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2017年6月

2017年6月30日 (金)

差し引き分は法定休日労働に限る

ややトリビア気味ですが、もしかしたら世の中の多くの人はわかっていないことなのかも知れないという気がしてきて、念のためにエントリを書いています。

例の働き方改革で時間外労働の上限規制が導入されたことについていろいろ議論がありますが、一つの重要なポイントとして原則の1月45時間、年360時間、例外の年720時間(月平均60時間)は休日労働を含まないネットの時間外労働であるのに対して、2-6か月平均で80時間、単月で100時間未満の方は休日労働を含むという不整合があるという点です。

これは今までの政策のいきさつに由来するものですが、その結果として年間の時間外・休日労働の上限は実際には960時間になるという批判があります。たとえば、弁護士の佐々木亮さんがこういう記事を書かれています。

https://news.yahoo.co.jp/byline/sasakiryo/20170608-00071868/(残業時間規制は、結局どうなったのか?)

ここで書かれていることは、それ自体としては必ずしも間違いではないのですが、もしかしたら読者が誤解してしまうかも知れないという点があります。

それは、45時間超は6か月までという条件のもとで、こういうやり方ができるとして佐々木さんが示している例なのですが、

1月 80時間(時間外75+休日5)
2月 80時間(時間外75+休日5)
3月 80時間(時間外75+休日5)
4月 80時間(時間外75+休日5)
5月 80時間(時間外75+休日5)
6月 80時間(時間外75+休日5)
7月 80時間(時間外45+休日35)
8月 80時間(時間外45+休日35)
9月 80時間(時間外45+休日35)
10月 80時間(時間外45+休日35)
11月 80時間(時間外45+休日35)
12月 80時間(時間外45+休日35)

これは確かに全ての条件を充たしており、かつ年間合計は960時間になるのですが、このうち後半の半年で課される時間外労働は月45時間までだが休日労働は月35時間までできるというのは、もちろんやろうとすれば可能ですが実はかなり難しいはずです。

というのは、ここでいう休日労働とは労働基準法で定める週1回の法定休日における労働のみを指し、通常もう1日ある法定外休日(多くの場合土曜日)の労働は含まれないからです。

つまり、上記例でいうと、7月から12月までは、平日平均2時間ずつ時間外労働しても土曜出勤は厳禁で、その代わりに日曜日は毎週フルに、いや月に日曜が4回しかない月には9時間近く働かないとこれを達成できないことになります。

「時間外45」でありながら「休日35」というのはそういうことのはずです。そして佐々木さんは当然それをわかった上でこれを書かれていると思うのですが、もしかしたら読者の中にはそれを理解してない方もいるのではないかというがしてきました。

一般人が誤解する分にはまだいいのですが、企業の人事担当者がこれを理解してなくて、ああ、平日の残業は45時間までだけど、土日出勤で月35時間までこなせばいいんだな、とか思ったりすると、その土曜出勤分が時間外の制限を超えてしまっていて、あとから実は労基法違反でしたということになりかねません。

これ、実は労働基準法施行規則様式第9号自体も、大変ミスリーディングというか、誤解を招きかねない書き方になっていて、

36kyoutei
どういうわけだか、わざわざ所定休日を書かせた上で、「労働させることができる休日並びに始業及び終業の時刻」を記入することになっています。

いやもちろんこの様式の下の方にはちゃんと、「4 「労働させることができる休日並びに始業及び終業の時刻」の欄には、労働基準法第35条の規定による休日であつて労働させることができる日並びに当該休日の労働の始業及び終業の時刻を記入すること。」と、わかっている人であれば誤解しようのない注釈が付いているのですけれども、この「労働基準法第35条の規定による休日」が週1回の法定休日であり、通常土曜日のような法定外休日を含まないとわかっている人がどれくらいいるのかな、と。

あんまり誰も指摘していない話ですが、そして確かにトリビアといえばトリビアな話ではあるんですが、もしかしたら法施行後にあちこちで爆弾が破裂し始めるかも知れない危険性がもしかしたら潜んでいるかも知れない話でもあります。

(追記)

上記の書き方は、もしかしたら誤解を招いたかも知れないので念のため追記しておきます。

労働行政は何でこんな訳のわからない様式を作ったんだと、もし思った人がいれば、それは間違いです。何故なら、この様式が作られた時には、これは全然おかしくなかったからです。

それは終戦直後の時期、労働基準法が1947年に制定され、その翌年の1948年に施行されるときに作られたのが労働基準法施行規則であり、諸様式であったわけです。

で、ご案内の通り、その時の労働基準法は1日8時間、1週48時間でした。そして休日はいまと同じ週1回(4週4休)でした。8×(7-1)=48で、計算はぴたりと一致します。

なので、上記様式の趣旨は、「所定休日」の欄には、その週1回の休日が何曜日なのか、日曜日なのか月曜日なのか・・・を記入させ、その法定休日=所定休日に休日労働させる場合の始業・終業時刻をその右の欄に記入させようというものだったわけです。

もちろん、土曜日半ドンの会社もあったわけですが、その場合でもその半ドン後の残業は時間外労働以外の何物でもなく、休日労働ではあり得ないわけです。

ね、全然おかしくないでしょう。

ところが、その後週休二日制の会社が徐々に増大していき、1987年労基法改正で法律上も1日8時間、週40時間になります(実際には時間がかかる)。でも休日の規定は週1日のままです。

その結果、極めて多くの会社にとって、「所定休日」の欄にはたとえば土曜日と日曜日と二日分を記入しないといけないのに、その右横の欄には、そのうち日曜日に法定休日労働をさせるときの始業・終業時刻だけを書かなければいけないという仕儀に立ち至ったわけです。ああ、めんどくさい。

ここまで誤解を招きかねない様式はどこかの段階で見直した方がよかったのではないかという気もするのですが、おそらく様式なんていうのは『労働総覧』にも『労働法全書』にも載っておらず、現場の監督官にとってはおなじみでも、政策担当者にとってはそれもルールの一環であると認識されにくい存在であったことが、ここまで終戦直後のままにされてきたことの背景ではないかと考えられます。

でもそれが原因でトラブルが起こる恐れがもしあるのであれば、そろそろ見直してみてもいいような気がしないでもありません。

(再追記)

上で「あんまり誰も指摘していない話ですが」と書きましたが、いやいや労務屋さんは働き方改革実行計画が出てすぐの時点でちゃんと指摘しておられました。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20170321#p1 (「100時間」について)

(なお追記)

朝日の澤路さん呟きて曰く

https://twitter.com/sawaji1965/status/881023102183849984

この件、もちろん、休日労働は法定休日だということを承知した上で、記者レクで「理論上、毎月80時間は可能か?」とたずねたのです。そうしたら「理論上は可能である」という事務局の返答があったわけです。差し引き分は法定休日労働に限る

https://twitter.com/sawaji1965/status/881025334228926464

その際、事務局からは「割増率が違うから、簡単には休日労働には流れない」という説明がありました。一方で、ある大手の組合幹部からは「労使間で法定休日と法定外休日の割増率を揃えているから、割増率の違いは防波堤にはならない」という話も聞きました。実態はどうなんでしょう?

いやもちろん、弁護士や社労士、それに澤路さんのような本格的な労働記者であれば当然「承知」している話ですが、世の中はそういう人ばかりではないということが言いたいわけです。

事務局の返答は、残業を残業代だけで考える癖が抜けていなかったということでしょうが、実際は上述のように、土曜出勤を厳禁して毎日曜日9時間近く働かせるのはかなり無理があるということでしょう。

それより本エントリの趣旨は、終戦直後から殆ど変わっていない労働基準法施行規則の様式が、現実の姿と乖離してしまっており、様式に沿って素直に書いていくと、所定休日の労働も「休日労働」だと勘違いしてしまいかねない危険性があるんじゃないかということでした。

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『若者と労働』第6刷

Chuko拙著『若者と労働』に第6刷がかかることになりました。2013年に刊行して以来ほぼ4年ですが、この間着実にロングセラーとして読み継がれていることになり、改めて読者の皆様に感謝申し上げます。

改めてそのまえがきから

 若者の労働問題は何重にもねじれた議論の中でもみくちゃになっています。
 一方には、日本の労働社会では中高年が既得権にしがみついているために若者が失業や非正規労働を強いられ、不利益を被っていると糾弾する議論があります。他方には、近頃の若者は正社員として就職しようとせず、いつまでもフリーターとしてぶらぶらしているのがけしからんと非難する議論があります。現実社会の有り様をきちんと分析することなく情緒的な議論で世の中を斬りたがる人々が多いことの現れなのでしょうが、いつまでもそのような感情論でのみ若者の労働が語られ続けること自体が、この問題をきちんと位置づけ、正しい政策対応を試みる上での障害となる危険性があります。
 本書は、今日の若者労働問題を的確に分析するために、日本型雇用システムやそれと密接に結びついた教育システムの本質についてかなり詳細な議論を展開し、それを踏まえて若者雇用問題とそれに対する政策の推移を概観し、今後に向けた処方箋の提示を行います。
 そのポイントをごくかいつまんで述べれば、まず第一に、仕事に人をはりつける欧米のジョブ型労働社会ではスキルの乏しい若者に雇用問題が集中するのに対して、人に仕事をはりつける日本のメンバーシップ型労働社会では若者雇用問題はほとんど存在しなかったこと、第二にしかし、一九九〇年代以降「正社員」の枠が縮小する中でそこから排除された若者に矛盾が集中し、彼らが年長フリーターとなりつつあった二〇〇〇年代半ばになってようやく若者雇用政策が始まったこと、第三に、近年には正社員になれた若者にもブラック企業現象という形で矛盾が拡大しつつあること、となります。これらは、メンバーシップ型社会の感覚を色濃く残しながら都合よく局部的にジョブ型社会の論理を持ち込むことによって、かつてのメンバーシップ型社会でも欧米のジョブ型社会でもあり得ないような矛盾が生じているものと見ることができるでしょう。
 これに対して本書が提示する処方箋は、中長期的にはジョブ型労働社会への移行を展望しつつ、当面の政策としては正社員と非正規労働者の間に「ジョブ型正社員」という第三の雇用類型を確立していくことにあります。
 分かりやすく攻撃対象を指し示すようなたぐいの議論に慣れた方には、いかにも迂遠で持って回った議論の展開に見えるかも知れませんが、今日の日本に必要なのは何よりもまず落ち着いて雇用システムや教育システムの実態をきちんと認識し、一歩一歩漸進的にシステムを改革していくことであるとすれば、本書のような議論にもそれなりの意味があるのではないかと思われます。

これまでにいただいた各種書評はこちらにまとめてあります。

http://hamachan.on.coocan.jp/chukobookreview.html

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2017年6月29日 (木)

鎌田慧・聞き手:出河雅彦『声なき人々の戦後史』(上・下)

9784865781236_pt01朝日新聞記者の出河雅彦さんより、その聞き書きになる鎌田慧・聞き手:出河雅彦『声なき人々の戦後史』(上・下)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1549

“自動車絶望工場”などの労働問題、いじめ自殺などの教育問題、水俣病、イタイイタイ病などの公害・環境問題、「戦争をさせない」1000人委員会、原発をめぐる渾身のルポと反原発運動……

わたしなどからすると、鎌田慧さんといえばまず何より『自動車絶望工場』を始めとする労働ルポルタージュになりますが、目次をみると、実に広範な領域にわたって精力的にルポを書き続けてきたことがわかります。

[上巻]
プロローグ 鎌田 慧
第1章 ルポルタージュを書きたい
第2章 開発と公害の現場を歩く
第3章 辺境と底辺(一)――コンベヤー労働の体験
第4章 辺境と底辺(二)――出稼ぎと「合理化」
第5章 管理教育といじめ自殺
第6章 原発列島を行く(一)――開発幻想と現実
第7章 原発列島を行く(二)――国策の犠牲者たち
第8章 原発列島を行く(三)――民主主義を守る

[下巻]
第9章 労働現場の人権侵害(一)――炭鉱労働者たち
第10章 労働現場の人権侵害(二)――国鉄からJRへ
第11章 労働現場の人権侵害(三)――規制緩和の罪
第12章 悪政と闘う――成田と沖縄
第13章 暗黒裁判を書く
第14章 自由への疾走
第15章 語る 鎌田慧
エピローグ――取材を受けて 鎌田 慧

 鎌田慧 年譜
 鎌田慧 著作一覧
 あとがき(出河雅彦)
 主要人名索引

9784865781243_pt01上巻の第2章から第4章まで、そして下巻の第9章から第11章までが、主として労働問題を追いかけたルポの回想です。

『自動車絶望工場』のもとになった潜入取材のいきさつについて、鎌田さんはこう語っています。

・・・一つは、わたしにはがきをくれた久保田さんから聞いた「コンベヤー労働の疲労感」の実態はインタビューだけでは表現できないと思ったからである。

 労働者に「疲れますか」と聞けば、ほとんどの人は「疲れる」と答えるだろう。しかし、取材者がいくら質問したところで、その疲れの実態を表現することはできない。・・・

もう一つは、経済的理由であった。

 当時、わたしは三十四歳。それまでの長期取材で『隠された公害』『死に絶えた風景』という二冊の本を書き下ろしたが、妻と二人の子どもを抱え、経済的に行き詰まってどうにもならなくなっていた。ベルトコンベヤー労働に関心があっても、金銭的にも時間的にもそれを取材する余裕がなくなっていた。

 解決する道は一つだけ。取材したい工場に就職してしまうことであった。正社員になるのは会社の厳しいチェックがあるから難しいが、使い捨ての出稼ぎ労働者なら、会社側も興信所を使ってわたしの素性を調べたりしないだろうと考えた。・・・

なるほど!

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建設業の労働需給システム

焦げすーもさんが、

https://twitter.com/yamachan_run/status/880194310443999232

建設業の労働需給システムは、hamachan先生の新書でもそこまで詳しく書かれていなかったように記憶している。

1346714_pいや、新書ではほとんど書いておりませんが、『季刊労働法』2016年春号に掲載した「建設労働の法政策」では、かなり詳しく取り上げております。ややトリビア風のことまで含めて。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-68f1.html

建設労働は港湾労働と並んで、有料職業紹介事業と労働者派遣事業が禁止されている二大業務の一つです。このうち港湾労働については239号で、労働法の立法学の第30回として取り上げましたが、建設労働についてはそのずっと以前に209号でシリーズ第6回「労働者派遣と請負の間-建設業務と製造業務」でごく部分的に取り上げたことがあるだけです。建設労働をめぐっては労働市場規制の外にも雇用管理や安全衛生・労災補償などさまざまな観点からの政策が講じられてきている割に、まとまった形で全体を一望できる論文は見当たらないようなので、歴史的な変遷を中心に概観してみたいと思います。

1 労災補償から始まった建設労働政策
2 その他の戦前・戦中の建設労働政策
3 労働者供給事業の全面禁止と建設業界
4 労務下請の復活
5 労働基準法と労災保険法
6 失業保険法・雇用保険法
7 災害防止と労働安全衛生法
(1) 建設業労働災害防止協会
(2) 建設業の特別安全規制
(3) 労働安全衛生法
(4) 労働安全衛生法の改正
8 建設業退職金共済組合
9 改正建設業法
10 雇用関係近代化への検討
(1) 政府の検討
(2) 建設業界の検討
(3) 労働組合サイドの建設労働法案
11 建設雇用改善法
12 その後の建設労働に関する検討
13 労働者派遣・有料職業紹介のネガティブリスト
14 有料職業紹介事業と労働者派遣事業の部分的導入

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2017年6月27日 (火)

大室正志『産業医が見る過労自殺企業の内側』

0885iこれは本屋で見かけてすぐ買った本です。著者の大室さんは産業医科大学を卒業後、産業医として活躍してきた方で、現在30社の産業医を担当しているミスター産業医です。その人が、時代にどんぴしゃの本を出すというのは出版戦略として見事という感じです。

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0885-i/

時流に乗った本という印象ですが、第1章「産業医とは何をするのか?」で産業医についてきちんと説明し、会社と社員に挟まれた時にどう判断すべきなのかを正面から述べているなど、とてもしっかりした本でもあります。考えてみれば、産業医そのものを取り上げた新書本って今までなかったような。

「おわりに」で、残業上限規制批判論についてこう述べています。こういう冷静な議論が必要ですね。

・・・また残業上限規制を批判する人の中には、「好きでやっていること」を規制するのはナンセンスという意見も根強く存在します。この意見は一部賛同できる部分はありますが、制度というものは何を選択するにせよ必ずマイナス面を伴うものです。残業の上限規制にもマイナス面はあるが、しなかった場合のマイナス面と比較し、「どっちがマシか?」で判断する問題と考えるべきでしょう。これまで数多くの過労死・過労自殺を生んでしまった制度を改めることに対して、「好きでやっている人への抑圧になる」という意味で批判する意見には、社会全体の「どっちがマシか?」で考えた場合やはり賛同できません。・・・

・・・長時間残業もタバコと同様、エビデンスがはっきりしている「身体に悪い行為」です。タバコと同じく我々には一定程度、「身体に悪くとも行う自由」は保障されるべきだとは思います。一方でそれを公的に推奨したり、強制することを是とする雰囲気はあってはならないものであると考えます。

企業家が自分の意思で行う長時間労働はタバコと同じく、ある意味「嗜好品」ですが、公的に認められてしまった長時間労働は、非喫煙者に対して喫煙車両に乗ることを強制するようなものです。この辺りは「タバコのマナー」と同じく、今後、長時間労働に関しての「社会的相場感覚」が変化することを期待したいと思います。・・・

なお、大室さんが登場するこの記事も参照。

https://mirai.doda.jp/series/interview/masashi-omuro-2/(「好きで長時間働くのがなぜ悪い!」という人に産業医から伝えたいこと)

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勤務間インターバル導入企業2.2%@『労務事情』7月1日号

Roumujijou_2017_07_01 『労務事情』7月1日号に「気になる数字第4回」として「勤務間インターバル導入企業2.2%」を寄稿しました。

 去る3月28日に決定された「働き方改革実行計画」では、話題をさらった時間外労働の上限規制の導入に併せて、勤務間インターバル制度についても労働時間設定改善特別措置法に努力義務を規定することが決められました。そして「制度の普及促進に向けて、政府は労使関係者を含む有識者検討会を立ち上げる」ことも示されました。これはそれに先だって労使合意に盛り込まれたもので、2月の事務局案には影も形もなかったものですから、連合が頑張った結果だと言えましょう。 ・・・

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2017年6月26日 (月)

大湾秀雄『日本の人事を科学する』

321503大湾秀雄『日本の人事を科学する―因果推論に基づくデータ活用―』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.nikkeibook.com/book_detail/32150/

