『生活経済政策』4月号に寄せて
http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/
特集は「再分配の諸潮流~いかなる再分配がありうるか~」で、井出さんの編集でアメリカ、イギリス、ドイツ、デンマークの事例が紹介されているのですが、それをパラパラと読んでその次の篠田徹さんの連載を読んでいったところ、
連載 グローバル・レーバー:連帯の可能性を求めて[第2季]
[25]国際労働政治と国際労働組合運動/篠田 徹
先日本ブログでも紹介したある論考が紹介されているのが目にとまりました。ボー・ロスステインの「The Long Affair Between The Working Class And The Intellectual Cultural Left Is Over」です。わたしは「労働者階級と知的文化的左翼の永すぎた春の終焉」などと訳しましたが、篠田さんはも少し真面目に訳してますが、趣旨は同じです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1cba.html(労働者階級と知的文化的左翼の永すぎた春の終焉)
ただ、篠田さんはこの論文からこういう議論を導いていきます。
・・・ここで強調しておきたいのは、労働組合運動は左翼のイノベーターなしには社会を変えられなかった受け身な存在ではなかった。むしろ彼ら彼女と手を組んで、当時必ずしもメジャーでなかった人々ともに社会変革を通じた労働者の利益増進という戦略を採用した際の主導権は労働組合運動の側にあっただろう。つまり両者の関係は必然的というよりは契約的であり、そうした選択をし、彼ら彼女らを利用し労働組合運動の主体性の結果だったという点である。・・・
これは近代史を、社会主義者など左翼思想の観点から描くか、現場の労働運動の側から描くかによって、その描像ががらりと変わってくるということでもあります。一方の極には、労働組合を革命の学校とみなし、社会主義運動に従属すべきものと考えたマルクス主義が位置し、他方の極には社会主義運動を毛嫌いしたサミュエル・ゴンパースのような労働運動家が位置するわけですが、その間には、お互いに利用しあい、されあった労働運動を社会主義者との協力関係があったわけです。
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