子さんは誰を批判しているのだろうか?)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-471.html (濱口先生の批判にお答えして)

わたしは、もちろん一方では現下の課題に対する戦術論にも関心はあります。しかし、賃金制度を論じる時にはやはり一歩も二歩も後ろに下がって、しっかりと歴史を踏みしめ、そもそも論のそのまたそもそもをきちんと踏まえた上で議論をするべきだと思っています。本来アカデミズムにいて役割が逆でなければならないはずなのに、金子さんの妙に今日的表層政治的関心ばかりが先にたったいささか前のめりな姿勢には、正直どうなのか?という思いが禁じ得ません。

前回私が「公正賃金」という言葉を出したのは、アリストテレス的な「交換の正義」という言葉では誤解を招いてしまうかも知れないと考えたから、あえて労使関係研究者にとってなじみのある言葉にしたのです。

繰り返しますが、200年前に産業革命の中から生まれてきた労働組合とは、ただ賃金が高ければ良いという存在ではありません。彼らなりの正しい賃金秩序-公正な格差の秩序を追い求める存在なのです。

それを古くさいと否定したエンゲルスにとっては、そもそも賃金制度自体が許すべからざる悪であり、公正とか不公正ということ自体がナンセンスだったのでしょう。それはそれでそういう理屈になるということはわかります。

しかし、戦後日本の労働組合は、その一見急進的めいた言辞にかかわらず、別段共産主義社会の実現に命をかけていたわけでもなく、賃労働の廃絶を目指して日々活動していたわけでもないでしょう。

その彼らが、自分の足下からの批判を抑えつつ、経営側の同一労働同一賃金を掲げた職務給攻勢に対抗しようとする時、前回引用したように、

総評は口先では「同一労働同一賃金の立場から格差をなくす闘いをいっそう強める」などといいながら、「職務給は・・・特に中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるものであるから断固反対」という立場にたち、「職務給は年功序列に代わる必然的な賃金体系という宣伝で、青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んでその拡大をねらっているのだから、職務給の理論的、実際的な分析を行い、反対して闘う」と述べていました。しかし、理論的反駁はどこにもなく、要は都合が悪いから反対しているだけだったようです。

という、わざと本質論を論じないで、目先の損得論戦術論だけでごまかそうとするしかなかったわけです。

なぜそういうことになるかと言えば、日本の労働組合は海軍軍人と国家社会主義官僚の構築した生活給以外に自分たちの「公正賃金」のロジックをついに持ちえなかったから、としか言いようがありません。

その後、小池和男氏が(事実に反する)論証で総評の(へ)理屈を支えてくれたのですが、この点についてはここでは省略しておきます(関心がある人は下記リンク先を参照。世の小池ファンの殆ど全ては完全に勘違いをしています)。

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei170116.html

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei170130.html

自分自身の「公正賃金」のロジックを持てない労働組合にとって、

職務給は同一労働同一賃金を実現するものだという宣伝によって労働者を巻き込もうとする。しかし、それは格差をちじめるだけで労働者の要求とはまったく違う」「われわれが要求しているのは、たんに、年功なり、男女なりの賃金格差が縮小すればよいということではなく、年配者、男子の賃金を引き上げながら、青年なり婦人なり、臨時工なりの賃金を一層大きく引き上げて短縮する。言い換えれば、同一労働同一賃金は賃金引き上げの原則であって、たんなる配分の原則ではない(総評1962年度運動方針)

と、賃金引き上げ「だけ」を論じ、賃金のそもそもの決め方などは論じないというのが、唯一可能な細道だったのでしょう。

そして、半世紀前は結局それで済んでしまい、以来半世紀にわたって、「公正な賃金」の原理を持たないまま賃金引き上げ要求をし、やがてそれもしないようになるという時を経て、いま半世紀ぶりに再び、労働組合は「お前たちにとって『公正な賃金』とは何か?」という問いを再度突きつけられてきているのではないかということです。

そのときに、これまた再び、かつての総評と、まったく同じような反応をしていて良いのか?と問うことこそが、すくなくとも賃金の歴史を知っている者の務めではなかろうかと、私は前回申し上げたつもりなのです。

