日本人に「公正」概念がないだって?
うーーん、話がどんどんあらぬ方向に流れているようです。
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-472.html (公正な賃金はない)
私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。
3分の1くらいはものの言い方の問題、表現の問題と受け取ってあげてもいいのですが、いやでもこういう言い方をしてしまうとそれは明らかに間違いでしょう。
そもそも、ヨーロッパだって「公正」ははじめから法学や思想の言葉ではなく、現場の市井の人々の、あいつがあれほどなのに俺がこれだけなのはなんなんだ、という現場感覚(それを「モラルエコノミー」と呼ぼうが呼ぶまいが)に根ざした言葉なのであってみれば、それと同じ次元の不公正を怒る根拠となるある種の公正感覚がないなどというわけはありません。
そういう不公正を怒り、自分の考える公正さを実現すべきと感じる感覚自体は、別段ヨーロッパ由来でも何由来でもなく、およそ様々な人間が共存する社会ではどこでも存在するものでしょう。つーか、日本人に「公正」感覚がなかったら、言い換えればそれが実現していない不公正状態を怒る感覚がないのであれば、世の中こんなにトラブルだらけになってないはずでしょう。
何でこういう一見意味不明の言説が飛び出してきてしまうかというと、これは日本の知識人によくあるバイアスで、欧米型の「公正」だけが「公正」だという前提で語ってしまうから。
これは社会のいろんな分野で言えると思いますが、話の本題の労働問題、賃金問題に絞って言えば、西欧における公正な労働、公正な賃金というとき、それはまさに中世のギルド以来の伝統に基づくジョブ型社会の「公正」であるのに対し、日本ではそもそもその前提が存在しないために、不公正に怒るその根拠である公正さがジョブとは違うところにあるというだけのことでしょう。
連合の須田さんの言葉も、この切り取り方は大変ミスリーディングだと思うのは、
https://www.rengo-ilec.or.jp/seminar/saitama/2011/youroku05.html
確かに冒頭、学生たちをびっくりさせて傾聴させるためにわざと、
本日いただいたテーマは「公正な賃金処遇に向けて」ですが、実は個人的には、公正な賃金処遇はないと思っています。このように考える理由も含めて、納得できる賃金と処遇決定と労働組合が果たしている役割についてお話しさせていただきます。
と言ってますが、いやもちろん須田さん、埼玉大学の学生相手に、「公正な賃金なんてない。以上終わり」で済ませるなどという莫迦なことはしてないわけで、そのあと1コマまるまる使って、納得できる公正な賃金と処遇決定とは、企業内における公正な賃金の原則、と縷々語っていきます。当たり前ですが。
というようなことは、それこそ金子さんは重々承知の上のはずなのに、なぜわざとこんな明らかにミスリードだとわかるようなことを縷々書くのだろうかといささか不思議でなりません。
ヨーロッパ型のジョブ型公正賃金がなぜ受け入れられないかと言えば、それとはまったく異なる別の公正感覚が日本の現場の労働者に根強く存在しているからであって、そういう問題としてとらえなければならない話を、「公正」を予め切り縮めて、「公正な賃金はない」と言っちゃうのは、労働研究の自殺行為ではないかと感じますが。
以上が総論ですが、それに尽きます。その上で、その従来の年功や頑張りや生活やらといった公正さの基準が揺らぐ一方で、ジョブ型の公正基準に対する違和感も極めて強いという現状をどう考えるかという話が続くわけですが、今回の金子さんの話はその前の段階なので。
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議論の入口ですれ違いで躱された感じがします。
ただやはり(日本の)労働組合は利益団体で、(労働者全体の)公正を考える主体ではないと感じます。
会社に生活を懸けているインナーには、(家族も含めた)生活が保証されることが、(インナー)組合考える公正だと言われれば、そうですかと言わざるを得ない。
韓国労組の世襲協約が想起されます。(そこと比較すると日本は公正だなともおもいますが…)
国家社会主義と企業父権主義を掛け合わせ、司法に公正を判断してもらうのが日本的なのかもとも思います。
投稿: 万年係員 | 2017年6月27日 (火) 23時22分