◆働き方改革の実行や、女性管理職の育成、労働生産性アップ、ストレスチェックなど、人事部門は、様々な課題について現状を正確に把握し、数値目標を立てて改善に取り組まねばならなくなった。本書は、多くの日本企業が抱えるこれらの人事上の課題を、データを使ってどのようなに分析し、活用すればよいのかを解説。

◆著者が、株式会社ワークスアプリケーションズや経済産業研究所(RIETI)と連携して行ってきた研究成果を活かし、具体的に、読者が自分の会社で使えるように解説する。

◆女性の管理職育成が候補者を選ぶところから行き詰まってしまうのはなぜか、早期退職者を減らすにはどうしたらよいか、労働時間管理をどのように行えば良いのかなど、具体的にいま日本企業が抱えている問題を取り扱う。

この本のタイトルでいうところの「科学する」とは、副題から明らかなように、統計学的なデータに基づく推論です。

読んでいくと、かなり懇切丁寧にデータ分析のやり方を解説していまして、最近話題の伊藤公一朗『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社新書)の人事バージョンという趣もあります。

第1章 なぜ人事データの活用が必要か――人事部が抱える問題

第2章 統計的センスを身につける

第3章 女性活躍推進施策の効果をどう測ったら良いか

第4章 働き方改革がなぜ必要か、どのように効果を測ったら良いか

第5章 採用施策は、うまくいっているか

第6章 優秀な社員の定着率を上げるためには何が必要か

第7章 中間管理職の貢献度をどう計測したら良いか

第8章 高齢化に対応した長期的施策を今から考えよう

第9章 人事におけるデータ活用はどう発展するか

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残業禁止時代@東洋経済

06220954_594b154f0f9a6東洋経済に戻って健筆を振るっている風間直樹さんより、『週刊東洋経済』7月1日号をお送りいただきました。特集のタイトルはなんと「残業禁止時代」だそうです。

https://store.toyokeizai.net/magazine/toyo/20170626

いやなんぼなんでもこれは狙いすぎでしょ、という感じですが、

【第1特集】残業禁止時代 働き方改革のオモテと裏

日本の企業に当たり前だった長時間労働が大きく見直されようとしている。「働き方改革」でも、ニ本柱は「残業上限の法的規制」と「正規非正規の同一労働・同一賃金」。これで会社はよくなるのか、官邸主導の政策に課題はないのか。

■労基署が狙う企業
 大手企業でも是正勧告が続出 ブラック職場は改善できるか
 労基署はあなたの会社のココを見る 監察官覆面座談会
 若手官僚のぼやき「霞が関こそブラックだ」
■もう残業はいらない
 長時間労働しなくても成果は出せる!試行錯誤する企業たち
 なぜ残業はなくならないのか
 就活生・親必見!残業少なく有休多い「ホワイト企業」ランキング
■「働き方改革」の虚実
 法改正のエアポケット ブラック3業種 ドライバー、医者、建設労働者
 「同一労働・同一賃金」は実現できるか 派遣業界は淘汰の嵐
 安倍政権の本音はどこに 働き方改革の狙いは?

実は一番面白いのは、「若手官僚覆面座談会 霞ヶ関はよほどブラックだ!」だったりします。

あと、その前の「労基署はあなたの会社のココを見る 監察官覆面座談会」は、人事部必見です。

真面目な話として、「法改正のエアポケット ブラック3業種 ドライバー、医者、建設労働者」は重要なトピックで、とりわけそもそも今現在特例業種でも何でもないのに、最後の瞬間にするりと入ってきた医者の世界はなかなかディープなようです。

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子育て支援連帯基金@権丈善一

本ブログでは狭義の政局話はしないことにしていますが、小泉進次郎氏が次の厚生労働大臣になるとかならないとかいう話が漏れ聞こえてくる昨今、その論ずるところの「子ども保険」が世の注目を集めている中、社会保障論の導きの星こと我らが権丈善一氏が、東京新聞紙上で「子育て支援連帯基金」を展開しています。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2017062402000238.html(子育て支援の財源、誰が負担? 上坂修子論説委員が聞く)

Pk2017062402100118_size0少子高齢化への対応策として、小泉進次郎氏ら自民党の若手が提案した「こども保険」構想が注目を集めています。これをサポートする形で、権丈善一慶応大商学部教授は同党特命委員会で公的年金、医療保険、介護保険の三つの制度から拠出する「子育て支援連帯基金」創設の話をしました。子育て支援策の財源確保はどうあるべきか考えました。・・・

権丈 このご時世に財源調達の話を盛り上がらせたのは大したものですね。こども保険という賛否両論で白熱するネーミングが良かったんだと思います。みんなで大いに明るくアイデアを出し合えばいいと思う。

 彼ら若い人たちが年金保険料に上乗せして子ども保険をと提案していたので、この国最大の国難に立ち向かう大役を、年金ばかりに任せないで、医療や介護も加えてほしいんだけどと、自民党特命委で話をしてきました。年金にだけ良い格好させるわけにもいかないでしょう。それに高齢者からは自分たちも参加して、この国の未来のために貢献したいという声もある。

 上坂 小泉氏も「非常に意義のある提言」と言っていました。権丈さんの新構想は「少子化対策を進める→将来の給付水準が高まる」とした点が説得力があります。

 権丈 僕は説得力を高めるためにそう言ったのではなくて(笑)、単なる制度上の事実を言っただけ。構想自体は簡単な話で、公的年金保険、公的医療、公的介護という、主に人の生涯の高齢期の支出を社会保険の手段で賄っている制度から、自らの制度における持続可能性、将来の給付水準を高めるために子育て支援基金に拠出し、この基金がこども子育て制度を支えるという話です。

 よく、子育て支援は、本来、税でやるべきだという声もあるけど、「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない。・・・

いつもの権丈節もちらりと垣間見えていますが。

権丈 同友会とか経団連というのが、個々の企業の要望である短期的な利潤極大化を求める市場の声に拡声器をつけるだけの団体だったら、民主主義の力で市場の力を抑えていくしかないと思います。でも、経済界の大きな団体はそういう存在ではなく、大所高所、長期的な観点から合成の誤謬を調整・解決する役割を果たしてくれるのが存在意義でしょう。

 同友会が昨秋に出した「未来への希望を拓(ひら)く税制改革」などは、そうした観点からの提言だと高く評価しています。

 それに公的年金保険、医療保険、介護保険の存在理由を今さら論じる必要はないとも思います。これらの制度はこの国の人たち、労働者が尊厳をもって生涯を全うするために重要です。そしてこうした制度の将来の給付額、より充実したサービスは積極的な子育て支援によって高まる。だから日本人全員で連帯して支えようという話です。・・・

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2017年6月25日 (日)

日本人に「公正」概念がないだって?

うーーん、話がどんどんあらぬ方向に流れているようです。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-472.html (公正な賃金はない)

私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。

3分の1くらいはものの言い方の問題、表現の問題と受け取ってあげてもいいのですが、いやでもこういう言い方をしてしまうとそれは明らかに間違いでしょう。

そもそも、ヨーロッパだって「公正」ははじめから法学や思想の言葉ではなく、現場の市井の人々の、あいつがあれほどなのに俺がこれだけなのはなんなんだ、という現場感覚(それを「モラルエコノミー」と呼ぼうが呼ぶまいが)に根ざした言葉なのであってみれば、それと同じ次元の不公正を怒る根拠となるある種の公正感覚がないなどというわけはありません。

そういう不公正を怒り、自分の考える公正さを実現すべきと感じる感覚自体は、別段ヨーロッパ由来でも何由来でもなく、およそ様々な人間が共存する社会ではどこでも存在するものでしょう。つーか、日本人に「公正」感覚がなかったら、言い換えればそれが実現していない不公正状態を怒る感覚がないのであれば、世の中こんなにトラブルだらけになってないはずでしょう。

何でこういう一見意味不明の言説が飛び出してきてしまうかというと、これは日本の知識人によくあるバイアスで、欧米型の「公正」だけが「公正」だという前提で語ってしまうから。

これは社会のいろんな分野で言えると思いますが、話の本題の労働問題、賃金問題に絞って言えば、西欧における公正な労働、公正な賃金というとき、それはまさに中世のギルド以来の伝統に基づくジョブ型社会の「公正」であるのに対し、日本ではそもそもその前提が存在しないために、不公正に怒るその根拠である公正さがジョブとは違うところにあるというだけのことでしょう。

連合の須田さんの言葉も、この切り取り方は大変ミスリーディングだと思うのは、

https://www.rengo-ilec.or.jp/seminar/saitama/2011/youroku05.html

確かに冒頭、学生たちをびっくりさせて傾聴させるためにわざと、

本日いただいたテーマは「公正な賃金処遇に向けて」ですが、実は個人的には、公正な賃金処遇はないと思っています。このように考える理由も含めて、納得できる賃金と処遇決定と労働組合が果たしている役割についてお話しさせていただきます。

と言ってますが、いやもちろん須田さん、埼玉大学の学生相手に、「公正な賃金なんてない。以上終わり」で済ませるなどという莫迦なことはしてないわけで、そのあと1コマまるまる使って、納得できる公正な賃金と処遇決定とは、企業内における公正な賃金の原則、と縷々語っていきます。当たり前ですが。

というようなことは、それこそ金子さんは重々承知の上のはずなのに、なぜわざとこんな明らかにミスリードだとわかるようなことを縷々書くのだろうかといささか不思議でなりません。

ヨーロッパ型のジョブ型公正賃金がなぜ受け入れられないかと言えば、それとはまったく異なる別の公正感覚が日本の現場の労働者に根強く存在しているからであって、そういう問題としてとらえなければならない話を、「公正」を予め切り縮めて、「公正な賃金はない」と言っちゃうのは、労働研究の自殺行為ではないかと感じますが。

以上が総論ですが、それに尽きます。その上で、その従来の年功や頑張りや生活やらといった公正さの基準が揺らぐ一方で、ジョブ型の公正基準に対する違和感も極めて強いという現状をどう考えるかという話が続くわけですが、今回の金子さんの話はその前の段階なので。

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2017年6月22日 (木)

EUの新たな労働法政策-多様な就業形態への対応

『労基旬報』2017年6月25日号に「EUの新たな労働法政策-多様な就業形態への対応」を寄稿しました。

 イギリスが国民投票でEU離脱を決め、大陸諸国でも反EU運動が政治の焦点になるなど、EUを取り巻く状況は厳しいものがあります。かつてのソーシャル・ヨーロッパが輝いていた時代は遠くなったようです。しかしその中にあっても、あまり目立たない形ではありますが、新たな労働法政策への萌芽が動き始めています。
 去る4月26日、欧州委員会は久しぶりに条約154条に基づく労使団体への第1次協議を開始しました。それも一度に2個もです。一つ目は書面通知指令(91/533/EEC)の改正であり、二つ目は「あらゆる就業形態の人々の社会保護へのアクセス」です。どちらも「欧州社会権基軸」(European Pillar of Social Rights)の枠組で提起されているので、まずその流れをざっと見ておきましょう。
 2016年3月8日、欧州委員会は「欧州社会権基軸」に関する一般協議を始めました。金融主導のグローバリゼーションの先兵とみられるに至った経済通貨統合に、今さらながら社会的側面を取り入れようというのがその狙いですが、それに対する諸組織の反応の中からいくつかの方向性が現れてきました。そのうち同年12月20日の欧州議会の決議では「あらゆる就業形態におけるディーセントな労働条件に関する枠組指令」を提案することを求めるとともに、書面通知指令(91/533/EEC)の改正を提起しています。そこで念頭に置かれている就業形態としては、まずインターンシップ、トレーニーシップ、アプレンティスシップといった学校から仕事への移行形態、そして近年拡大しているデジタル・プラットフォームの仲介による仕事や従属的自営業、さらにゼロ時間契約などのオンデマンド労働です。
 各方面からの意見を受けて、今年4月26日欧州委員会は一般協議のまとめとして「欧州社会権基軸の確立」(COM(2017)250)を公表するとともに、20項目にわたる「欧州社会権基軸勧告」を提示しました。この勧告の中には、今回の二つの労使協議に直接関わるような項目も含まれています。実は、今回の労使への協議はこの勧告と同時になされており、その意味ではその一環と見ることもできます。
 まず書面通知指令改正に関する協議ですが、同指令は適用対象たる「被用者」を加盟国の法令の定義に委ねています。これを改めて、EU共通の労働者の定義規定を設けるべきではないかというのが第1点目です。そして、オンコール労働者、バウチャーベースの労働者、ICTベースの移動型労働者、あるいはトレーニーやアプレンティスなど適用関係が明確でない新たな形態の非典型労働者にも適用されることを明らかにするというのが第2点目です。そして現行指令で雇用期間1か月以下や週労働時間8時間以下の雇用関係を加盟国が適用除外できるという規定も削除すべきではないかとしています。
 書面で通知されるべき情報項目に追加すべきものとして、まず濫用が指摘される試用期間が挙げられています。そしてオンコール労働者への適用拡大を前提として、その通常の週又は日の労働時間を通知することを提示しています。指令違反に対する救済や制裁が実効性に欠けることも問題で、書面通知をしなかった使用者に罰金を科すとか、書面通知がなかった場合は労働条件について労働者に有利な推定をするといった提起もしています。また書面通知の時期について現行指令は雇用開始後2か月以内としていますが、この期間を短縮すべきではないかという案とともに、そもそも遅くとも雇用開始時に通知すべきという選択肢も提起しています。
 上記欧州議会決議はこれらを超えて「あらゆる就業形態」の労働条件枠組指令を求めていましたが、こちらについては協議文書は書面通知指令の対象を拡大する可能性として協議しています。現行指令は使用者の通知義務を定めているだけですが、ここに規範的側面を持ち込み、あらゆる就業形態に共通の最低労働条件を規定するものに作り替えるという話です。欧州委員会が提示している項目は:試用期間がある場合の上限の権利、労働時間が変動する場合の参照時間の権利(予見可能性のため)、(オンコール労働における)前期の平均労働時間に設定された最低時間の権利、新たな就業形態に転換を求める権利(と使用者の回答義務)、訓練を受ける権利、解雇や雇止めの場合の理由を附した告知期間の権利、不当解雇や不当な雇止めの場合の適切な救済の権利、そして解雇や不当な待遇に対する有効で中立的な紛争解決制度にアクセスする権利です。大変包括的で、これらを入れたらもはや「書面通知指令」ではなく、まさに「一般最低労働条件指令」になってしまいます。
もう一つの協議文書はあらゆる就業形態の人々に対する社会保護と就業サービスを取り上げています。ここで「就業サービス」といったのは、職業指導、職業紹介、職業訓練等のことです。ただ、あらゆる就業形態といったときに、純粋の自営業者についてはそもそも条約154条に基づく労使協議への対象になり得ません。そこでやや技巧的ですが、非標準的な雇用形態の労働者の社会保護等については労使団体への第1次協議、自営業者等の社会保護等については任意協議だと説明しています。
 この文書で提示されているのは、契約類型、就業形態、労働法上の地位に関わらず、類似の労働に対しては類似の社会保護の権利と就業サービスが適用されるべきという原則です。これにより非標準的な雇用の労働者や自営業者が社会保護制度や就業サービスの適用を受けることができるというわけです。また社会保護の権利が就労当初から個人単位で蓄積され、転職、就業形態の変更、自営化などによって失われることのないようにすることを求めています。
 ただ、前者に比べてもこちらは困難性が高そうです。まず条約153条において、書面通知指令が属する「労働条件」は特定多数決事項となっていますが、「労働者の社会保障及び社会保護」は全会一致事項となっています。さらに上述のように、自営業者の社会保護はこれに含まれず、条約352条という一般条項に頼らなければなりません。現実に立法までこぎ着けることができそうかという点で見ると、可能性が高いのはせいぜい書面通知例の改正くらいで、欧州議会の求める実質新法としての一般最低労働条件指令はなかなか難しく、社会保護はほとんど不可能と言えるでしょう。
 とはいえ、こうした新たな就業形態に対する法的対応が試みられていることは、同じように就業形態の多様化への対応を迫られている日本にとっても、大変興味深い先行事例であることは間違いありません。今回の労使団体への第1次協議が、今後どのような展開を示していくことになるのか、労働関係者は注意深く見守っていく必要がありそうです。

 

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2017年6月20日 (火)

日置巴美『ビジネスシーンから考える 改正個人情報保護法』

1701例によって、経団連出版の讃井暢子さんより、日置巴美『ビジネスシーンから考える 改正個人情報保護法』をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=468&fl=2

 個人情報保護法の施行から10年余、当時は想定されていなかった問題が発生し、また、新たな情報利活用への期待が生まれています。これに対応し、情報利用環境を整備すべく、改正個人情報保護法が2017年5月30日から全面施行されました。
 改正法では、個人情報が明確化されるとともに、要配慮個人情報、匿名加工情報といった新たな類型が設けられ、それぞれに異なる取扱いを求めます。また、個人事業主・ベンチャー企業や、自治会などの非営利組織を含むすべての事業者が義務を負うこととされ、事業で個人情報を利用する限り、常に個人情報保護法を意識しなければなりません。
 本書では、企業モデルを設定し、モデル企業がビジネス活動を進める中で取り扱う個人情報について、「取得」「利用」「第三者提供」「本人対応」といった場面ごとに守るべきルールをわかりやすく解説しました。あわせて、中小規模事業者によくある事例への対応、不適正な取り扱いに対する監督、罰則などの解説も盛り込みました。
 この一冊で、個人情報保護法の改正ポイントに加えて、適切な個人情報の取扱い方法がわかります。

個人情報については、労働法でも大きな関心の対象になっており、去る5月の労働法学会でも、河野奈月さんがこの関係の報告をされていました。

とはいえ、その全貌はなかなかよくわからないところがあり、こういう解説書は有り難いです。

第Ⅰ章 企業が取り扱う情報と個人情報保護法
1 個人情報保護法のスコープ
  (1) 個人情報保護法制における公的部門と民間部門の相違
  (2) 個人情報取扱事業者と個人情報データベース等の除外規定
     個人情報取扱事業者/個人情報データベース等の除外規定
2 個人情報保護法が保護対象とする情報とは
  (1)個人情報
  「特定の個人を識別することができるもの」とは何か/容易照合性/1号個人情報の該当性判断/
  個人識別符号/個人情報該当性判断の手順
  (2)個人データと保有個人データ
  (3)要配慮個人情報
  人種/信条/社会的身分/病歴またはこれに準ずるもの/犯罪の経歴またはこれに準ずるもの/犯罪により害を被った事実
第Ⅱ章 個人情報取扱事業者と匿名加工情報取扱事業者の義務
1 利用目的に関する規律
  (1)利用目的の特定
  (2)取得の際に求められること
  通知、公表および明示の方法/通知等が不要とされる場合
  (3)新たな利用を行う際に求められること
  利用目的の変更と目的外利用/利用目的変更の手続/目的外利用のための手続
2 適正な手段による取得
  (1)適正取得
  (2)要配慮個人情報を取得するための本人同意
  本人同意/例外
3 適切な安全管理と従業者、委託先の監督
  (1)安全管理措置
  (2)従業者の監督
  (3)委託先の監督
  (4)個人データ漏えいへの対応
    発覚時に講ずべき措置/個人情報保護委員会等への報告
4 個人データの第三者提供
  (1)第三者提供と同意
    第三者提供とは何か/本人同意と例外
  (2)オプトアウト手続
  法定事項を本人に通知し、または容易に知り得る状態におくこと/個人情報保護委員会への届出
  (3)個人データの第三者提供の確認・記録義務
     確認・記録義務を不要とする個人データの第三者提供/第三者提供を行う個人情報取扱事業者/
  第三者からの提供を受ける個人情報取扱事業者/その他
  (4)「第三者」が外国に所在する場合の対応
     外国に所在する第三者/本人同意
5 本人からの請求等
  (1)保有個人データ
  (2)保有個人データの利用目的等の公表・通知
  (3)各種請求
     開示/訂正等/利用停止等/事前の請求/裁判外の請求手続
6 その他の個人情報の適切な取扱い
  (1)個人データの正確性確保と不要なデータの消去
     個人データの正確性確保/不要なデータの消去
  (2)苦情処理
  (3)域外適用
7 匿名加工情報制度
  (1)匿名加工情報
  (2)匿名加工情報の適切な取扱い
第Ⅲ章 中小規模事業者
1 中小規模事業者への配慮
  (1)新たに義務を課される「個人情報取扱事業者」
  (2)中小規模事業者と安全管理
2 主な個人情報の取扱い場面と適切性の担保
  (1)従業員の情報
  (2)取引先の従業員の情報
第Ⅳ章 認定個人情報保護団体
第Ⅴ章 個人情報保護法違反と行政・司法
1 行政規制としての個人情報保護法
  (1)個人情報保護委員会と監視・監督権限
  個人情報保護委員会の所掌事務/個人情報保護委員会の監視・監督権限/権限委任
  (2)不適正取扱いの是正と罰則
2 司法判断と個人情報保護法
  (1)データベース等不正提供罪
  (2)開示、訂正等、利用停止等の請求

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2017年6月19日 (月)

学問は就活か

神戸女学院大学の広告が核心を衝きすぎていると評判ですが・・・。

20170612094142

学問は就活か?

