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2017年5月 7日 (日)

陸軍省『国政刷新要綱案』

000404641_160362a372a8a7b3932935fe3 陸軍省が1936年に策定した『国政刷新要綱案』を読むと、この武力機関が提示した社会のあるべき姿が、いかにそれに先立つ時代に希求されながら実現に至らなかったものであるかがよくわかります。

http://ci.nii.ac.jp/els/110008793490.pdf?id=ART0009844656&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=&lang_sw=&no=1494131330&cp=

いろんな意味で苦い思いとともに再三読み返されるべき歴史文書であることは間違いないのでしょう。

ここでは、本ブログが関心を有する「其五、労働政策」から一部を。

二、労働組合法ノ制定

 我力国産業、労働ノ実状二適応シ、且日本精神二基ク労働組合法ヲ制定シ、以テ其発達ヲ堅実ナラシムル如ク保護助長ヲ図ル、而シテ其組織ハ産業別連合体トナス。

三、勤労保護方策

(1)勤労機会保障策

2. 強行規定ヲ以テ解雇ヲ制限ス、 特ニ技術工於テ然り

3.婦人勤労者ハ努メテ家庭二還シ、男子二就職ノ機会ヲ与フルト共二、婦人ノ健康ヲ保護ス

(2)勤労力維持策

1.最低賃金制度ヲ確立シ、勤労者ノ生活ヲ保障ス

2. 一日ノ勤労時間ハ、八時聞(鉱山七時間)ヲ定時間トシ、実働十一時間休憩時間ヲ合シテ十二時間ヲ超ユルコトヲ得サラシメ、産業別、職別二更二就業時間ヲ制限ス

(4)労資関係調整策

1. 工場懇話会制度ヲ創設シ、企業者側ト従業者側トノ交渉ヲ整調ス

2.労働監督機関ノ任務ノ拡大及権限ノ強化二依リ、労働監督制度ノ統一強化ヲ図ル

女性労働者を家庭に帰せとはなんたる反動などとフェミニズム的批判をする前に、これら項目はまさに当時の社会民主主義者や労働運動が要求しながらも、当時のブルジョワ政党の政治家によって退けられていた「ソーシャルアジェンダ」であったことを考え、それを政府部内で平然と打ち出すことができたのは、武力でもって政治家を威圧できた陸軍だけであったということの意味を、苦みとともに深く考えるべきでしょう。

もちろん、これらは軍部の国民への人気取りであり、本気じゃなかったという批判は十分可能で、その証拠に、戦争が激化すると、家庭に返せといっていたはずの女子労働力を女子挺身隊として引っ張り出すわけですが、それにしても、成人男子労働者について1日の上限12時間を初めて打ち出しており、これを受けて1939年の工場就業時間制限令で、一部業種についてのみですが、1日12時間の上限が設定されることになるのです。

(参考までに)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_a88b.html

ま、ここくらいまでは、ちょいとモノの分かったブロガーなら書いてるでしょうけど、その先があります。じゃ、なぜその日本が戦争に突入していったのか。多くの一見穏当な歴史観はそこで間違う。戦前の日本は立派にリベラルだったのに、軍国主義に席捲されたとか、そういう類のね。

戦前の日本が過剰にリベラルだったから、それに対するソーシャルな対抗運動が「革新派」として拡大していったからなんでね。まさに、ポランニーの云う「社会の自己防衛運動」。戦前の二大政党制の下では、本来そっちを取り込むべき立場にあった民政党は、確かに社会政策を重視し、労働組合法の制定に努力したりしたけれども、同時に古典派経済学の教義に忠実に従うあまりに金解禁を断行し、多くの労働者農民を不況の苦痛に曝すことを敢えて行うほどリベラルでありすぎたわけで。どっちにも期待できない労働者たちは国家主義運動に期待を寄せるしかなくなったわけで。

この辺、二大政党制に舞い上がりかけている民主党さんによーく歴史を勉強し直して貰わなければならないところでっせ。

夏休みの課題図書を増やすのは心苦しいのですけど、

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061577/

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坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』ちくま新書

この中味を簡単に喋ったものが、連合総研のDIOに載っていますので、そっちをリンクしておきます。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no156/leadersseminar.htm