金子さんのいう「現在では職能資格給が職務と限定なしの能力の伸長を促進する制度としてではなく、まったく逆に、職務が変わらないならば賃金は上げないという賃下げの道具として利用されるようになってきた」ということについては、私は事実認識としてもかなり疑問を持っていますし、そもそも職能資格制度を大本で維持しながらそれと矛盾しうる成果主義を導入したことによる矛盾があちこちに噴出しているという点こそ過去20年間の最大の問題点だと考えていますが、ここではそういうことを細かく論じるつもりもありません(必要があれば改めて論じますが)。

そもそもいまの賃金のあり方が公正ではないのではないか、と疑問を突きつけられている時に、いやこれこそが我々の考える「公正賃金」だ、と堂々と提示するのではなく、いやあそれじゃ下がるから云々ということしか言えないのでは、実はそもそもの段階で位負けしている、という話なのです。半世紀前の総評と同じロジックでは情けないよ、と。

いわんや公正さに疑問を呈する者に対して「利敵行為だ!」と怒鳴って黙らせれば済むというわけにはいかないでしょう。少なくとも今度は。

そして、そうはいっても実務家は現実の中で格闘しながらやらなければならないので、そう単純に批判して済むわけではないのに対し、そうではない研究者こそ、そこをきちんと論じ挙げなければならないのではないか、と、これはむしろ金子さんに刃を向けるつもりで申し上げたのです。

繰り返しますが、わたしは長く実務家の方に身を置いてきましたし、現実の重みはわかっています。いま現在の戦略論、戦術論をやれと言われれば、喜んでやる用意もあります。

しかし、ここではあえてそうではないこと-労働組合にとって「公正賃金」とは何か、というそもそも論のそのまたそもそものところを論じているのです。

(参考)

ちなみに、最近半世紀ぶりに逮捕されたとかで話題の中核派の機関誌「前進」に、こんな記事が載っていました。

http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2016/09/f27770302.html (年功賃金を解体する「同一労働同一賃金」)

これもまことに「古くさい」議論ですね。

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コメント

(産別の)トレードなど存在しない日本の労使関係の中で、現実問題として賃下げ効果しか生じないという問題意識も十分理解できますし、それでは論が立たず情けないだろうという批判も理解できます。
しかし、(日本の)労働組合に公正さを期待してはいけないと思うのは私だけでしょうか。

投稿: 万年係員 | 2017年6月19日 (月) 08時49分

上記にてご指摘の「どれだけ労働組合に公正さを期待できるか?」について…。小生の理解では、日本のみならず世界的に見ても労組組織率は下降の一途を辿っていますし、事実、大半のグローバル外資系企業ではすでに労組が存在しないのが現実です。

この中、経営と社員に資する真のHR(人事部、人事パーソン)の役割というテーマが90年代半ばからずっと議論されてきました。中でももっとも有名なのがグルとも称されるDavid Ultich が1997年に「Human Resources Champions 」で掲げた「人事の4つの役割」。それは、Strategic Business Partner, Admin Expert, Change Agent, そしてEmployee Champion です。

大事な最後の役割は「従業員の代表(チャンピオン)」ですが、この役割は従来であれば正に労働組合がカバーしてきた領域でしょうか。これを外資系では最初のビジネスパートナー(経営パートナー)という経営サイドの役割と併せて人事が一手に引き受けて、つまり経営のことも社員のことも同じ人事パーソンが考えて(どちら側だけにつくということでなく)両者にとってフェアな最適な解決策を出していくという一見相矛盾するような役割が求められています。

そのためには外資系企業の人事パーソンは自身の中に確固たる「仮想的労組」(確かな情報源となる個人的な社内ネットワークなど)を持って経営者と社員を両目で同時に睨みながらWin-Winを狙っていかなければならないのです。使用者兼労働者代表というアンビバレンツを抱えながら両サイドに同時に尽くしていくことが期待されているからです。

こういうモデルが過去20年間、実際に世界の人事の常識となっており、やや古典的と言えるも未だ全く色褪せていないコンセプトとして学ばれ日々実践されているのです。

投稿: 海上周也 | 2017年6月19日 (月) 19時22分

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