日本以外のジョブ型労働社会であれば答えはあまりにも明瞭です。

然り。

ある仕事に就きたいがゆえに、その仕事に必要な知識技能を身につけるべく学問に励む。

まさに、学校の勉強を一生懸命やることが、それこそが他のいかなることにもまして、最高最大の就「職」活動になるわけです。

Chuko拙著『若者と労働』でこう述べたとおりです。

ジョブ型社会の「職業能力」就活
 日本であれ、欧米であれ、学生が企業に対して、自分が企業にとって役に立つ人材であることを売り込まなければならない立場にあるという点では何の違いもありません。違うのは、その「役に立つ」ということを判断する基準です。
 欧米のようなジョブ型社会においては、第一章でみたように採用とは基本的に欠員補充ですから、自分はその求人されている仕事がちゃんとできるということをいかにアピールするかがもっとも重要になります。学生の場合、売りになる職業経験はないのですから、その仕事に必要な資格や能力を持っているということをアピールするしかありません。そのもっとも重要な武器は、卒業証書、英語で言うディプロマです。
 欧米では、一部の有名大学を除けば入学するのはそんなに難しくはありませんから、ある大学に入学したことだけでは何の説得力もありません。むしろ、日本と違ってカリキュラムはハードで、ついてこれない学生はどんどん脱落し、卒業の頃には同期の学生がだいぶ減っているというのが普通ですから、卒業証書こそがその人の能力を証明するものだと一般的に考えられています。
 そして、ここが重要なのですが、その能力というのは、日本でいう「能力」、つまり一般的抽象的な潜在的能力のことではなく、具体的な職業と密接に関連した職業能力を指すのです。卒業証書を学歴と言い換えれば、欧米社会とは言葉の正確な意味での学歴社会ということもできます。日本でいわれる学歴社会というのが、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかとはあまり関係のない、入学段階の偏差値のみに偏したものであるのに対して、欧米の学歴社会というのは、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかを、厳格な基準で付与される卒業証書を判断材料として判定されるものなのです。こういう社会では、言葉の正確な意味でのもっとも重要な就「職」活動は、必死で勉強して卒業証書を獲得することになります。
 ちなみに、こういうジョブ型社会ではあまりにも当たり前の行動を、日本社会で下手にやるととんでもない大騒ぎになることがあります。かつて、ある大学の法学部で、既に企業に内定している四年生の学生に対し、必修科目の民法で不可をつけた教授の行動が、マスコミで取り上げられ、世論を賑わしました。入学時の偏差値と面接時の人間力判定で十分採用できると企業が考えているのに、本来何の職業的意義もない大学の授業における教授の成績評価によってできるはずの卒業ができなくなり、「入社」の予定が狂わされるのは、本末転倒である、と、少なくとも当時の日本社会の大多数の人々は考えていたということでしょう。

では日本ではどうか?

まったく異なる文脈において、しかし結論は一緒です。

然り、学問は就活である。

とはいえその理路は全く正反対ではありますが。

どう正反対なのか、そしてそれなのに結論は同じなのか?

詳しくは上記拙著の「第3章 「入社」のための教育システム」をお読み下さい。

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2017年6月18日 (日)

下井康史『公務員制度の法理論』

280601 下井康史さんの『公務員制度の法理論 日仏比較公務員法研究』(弘文堂)をこの週末に読みました。

http://www.koubundou.co.jp/book/b280601.html

日本とフランスの公務員法を、「公務員の勤務条件決定システム」「身分保障」「多様な公務員と公務員制度の射程」という3つの視点から詳細に比較・分析した本格的研究書。日仏比較がもたらす大きな示唆を明らかにし、公務員制度改革の今後のあり方を探る。行政法と労働法を架橋する、本邦初の公務員法研究の集大成。

公務員法は行政法と労働法の交錯する領域です。かつては、公務員の労働基本権問題が労働法学においてもかなり大きなテーマであり、多くの人が喧々囂々論じたこともありますが、いまではすっかり寂れてしまいました。代わって最近じわじわと話題になりつつあるのが非正規公務員問題ですが、なおまだまだメジャーとは言えない状況のようです。

公務員法は制度の一つ一つが別立てになっているため、労働畑の人が真面目に勉強しようとすると結構手間がかかることもあり、どうしてもごく一部の人だけが取り組む傾向にありますが、下井さんは行政法から労働法に攻め込んで、非常に緻密な議論を展開しているので、とてもありがたい存在です。

序 公務員制度改革と公務員法

第1編 公務員の勤労条件決定システム

第1章 フランス法 

 第1節 地方公務員制度における給与決定システム 

 第2節 法令規律の仕組みと組合参加制度

第2章 日本法

 第1節 公務員の団体交渉権・協約締結権

 第2節 地方公務員制度における新たな労使関係の構築に向けて

 第3節 公務員法における法律・条例事項と協約事項

 第4節 公務員

第2編 身分保障

第1章 フランス法-官職分離原則の身分保障機能

第2章 日本法

 第1節 公務員法と労働法の距離

 第2節 公務員の守秘義務

 第3節 行政法における公務員倫理法の位置付け

 第4節 人事評価システムにおける制度的工夫

第3編 多様な公務員と公務員制度の射程

第1章 フランス法

 第1節 公務員制度の射程

 第2節 任用・勤務形態の多様化

第2章 日本法

 第1節 公務員の勤務形態多様化政策と公法理論

 第2節 任期付任用公務員の更新拒否をめぐる行政法上の理論的問題点

結――日仏比較公務員研究の意義

第1編の勤務条件決定システムは集団的労使関係システムの問題として一通りは勉強しましたし、第3編の勤務形態の多様化は非正規公務員の問題としていくつか文章を書いたりしていますが、本書の中でいままであまりよく知らずにいて、そうだったのか!!感が強かったのは第2編の身分保障に関わる部分でした。とりわけフランス公務員法制の任官補職のシステムが戦前日本と共通しているというのは目を開かれました。

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『働く女子の運命』に感想3つ

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda56月に入ってから読書メーターに、拙著『働く女子の運命』への感想が3つアップされています。

https://bookmeter.com/books/10070665

6/4 :inubo, 90年代後半に就職し、正規で働き続けて約20年、見渡すと同世代女子はほぼいない反面、若い女子が活躍している職場にいます。最近自分の居場所や生き方のモデルがなくなり、途方に暮れていたのですが、この本で脳内に見取り図ができてスッキリしました。日本の雇用の特徴は生活給をベースにした年功的昇給と職務が無限定のメンバーシップ制であり、バブル崩壊後様々な改革がなされたものの、生活給維持が大前提なためジョブ型に移行できないという…異分子たる女子としては、ジョブ型に活路を見出すべくスキルアップ!と思いを新たにしました。

6/14 :momo, 日本型の会社では給料はジョブに対するものではなく生活給という言葉に納得。2人で正社員なら2倍だ理論おじさんの考えの根拠はこれかと納得。 行政、企業はもちろんだけと、労働組合も一緒になって進めてきているから、固定的な価値観にできたんだろう。 学校で男女平等で学んできても、スタート切るときに大きな違いに直面する。性別が違うだけでなぜなのかと悩むけど、実は社会の固定観念を押し付けられてるだけだったんだ。 腑に落ちた。これからの働く戦略を考えようと思う。

6/18 :おかむら, 富岡製糸場時代から現代までの女性の雇用史。見下されの歴史でした。「28歳定年制」とか「結婚したら自発的に退職する」旨の念書とか。ひえー。そんな時代があったのか。 諸外国と比べて日本の雇用制度が独特なのもよくわかった。日本のお給料って「女房子どもを食わす額」ってのが基本なのね。そもそもからシステムや観念を変えないと変わって行けないのか…。だって今でも政府や経済界や会社のお偉いさんは働く女性のことを相変わらず職場の「女の子」って思ってんだろーからなー。

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公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を

Friedrich_engels1840cropped 労働組合の保守本流のこの思想を、古くさいと言って斬って捨てたのが周知の通りエンゲルスでした。

これは、これまで50年間も、イギリス労働運動のスローガンとなってきたものだ。・・・しかし、時代は移ることをやめず、そして、50年前には、否、30年間にさえ、望ましく、かつ、必要でもあった相当多くの事柄が、今や時代遅れになっており、やがて完全に居場所を失うだろう。この古く、かつ由緒あるスローガンもまた、その種の事柄に属するのだろうか?

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を、というのか?だがそもそも、公正な1日の賃金とは何か、そして、公正な1日の労働とはなんなのか?・・・これに対する解答は、倫理学、あるいは、法と衡平法といった学問に求めるべきではなく、また、人間愛、正義、あるいは、慈善とか、一切の感傷的な感情にも求めてはならない。道徳的に見て公正なもの、法律上公正であるものでさえ、社会的に公正であることとは無縁な場合があり得る。何が社会的公正とか不公正とかいうことは、専ら、一つの科学-生産及び交換という物質的事実を取り扱う科学、経済学(political economy)という学問によってのみ、結論が与えられる。・・・

・・・公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を!・・・以上で明確にされたことからして、この古いスローガンは過去のものとなり、今日ではほとんど妥当性がなくなっていることは、全く明瞭である。・・・したがって、この古いスローガンを永久に葬り去って、別のスローガンと取り替えよう。

労働者自身による、労働手段-原料、工場、機械-の所有を。

(エンゲルス「公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金」宮前忠夫訳『新訳・新解説 マルクスとエンゲルスの労働組合論』より引用)

労働運動がその活動の前提とする市場経済をそもそも否定するイデオロギーに立脚するのであれば、そのような言説になるのはある意味で当然でしょう。140年前に公正賃金を古くさいと罵った「最新」の思想が、今なお最新なのか、罵った相手よりも遥かに「古くさい」ものになっているかは別ですが・・・。

しかし、古い新しいという下らぬ話はともかく、あくまで市場経済の中で労働者の地位の向上を目指す労働組合にとっては、「公正な賃金」とは何よりも目指すべき目標でありました。というようなことは、労使関係論の教科書の最初の方に必ず出てきますね。

さて、先日のエントリに金子さんのリプライがありました。はじめから順番に並べると、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-9189.html (年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-469.html (賃金水準を下げている「職務」概念について)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-fa0b.html (金子さんは誰を批判しているのだろうか?)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-471.html (濱口先生の批判にお答えして)

わたしは、もちろん一方では現下の課題に対する戦術論にも関心はあります。しかし、賃金制度を論じる時にはやはり一歩も二歩も後ろに下がって、しっかりと歴史を踏みしめ、そもそも論のそのまたそもそもをきちんと踏まえた上で議論をするべきだと思っています。本来アカデミズムにいて役割が逆でなければならないはずなのに、金子さんの妙に今日的表層政治的関心ばかりが先にたったいささか前のめりな姿勢には、正直どうなのか?という思いが禁じ得ません。

前回私が「公正賃金」という言葉を出したのは、アリストテレス的な「交換の正義」という言葉では誤解を招いてしまうかも知れないと考えたから、あえて労使関係研究者にとってなじみのある言葉にしたのです。

繰り返しますが、200年前に産業革命の中から生まれてきた労働組合とは、ただ賃金が高ければ良いという存在ではありません。彼らなりの正しい賃金秩序-公正な格差の秩序を追い求める存在なのです。

それを古くさいと否定したエンゲルスにとっては、そもそも賃金制度自体が許すべからざる悪であり、公正とか不公正ということ自体がナンセンスだったのでしょう。それはそれでそういう理屈になるということはわかります。

しかし、戦後日本の労働組合は、その一見急進的めいた言辞にかかわらず、別段共産主義社会の実現に命をかけていたわけでもなく、賃労働の廃絶を目指して日々活動していたわけでもないでしょう。

その彼らが、自分の足下からの批判を抑えつつ、経営側の同一労働同一賃金を掲げた職務給攻勢に対抗しようとする時、前回引用したように、

総評は口先では「同一労働同一賃金の立場から格差をなくす闘いをいっそう強める」などといいながら、「職務給は・・・特に中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるものであるから断固反対」という立場にたち、「職務給は年功序列に代わる必然的な賃金体系という宣伝で、青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んでその拡大をねらっているのだから、職務給の理論的、実際的な分析を行い、反対して闘う」と述べていました。しかし、理論的反駁はどこにもなく、要は都合が悪いから反対しているだけだったようです。

という、わざと本質論を論じないで、目先の損得論戦術論だけでごまかそうとするしかなかったわけです。

なぜそういうことになるかと言えば、日本の労働組合は海軍軍人と国家社会主義官僚の構築した生活給以外に自分たちの「公正賃金」のロジックをついに持ちえなかったから、としか言いようがありません。

その後、小池和男氏が(事実に反する)論証で総評の(へ)理屈を支えてくれたのですが、この点についてはここでは省略しておきます(関心がある人は下記リンク先を参照。世の小池ファンの殆ど全ては完全に勘違いをしています)。

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei170116.html

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei170130.html

自分自身の「公正賃金」のロジックを持てない労働組合にとって、

職務給は同一労働同一賃金を実現するものだという宣伝によって労働者を巻き込もうとする。しかし、それは格差をちじめるだけで労働者の要求とはまったく違う」「われわれが要求しているのは、たんに、年功なり、男女なりの賃金格差が縮小すればよいということではなく、年配者、男子の賃金を引き上げながら、青年なり婦人なり、臨時工なりの賃金を一層大きく引き上げて短縮する。言い換えれば、同一労働同一賃金は賃金引き上げの原則であって、たんなる配分の原則ではない(総評1962年度運動方針)

と、賃金引き上げ「だけ」を論じ、賃金のそもそもの決め方などは論じないというのが、唯一可能な細道だったのでしょう。

そして、半世紀前は結局それで済んでしまい、以来半世紀にわたって、「公正な賃金」の原理を持たないまま賃金引き上げ要求をし、やがてそれもしないようになるという時を経て、いま半世紀ぶりに再び、労働組合は「お前たちにとって『公正な賃金』とは何か?」という問いを再度突きつけられてきているのではないかということです。

そのときに、これまた再び、かつての総評と、まったく同じような反応をしていて良いのか?と問うことこそが、すくなくとも賃金の歴史を知っている者の務めではなかろうかと、私は前回申し上げたつもりなのです。

金子さんのいう「現在では職能資格給が職務と限定なしの能力の伸長を促進する制度としてではなく、まったく逆に、職務が変わらないならば賃金は上げないという賃下げの道具として利用されるようになってきた」ということについては、私は事実認識としてもかなり疑問を持っていますし、そもそも職能資格制度を大本で維持しながらそれと矛盾しうる成果主義を導入したことによる矛盾があちこちに噴出しているという点こそ過去20年間の最大の問題点だと考えていますが、ここではそういうことを細かく論じるつもりもありません(必要があれば改めて論じますが)。

そもそもいまの賃金のあり方が公正ではないのではないか、と疑問を突きつけられている時に、いやこれこそが我々の考える「公正賃金」だ、と堂々と提示するのではなく、いやあそれじゃ下がるから云々ということしか言えないのでは、実はそもそもの段階で位負けしている、という話なのです。半世紀前の総評と同じロジックでは情けないよ、と。

いわんや公正さに疑問を呈する者に対して「利敵行為だ!」と怒鳴って黙らせれば済むというわけにはいかないでしょう。少なくとも今度は。

そして、そうはいっても実務家は現実の中で格闘しながらやらなければならないので、そう単純に批判して済むわけではないのに対し、そうではない研究者こそ、そこをきちんと論じ挙げなければならないのではないか、と、これはむしろ金子さんに刃を向けるつもりで申し上げたのです。

繰り返しますが、わたしは長く実務家の方に身を置いてきましたし、現実の重みはわかっています。いま現在の戦略論、戦術論をやれと言われれば、喜んでやる用意もあります。

しかし、ここではあえてそうではないこと-労働組合にとって「公正賃金」とは何か、というそもそも論のそのまたそもそものところを論じているのです。

(参考)

ちなみに、最近半世紀ぶりに逮捕されたとかで話題の中核派の機関誌「前進」に、こんな記事が載っていました。

http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2016/09/f27770302.html (年功賃金を解体する「同一労働同一賃金」)

