ロバート・パットナム『われらの子ども』
ロバート・パットナムの『われらの子ども』をお送りいただきました。お送りいただいたのは、出版元の創元社の浅山太一さんです。
https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3715
浅山さんは、紀伊國屋書店におられた時に、拙著『若者と労働』を「紀伊國屋書店スタッフが全力でおすすめするベスト30「キノベス!2014」」に選んでいただいたことがありますが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-a0c7.html (エライ人たちはみんな読んでるのに、なぜか一般の人たちには知られていない研究者)
その後、同じ本に関わる仕事でも書店から出版社に移られていたようです。
その浅山さんが、添付されたお手紙で
・・・トランブ現象を生んだアメリカ社会の現実を克明に描き出し昨今子どもの貧困が叫ばれる日本の未来にも警鐘を鳴らす一作・・・
と称している本書は、確かに時宜に適した本であることは確かです。
でも、それだけではなく、本書は確かに社会学の研究書ではあるんですが、それ以上の何かになっている感があります。少なくとも私には、一冊の文学作品を読み上げた時と同じような読後感を残す本でした。
子どもたちにはもう、平等な成功のチャンスはない!
米国の社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の衰退を論じ、≪朝日新聞 ゼロ年代の50冊2000~2009≫にも選ばれた『孤独なボウリング』の著者が再び世に問う、アメリカン・ドリームの危機。世代・人種・社会階層の異なる市民へのインタビューと、緻密な統計分析を通して、成功の機会格差の固定化を実証し、未来の世代への警鐘を鳴らす全米ベストセラー。
この「世代・人種・社会階層の異なる市民へのインタビュー」が、定量的な分析だけでは浮かび上がってこないアメリカ社会の肌触りの鮮烈な変化を雄弁に浮かび上がらせているんですね。
ブレイディみかこさんが、こう評していますが、
チャールズ・ディケンズは小説家として、ロバート・パットナムは社会学者として、貧困と格差の固定が社会的危機の根元にあることを警告している。
本書に現れる人々の姿は、ディケンズの小説を彷彿とさせます。
第1章 アメリカンドリーム:その神話と現実
第2章 家族
第3章 育児
第4章 学校教育
第5章 コミュニティ
第6章 何をすべきか
第1章は、1941年生まれのパットナム自身の若い時代(1950年代末)の同世代の人々の姿がまず描き出され、彼らがある者は豊かな家庭の子であり、ある者は貧しい家庭の子であったけれども、同じコミュニティで暮らし、あまり格差を目立たせずお互いに付き合いを深め、そして貧しい若者たちもさまざまな「ウィーク・タイズ」のおかげでそれぞれに社会の階段を上っていくことができたことを示します。
このあたりは、出版元が太っ腹に立ち読みPDFとして公開しているので、ごちゃごちゃ言う前に読んでみてください。
https://www.sogensha.co.jp/tachiyomi/3715
ところがそれから半世紀以上経った21世紀の同じ町では、町が金持ち階級と貧乏人階級に真っ二つに分断され、そして何よりも後者の若者にはそこから脱却する道筋がまったく見えなくなっている姿が描き出されます。
・・・1950年代のポートクリントンにおいては、裕福な子どもも貧しい子どもも互いに近くに住み、一緒に学校に通い、ともに遊びまた祈り、さらには一緒にデートすらしていた。・・・子ども(とその親)は階級の線を越えて知り合いであり、さらには親友ですらあった。今日ではそれとは対照的に、ポートクリントンにおいてもどこにおいても、自身の社会経済的環境の外側の人々と日常生活の中でふれあう者はますます少なくなっている過去40年間の間に、階級の線に沿ったアメリカ社会の分裂がいかほどに広がってしまったのか・・・・・
この間に一体何があったのか。
それを、第2章から第5章まで、観測地点を変えながら、くっきりと描き出していくのですが、いやあパットナムすごいなと思ったのは、わざわざ同じ人種、エスニックグループに属する上流階級と下層階級を対比させていくところです。
第2章では、オレゴン州の小都市に住む白人の若者とその親たち、第3章ではアトランタに住む黒人の若者とその親たち、第4章ではカリフォルニア州オレンジ軍に済むヒスパニック計の若者とその親たち、第5章はフィラデルフィアに住む再び白人の若者とその親たち。
この本は、誰かを糾弾している本ではありません。本書の中でパットナムが言っているように、
・・・おそらく意外なことだろうが、この本に上層階級の悪役は登場しない。我々のストーリーにいた上層中間階級の親の中に、一族の資産頼みでのんびりとくつろいでいるような、暇をもてあました巨万の富の相続人など事実上一人も登場しなかった。むしろそれとは反対に、アールとパティ、カール、クララとリカルド、マーニーはそれぞれの家族の中で初めて大学に行った人間だった。彼らのうちおおよそ半数は片親家庭の出身だった。誰もがひどく苦労してはしごを登り、また子育てにおいては多くの時間と金銭をつぎ込み、そして配慮を尽くしていた。
そういう努力して上に上がった世代の子供らが、気がつけばもはやそれと同じサクセスストーリーを演じられない世界に放り込まれてしまって板というのが、本書の描き出す最大のアイロニーなのでしょう。
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