(追記)著者と書名を書くのを忘れていました。

ちくま新書は玉石混淆ですが、これはもっとも読むに値する名著です。

せっかくなので、決定的瞬間、つまり広田弘毅内閣が退陣して、宇垣一成内閣が流産するあたりの記述をいくつか引用しておきます。

>「平和」と「反ファッショ」を掲げる「人民戦線派」は宇垣内閣の成立を期待し、「戦争」と「社会主義」を求める「広義国防派」は、宇垣内閣反対、林銑十郎内閣支持の立場

>筆者が近年、「平和」と「改革」の背反性という難問に直面しているからである。仮に「ファシズム」という便利な概念が存在しなかったとすれば、昭和12年1月の日本で、社会大衆党と既成政党のどちらをとるかは、大問題であったはずである。

>さらに、「戦争」と「平和」の問題に目をつぶれば、陸軍と結んでも資本家に打撃を与えようとする社会大衆党の立場は、十分に社会主義的であった。労働組合法はもちろん退職手当の法的保障にすら応じない資本家側の全国産業団体連合会の立場を、民政党も政友会も衆議院で忠実に代弁していたのである。

>そのような政友会と民政党が、「ファシズム」と「戦争」に反対するために宇垣一成内閣を支持しようと呼びかけても、社会主義者は簡単にはその呼びかけには乗れなかったのである。

>戦後の歴史学にあっては、一方の極に「平和と反ファシズムと資本主義」があり、他方の極には「戦争とファシズム」があったことが前提とされてきた。この図式を「ファシズム」抜きに歴史的事実に即して描き直せば、一方の極には「平和と資本主義」が、他方の極には「戦争と社会主義」があったことになる。宇垣一成内閣構想は前者を代表し、林銑十郎内閣構想は後者の支持を得ていたのである。

>社会大衆党の改革要求、資本主義批判を「ファシズム」の側に組み込んでしまっては、当時の日本の政治社会を理解できないのである。

(再追記)

ついでに、戦後歴史学では反戦平和の闘士としてもてはやされている斉藤隆夫、帝国議会で軍部を痛烈に批判した粛軍演説ですが、彼はその冒頭こういういい方をしているんですね。

>一体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。

>しからば進んで何を革新せんとするのであるか、どういう革新を行わんとするのであるかといえばほとんど茫漠として捕捉することはできない。

>畢竟するに、生存競争の落伍者、政界の失意者ないし一知半解の学者等の唱えるところの改造論に耳を傾ける何ものもないのであります。

生存競争の落伍者」ごときのいうことに耳を傾けることなんぞできるか!

とまで罵られて、反ファシズムのため連帯しませうと云えるほど、日本の社会主義者たちは心広くはなかったわけです。

赤木君ではないが、「ひっぱたきたい」と思ったであろうことは想像に難くありません。

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コメント

陸軍省『国政刷新要綱案』は単に国民に対する人気取りというよりも、近代戦争の総力戦体制を支える工業生産を拡大充実させるための「合理的」施策とも考えられますね。一家の大黒柱である男性稼ぎ手を優先的に雇用して家計の安定を図るというのも、銃後の体制整備としては「合理的」だったのでしょう。初期ナチスも同様の労働政策を採用していたと思います。
坂野さんの『昭和史の決定的瞬間』はこの辺の事情をとらえ返す上でも貴重な本ですが、いわばその前史を分析した『明治国家の終焉-1900年体制の崩壊』も併せて読むとよいですね。この本は確か80年代に出ておよそ四半世紀後にちくま学芸文庫に入りました。文庫版が出たのが丁度民主党に政権交代した直後で、坂野さんは文庫版のはしがきで、55年体制から転換したけれど1900年体制崩壊後の展開は暗澹たるものであったというような趣旨の懸念をほのめかしておられた。最近になって宗教学の島薗進さんが、いまの政治状況は1930年代を髣髴とさせると述べていることとも重なるような気がします。穿ってみれば三谷太一郎さんが『日本の近代とは何であったか』を上梓されたのも同様の懸念があったのではないかという気がします。いずれにしても歴史から学ばない者は同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。

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