これもまことに「古くさい」議論ですね。

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リバタリアンと民間警察

Libertarian たまたまこういう記事が目に入ったので、

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170615-00010004-flash-peo (「任侠団体山口組」織田代表「民間軍事会社を作って国を守る」)

思わず、もう7年も前の本ブログのエントリを思い出してしまいました。

蔵研也さんというリバタリアンな方の発言をめぐって、こういうことを縷々書いたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html (警察を民営化したらやくざである)

リバタリアンと呼ばれたがる人々はどうしてこうも基本的な社会認識がいかがなものかなのだろうかと思ってしまうのですが、

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100818警察を民営化したならば

警察とは一国の法システムによって暴力の行使が合法化されたところの暴力装置ですから、それを民営化するということは、民間の団体が暴力行使しても良いということを意味するだけです。つまり、やくざの全面的合法化です。

といいますか、警察機構とやくざを区別するのは法システムによる暴力行使の合法化以外には何一つないのです。

こんなことは、ホッブス以来の社会理論をまっとうに勉強すれば当たり前ではあるのですが、そういう大事なところをスルーしたまま局部的な勉強だけしてきた人には却って難しいのかも知れません。最近では萱野さんが大変わかりやすく説明してますから、それ以上述べませんが。

子どもの虐待専門のNPOと称する得体の知れない団体が、侵害する人権が家宅侵入だけだなどと、どうして素朴に信じてしまえるのか、リバタリアンを称する人々の(表面的にはリアリストのような振りをしながら)その実は信じがたいほど幼稚な理想主義にいささか驚かされます。そもそも、NPOという言葉を使うことで善意の固まりみたいに思えてしまうところが信じがたいです。

警察の民営化というのは、民主国家においてはかかっている暴力装置に対する国民のコントロールの権限が、(当該団体が株式会社であればその株主のみに、非営利団体であればそれぞれのステークホルダーのみに)付与されるということですから、その子どもの虐待専門NPOと称する暴力集団のタニマチがやってよいと判断することは、当然合法的に行うことになるのでしょうね。

国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようになります。古代国家が崩れていくにつれ、武士団という暴力団が跋扈するようになったのもその例です。それは少なくとも人間社会の理想像として積極的に推奨するようなものではないというのが最低限の常識であると思うのですが、リバタリアンの方々は違う発想をお持ちのようです。

(追記)

日本国の法システムに通暁していない方が、うかつにコメントするとやけどするという実例。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>thesecret3 えええ、、実際暴力装置としての治安維持活動は日本では民間の警備会社の方が大きくないですか?現金輸送車を守ってるのは警察でもやくざでもありませんよ。

いうまでもなく、警備業者は警察と異なり「暴力装置」ではありませんし、刑事法規に該当する行為を行う「殺しのライセンス」を頂いているわけでもありません。

警備業法の規定:

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%af&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S47HO117&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

(警備業務実施の基本原則) 

第十五条  警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html (それは「やくざ」の定義次第)

松尾隆佑さんが、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919131166

>「警察を民営化したらやくざ」との言にはミスリードな部分があって,それは無政府資本主義社会における「やくざ」を政府が存在・機能している社会における「やくざ」とは一緒にできない点.民営化はやくざの「全面的合法化」ではなく,そもそも合法性を独占的に担保する暴力機構の解体を意味する.

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919469693

>他方,民間保護機関や警備会社同士なら「やくざ」ではないから金銭交渉などで何でも平和的に解決できるかと言えば,そういうわけでもなかろう.やくざだって経済合理性に無縁でなく,無駄な争いはすまい.行為を駆動する合理性の中身は多少違っても,本質的に違いがあるわけではない.やくざはやくざ.

言わずもがなではありますが、それは「やくざ」の定義次第。

国家のみが正当な暴力行使権を独占していることを前提として、国家以外(=国家からその権限を付与されのではない独立の存在)が暴力を行使するのを「やくざ」と定義するなら、アナルコキャピタリズムの世界は、そもそも国家のみが正当な暴力行使権を独占していないので、暴力を行使している組織を「やくざ」と呼べない。

より正確に言うと、世の中に交換の原理に基づく経済活動と脅迫の原理に基づく暴力活動を同時に遂行する多数の主体が同一政治体系内に存在するということであり、その典型例は、前のエントリで書いたように封建社会です。

そういう社会とは、荘園経営者が同時に山賊の親分であり、商船の船主が同時に海賊の親玉である社会です。ヨーロッパ人と日本人にとっては、歴史小説によって大変なじみのある世界です。

こういう「強盗男爵」に満ちた社会から、脅迫原理を集中する国家と交換原理に専念する「市民」を分離するところから近代社会なるものは始まったのであって、それをどう評価するかは社会哲学上の大問題ですし、ある種の反近代主義者がそれを批判する立場をとることは極めて整合的ではあります。

しかしながら、わたくしの理解するところ、リバタリアンなる人々は、初期近代における古典的自由主義を奉じ、その後のリベラリズムの堕落を非難するところから出発しているはずなので、(もしそうではなく、封建社会こそ理想と、呉智英氏みたいなことを言うのなら別ですが)、それと強盗男爵社会を褒め称えることとはいささか矛盾するでしょう、といっているだけです。

多分、サヨクの極地は反国家主義が高じて一種の反近代主義に到達すると思われますので(辺境最深部に向かって退却せよ!)、むしろそういう主張をすることは良く理解できるのですが(すべての犯罪は革命的である! )。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>tari-G , , , 国家の強制力を現在の検警察組織に独占させないという発想自体は、検警察入管等のひどさを考えれば極めて真っ当。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html (アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)

TypeAさんが、「民間警察は暴力団にあらず 」というタイトルで、わたくしの小論について論じておられます。

http://c4lj.com/archives/773366.html

いろいろとご説明されたあとで、

>しかし、これでも濱口氏は納得しないに違いない。何故なら、蔵氏やanacap氏の説明は、無政府資本主義社会が既に成立し、安定的に運用されていることが前提であるからだ。

と述べ、

>だが、「安定期に入った無政府資本主義社会が安定的である」というのは、殆どトートロジーである。

>現在の警察を即廃止したとしても、忽ちに「安定期に入った無政府資本主義社会」が出現するわけではないからである。これまでの無政府資本主義者は、(他の政治思想も大抵そうであるが)その主張を受け入れてもらうために、己の描く世界の安定性のみを強調し、「ここ」から「そこ」への道のり、現行の制度からその安定した社会に至るためのプロセスを充分に説明していない。「国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようにな」るというのは、成程確かにその通りであると認めざるを得ないだろう。

と認められます。

ところが、そのあと、こういう風にその理想社会に到達するという図式を描かれるのです。

>これまでの多くの政府機関の民営化がそうであったように、恐らく警察においても最初は特殊法人という形を採ることになるだろう。法制度の改定により、民間の警備会社にもそれなりの権限は許可されるが、重大な治安維持活動は特殊法人・警察会社に委ねられる。それでも、今よりは民間警備会社に出来る範囲は広くなる。

>特殊法人・警察会社は徐々に独占している権限を手放す。民間警備会社が新たに手に入れた権限を巧く使うことが出来ることを証明できたならば、それは更なる民営化を遂行してよいという証拠になる。最終的に、元々公的機関であった警察は、完全に民営化される。(勿論テストに失敗した場合はこの限りではない。)恐らく数年~十数年は、元々公的機関であった"元"警察を信頼して契約を結ぶだろう。ノウハウの蓄積は圧倒的に"元"警察株式会社にあるだろうからだ。しかし、市場が機能する限り、"元"警察株式会社がその優位な地位に胡坐をかく状態が続けば、契約者は他の民間警備会社に切り替えることを検討することになるだろう。

こういうのを読むと、いったいアナルコキャピタルな方々は、国家の暴力というものを、せいぜい(警備業法が規定する程度の)警備業務にとどまるとでも思っておられるのだろうか、と不思議になります。

社会は交換原理だけではなく脅迫原理でもできているのだという事実を、理解しているのだろうか、と不思議になります。

先のエントリでも述べたように、国家権力の国家権力たるゆえんは、法に基づいて一般市民には許されない刑事法上に規定する犯罪行為(住居侵入から始まって、逮捕監禁、暴行傷害、場合によっては殺人すらも)を正当な業務行為として行うことができるということなのであって、それらに該当しない(従って現在でも営業行為として行える)警備行為などではありません。「民間の警備会社」なんて今でも山のようにあります。問うべきは「民間の警会社」でしょう。

大事なのは、その民間警察会社は、刑法上の犯罪行為をどこまでどの程度正当な業務行為として行うことができることにするのか、そして、それが正当であるかどうかは誰がどのように判断するのか、それが正当でないということになったときに誰がどのように当該もはや正当業務行為ではなくなった犯罪行為を摘発し、逮捕し、刑罰を加えるのか、といったことです。アナルコキャピタリズムの理念からすれば、そういう「メタ警察」はない、としなければなりませんが、それがまさに各暴力団が自分たち(ないしその金の出所)のみを正当性の源泉として、お互いに刑事法上の犯罪行為を振るい合う世界ということになるのではないのでしょうか。

その社会において、「刑事法」というものが現在の社会におけるような形で存在しているかどうかはよく分かりません。刑事法とはまさに国家権力の存在を何よりも前提とするものですから、ある意味では民間警察会社の数だけ刑事法があるということになるのかも知れませんし、一般刑事法はそれを直接施行する暴力部隊を有さない、ちょうど現代における国際法のようなものとして存在するのかも知れません。これはまさに中世封建社会における法の存在態様に近いものでしょう。

この、およそ「警察の民営化」とか唱えるのであれば真っ先に論ずべき点がすっぽり抜け押してしまっているので、正直言って、なにをどう論じたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

ちなみに、最後でわたくしに問われている蔵研也氏の第2のアイディアというのは、必ずしもその趣旨がよく理解できないのですが、

>むしろ公的な警察機構に期待するなら、警察を分割して「児童虐待警察」をつくるというのも、面白い。これなら、捜索令状もでるし、憲法の適正手続条項も満たしている。

というところだけ見ると、要するに、一般の警察とは別に麻薬取締官という別立ての正当な国家暴力機構をつくるのと同じように、児童虐待専門の警察をつくるというだけのはなしにも思えるので、それは政府全体のコスト管理上の問題でしょうとしかお答えのしようがないのですが、どうもその次を読むと必ずしもそういう常識的な話でもなさそうなので、

>さて、それぞれの警察部隊の資金は有権者の投票によって決まる。

はあ?これはその蔵氏のいう第2のアイディアなんですか。全然第2でも何でもなく、第1の民営化論そのものではないですか。

アイディア2というのが警察民営化論なのか、国家機構内部での警察機能分割論なのか、判断しかねるので、「濱口氏は如何お考えであるのか、ご意見を伺いたく思う。」と問われても、まずはどっちなのかお伺いした上でなければ。

(追記)

法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

例えばあなたが奥さんを殺されたとしましょう。あなたは桜上水裁判株式会社に電話して、犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼します。同社は系列企業の下高井戸警察株式会社に捜査を依頼し、同社が逮捕してきた犯人を会社の会議場で裁判にかけ、死刑を言い渡す。死刑執行はやはり系列会社の松原葬祭株式会社に依頼する、と。

ところが、その犯人曰く、俺は殺していない、犯人は実は彼女の夫、俺を捕まえろといったヤツだ。彼も豪徳寺裁判株式会社に依頼し、真犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼する。関連会社の三軒茶屋警察株式会社は早速活動開始・・・。

何ともアナーキーですが、そもそもアナルコキャピタルな世界なのですから、それも当然かも。

そして、このアナーキーは人類の歴史上それほど異例のことでもありません。アナルコキャピタリズムというのは空想上の代物に過ぎませんが、近代社会では国家権力に集中した暴力行使権を社会のさまざまな主体が行使するというのは、前近代社会ではごく普通の現象でした。モンタギュー家とキュピレット家はどちらもある意味で「主権」を行使していたわけです。ただ、それを純粋市場原理に載っけられるかについては、わたくしは人間性というものからして不可能だとは思っていますが。

ちなみに、こういう法システム的な意味では、国際社会というのは原理的にアナーキーです。これは国際関係論の教科書の一番最初に書いてあることです。(アナルコキャピタリズムではなく)純粋のアナーキズムというのは、一言で言うと国内社会を国際社会なみにしようということになるのでしょう。ボーダーレス社会にふさわしい進歩的思想とでも評せますか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html (人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)

typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-57fb.html (蔵研也さんの省察)

本ブログで少し前に取り上げて論じた「警察の民営化」あるいはむしろ「国家の暴力装置の民営化」に関する議論について、その発端となった蔵研也さんが、ある意味で「省察」されています。いろんな意味で大変興味深いので、紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100921無政府は安定的たり得るか?

>僕は自称、無政府資本主義者であり、実際そういったスタンスで本も書いてきた。

>しかし、slumlordさんの「なぜ私は無政府主義者ではないのか」

http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100917/1285076558

を読んで、遠い昔に考えていた懸念が確かに僕の中に蘇り、僕は自分の立場に十分な確信を持てなくなった。

>僕はあまりに長い間文字だけの抽象的な世界に住んできたため、無政府社会が論理的にもつだろうと考えられる美徳に魅せられたため、人間の他人への支配欲やレイプへの欲望、さらにもっとブラックでサディスティックな欲望を軽視するというオメデタい野郎になってしまっていたのだろうか??

>大学時代までの自分は、空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑を与えていたことは、間違いない。

>警察や軍隊が、それぞれのライバル会社の活動を許容し、ビジネス倫理にしたがって競争するというのは、この意味では、共産主義社会の空想と同じくらいに、オメデタい空想なのかも知れない。そういった意味では、僕は自分の考えを再思三考する必要があるだろう。

今この問題は、なるほど現時点では僕にとってのopen question としか言いようがない。

蔵さんご自身が「open question」と言われている以上、ここでへたに答えを出す必要もありませんし、それこぞリバタリアンの皆さんがさまざまに議論されればよいことだと思います。

ただ、かつて若い頃にいくつかリバタリアンに属するであろう竹内靖雄氏のものを読んだ感想を思い出してみると、社会主義的ないし社会民主主義的発想を批判する際には、まさしく「空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑」が横溢していて、正直言うとその点については大変共感するところがあったのです。(なぜか菅首相と同じく)永井陽之助氏のリアリズム感覚あふれる政治学に傾倒していたわたくしからすると、当時の日本の「さよく」な方々にしばしば見られた「空想主義的、牧歌主義」は大変いらだたせるようなものでありました。

その「リアリズム感覚」からすると、空想主義的「さよく」を批判するときにはあれほど切れ味のよい人が、どうして同じくらい空想的なアナルコキャピタルな議論を展開できるのかは不思議な感じもしたのですが、ある意味で言論の商人として相手を見て使い分けしていたのかな?という気もしています。

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2017年6月16日 (金)

『講座労働法の再生第6巻 労働法のフロンティア』

07464 『講座労働法の再生第6巻 労働法のフロンティア』がようやく届きました。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7464.html

労働政策の展開とこれまでの理論・実務を踏まえ、今後の雇用社会の将来を展望しながら、その課題と方向性を論じる。

どれも論文として読んでおもしろいものです。

第1部 労働法の改革論議

第1章 労働法改革の理論と政策…………水町勇一郎

第2章 雇用社会の変化と労働法学の課題…………大内伸哉

第3章 労働法改革論の国際的展開…………濱口桂一郎

第2部 雇用政策と労働法

第4章 これからの雇用政策と労働法学の課題…………島田陽一

第5章 若年期・高年期における就労・生活と法政策…………小西康之

第6章 障害者雇用政策の理論的課題…………中川 純

第7章 外国人労働者…………早川智津子

第3部 非正規雇用と労働法

第8章 外部市場・非正規雇用と労働法制…………大木正俊

第9章 労働者派遣…………本庄淳志

第10章 有期雇用…………篠原信貴

第11章 パートタイム労働法…………阿部未央

第4部 労働法における学際的研究

第12章 企業法と労働法学…………土田道夫

第13章 ジェンダーと労働法…………黒岩容子

第14章 社会保障法学と労働法学…………菊池馨実

第15章 国際労働関係法の課題…………米津孝司

わたくしは「労働法改革論の国際的展開」というお題をいただいて、フレクシキュリティを取り上げて論じました。ご感想などいただければ幸いです。

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自営(個人請負)労働者の集団的労使関係

大内伸哉さんがアモーレブログで、

http://lavoroeamore.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-5c5b.html(小嶌典明「労働組合法を越えて」を読み直す)

今から四半世紀前に小嶌典明さんが書かれた論文を引いて、個人請負的労働者の団結権、団体交渉権の議論の素材として、協同組合の団体交渉権を論じています。

これ、先のILOとJILPTの労働政策フォーラムで、わたしが最後にちらりと述べたテーマでもあります。

わたしの関心は最近のEUの動き、とりわけ欧州労連が昨年末に「自営労働者の新たな保護に向けて」という決議をし、

https://www.etuc.org/documents/towards-new-protection-self-employed-workers-europe#.WUMkxtG1u70

EU競争法による制約を乗り越えて、自営労働者の団結権、団体交渉権の確立を目指していくと言っていることに触発されていますが、

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b4a9.html(「EU法における労組法上の労働者性」 『労基旬報』2015年6月25日号 )

ちなみに、この判決の判例評釈が、『労働法律旬報』1874号(2016年10月25日号)に、後藤究さんによって書かれています。

この手の議論をするとき常に念頭にあったのは、大内さんが持ち出している小嶌さんのかつての論文でした。その意味では、確かに、「憲法28条は,典型的な労働者以外にも,農民,漁民,中小企業者なども視野に入れて,団体交渉法制を立法化していくという壮大なプログラムをもつ規定だったのだと指摘」する「ロマンある解釈」だあったと思います。

恐らく時代に先駆けすぎていたために、誰もこれをフォローする研究者はおらず、小嶌さん自身もその後は派遣事業と有料紹介事業の専門家みたいになってしまいますが、世界的に雇用ではないが雇用類似の就労形態が急増している現在、改めて読み直されて然るべき論文であることは間違いないと、私も思います。

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2017年6月15日 (木)

今野晴貴『ブラック奨学金』

Img_6ec5df06c92279cee0b8966a5410fdaPOSSEの今野晴貴さんより『ブラック奨学金』(文春新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611126

容赦ない裁判での取り立て、雪だるま式に膨れ上がる延滞金地獄……
学生をしゃぶりつくす“高利貸し”の正体!

