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2017年2月19日 (日)

部活は保育?

プレジデントオンラインに「「土日の部活は常識」陰の推進者はあの人」という松尾英明さんの記事が載っていますが、

http://president.jp/articles/-/21376

ほぼ休みなし状態――。中学・高校生の土日祝日の「部活動」のことです。週末の部活は日本ではほぼ常識的な“風景”です。しかし、これは世界のスタンダードからすると間違いなく「異常」な状況に違いない。親として部活動をどう見るかをさまざまな立場の視点から一緒に考えていきましょう。・・・

推進者の「あの人」というのは、実は生徒の親たちだというのがこの記事の主張です。

子供が行きたくて行っていて、その間は、親も自由な時間ができる。スポーツクラブだったら1回何千円、月に数万円かかるところが、何と「無料」&「時間無制限」。反対する理由は何もありません。

もし「土日の部活をなくす」と言ったら、親御さんから大反対運動が起きても不思議ではないでしょう。子供の側はといえば、部活を楽しみながらも内心はたまに休みたいと思っているので、きっと反対運動までは起きません。その点で、一部の熱心な親御さんは、土日部活動の陰の推進者といえるかもしれません。

私も実のところはそうだろうと思っていますが、だとするとこれはそう簡単に止めることもできにくいということでもあります。

手間のかかる思春期の子供たちの世話を低コストで学校教師に丸投げできるというのは、部活が一種の「保育」機能を果たしてしまっているということなのですから。

部活に預けることができなくなると、その親たちからすれば「日本死ね」と言いたくなるということでもあるわけです。

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コメント

以前から不思議だったのは、部活がないらしいヨーロッパの、特に労働者階級の子弟は放課後や休日をどのように過ごしているのだろうということなんですよね。

労働組合がスポーツクラブを持っているらしいので、そこで過ごしたりするのかな?

日本の部活の在り方は日本的雇用を核とする社会構造と密接に結びついていると思われるので、部活だけ何とかしようとしてもうまくいかないでしょうね。

放課後活動は学校ではなく地域の責任で行われるのが世界の常識かもしれません。学校教育ではなく学校外教育なので、社会教育の領域ですから。

欧州だと地域のユースクラブやユースセンターといった地域の受け皿があります。日本でいう地域型スポーツ・文化クラブのようなものが発達しているイメージですかね。

放課後活動が地域で行われる前提は地域がコミュニティとしての実態をもっていることでしょうね。しかし日本はそのような実態が失われつつあるし、新興住宅地はそもそもそのような実態が乏しい。昔さる労働研究の偉い先生が講義で次のように言ったのを鮮明に覚えています。

「最近の若い研究者はコミュニティがどうしたこうしたよく口にする。しかし会社以上に実態のある共同体が日本にあるだろうか」

私はこの発言を聞いたとき、そもそも会社以外にまともなコミュニティが乏しいことが日本の弱点だろうと思いました。

市場経済が発達すれば人の移動が激しくなるのが通常で、地域共同体を維持することは困難になるはずです。ヨーロッパで地域共同体を維持できているとすれば、それは階級社会ゆえに人の移動が制限されているからでしょうね。より正確に言えば、経済的機会が開かれている代わりに移動を強いられる階級と、経済的機会が閉ざされている代わりにある程度の生活水準が保障され移動をあまりしない階級とに分かれているということでしょう。冨山和彦氏のG型L型という区分も故なきものではない。まあ、ヨーロッパも労働者階級が合理性のない政策により変動にさらされて不安定化し、それが昨今の政治的ダイナミズムにつながっているのでしょうが。

日本は欧米と比してはるかに経済的機会が均等に開かれている社会です。誰でも会社のメンバーになれば社会的上昇の機会を与えられる。逆に言えば、多くの人間が移動を強いられ、地域共同体の維持は困難になる。とはいえ高度成長の終焉によりそれも不安定化し、上昇の機会も減少しつつあるなかでシステムの合理性を喪失しつつあるわけですが。

日本の学校は会社のメンバーになるまで無垢なまま若者を育てるための保育所だったといえる。部活はその延長だったのでしょう(保育であってそもそも教育ではなかった)。しかし日本型雇用が崩壊過程に入り、若者が無垢なまま社会に出るわけにはいかなくなった現代の日本で学校も変化せざるをえない。また、地域共同体の実態が希薄な日本でただちに地域の受け皿ができるとは思えない。この過渡期における部活の位置づけをどうするか、なかなか難問でしょうね。

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