手紙は覚えている
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最愛の妻ルースが死んだ。だが、90歳のゼヴはそれすら覚えていられない程、もの忘れがひどくなった。ある日彼は友人のマックスから1通の手紙を託される。「覚えているか?ルース亡きあと誓ったことを。君が忘れても大丈夫なように、全てを手紙に書いた。その約束を果たしてほしい―」2人はアウシュヴィッツ収容所の生存者で、70年前に大切な家族をナチスの兵士に殺されていた。そしてその兵士は身分を偽り、今も生きているという。犯人の名は“ルディ・コランダー”。容疑者は4名まで絞り込まれていた。体が不自由なマックスに代わり、ゼヴはたった1人での復讐を決意し、託された手紙と、かすかな記憶だけを頼りに旅立つ。だが、彼を待ち受けていたのは人生を覆すほどの衝撃の真実だった―
映画自体ははらはらどきどきの極上のサスペンスとこの上なくえぐい結末ですが、ネット上に既に結末のネタバレは溢れているので、それを前提にしての映画それ自体からはかなりかけ離れた感想を。
自分はナチスに家族を殺されたユダヤ人だという思い込み(というか正確には「思い込まされ」)に似た虚偽意識の構築というのは、戦後世界におけるアイデンティティ維持のための不可避の便法として、実はかなり広範に見られたことだったんではないか、とふと思ってしまった。
実は枢軸国側であったヴィシー政権下のフランス人としての記憶を押し隠すかたちでの自由フランスの抵抗の「歴史」にしても、大日本帝国臣民としての記憶を否定するかたちでの独立韓国の「歴史」にしても、エスニックなアイデンティティ故にそのわかりやすい例だけど、さらにいえば戦後ドイツ人や戦後日本人の自己認識にもそれと似た機制が働いているのではないだろうか・・・、てなことをぼんやり感じながら帰途につきました。
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