突然、身に覚えのない多額の借金の請求書が自宅に届く――。今、全国各地でこんなことが相次いている。奨学金を借りた若者たちが返済に行き詰まり、その保証人が日本学生支援機構(JASSO)に訴えられるケースが続発しているのだ。
長引く不況から、奨学金を借りる学生は増加し続け、いまや大学・短大生の約4割が奨学金を利用している。1人あたりの合計借入金額は、平均300万円以上にもぼる。新社会人になった若者の約4割がこれほどの借金を背負って社会に出て行くのだ。
だが、大学を卒業しても奨学金の返済に窮する若者が急増している。その背景には、雇用情勢の不安定化や「ブラック企業」の存在がある。
滞納が一定期間続くと、JASSOは延滞分だけではなく、将来返済する予定の金額(元本および利子)も含めて、裁判所を通じて「一括請求」を行う。そのため、400万円、500万円といった莫大な請求が、突如、親類に及ぶことになる。また、それら全体に「延滞金」が年間5%もかかってくる。
借りた本人が返済できない場合、請求は保証人に及ぶ。奨学金の借入時には親族が連帯保証人及び保証人になることが一般的だ。両親はもとより、祖父、祖母、おじ、おばにまで請求がいくこともまったく珍しくはない。
延滞金は、訴訟が提起され、本人が自己破産し、保証人に請求が行くまでに雪だるま式に膨れあがっている。まるで、かつての消費者金融被害のような様相を呈しているのだ。
奨学金返済の延滞に対し、2015年度に執られた法的措置は、なんと8713件にも及ぶ。

著者はNPO法人POSSEの代表を務め、これまで200件以上の奨学金返済の相談に関わってきた。本書では生々しい実例を豊富に紹介しているほか、すでに返済が難しくなってしまった人のために、どのように対処すればよいのかも詳しくアドバイスしている。

というわけで、前半は奨学金地獄に突き落とされた人々の姿がこれでもかこれでもかとひたすらに描き出されます。

後半で、なぜ日本はそんなことになってしまったのか、という絵解きがされていくわけですが、それは突き詰めると、

・・・背景には、日本の福祉政策全体に通底する、家計・企業への依存体質がある。日本の社会保障は、国によって幅広く保障される代わりに、「企業主義的」に形作られてきた。企業は労働者に年功賃金を保障することで、年齢とともに上昇する住居・教育の必要性を満たしてきたのだ。・・・

と言うところに行き当たります。この点は昨年わたしが『POSSE』32号に寄稿した文章でもやや詳しく論じたところですが、今野さんが「ブラック」と糾弾する有利子奨学金制度が一般化した1980年代というのは、まさに日本型雇用万歳の最盛期だったのですね。

・・・ 矢野眞和さんは『「習慣病」になったニッポンの大学』(日本図書センター、2011年)で、日本型大衆大学を日本型家族と日本型雇用と三位一体のシステムと捉え、その諸外国に類をみない18歳主義、卒業主義、親負担主義という3つの特徴を指摘しています。ここで言う日本型家族というのは大学の授業料を親が負担するという点に着目したものですから、それを可能にするような年功的な生活給を企業が労働者に支払うことを含意しています。かつては大学進学率自体が極めて低かったのですから、子どもが成人に達した後まで親の生活給で面倒をみるのが当たり前というのは、1970年代以降に確立したごく新しい「日本型」システムであることに留意すべきでしょう。
 そして、「日本型」システムが常識化していくとともに、それ以前に世界標準に近い形で形成されていた制度は、非常識なものとして急速に「日本型」に適合するような形に変形されていきます。国立大学の授業料は1975年の3.6万円から1980年に18万円に上昇し、21世紀には50万円を超えるに至りました。私立大学は80万円を超えています。親がそれだけの給料をもらっていることを前提とすれば、まことに常識に沿ったやり方だったのでしょう。
 一方、本号の特集との関係でいえば、奨学金制度を有利子による金融事業へと大きく転換させた1984年日本育英会法改正は、学校卒業後誰もが日本型雇用システムの中で年功賃金を受け取っていくことを前提とした仕組みです。1980年代の改革を後の新自由主義につながるものとして解釈することも可能ですが、日本型雇用システムへの賞賛が最盛期に達していた時代であり、その時代の精神的刻印を濃厚に受けているということを忘れてはならないでしょう。授業料の引き上げも、奨学金の金融化も、少なくともその始まった時代には「常識」に合わせるための改革だったのです。しかし、その「常識」はやがて周辺部から崩れていきます。

・・・しかしながら、日本型雇用の全盛時代たる1980年代に時代精神に合わせる形で有利子金融化された奨学金制度が、そこからこぼれ落ちた彼らに襲いかかります。彼らは学生時代に、メンバーシップ型正社員としての自分たちの未来を担保に入れる形でお金を借りていたわけです。しかしその未来は不確実なものでした。不確実なものを確実であるかのように見せていたものは何か。日本型雇用への信仰としかいいようがありません。その不確実性が露呈したとき、奨学金という名の(本来教育分野における社会保障政策であるはずの)制度が、乏しい収入から毎月かなり高額の利子つき返済を強いられる制度に転化していきます。
 重要なのは、これがもともと悪意で作られた制度ではない、ということです。若者がほとんどみんな正社員として「入社」でき、その後メンバーシップ型正社員として年功的な生活給を享受できるはずという「常識」が国民の多くに共有されていたからこそ、その正社員としての悠々たる未来を担保に学生に多額の金を貸すというビジネスモデルが受け入れられたのです。確かに80年代改革を主導したイデオローグには、当時アングロサクソン諸国で有力であったネオリベラリズムの影響がかなり強く見られましたが、80年代改革が広く国民に受け入れられたのはそれが日本型雇用を所与の前提にしていたからです。そして皮肉なのは、90年代以降日本型雇用が収縮し、むき出しのネオリベラリズムが唱道されるようになると、学生に自分の将来を担保に利子付きの金を貸し付けるというビジネスモデルが、原理的に正しいものとして正当化されるようになります。80年代に国民的合意の根拠となった日本型雇用の収縮と入れ替わるように、今度は市場主義的な自己責任論が正当化の根拠になっていきます。経済アクターは常に合理的な計算をして行動すべきであって、いつまでもフリーターをしていて借りた金もまともに返せないような者が悪いということになるのです。

そして、それゆえにわたしは、ただただひたすらに奨学金のブラックさを糾弾するだけでは本当の意味では視界は開けていかないと思っています。

 同世代人口の過半数が進学する高等教育機関が、職業教育訓練とは無関係の純粋アカデミズムの世界を維持できていたとすれば、それはその費用が親の年功賃金で賄われていたからであり、しかも、「入社」後は会社の命令でどんな仕事でもこなせるような一般的「能力」のみが期待されていたからでしょう。大学で勉強してきたことは全部忘れても良いが、それまで鍛えられた「能力」は重要であるという企業側の人事政策が、その中身自体は何ら評価されていないにもかかわらず大学アカデミズムがあたかも企業によって高く評価されているかのような(大学人たちの)幻想を維持していたわけです。
 しかしその結果、ジョブ型社会であれば当然であるはずの、大学生が卒業後多様な職業に就き、社会に貢献することになるがゆえに、その費用も社会成員みんなが公的に賄うべきという発想が広がることが阻まれました。なぜなら、大事なのはどういう教育を受けたかによって異なる個別的な職業能力ではなく、何でも頑張ればこなせる個人の「能力」である以上、教育の中身自体を公的に賄うべき筋合いはないからです。

本書は現実を突きつける糾弾の書であり、同時に奨学金地獄に落ちた人のためのいかにそこから抜け出すかの実用書でもあるので、そういうやや迂遠な話はあまり盛り込まれていません。しかし、問題を一歩進めて社会のあり方に関する議論にまで持っていくのであれば、ここを抜きにした議論はやはり空疎なままでしょう。

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産業別最低賃金の再活性化へ@『情報労連REPORT』2017年6月号

Dbsvo_1xcaanqnb『情報労連REPORT』2017年6月号が「最低賃金を考える」という特集を組んでいて、そこにわたくしも「産業別最低賃金の再活性化へ 経営側も巻き込む戦略とは何か?」を寄稿しております。

http://ictj-report.joho.or.jp/1706/sp02.html

地域別最低賃金の引き上げに伴って、産業別最低賃金の意義を疑問視する声が経営側を中心に高まっている。日本の産業別最低賃金の歴史を振り返るとともに、産業別最低賃金の引き上げに向けた突破口を考える。

いろいろなアイディアを並べていますが、今旬の問題で使えるのはこれではないかというのは:

・・・実は現在進行中の働き方改革の中に、突破口になり得るかも知れない細道がほの見えています。それは、同一労働同一賃金に関わって、派遣労働者についてのみ、同種業務の一般労働者の賃金水準と同等以上であることなど3要件を満たす労使協定により、派遣先との均等・均衡待遇の適用除外を認めるという実行計画の記述です。この労使協定が現在の36協定の大多数と同様の過半数代表者を想定しているとしたら大問題です。しかし読みようによっては、これは派遣業界の賃金水準は(派遣先にとらわれず)業界の労使交渉によって決めるべきものという発想の現れとも言えます。今後の立法過程にもよりますが、これは派遣業界の産別最賃を別の形で作り出す萌芽になるかも知れません。とりあえずその責任を遂行すべきは、常用型の技術者派遣を組織する労働組合でしょう。そして、それを基盤に情報処理業界の産別最賃につなげていくことも展望できるのではないでしょうか。・・・

特集に寄稿しているのは、わたしのほかに

働いても貧しいワーキングプアが増加 最低賃金のあるべき水準とは? 三山 雅子

最低賃金引き上げが労働市場に与える影響は?論争は継続中 イギリスでは好影響 佐藤 一磨

国際比較で考える日本の最低賃金 課題は「地域」「産別」の役割発揮にあり 神吉 知郁子

最低賃金の引き上げで底上げへ 連合「欧米並みの水準」めざす 須田 孝

特定最低賃金の本来の役割を取り戻し労働市場に適正な賃金相場の形成を 木住野 徹

最低賃金と公契約条例の役割は異なる 熟練労働者の下支えで品質維持・向上を 古川 景一

フリーランスと最低賃金 業務の「見える化」がカギ 中野 円佳

という、研究者、組合活動家、弁護士、ジャーナリストの方々です。全部リンク先で読めます。

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金子さんは誰を批判しているのだろうか?

20170603225520_2先日本ブログで紹介した、『労働情報』の「年功給か職務給か?」にコメントしたことについて、最初の対談に登場した金子良事さんがかなり長大なエントリで、批判をされています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-9189.html(年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-469.html(賃金水準を下げている「職務」概念について)

ただ、金子さんに似合わずやや興奮気味に書かれたためなのか、一体誰を標的に批判しているのかよくわからない文章になってしまっています。

たとえば、

対談の冒頭で新しい賃金論と言っているけど、ずいぶん、クラシックなものを持ってきたなあと言っていますが、一番の問題は、職務給や職能資格給の厳格な運用で、仕事が変わらなければ賃金を上げないというロジックで、企業が賃金を抑えてきたのに、水準問題を抜きに、その意図はどうであれ、企業側と同じように職務給を提唱するのは利敵行為ではないか、ということです。この「利敵行為」は対談原稿が上がってきた段階ではまったく違う表現に変えられていましたが、編集の段階で私が元に戻しました(なお、これは校正ではありません)。

「利敵行為」に対する怒りはふつふつと伝わってきますが、しかし、職務給が「新しい賃金論」だなんて言っている人はどこにいるのでしょうか。それこそ、経営側も政府も半世紀前以前はひたすらそういう議論をしており、労働側はもっぱら防戦一方だったということは、わたしだけでなくこの問題をまともに論じている人はみんな語っていると思いますが。

そもそも論でいえば、二百年前の産業革命以来、それ以前のトレードの伝統を受け継いで、労働組合が構築してきたのがまさにジョブに基づく雇用のあり方であり、ジョブに基づく賃金のあり方なのであってみれば、それこそが産業社会の保守本流であることは誰の目にも明らかなのであって、労働問題に最近参入してきた一部評論家が新しがっていようがそんなことは何の意味もないはずですが、なぜか金子さんはそこにこだわりがあるようです。

保守本流といいました。そう、労働組合とはただ賃金が高ければ良いという存在ではありません。彼らなりの正しい賃金秩序を追い求める存在なのであり、その正しさの根源にあるのは、中世のギルドに淵源する交換の正義のはずです。

ところが、金子さんは、わたしの文章の一番鍵になるこの「交換の正義」という言葉を全く逆に捉えているように見えます。

上に書いた私の挑発的な問題提起に対して、まっすぐ答えてくれたのは濱口先生だけです。濱口先生は水準の問題と制度の問題を、分配の正義と交換の正義という言い方で、この両者のバランスを取ることを提言されています。今の問題は、私は交換の正義だと思っていて、連合評価委員会最終報告や禿さんや遠藤さんや遠藤さんの小池批判を援用し続けてきた濱口さんの議論が、企業側に利する水準の切り下げにしか役立っていない、ということです。

全く逆です。水準の切り下げにつながるというのは、「分配の正義」の問題であって、いかなる意味でも「交換の正義」の問題ではありません。

このアリストテレスに由来する言葉を賃金問題に使っているのはほかにあまりいないと思いますが、わたしはもう10年前からこうして使っています。最低賃金と生活保護という文脈はかなり違いますが、言っている本質は同じです。

http://hamachan.on.coocan.jp/hutatsunoseigi.html(二つの正義の狭間で(『時の法令』(そのみちのコラム)2007年4月15日号))

・・・ 確かに賃金は労働の対価である。そこにおける正義とは交換の正義、「等しきものに等しきものを」という正義であろう。これは市場経済の根本にある正義の観念であって、経営側だけがそういう正義を振り回しているわけではない。同一労働同一賃金の原則とはまさにこの交換の正義の具現だ。「私の労働はこれだけの価値があるはずなのに、これっぽっちの対価しか与えられないのは不当だ」という感覚は、まさに市場プレイヤーとしての「差別が正義に反する」という観念だろう。そして、そういう交換の正義を貫いていけば、市場の内側にあるにもかかわらず等価交換になっていない部分があるとすれば、正義に反するものとして非難の対象となる。最低賃金と称して、その労働者の生産性に対応すべき賃金よりも不当に高い賃金を強要するなど、不正義の極みであろう。実際、多くの経済学者はそう論ずる。それはそれとして筋が(筋だけは)通っている。

 ところが残念ながら、世の中は交換の正義だけで成り立っているわけではない。分配の正義、「乏しきに与えよ」という正義が、憲法25条に立脚して「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に保障している。そして、その福祉の世界は市場の世界と境を接している。そうすると、市場の世界では交換の正義に基づいて、その低い生産性に基づき、一生懸命働いていながら不健康で非文化的な最低限度以下の生活を余儀なくされている人が、一歩境をまたいで福祉の世界に逃げ込めば、働かなくても健康で文化的な最低限度の生活を保障されるということになる。ここに究極のモラルハザードが発生するが、これは我々の住む社会が二つの異なる正義の観念に立脚していることに由来するわけだ。
 正義はその性質上純粋であることを求める。不純であることを要求する正義はない。交換の正義も、分配の正義もそうだ。交換の正義にとっては生産性に相当する賃金が支払われることが正義であって、彼が生活保護を受け出したらもっといい生活ができるなどということは関わりがないし、分配の正義にとっては健康で文化的な生活を確保することが正義であって、彼が働きだしたら生活水準が下がってしまうなどということは関わりがない。しかし、この境界線近傍には両方の正義が境を接している。経済学者や福祉研究者には見えなくても、「向こう側の正義」はごく身近な存在なのである。正義が純粋であればあるほど不正義をもたらすという事態がこれほどくっきりと現れることも珍しい。
 我々は正義を純化するのではなく、不純化する方向を自覚的にとらなければならないのではなかろうか。交換の正義の中に分配の正義という不純物を持ち込み、等価交換原理に反する最低賃金を、今のような生活保護未満の水準ではなく、働いて最低賃金を稼いだ方が得になるような、そう、経済学者から見れば市場を歪めるような仕組みを持ち込まなければならないのではなかろうか。最低賃金はいかなる意味でも正義ではない。不純な不正義だ。だからこそ必要なのだ。
 逆に、分配の正義の中に交換の正義という不純物を持ち込み、困窮しているから、生きていくのに必要だからお金をあげるのではなく、一生懸命働こうとしているから、それに向けて努力しているから、その努力と苦労に免じて、いわば仮想的な交換原理に基づいて給付を与えるべきなのではなかろうか。それはもちろん正義ではない。不純な不正義だ。福祉に命を懸けてきた人から見れば、許しがたい冒涜とすら見えるかも知れない。しかしだからこそ必要なのではなかろうか。
 実は、これこそ近年欧米諸国で論じられているワークフェア(就労を福祉給付の条件とすること)の議論である。

水準がどうであろうが、そういう分配の正義の問題とは独立に、そもそも同じ仕事に同じ賃金をという交換の正義の問題は存在しており、それはそれ独自で正義として自らを振り回すことが可能であり、その結果として場合によっては分配の正義に反する結果をも招き寄せうる、というのは、労働の世界に正義が複数あることを前提とすればあまりにも当たり前なのですが、そこのところが金子さんの目には余りよく見えていないのでしょうか。

わたしの文章は、そんなことは全て当然の前提にした上で、交換の正義抜きに成立した日本の生活給的年功給が、、職務給のイデオロギー攻撃に晒される中から、「職務遂行能力」という交換の正義っぽい説明の仕方をまとうようになったという話なのです。

その先、その「職能給」という名のアマルガムが、どの程度交換の正義的であり、どの程度分配の正義的であるかは、個々の運用次第と云う事になります。その点で言えば、成果主義以来の企業行動についての金子さんの説明はかなりの程度事実に沿っている面はあります。しかしそれはせいぜいここ20年のことです。

日本の賃金の歴史的事実に即して言う限り、

私は今、年功賃金の能力給説も、生活給説も、かなり後付けの説明だと思っています。

というのは半分正しく半分間違っています。「年功賃金の能力給説」はまさしく上に述べたように高度成長期末期になってようやく出てきた「後付けの説明」ですが、「生活給説」は、日本に年功制などほとんど存在しなかった頃の伍堂卓雄(「貞夫」じゃなく)に始まり、戦時賃金統制で強制され、戦後労働組合運動によって広がった年功賃金のそもそもの理由です。

そして、かかる賃金制度を掲げた日本の企業別労働組合(終戦直後における工場委員会的それ)は、いかなる意味でも中世ギルド的な(外部)労働市場をコントロールする市場アクターではなく、企業という組織内部のアグレッシブなアクターとして登場してきたがゆえに、その構築した賃金制度は交換の正義ではなく分配の正義にもっぱら拠るものとなったのだと思います。

金子さんはそういう歴史に、下手をすればわたしなんかよりもずっと詳しいはずなのに、なぜか「利敵行為」に対する怒りによってその文章が全て覆い尽くされているようです。

職務給が古くさい話であるように、それに対する怒りの歴史も半世紀以上の時を経ています。

これも11年前に『季刊労働法』に書いた「賃金制度と労働法政策」の中で、当時の労働組合、とりわけ総評の困惑を明示しています。

・・・労働組合はこの点で歯切れがよくありません。それでも全労会議や同盟は、「同一労働同一賃金原則の実現に向かって」、「属人給的な年功序列型賃金体系を克服し、仕事を中心とし職務に結びついた賃金体系へ移行」するとしつつ、一挙に変革を図ることは特に中高年齢層に混乱を招くので漸進的に進めるべきだとしていて方向性が明らかですが、総評は口先では「同一労働同一賃金の立場から格差をなくす闘いをいっそう強める」などといいながら、「職務給は・・・特に中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるものであるから断固反対」という立場にたち、「職務給は年功序列に代わる必然的な賃金体系という宣伝で、青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んでその拡大をねらっているのだから、職務給の理論的、実際的な分析を行い、反対して闘う」と述べていました。しかし、理論的反駁はどこにもなく、要は都合が悪いから反対しているだけだったようです。一見急進的なスローガンを掲げつつ行動は保守的という左派運動の典型と言えるかも知れません。

まさに、「中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるもの」ですから、そんなものにうかつに賛成する労働組合は「利敵行為」だと言いたいのはよくわかりますが、「青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んで」という言い方に、その足下でそういう総評的「分配の正義」によって自分たちの「交換の正義」が無視されていると感じる労働者がいたことが示されています。

ほらね、全然新しくもない、本当に古くさい話です。わたしはそういう話をしてきているつもりです。

本来、古い因縁のある話なんだよ、ということを諄々と説き聞かせるのが、少なくともアカデミズムで労使関係史、賃金制度史をやっている金子さんの任務ではないかと思います。

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2017年6月14日 (水)

欧州におけるデジタル経済と労働に関する動向@『JCM』2017年春号

H1300x404_1 金属労協JCMの機関誌『JCM』の2017年春号が「第4次産業革命とものづくり産業の未来」を特集していまして、そこにわたくしも「欧州におけるデジタル経済と労働に関する動向」を寄稿しています。

特集記事は、

インタビュー 第4次産業革命のもたらす影響 中沢孝夫

第4次産業革命と働くものの未来 浅井茂利

インダストリー4.0の現状と将来 川野俊充

ドイツにおける“労働4.0”ホワイトペーパー デジタライゼーションが労働社会に及ぼす影響と政策課題 山本陽大

欧州におけるデジタル経済と労働に関する動向 濱口桂一郎

というわけで、JILPTから山本さんもドイツ話で登場しています。いや、山本さん、ドイツの労働4.0でモテモテで、あちこちから引っ張りだこ状態です。

わたしのは、EUレベルの労働組合や政府機関等のさまざまな報告書を要約紹介したものですが、頭の整理にはなると思います。

 ここ数年来、経済のデジタル化に関わって労働の未来についての議論が世界的に急速に高まってきました。日本でも、厚生労働省が昨年2016年8月に『働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために懇談会報告書』をまとめていますが、どちらかというとふんわりした評論家風の議論になっており、欧米における詳細に突っ込んだ議論といささか落差があるように見えます。
 本稿では、主として欧州において経済のデジタル化によって急速に拡大しつつあるビジネスモデル-シェアリング・エコノミーとかコラボラティブ・エコノミーとかプラットフォーム・エコノミーとか呼ばれている仕組み-に着目して、公的機関や労働組合が議論している文書をいくつか取り上げ、日本における議論の示唆として貰えればと思います。

1 欧州生活労働条件改善財団の報告書
2 欧州委員会の「コラボラティブ・エコノミー」文書
3 欧州議会の「コラボラティブ・エコノミー」に関する分析
4 欧州労研の「デジタル経済」に関する報告書
5 インダストリオール欧州のデジタル化関係文書
6 フランクフルト・ペーパー
7 最後に

 残念ながら日本ではまだこうした議論が労働の世界で本格的に展開されるまでに至っていません。連合がようやくクラウドワークの調査を始めたところであり、欧米に比べて数年遅れの状態と言えます。とはいえ、現実はかなり先を行っているようです。本稿で紹介した諸文書も参考にしながら、今後日本でもこうした問題が労働組合の中で、あるいは労働法や労働経済などの研究者の間で、熱心に議論されるようになることが期待されます。

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『季刊労働法』2017年夏号(257号)

257_hp『季刊労働法』2017年夏号(257号)が届きました、特集は「戦後労使関係法制の比較法研究―1950年を切り口に」です。

昨年から,フランスで労働法制改革に反対して大規模ストが繰り返されたり,イギリスでストの手続規制をさらに厳しくする法律が成立するなど,集団法の問題が改めてクローズアップされている気がします。こうした動きも見ながら,戦後の法制の出発点に遡って労使関係法を考える特集を予定しています。

この特集に結構たくさんの研究者が論文を寄せていまして、英仏独米それぞれについて、ベテランと若手のタッグで構成されています。

戦後労使関係法制の比較法研究―1950年を切り口に

本特集の趣旨 一橋大学教授 中窪裕也

イギリスの1950年当時の労働組合法制 立教大学准教授 神吉知郁子

イギリス労使関係法の転換期と1950年代の位置づけ 専修大学法科大学院教授 小宮文人

フランス労使関係法の展開過程 ―二元的代表システムの確立とその後の変容― 九州大学名誉教授 野田 進

フランス労使関係法システムの特徴についての少考 ―野田論文を受けて 労働政策研究・研修機構研究員 細川 良

崩壊から再生へのもがき―1950年のドイツ労使関係法制 明治大学法科大学院教授 野川 忍

ドイツ法コメント:労使関係法の基盤形成と今日における意義 東北大学准教授 桑村裕美子

アメリカの労使関係法制における1950年と現在 一橋大学教授 中窪裕也

「アメリカの労使関係法制における1950年と現在」を受けてのコメント 早稲田大学教授 竹内(奥野) 寿

1950年における労使関係法の状況 ―労働組合法の立法・改正の経緯を概観して― 上智大学教授 富永晃一

中窪さんの「本特集の趣旨」によれば、これは例の労働組合法立法史研究から生まれてきたものだそうです。日本も含め、だいたい1950年前後に戦後労使関係法制が形作られたことから、「1950年」を切り口にしたというわけです。

第2特集は「電通事件と過労死防止対策」です。

長時間労働解消政策と労働時間法制のあり方 ―36協定時間の罰則付き上限規制で長時間労働体質は変わらない― 法政大学大学院客員教授 毛塚勝利

電通新入女性社員過労死事件は何を提起しているのか 弁護士 川人 博

長時間労働の解消と働き方改革:管理職の役割が鍵 中央大学大学院教授 佐藤博樹

その他の論文は以下の通りです。わたくしの連載は、今回は「公共職業安定機関の1世紀」です。

■特別寄稿■

ハンガリーにおける新たな基本法の制定後の雇用法および雇用政策の要点 ハンガリー・セゲド大学法学部教授 ジョセフ・ハイデュ 訳:植田 達(前慶應義塾大学大学院助教・コーネル大学ロースクール法学修士課程)

■労働法の立法学 第47回■

公共職業安定機関の1世紀 労働政策研究・研修機構研究所長 濱口桂一郎

■アジアの労働法と労働問題 第29回■

中国労働法における「同一労働同一賃金」原則に関する基礎考察 大阪経済法科大学准教授 烏蘭格日楽

■イギリス労働法研究会 第25回■

シェアリング・エコノミーと雇用関係 ―アメリカとイギリスにおけるUber訴訟をめぐる覚書― 小樽商科大学准教授 國武英生

■研究論文■

労働契約における労働者の意思の探求 ―山梨県民信用組合事件最高裁判決を素材に― 名古屋大学教授 和田 肇

外国人技能実習法の成立と労働法政策 ―外国人技能実習法の立法過程の検討を中心に据えて― 内閣官房参事官補佐(前内閣府参事官補佐) 森下之博

■判例研究■

労調法37条1項違反の法的効果と職場占拠を伴う争議行為の正当性 きょうとユニオン(iWAi分会・仮処分)事件(大阪高決平28・2・8労判1137号5頁) 北海道大学大学院 松田朋彦

改正高年法上の継続雇用制度における(職種変更を伴う)再雇用内容の適法性 トヨタ自動車ほか事件(名古屋高判平28・9・28労判1146号22頁) 東京大学高齢社会総合研究機構・特任助教 朴 孝淑

人事制度の変更と就業規則変更の効力 ファイザー事件(東京地判平28・5・31労経速2288号3頁,東京高判平28・11・16労経速2298号22頁) 弁護士 千野博之

■書評■

『イタリアにおける均等待遇原則の生成と展開―均等待遇原則と私的自治の相克をめぐって―』大木正俊著 評者 中央大学法科大学院教授 山田省三

『労働法の復権―雇用の危機に抗して』和田 肇著 評者 法政大学教授 浜村 彰

■キャリア法学への誘い 第9回■

キャリア展開の支援方向 法政大学名誉教授 諏訪康雄

●重要労働判例解説

退職後の競業避止義務条項の有効性の判断の多様性 第一紙業事件(東京高判平28・9・28,原審 東京地判平28・1・15労経速2276号12頁以下) 弁護士 松岡太一郎

歓送迎会参加後の送迎行為の業務遂行性 国・行橋労基署長(テイクロ九州)事件(最二小判平28・7・8労判1145号6頁) 日本大学教授 大山盛義

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2017年6月13日 (火)

新たな労働問題に悩むシェアリング経済先進国@梶谷懐

06080951_59389f858e2dc『週刊東洋経済』の6月17日号に、梶谷懐さんの「新たな労働問題に悩むシェアリング経済先進国」という短いエッセイが載っています。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20170611/p1

5月20~21日に、明治大学で「第三回 日中雇用・労使関係シンポジウム──非正規時代の労働問題」が開催され、筆者もパネリストとして参加してきた。

二日間の会議には、首都経済貿易大学の常凱教授ら中国からも多くの専門家が参加し、日中両国の非正規労働問題について議論を深めた。その中で、非常に印象深いことが一つあった。日本側の参加者が経済のグローバル化に伴う雇用の不安定化や、労働運動の直面する困難性といった従来型の労働問題を取り上げたのに対し、中国側の参加者はシェアリングエコノミーの急速な普及によって生じた新しいタイプの非正規労働問題を指摘した。両者の間に大きな問題意識のズレが見られたのだ。・・・

既視感を覚えた方もいると思いますが、これ、わたくしも参加したシンポジウムで、このエントリのコメント欄で、同じような感想を書きました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-5962.html(日中雇用・労使関係シンポジウム(再掲))

※昨日、今日とほぼ全日このシンポジウムに出て、いろいろと感想がありますが、一言で言うと、「非正規雇用」という統一テーマに対して、日本側は(私も含めて)より伝統的なというか非正規労働を取り上げていたのに対し、中国側はほぼ軒並みに、シェアリング経済、プラットフォーム経済という時代の最先端の新しい非正規労働を取り上げていたのが印象的でした。

それはもちろん一つには、日本ではUberがまだ解禁されていないのに対して、中国ではUberに加えて、むしろ中国で生まれた滴滴出行など既に経済のかなりを占めるにいたっているということがあるのでしょう。

しかしそれだけではなく、戦前からある包工頭(日本側の梶谷さんが指摘)や過去数十年間に大きな問題であったはずの農民工(日本側の阿古さんが指摘)といった、まさに日本側の非正規問題と対応するような問題が、かえって「非正規」問題と認識されにくいという認識論的な問題もあったような気がします。・・・

これに梶谷さんのコメントが付き、さらに東洋経済のコラムに発展したわけです。どのように発展したかというと、

・・・中国社会ではこれらの「古い」労働問題を解決するための近代的諸制度(法の支配や政府から自立した労働組合など)が十分社会に根づいていない。それゆえにシェアリングエコノミーなどの「新しい」現象が急速に広がりつつある。非正規労働の問題でも世界の最先端を行くような事例が生じているのは、そのためではないだろうか。

・・・同じような状況が労使関係をめぐる現場でも生じていると考えられる。テクノロジーの進歩によって、中国はある意味で日本よりもずっと進んだ。これまで誰も経験していない情景が広がっている。一方で、かつての日本社会が社会運動や行政の取組によって克服してきた「古い」タイプの労働問題も未だ存在している。

このような「まだらな発展」というべき状況が中国ではそこかしこに広がっており、それが独特のダイナミズムと同時に深い矛盾も生み出している。・・・

なるほど、「まだらな発展」がキーワードですね。

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同一労働同一賃金ガイドラインの「へそ」@WEB労政時報

『WEB労政時報』に「同一労働同一賃金ガイドラインの「へそ」」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=663

 昨年12月20日に「同一労働同一賃金ガイドライン案」が示され、今年3月28日には働き方改革実行計画が策定されました。4月28日から労働政策審議会に設けられた労働条件分科会・職業安定分科会・雇用均等分科会同一労働同一賃金部会が毎週のように開かれ、去る6月9日に部会報告が公表されました。
今後はパートタイム労働法、労働契約法、労働者派遣法の3法を一括改正する法改正案が国会に提出されることになっています。2017年度中に法改正がされて、2018年度から施行される――というかなり気の早いスケジュールなので、企業の人事担当者の方々も常に法改正の進展に注意を向けていなければいけない状況でしょう。
 もっとも今回、・・・

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2017年6月 9日 (金)

山口一男『働き方の男女不平等』

51mq2jnqt3l__sx356_bo1204203200_山口一男さんの『働き方の男女不平等 理論と実証分析』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。ありがとうございます。山口さんは以前の『ワークライフバランス』でも大変ブリリアントな切れ味の分析を示してこられましたが、本書はさらに磨きがかかっています。

http://www.nikkeibook.com/book_detail/13471/

◆先進諸国のなかで、日本の男女平等の度合いが最低ランクなのはなぜか? 学歴の男女差が縮まり、企業が両立支援策を推進しても、なぜなかなか効果が現れず、逆に悪化している指標まであるのはなぜか? 日本を代表する社会学者が日本や海外の豊富なデータと最新の統計分析手法をもとに解明する。

◆分析の結果、現在の「働き方改革」や「一億総活躍社会」の取り組みにとっても示唆に富む、次のような事実が明らかになる。
*「女性は離職しやすく、女性への投資は無駄になりやすい」という企業側の思い込みが、女性活用の足かせとなっている。
*労働時間あたりの生産性が高い国ほど女性活躍推進を進めやすいが、長時間労働が根付く日本では進めにくい。
*管理職割合の男女差は、能力からはほとんど説明がつかず、性別や子供の年齢、長時間残業が可能かどうかが決定要因となっている。
*女性の高学歴化が進んでも、低賃金の専門職(保育・介護・教育など)に就く女性が多く、高賃金の専門職(法律職・医師など)になる割合が著しく少ないため、賃金格差が広がることになっている。

◆著者の山口一男氏は、社会学で世界最高峰の位置にあるシカゴ大学で学科長まで務めた、日本人学者としては希有の存在。

黙示は次の通りですが、

第1章 女性活躍推進の遅れと日本的雇用制度――理論的オーバービューと本書の目的

第2章 ホワイトカラー正社員の管理職割合における男女格差の決定要因

第3章 男女の職業分離の要因と結果――見過ごされてきた男女平等への障害

第4章 ホワイトカラー正社員の男女の所得格差――格差を生む約80%の要因とメカニズムの解明

第5章 企業のワークライフバランス推進と限定正社員制度が男女賃金格差に与える影響

第6章 女性の活躍推進と労働生産性――どのような企業施策がなぜ効果を生むのか

第7章 統計的差別と間接差別――インセンティブ問題再訪

第8章 男女の不平等とその不合理性――分析結果の意味すること

ここではちょっと毛色の変わった第1章を紹介しておきます。タイトルから窺われるように、女性が活躍できないことと「日本的雇用制度」(日本型雇用システム)との関係を概括的に考察しているのですが、わたしにとっても大変興味深い議論が展開されているからです。

日本型雇用については、70年代に隅谷・舟橋論争があったことは、労働研究者くらいしか知らないかもしれませんが、山口さんも若い頃はドリンジャー・ピオレの内部労働市場論自体、あるいはロバート・コールの機能的代替物論によっていたそうですが、次第に舟橋の指摘する「日本企業が雇用者のイニシアティブや意志を考慮しないという点は、実はかなり本質的な違いであると思えてきた」そうです。つまり、「無限定な職務内容や不規則な残業要求への従属を課すことによる拘束と高い雇用保障をすることの交換という機能をも持つ」という点ですね。この「無限定性」への着目が、女性の活躍できなさとつながるポイントになるわけです。逆にいうと、そこを無視した機能的代替物論は、男女均等法以前的視座に立った議論だったと言えるのでしょう。

そしてそこから山口さんは、村上・佐藤・公文の『文明としてのイエ社会』論が、日本型雇用が機能的にも欧米と異なる説明になっているとして、彼らが「イエ社会」の特徴としてあげた4つの点について詳しく検討していきます。

村上・佐藤・公文の「系譜性」対「利潤最大化」の対比、そして筆者のいう「報酬の連帯性」対「報酬の個別性」の対比は、ともに機能の違いを意味する。これらの違いはわが国企業の雇用制度・慣行が単に欧米の内部労働市場の機能的代替物とみなすことは出来ないことを意味していると考えられる。そして「報酬の連帯性」は報酬が個人の業績・成果にたいして与えられるべきという規範が存在しないわが国の文化的初期条件の下で可能であった。また村上・佐藤・公文のいう「縁約」が日本企業の特性となったことは、「契約」の内容である「労働と賃金の交換」に加え、「会社という疑似家族のメンバーになること」と「会社への忠誠心」の交換という側面を正規雇用に付与したと思われる。またこのためわが国企業が正規雇用に新卒者を重視し、転職者・離職者を「忠誠心に欠ける者」として軽視する慣行が生まれたと考えられる。

この議論だと、近世以前の「イエ社会」がそのまま現代の日本型雇用に流れ込んだようですが、そこは労働研究者周知の通り、山のような議論があってですね、少なくとも西欧の中世ギルドと近代労働組合の関係以上に、そう簡単に直接のつながりを議論できないと思います。

というか、そのすぐ後で、わたしを引用してこう述べています。

第2点目は労働法学者の濱口が『日本の雇用と労働法』(2011)で展開した「メンバーシップ型(典型的日本企業)」と「ジョブ型(典型的欧米企業)」の対比は構造面(縁約 対 契約、無限定の職務 対 役割分業の明確な職務)での村上・佐藤・公文の日本企業と欧米企業の対比とほとんど変わらないという点である。ただ濱口はわが国の労働関係法が成立時の概念において西洋の法に基づきながら、その適用において日本的雇用メンバーシップ型)の雇用慣行実態に合うよう解釈されてきたという実例の記述を多数提示しており、そこは濱口独自の貢献で、わが国の労働関係法の適用の曖昧さを理解する点でも参考になる。

それに続くのは、日本型雇用の「戦略的合理性」の議論です。戦略的合理性というのは、「一旦ひとつの制度を持つと、他の制度の合理的選択に影響を及ぼすことをいい、伝統の異なる国が合理的制度を持つ近代になっても、異なる制度を持つことの説明として使われることが多い」そうで、経路依存性とも呼ばれるようです。それがなんの関係があるのかというと、

筆者は日本的雇用慣行・制度は戦略的に合理的な一連の制度の選択により出来上がったが、外的条件の変換の中でその均衡の劣等性が顕著になっても、より合理的な制度への変換ができなくなっており、それが日本企業の人材活用を一般的に非合理的にし、その結果女性の人材活用の進展も強固に阻んでいると考えるからである。

もう少し女性政策史に即していうと、日本型雇用を維持するということがあまりにも大前提であったがゆえに、それを揺るがしかねないような男女平等はダメ、で、それまでの男性の働き方のコースにそっくりそのまま女性を入れる形でしか進められなかったため、結局女性の活用も進められなかった、という風に言えるのでしょうか。

もう一つ、第7章で突っ込んで分析されている統計的差別の問題について、最後の第8章の冒頭のアリスとクイーンの会話が抱腹絶倒なので、引用しておきますね。

〔ハートのクイーン〕女性雇用者たちがおる。彼女たちは離職の罰を受けて、賃金をカットされておる。離職がどの程度のコストを生むかはいつ離職するかによるが、まもなく算定されるであろう。そしてもちろん離職は最後にやってくるのじゃ。

〔アリス〕でも、もし彼女たちが離職をしないなら?

〔クイーン〕それは一層良いことじゃ。

〔アリス〕もちろんそれは一層良いことだわ。けど、彼女たちが罰せられるのは一層良いこととは言えないわ。

〔クイーン〕そなたはともかく間違っておる。そなたは罰を受けたことはあるかの?

〔アリス〕悪いことをしたときにはね。

〔クイーン〕それごらん、罰は良いことなのじゃ。

〔アリス〕けど、わたしの場合は罰に値することをまず先にしたのよ。そこが彼女たちとは大きな違いだわ。

〔クイーン〕されど、その罰に値することを、もししないならば、それはなおさら、なおさら、なおさら良いことなのじゃー。

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伊原亮司『ムダのカイゼン、カイゼンのムダ』

287333伊原亮司さんの『ムダのカイゼン、カイゼンのムダ トヨタ生産システムの〈浸透〉と現代社会の〈変容〉』(こぶし書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.kobushi-shobo.co.jp/book/b287333.html

27869994_1おそらく、以前伊原さんの『トヨタと日産にみる〈場〉に生きる力:労働現場の比較分析』(桜井書店)を読んだ感想をアップしたことがあるので、お送りいただいたのだと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-52f2.html

今回の本はタイトル通り、トヨタ生産システム(TPS)に焦点を当てて、トヨタ自体におけるその発展の軌跡、一次下請への、そして二次下請への拡大、さらには多業種や公的機関などへの広がりを描き出したものです。

TPSとはシステムであり、全てがTPSで回っている限りうまくいくけれども、トヨタからの距離が大きくなるにつれてそういう条件は少なくなるので、どうしてもそこに無理が生ずる、という構造をうまく描き出していると思いました。

いい例が、二次下請のa工業所です。ここの受注先のほとんどはA車体であり、安定した注文を受けてきました。だからこそ、現場にものすごい無理を掛けるTPSをこなせてきたのです。ところが、オールトヨタ内のA車体の位置づけが変わり、A車体からの注文が激減し、a工業所は新たな受注先を開拓したのですが、日によって注文が大幅に増減するようになったため、カンバンシステムが大混乱に陥ったというのです。

トヨタというミクロコスモスの中にいる限り在庫を抱える必要はないし、それは厳しく禁止されるのですが、その外側と取引しようとすると在庫を抱えないと仕事が回らない。結果、長時間労働や人を急に増やして対応し、売上げの割に利益が出ず、この混乱の余波はA車体向けの部品にも及び、深刻な不良が流出したというのです。伊原さんは、

TPSは作り込まれたシステムであるがゆえに、作り方を変えようとすると「乗り換えコスト」が高くつく。それらの「コスト」は、作り方を半ば強要したトヨタやその大手取引先ではなく、弱小の下請企業が払わされるのである。

と述べています。

二次下請ですら、ミクロコスモスの内部というよりはこういう境界領域にいるわけなので、その完全に外側にいる企業が、カイゼンを称賛する人々の声に乗ってうかつに始めると、そのまわりは別にTPS化しているわけではないので、大体においてうまくいかず、失敗するというのが伊原さんの観察です。

トヨタがある程度の範囲までそういうTPSの世界を確立できるのは、トヨタに取引先や市場をコントロールする力があるからで、販売先にも生産・供給の平準化を受け入れさせる力があってこそ、在庫を最小限に減らしてもシステムが破綻しないのだ、というわけです。

このあたりは、テクニカルな面に着目したカイゼン論のほとんどすべてが見落としている重要なポイントであるように感じました。

本書の最重要論点はこれで、最後のところで若干論じられているTPSが現場に無理を強要していて「誰もが無理なく働ける職場」になっていないという、より労働論的な側面は、ちょっと触れただけの感じですが、そちらはむしろ前著の主要テーマでした。

はじめに トヨタ流の「ダイエット」

序章 先行研究の整理と本研究の課題
 1 問題関心―トヨタにならえ
 2 TPSに関する啓蒙書および先行研究の整理
 3 本研究の視座と課題―開発・導入・定着・拡散の過程を社会関係から捉え直す
 4 本書の概要

第一章 実践
 1 カイゼン活動
 2 カイゼンは自分の職場から始められるが

第二章 トヨタ本体におけるTPSの開発―解体と「再生」
 1 TPSの開発の経緯
 2 TPSの定着・普及活動の組織化―生産調査室(部)
 3 労働組合、現場労働者、他部署からの反発
 4 「信念」を持ったトップと「実行力」のあるリーダーとは
 5 マネジメントによる現場の解体
 6 マネジメント主導の現場の「再生」
 7 トヨタが標榜する「現場主義」の内実とは

第三章 一次下請企業の定着活動―強要と教育
 1 オールトヨタの協力体制
 2  TPSの導入事例
 3 トヨタ自主研究会―相互学習を通したTPSの浸透
 4 一次下請企業によるTPSの運営実態
 5 強要とフォロー、競争と相互学習―「上」から組織された「下」での定着努力

第四章 二次下請企業への導入事例―格差と包摂
 1 一次下請企業の協力会
 2 A車体工業の下請会社の事例―株式会社a工業所
 3 B製作所の下請企業の事例―株式会社b工業所
 4 TPSの浸透―ヒエラルキーの「末端」を支える人たちの視点から
 5 格差と包摂

第五章 「進化」―管理・協力体制の完成と「独り立ち」
 1 深化と拡張の力―解体と再生、強要と教育、格差と包摂
 2 管理の構造と協力の体制―一定の合理性
 3 「下」にかける合理化圧力の強化
 4 地道なカイゼンだけでは対処しきれない
 5 コミットメントと「独り立ち」との矛盾を押しつけられた現場
 6 地域社会も無理や矛盾を抱えきれない―企業城下町? 自殺の街?
 7 〈全体の成長〉という社会像の限界

第六章 地域社会への広がり―新自由主義時代のカイゼン
 1 カイゼン活動の概要
 2 導入手順
 3 TPS化を徹底できない事例
 4 TPS化活動を継続している事例

第七章 TPSの限界を乗り越える
 1 トヨタ流の〈モノ〉づくりのジレンマ
 2 限界を乗り越えようとする事例
 3 誰もが働けるトヨタの会社

終章 TPSを読み替えて、〈無理のない社会〉を展望する
 1 誰もが無理なく働ける職場づくり
 2 人の「むら」を受け入れる
 3 無駄の多義性―「含み」のある社会に

おわりに 〈現場の賢さ〉とは

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『POSSE』35号その2

Hyoshi35_2昨日のエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/posse-e383.html

に対して、今野さんから

https://twitter.com/konno_haruki/status/872757373990981633

濵口桂一朗(ママ)さんが紹介してくれました。しかし…完全に坂倉のアイドルネタに独占されてしまいました…。うれしいやら悲しいやら。。

とお怒りのツイートをいただきましたので、別ネタを。

ただ、特集の「働き方改革」はわたしの持ちネタで、今まさに東大公共政策大学院の講義でいろいろ最先端の話を喋っているところなので(今週労働時間、来週賃金、再来週労働契約)、特集記事ではあるけれども政策論よりはすこし本質論に踏み込んだ木下武男さんのこれについて、

日本社会の危機と政府諸改革の無策 木下武男(労働社会学者(元昭和女子大学教授))

木下さんはこの論文で、「働き方」としての日本型雇用システムのさらに根っこにある「暮らし方」としての日本型「福祉」システムのイデオロギーが形成された1970年代後半に着目しています。そのマニフェストに当たるのが1979年の自民党『日本型福祉社会』で、生活保障をまず「個人が所属する家庭」、次に「個人が所属する企業」、そして第3に「市場を通じて利用できる各種のリスク対処システム」で、最後になってようやく「国が用意する社会保障制度」が出てくるという枠組です。

雇用システム論としては、この2番目に頼るというところに日本の特色を見出し、2,3,4番目の相互関係に着目して論じていくわけですが、1番目の家族扶養システムへの依存というところの重要性に着目しているところは、女性労働論などでは繰り返し指摘されている話ではありますが、こうして整理されると頭がすっきりします。

で、実はこれだけではなくて、この『POSSE』35号の面白いところは、この話が脳裏に残ったまま後ろの方を読み進んでいくと、渡辺寛人さんの

生を否定するバッシングの登場 渡辺寛人(NPO法人POSSE事務局長)

で、再びそれにお目にかかることになるという仕掛けになっていることです。この記事は、それに続く

若者の貧困のリアル vol.9 「中絶」を迫る生活保護行政 貧困女性に子どもを「産む権利」はないのか? 本誌編集部

でも取り上げられているYahooニュースの記事に寄せられたコメント(いわゆる「ヤフコメ」って奴ですな)を言説分析したものですが、そのヤフコメのバッシングの背後にある自己責任論が、家族責任を強調し、権利の制限、ひいては生の否定に至るものであることを示しつつ、そうしたバッシングを引き起こすイデオロギー装置として、「日本型福祉社会」を引っ張りだし、日本型福祉社会のなれの果てとしての現在がある、と結論づけています。

約100ページを隔てて別の記事が呼応し合っているようで、なかなか面白かったです。

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2017年6月 8日 (木)

『POSSE』35号

Hyoshi35_2『POSSE』35号をおおくりいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.npoposse.jp/magazine/no35.html

特集は「働き方改革」で、こういう充実した記事が載っているのですが、

特集「働き方改革」

15分でわかる「働き方改革」 本誌編集部

下からの「働き方改革」を始めよう 圷由美子(弁護士)×風間直樹(『週刊東洋経済』記者)×今野晴貴(NPO法人POSSE代表)

長時間労働は本当に「改革」されるのか 本誌編集部

駅売店と女性の働き方 須田光照(全国一般東京東部労働組合書記長)

悪質な企業の取り締まりを困難にする監督業務の民間委託 森﨑巌(全労働省労働組合中央執行委員長)

「ブラック産業医」問題とは何か? 本誌編集部

ルポ ヤマト運輸は「働き方改革」の夢を見るか? 本誌編集部

日本社会の危機と政府諸改革の無策 木下武男(労働社会学者(元昭和女子大学教授))

でもここはやはり、恐らくほとんど注目されないであろう、「本誌編集部」という尻隠さずの匿名で書かれたこれに注目しておきます。

労基法は子役を守ってくれない? 本誌編集部

いや、編集後記で編集長の坂倉さんが書いたとちゃんと明かされているんですがね。

リードで、週刊文春の「WOWOWドラマ天才子役号泣現場」の記事から説き起こして、労働基準法56条2項の「映画の製作または演劇の事業」とは何か?という大問題に切り込んでいます。

で、実はこれ、本ブログのある記事に呼応しているんです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/2877-864d.html(元アイドルほか(グループB)事件(東京地判平成28年7月7日))

このエントリは、東大の労働判例研究会でわたしが評釈した事件に渡辺章先生がコメントしたことを述べたものですが、それがまさにこの労基法56条2項問題。

まあ、この事件自体、小学5年生の女の子にアイドルとして集団による歌唱・ダンスを中心としたライブ活動のほか、○○券を購入したファンとの交流活動(お散歩、コスプレ、プリクラ、ビンタ等)をやらせるといういささかいかがわしげな商売なんですが、それはともかく、労判の席上で渡辺章先生から思いがけない指摘を受けました。

それは、労働基準法56条が満13歳未満の児童の労働を認めているのは「映画の製作又は演劇の事業」だけであって、その他の「興行の事業」は含まれないのではないかということです。

・・・ふむ、小学校5年生の女の子がアイドルグループとして歌ったり踊ったりすること自体が13歳未満の児童に認められる「映画の製作又は演劇の事業」には当てはまらず、労働基準法の事業分類ではそれと同類ではあるけれども、13歳未満の児童の労働が許されないその他の「興行の事業」なんじゃないか、という指摘です。

確かに条文の規定ぶりからするとそういう解釈にもなりそうですが、そうすると、いまの芸能界は大変なことになっちゃうんじゃないかと思いますが。そもそも労働基準法ができた頃はテレビもなかったわけで、ある程度は「映画演劇」の拡大解釈でやらないと、とても持たないのでしょう。

このエントリの最後に、わたしは

ということで、あとはPOSSEのアイドル部長坂倉さんにバトンを渡した方がいいようです。

と書いたところ、見事にバトンを受け取っていただいたというわけです。

ちなみに、この評釈した事件も、お散歩、コスプレ、プリクラ、ビンタ等と相当程度にいかがわしかったわけですが、世の中には上には上があるようで、アイドルが添い寝するというとんでもない(とんだ?)アイドルグループもあるようです。ここまでいくと労基法56条じゃなくって、職安法63条の「公衆道徳上有害な業務」になりそうですが。

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2017年6月 7日 (水)

拙著2冊への書評

福岡の社労士安部敏志さんのブログ「work life fun」で、「労務管理を学ぶ上で現役社労士がオススメする本5冊」を紹介されているのですが、そのうち2冊に拙著を挙げていただいております。

http://worklifefun.net/introduction-of-book-for-human-expert/

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda5 まず、『働く女子の運命』についてですが、

女性活躍推進は近年のキーワードですが、この本では、いままでの賃金制度の歴史を総括し、その中で女性労働者がどのような位置づけであったかを明快に解説しています。 企業の人事労務がどのような歴史の中で動いてきたか、そして対応する労働法の流れを知る上で必読です。 働き改革の内容や同一労働同一賃金について持論を述べる人は多くいますが、持論を述べる前に、少なくともこの本は読んでおかないと思わぬ恥をかくことになりかねないため注意しておきましょう。

と、「持論を述べる人」をちくりと皮肉りながら、必読と評していただいています。

131039145988913400963 また8年前の『新しい労働社会』についても、

最近は、同一労働同一賃金の議論の中で、メンバーシップ型とジョブ型という対比を用いて語る人が増えてきましたが、この概念はもともと、濱口先生により提唱された説明です。 かなり前に読んだ本ですが、ちょうどこの本を読んでいる時に、「日本の賃金制度は古くさいので世界のトレンドに合わせるべき」と言っている人がいて驚いた経験があります。 いまのように多くの人が同一労働同一賃金、職能給と職務給の違いを知っているとまさに笑い話ですが、日本では約50年前に職務給、同一労働同一賃金の議論を行い、その中で日本では職能給を選択し、定着していった歴史があります。

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2017年6月 6日 (火)

労政審の時間外労働上限規制の建議

ということで、昨日労政審が時間外労働の上限規制の建議をしました。

http://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11201250-Roudoukijunkyoku-Roudoujoukenseisakuka/0000166797.pdf

とはいえ、これ中身の大部分は既に働き方改革実行計画で決まっていて、それをなぞるほかはやや細かいことを付け加えている程度ではあります。

それは当然で、これの本体部分は働き方改革実現会議からスピンアウトした労使二者交渉で決めた「労使合意」なので、いずれの側も今さらちゃぶ台をひっくり返すことはできない立場にあるわけです。普通の官邸の会議で決まったことが下りてくるのとは、三者構成原則との適合性という観点からも次元が違うわけで。

それでも働き方改革実行計画には出てこない点を探すと、例の休日労働を含む含まないの騒ぎの影響なのか、新たな指針に休日労働は可能な限り抑制する努力義務を書くということとか、現行安衛法が(これからはほぼ禁止される)100時間超で医師面接となっているのを、(なおありうる)80時間超医師面接に直すとか、過半数代表を使用者の意向で選出するのは違反だよと省令に明記するとか、もちろん労働基準監督官の定員確保など労働基準監督機関の体制整備てのも入っています。

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2017年6月 5日 (月)

ジェンダー・ギャップ指数111位@『労務事情』2017年6月1日号

Roumujijou_2017_06_01 『労務事情』2017年6月1日号に、連載「気になる数字」第3回 として「ジェンダー・ギャップ指数111位」を寄稿しました。

一昨年3月に拙著『働く女子の運命』(文春新書)を出した時、オビには「ジェンダー・ギャップ指数2015 日本101位」という大きな字が躍っていました。編集者がそうしたのは、同書の「はじめに」で同指数の順位に触れていたからでしょう。ジェンダー・ギャップ指数とは、毎年世界経済フォーラムが発表している社会進出における男女格差を表す指数です。2013年に日本が136カ国中105位になったことに危機感を抱いた政府が、『日本再興戦略改訂2014』で「2020年に指導的地位に占める女性の割合30%」を掲げたことから注目されるようになりました。同書刊行時の最新の数字は2015年に145カ国中101位とちょっと改善していたので、帯にその数字が載ったというわけです。そうすると、その後少しずつ改善してきたのかな、と思いたくなるところですが、そうは問屋は下ろしてくれないようで、昨年10月発表されたジェンダー・ギャップ指数2016では、日本は144カ国中111位とまた少し順位を下げたようです。 ・・・・・

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2017年6月 4日 (日)

『DIO』327号

Diodio 連合総研の機関誌『DIO』327号は「ポスト正規・非正規の労働課題~「個別化」に対応し働くものの自己決定を支援する改革へ」が特集です。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio327.pdf

特集記事は次の3本ですが、

労働者の主体的なキャリア形成を支援する法的課題 〜あらためてキャリア権を整理する 諏訪康雄

企業主導型キャリア管理から企業・社員調整型キャリア管理への転換の可能性 〜ジョブ型雇用・限定雇用の議論を踏まえて 佐藤博樹

有期雇用の無期転換への実務対応と期待される労働組合の取組と課題~無期転換は組織化の好機、現場対応が今後の方向を左右する! 棗一郎

ここではやはり佐藤博樹さんの論文を。

はじめの方は、例の三菱UFJリサーチ&コンサルティングの報告書をベースにした「ジョブ型論批判」で、後半はそれを踏まえての日本の雇用システム改革への示唆というところ。

やや長いですが、重要なことをさりげに語っているので、この節を引用しておきます。

4.日本の雇用システム改革への示唆

 日本では、ダイバーシティ経営やワーク・ライフ・バランスを実現することなどを目的として、雇用区分を多元化することでジョブ限定や勤務地限定など無限雇用の「限定雇用」化が提起されている(今野2012;「多様な正社員」の普及・拡大のための有識者懇談会2014)。しかし、欧米4カ国の企業における雇用システムの実態は、日本との比較では、理念型としての限定雇用に近いと言えるが、理念型にすべてが該当するわけでない。とりわけ、職務記述書などで職務内容が詳細に規定され、従業員が担当する業務が事前に固定化されているわけではなく、必要に応じて柔軟に変更可能であった。この点は、日本の雇用システムにおける場合と同様と言える。また、職務記述書などで具体的に担当する業務を限定化・特定化することは、急激な企業環境の変化や技術革新などがある場合には難しい。そのため、日本で限定雇用を導入するために職務内容を限定化・特定化する場合でも、欧米企業と同様に、一般的・概念的・抽象的にならざるをえないであろう。日本においては、職務記述書などにより従業員が担当する職務内容が限定化・特定化されているわけではないものの、キャリア形成の実態を調べると、経理畑・営業畑・人事畑などの表現が使われることからも理解できるように、特定の職能領域に担当業務が限定されている場合が多い5。つまり、職能分野の限定化は、日本でも実態としては存在する。

 一方、欧米4カ国の企業では、企業内の異動について、会社が包括的な人事権を持って実施するのではなく、社員の同意が必要なことも明らかになった。社内公募や会社提案による異動のいずれにしても、企業内における従業員のキャリア形成は、社員の自己選択によっている。この点は、欧米と日本の雇用システムとの大きな違いと言える。言い換えれば、無限定雇用と限定雇用の違いは、企業の人事権のあり方による部分が大きいのである。

 以上を踏まえると、日本においても、従業員が担当する職務の範囲に関して職務記述書などで一般的・概括的・抽象的に規定することができれば、限定雇用のような自己選択型のキャリア形成の仕組みを導入できる可能性がある。それが実現できれば、担当する職務だけなく、勤務地も従業員の自己選択とすることができよう。さらに、職務記述書などによって従業員が担当する職務を一般的・概括的・抽象的に記述できれば、ブロードバンディング化した職務等級制度による賃金制度を前提にすると、日本の職能給制度をそうした職務等級制度へ転換することは、近年における職能給から役割給への移行などの動きも踏まえると、十分に検討に値すると考えられる。問題が、日本企業の人事が、従来の人事権を手放すかその点に大きな課題がある。

 他方で、欧米企業のように、職務内容を職務記述書などで一般的・概括的・抽象的に規定した内容を提示した採用や異動を日本企業で行おうとする場合には、新卒採用において大きなハードルが生じよう。日本企業は、担当する職務内容を明示せずに新卒を採用していることによる。この点に関して日本の企業における改革の選択肢は以下の2つであろう。1つは、欧米企業のような在学中のインターンシップと卒業後のトレーニング・プログラムを導入し、新卒採用者に関して職務内容を限定した採用に移行する方法である。もう1つは、現状の職務内容を限定しない新卒採用を継続し、採用後3年あるいは5年ほどの間は、会社が人事権をもち従業員に異なる部門や異なる職務を経験する機会を提供し、その後、企業と従業員で担当職務に関して調整・合意し、企業・社員調整型異動へ移行する方法である。この2つの方法では、後者の仕組みの方が現状からの乖離が少ないと思われる(海老原2013;2016も参照されたい)。

 以上を踏まえると、日本の雇用システム改革の鍵は、従業員が担当する職務内容(ジョブ)について、職務記述書などにより一般的・概括的・抽象的に規定された限定正社員を導入することに加えて、企業の包括的な人事権を基盤とした採用や異動(企業主導型キャリア管理)から、企業と従業員の間の調整・合意に基づいた採用・異動(企業・社員調整型キャリア管理)へと変革できるかどうかが課題となる。その際には、調整型キャリア管理の前提として、社員自身が自分の将来のキャリアを描けるかどうかが問われることになる。企業主導型キャリア管理が確立している日本の大企業から、社内公募での異動を主とするなど企業・社員調整型キャリア管理を採用している外資系企業に転職した社員へのヒアリングによると、希望するキャリアを実現するために、社内のキャリアに関する情報を収集し、常に空きポストを探すことに疲れるとの意見も少なくない。これは、雇用システム変革の過渡期の課題と言えるかもしれないが、無限定雇用から限定雇用への雇用システムの転換は、社員に新しい課題をもたらすことにもなろう。

 他方で、従業員が担当する職務内容について、職務記述書などで一般的・包括的・抽象的に記述され、かつ調整型キャリア管理へ転換した場合に、従業員が所定労働時間で仕事を終えて帰宅したり、転勤を必要とする異動を選択しなくなったりするかどうかは、従業員の価値観に依存する可能性が高い。この点は、さらなる検討が必要となろう。

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2017年6月 2日 (金)

年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント

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4月号からカラフルな表紙になった『労働情報』ですが、4月号から「論争のススメ 年功給か職務給か?」というちょっとした連載が始まっています。

956b4月号の金子良事×龍井葉二対談については本ブログで取り上げました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/by-acae.html(年功給か職務給か? by 金子良事×龍井葉二)

957b

5月号では禿あや美×大槻奈己対談が載っており、そして龍井さんから、この二つの対談を論評してくれという依頼が来ました。

この依頼を受けたのはわたくしと遠藤公嗣さんだったようで、この二人のコメントが6月号に載っています。

遠藤さんのコメントは、バリバリ職務給派からの批判になっていますが、わたしのコメントは少し入り組んでいます。

そもそも賃金論において、対立概念は何なのか。雇用システムに対応した「仕事に人がつく」「人に仕事が付く」という話だけではなく、もっとそもそも論のレベルで、賃金制度が従うべき正義は何か?という観点から、交換の正義と分配の正義という切り口でコメントを試みています。

 本誌で前々号、前号に掲載された二つの対談(金子良事×龍井葉二、禿あや美×大槻奈己)を読んで論評せよとの依頼である。昨年来の官邸主導の「同一労働同一賃金」政策に対して、労働運動の側が明確なスタンスを示し得ていない現状の中で、これまで避けられてきた「論争」をあえて喚起しようという壮図に呼応して、本稿では日本の賃金制度の歴史を賃金思想に係るイデオロギー批判的観点から再考察し、両対談が提起した問題を掘り下げて論じてみたい。

 このシリーズは「年功給か職務給か」と銘打っているが、そもそも両者は厳密な意味で対立しているのだろうか。龍井が言うように前提となる雇用システムが「仕事に人がつく」のか「人に仕事がつく」のかという意味では両者は対立概念である。しかし、賃金がいかなる社会的価値に対して支払われる(べきな)のか、言い換えれば賃金制度が従うべき正義は何か、という観点からは、対立軸は曖昧になる。「年功」が表示するものは何なのか、年齢に伴う生計費なのか、勤続に伴う職業能力なのか。

 龍井が持ち出している勤続十年のシングルマザーの相談は示唆的である。彼女は「昨日入ってきた高校生の女の子となんでほとんど同じ時給なのか」と問う。大槻は「10年経験が違ったら・・・同じ賃金には絶対にならない」といささか的外れな反応をするが、彼女が聞きたいのは「養ってもらっている高校生と、子どもを育てているお母さんと時給が同じ」でいいのかということだ。

 そもそも賃金は労務の対価として市場における交換の正義に従うとともに、それによって生計を立てるべき原資として分配の正義に服するべきものである。しかしながら両者は多くの場合矛盾する。このダブルバインドをいかに整合性ある思想の下に統一するかは、いかなる賃金制度であっても解決しなければならない課題であった。そして極めてざっくりいえば、それを労働市場の集団的プレイヤーたる労働組合が主導する形で、あくまでも交換の正義に従う「職務」に基づく賃金を分配の正義を充たす「生活」しうる水準に設定することによって達成しようとしてきたのが欧米の職務型社会であった。原則としてそれで生活できる水準の賃金を、団体交渉を通じて「職務」単位で決定する。それで賄いきれない部分は福祉国家を通じて、すなわち純粋に分配の正義に基づいて補われる。

 それに対し金子が引く伍堂卓雄は、賃金決定において年齢と扶養家族という分配の正義を全面に出し、交換の正義の追求を否定した。市場の集団的プレイヤーとしての労働組合が欠落した生活給思想は、戦時体制下に皇国勤労観によって増幅強化され、終戦直後の電産型賃金体系に完成を見る。当時、世界労連はかかる賃金制度を痛烈に批判していたのだが、日本の労働組合は断乎として交換の正義を拒否したのである。

 当初職務給への移行の論陣を張っていた経営側は、1969年の『能力主義管理』において、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給に転換した。正確にいうと、「職務を遂行する能力」という一見職務主義的な装いの下に、その実は極めて主観的な「能力」評価に基づく賃金制度を定式化したのである。「能力主義」とは、実際には「能力」査定によって差が付く年功制を意味した。そしてその差が不可視の「能力」によって正当化される仕組みの確立でもあった。本来交換の正義を否定して企業における分配の正義として構築された年功給が、「能力」の対価として企業という名の内部労働市場の交換の正義によって正当化されるという入り組んだ構図である。

 意外に思われるかも知れないが、「能力主義」においては、既に非正規労働者の均等処遇問題は論理的には解決済みである。なぜなら、正社員の賃金が高く、非正規労働者の賃金が低いのは、その「能力」にそれだけの格差があるからだ。そして、非正規労働者の主力が家計補助型のパート主婦と学生アルバイトで占められている時代には、それは分配の正義に概ね合致していた(そのずれを一身に体現するのがシングルマザーであったわけだが)。

 1990年代以降、性別と年齢を問わない形での非正規化が進行し、とりわけ家計維持型の若年・中年男性非正規労働者が目立つようになると、その生活費と低賃金のずれに社会的関心が集まってくる。しかしそれを的確に論じうるような道具立ては、先行する時代に既に消滅していた。主婦パートや学生アルバイトが低賃金なのは彼らの「能力」が低いからであり、正社員の高賃金はその「能力」が高いゆえであるという経済学的説明が正しいならば、若年・中年男性非正規労働者がいかに生活に苦しんでいたとしても、それは彼らの「能力」不足の帰結に過ぎない。生活給を能力で説明することで賃金のダブルバインドを解消してしまったかつての超先進国ニッポンは、交換の正義で掬えない分配の正義を正面から論じる道具をも見失ってしまった。

 本来分配の平等を何ら含意しない(し、むしろ思想的には逆向きである)職務給が、しかも成果主義的偏奇すら伴って、あたかも格差是正の妙薬であるかのように論じられるという現代日本のねじれにそれが露呈している。大槻はいささか無防備に「「働いた貢献」と「その時得られる報酬」っていうのは、そのときどきでバランスする必要がある」と口走る。だが今日の「能力主義」+「成果主義」的年功制は、(少なくとも建前上は)そんなものは既にクリアしているのだ。言うまでもなく、同一労働(なら)同一賃金とは対偶をとれば異なる賃金(なら)異なる労働であり、シングルマザーのレジ係を(昨日入った女子高生ではなく)そのスーパーの正社員の賃金水準に引き上げるものではない。この混迷をさらに増幅しているのが、(本来人権論的問題意識から男女差別についてのみ同一労働でなくても超越的に適用されるべきものとして発展してきた)同一「価値」労働同一賃金論を、職務分析という手法論を経由して、非正規労働問題に不用意に持ち込んできたことである。

 職務給も同一労働同一賃金も、それ自体は交換の正義しか含意しない。それを分配の正義であるかのごとく思い込むならば、手ひどいしっぺ返しを喰らうだろう。我々の課題は複合的である。一方で「能力」という万能空疎の原理ではなく、より客観的な指標に基づいて交換の正義たる賃金制度を再確立すること。他方でそれができる限り分配の正義をも充たすように企業と雇用形態を超えた「生活できる賃金水準」を(産業レベルで)確立し、併せて福祉国家という分配の正義を強化すること。そのいずれが欠けても、事態は少なくとも短期的には悪化するだろう。我々は依然として「生活」と「能力」のアポリアの中にある。

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2017年6月 1日 (木)

シェアリング・エコノミー等が雇用・労働市場に与えるインパクト@経済同友会

Logo 経済同友会が「シェアリング・エコノミー等が雇用・労働市場に与えるインパクト」という政策提言を発表しています。

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2017/pdf/170526a.pdf

読んでいくと、企業の課題として「メンバーシップ型雇用を中心とした硬直的な組織改革の必要性」とか、個人の課題として「メンバーシップ型雇用からのマインド・セットの変更」とかが出てきますが、私が注目したのは、「政府がすべきこと」として、その筆頭にあげられている「インディペンデント・プロフェッショナル(自立型プロ)、高度フリーランサー、フリーランサー等の雇用を前提としない就労形態と働き方を支える権利保護の整備」という項目です。

とりわけその中でも、「 自立型プロ等の交渉力の確保 」という一節は、先日のILOとの共催の労働政策フォーラムの場でわたくしが最後近くでお話ししたことと見事に符合しており、問題意識が共通していることを強く感じました(p26~)。

また、自立型プロ等は、現行の労働法制において明確に労働者と位置付けられる訳ではないが、米国のウーバーにおいても運転手と同社との間に深刻な紛争が存在することなども考えると、市場ルールのみで十分かどうかについては慎重に検討する必要がある。これに加えて、自立型プロ、高度フリーランサー、フリーランサー等については、労働者に認められている団体交渉等の権利が認められている訳ではなく、交渉力を担保する制度も存在しないため、制度面で検討する必要がある。

本来的に、雇用契約は民法上、対等な私人間の契約であることが想定されていたはずのものを、労働者が交渉上不利な立場に置かれることから、政策的に労働法制によってこれを保護している。このことに照らせば、自立型プロ等であっても交渉上劣位に置かれるのであれば、これを是正する新たな制度(役務の最低対価や組合ないし団体の組織を定める法律等)の整備を検討するべきである。

加えて、企業における現行の労働者過半数代表制を、自立型プロや兼業型プロ等を含めた組織に改編すべきである。その際、活動に係る費用の使用者負担や身分保障等を図ることも検討に値する。こうした機能強化を通じ、多様な人財の意見を幅広く吸い上げることで、企業経営に公正に反映していく必要がある。

ちなみに、わたくしのスライドはこれです。

Ilo

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『講座労働法の再生』第6巻『労働法のフロンティア』目次

415wxfudr3l_sx348_bo1204203200_ 既に第1巻から第3巻までが刊行されたらしい『講座労働法の再生』第6巻『労働法のフロンティア』の目次が日本評論社のHPにアップされているので、紹介しておきます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7464.html

第1部 労働法の改革論議

 第1章 労働法改革の理論と政策……水町勇一郎

 第2章 雇用社会の変化と労働法学の課題……大内伸哉

 第3章 労働法改革論の国際的展開……濱口桂一郎

第2部 雇用政策と労働法

 第4章 これからの雇用政策と労働法学の課題……島田陽一

 第5章 若年期・高年期における就労・生活と法政策……小西康之

 第6章 障害者雇用政策の理論的課題……中川 純

 第7章 外国人労働者……早川智津子

第3部 非正規雇用と労働法

 第8章 外部市場・非正規雇用と労働法制……大木正俊

 第9章 労働者派遣……本庄淳志

 第10章 有期雇用……篠原信貴

 第11章 パートタイム労働法……阿部未央

第4部 労働法における学際的研究

 第12章 企業法と労働法学……土田道夫

 第13章 ジェンダーと労働法……黒岩容子

 第14章 社会保障法学と労働法学……菊池馨実

 第15章 国際労働関係法の課題……米津孝司

わたくしは「労働法改革論の国際的展開」について論じております。6月20日刊行だそうです。乞うご期待。

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透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会報告書

連合のホームページにはさっそく、逢見事務局長名で

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/article_detail.php?id=895(厚生労働省「透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会」報告書に対する談話)

がアップされているというのに、肝心の厚生労働省のホームページでは正式の発表はされていないようです。

ただ、5月29日の透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会のところに「透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会」報告書(案)(PDF:3,184KB)が載っているので、この「(案)」のついた文書が、若干の字句修正を伴って「(案)」のとれた正式の「報告書」として発表されることに、この会議で合意が成り立ったのであろうと思われます。

http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11201000-Roudoukijunkyoku-Soumuka/0000166105.pdf

まだ正式の発表に至っていないのは、その字句修正に手間取っているからだと思われ、少なくとも大内伸哉さんのこの理解は誤解だと思われます。

http://lavoroeamore.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/skype-4df1.html

・・・昨日の新聞報道によると,厚生労働省の検討会の報告書では,金銭解決の導入は見送りになったようです。個人的には,いまは見送りでいいと思います。・・・

で、その「(案)」のついた報告書ですが、いわゆる解雇無効時における金銭救済制度について11ページから30ページまで約20ページを費やして、非常に細かな法学的検討をしています。

関係者は知っていることですが、過去にこの問題がうまくいかなかった理由は、表の議論の世界における政策論の対立とともに、あまり表だっては語られてきませんでしたがむしろより大きなファクターとして、そもそも解雇無効だといって地位確認を請求している労働者側がなんで金銭解決を請求できるのかという民事訴訟法上の大問題があったからで、政治的に困難な使用者側申立の方が法律的理屈は立ちやすく、政策的に通りやすい労働者側申立の方が法律的理屈が立ちにくいという皮肉な状況にあったわけです。

この報告書は膨大なので、むしろリンク先をじっくりと読んでいただいた方がいいのですが、今までの訴訟法上の議論の轍から抜け出して、実体法上の権利を構成するという方向を打ち出している点が興味深い所です。

「労働契約解消金」とか「金銭救済請求権」といった新規な概念が提起されており、労働法関係者にとっていろいろと考えるネタがたっぷりあるはずです。

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