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2017年2月25日 (土)

「ガンバリズムの平等主義」@『労基旬報』2016年2月25日号(再掲)

「発達障害就労日誌」というブログに、「残業禁止は強者のルールなのでは、という話。」というエントリが書かれて話題になっているようです。

http://syakkin-dama.hatenablog.com/entry/20170224/1487937935

Profile ・・・上に引用したエントリはまぁ、正しいと思うんですよ。そう思う。本当に思うよ。みんなスパっと働いてスパっと帰宅する。そして家に帰ってシェスタする。そういう世界が美しいと思う。本当に思う。僕もそうしたい。そうしたいんだ…。(パソコンの前で「記事を書く」画面を睨んで2時間が経過しようとしています)

僕がかつて勤めていた職場の雰囲気もこれでした。その昔は常に残業カーニバルが開催され、人々は踊って暮らしていたそうです。でも、ある日マッキンゼーって額に刺青した部族がやってきて全てを蹂躙したとのことです。それ以来、残業は罪となり、罪は塩の柱となりました。祭りはこのように終わったのです。

で、まぁ長い前置きだったんですけど、要するに僕が言いたいのはこういうことなんですよ。「それ、効率良く働けるマンしか生き残らないよな」ってことです。人が仕事をこなすスピードというのはかなり幅があります。10のタスクをこなすのに12時間かかる人もいれば24時間かかる人もいる。「定時帰宅」を絶対是とすると、まぁ効率の良い人しか生き残らないよねー、という話です。)

http://b.hatena.ne.jp/entry/syakkin-dama.hatenablog.com/entry/20170224/1487937935

この記事を読んで、ちょうど1年前に書いたこの文章を思い出しました。とりわけ太字にしたあたり。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/2016225-239b.html (「ガンバリズムの平等主義」@『労基旬報』2016年2月25日号)

 近年長時間労働を問題視し、労働時間の上限規制や休息時間規制などの導入を唱道する議論が溢れています。いや、筆者自身がその代表格であり、7年前の『新しい労働社会』(岩波新書)から昨年末の『働く女子の運命』(文春新書)まで、そういう論陣を張ってきました。しかし今回はあえて、長時間労働規制論に対して違和感を感じる労働者の素朴な感覚を腑分けしてみたいと思います。というのは、トップレベルの平場では労働組合サイドが長時間労働への法的規制を唱え、経営者サイドがそれに反対するというわかりやすい構図のように見えますが、企業現場レベルに行けば決してそんなわかりやすい構図ではないからです。

 ちょうど1年前の『労働法律旬報』2015年1月合併号に連合総研前副所長の龍井葉二氏が書かれている「労働時間短縮はなぜ進まないのか?」に、労働側-少なくとも現場レベル-の本音が描かれています。

 もう10年近くも前になるが、連合本部で労働条件局を担当していたときの話である。連合としての時短推進計画を見直すことになり、時間外労働の上限規制が論点になった。われわれ事務局としては、上限規制を強化する方針で臨んだのだが、いくつかの産別から猛反対を食らった。この推進計画はガイドライン的なものであり、もともと縛りの強いものではなかったのに、である。

 われわれは産別本部にまで足を運んで説得に当たったが、頑として聞いてくれない。日本における時間外労働の労使協定時間が異様に長いことは、当時から指摘されていたことであったが、連合がその邪魔をしてくれるな、というのが本音だったと思う。

 ここに現れているのは現場の労働者の本音そのものであり、産別はそれを正直に表示しているだけでしょう。その本音とは、ある部分はもっとたくさん残業して残業代を稼ぎたいという経済的欲求であることは確かですが、それだけにとどまるものとも言えません。実はここには、日本型雇用システムにおける長時間労働の意味が露呈しかかっているのではないでしょうか。

 これを説明するためには、戦後日本社会が戦前日本社会と異なり、また戦後欧米社会とも異なり、エリートとノンエリートを原則として入口で区別せず、頑張った者を引き上げるという意味での平等社会を作り上げてき(てしまっ)たということを頭に入れておく必要があります。この点について、今から4年前に『HRmics』12号でのインタビューでこう述べました。

・・・エリートの問題についても大きな違いがあります。アメリカではエグゼンプト(exempt)、フランスではカードル(cadres)といいますが、残業代も出ない代わりに、難易度の高い仕事を任され、その分もらえる賃金も高い、ごく少数のエリート層が欧米企業には存在します。彼らは入社後に選別されてそうなるのではなく、多くは入社した時からその身分なのです。

一方、「ふつうの人」は賃金が若い頃は上がりますが、10年程度で打ち止めとなり、そこからは仕事の中身に応じた賃金になります。出世の階段はもちろんありますが、日本より先が見えています。その代わりに、残業もほどほどで、休日は家族と一緒に過ごしたり、趣味に打ち込んだりといったワークライフバランスを重視した働き方が実現しています。

日本は違います。男性大卒=将来の幹部候補として採用し育成します。10数年は給料の差もわずかしかつきませんし、管理職になるまで、すべての人に残業代が支払われます。誰もが部長や役員まで出世できるわけでもないのに、多く人が将来への希望を抱いて、「課長 島耕作」の主人公のように八面六臂に働き、働かされています。欧米ではごく少数の「エリート」と大多数の「ふつうの人」がいるのに対して、日本は「ふつうのエリート」しかいません。この実体は、ふつうの人に欧米のエリート並みの働きを要請されている、という感じでしょうか。

 欧米ではノンエリートとして猛烈な働き方なんかする気にならない(なれない)多くの労働者が、日本では疑似エリートとして猛烈に働いている、というこの構造は、なかなか切り口の難しい代物です。ある種の左翼論者は、それは資本家に騙されて虚構の出世を餌に搾取されているだけだと言いたがりますが、もちろんそういうブラック企業も少なくないでしょうが、日本型雇用を代表する多くの大企業では必ずしもそうではなく、確かに猛烈に働く係員島耕作たちの中から課長島耕作や部長島耕作が、そしてきわめて稀にですが社長島耕作が生み出されてきたことも確かです。とはいえ、ではこの構造は人間の平等と企業経営の効率を両立させた素晴らしい仕組みだと褒め称えて済ませられるかというと、そうではないからこそ長時間労働が問題になっているわけです。

 このシステムにおける「平等」とは、いわばガンバリズムの前の平等です。凄く頭のよいスマート社員がてきぱきと仕事を片付けて、夕方には完璧な成果を出してさっさと帰宅している一方で、そんなに頭の回転は速くないけれども真面目にものごとに取り組むノンスマート社員が、夕方にはまだできていないけれども、「明日の朝まで待って下さい。ちゃんと立派な成果を出して見せます」と課長に頼んで、徹夜して頑張ってなんとかそれなりの成果を出してきた、というケースを考えましょう。長時間労働は良くないから禁止!ということは、ノンスマート社員に徹夜して頑張ってみせる機会を奪うことを意味します。さっさと仕事を片付けられるスマート社員だけがすいすいと出世する会社になるということを意味します。そんなのは「平等」じゃない!と、日本の多くの労働者は考えてきたのです。

 とはいえその「平等」は、そうやって頑張ることのできる者だけの「平等」にすぎません。かつての係員島耕作たちの隣にいたのは、結婚退職が前提で補助的業務に従事する一般職女性だったかも知れませんが、その後輩たちの隣にいるのは、会社の基幹的な業務に責任を持って取り組んでいる総合職女性たちなのです。彼女らはもちろん結婚しても出産しても働き続けます。しかし、子どもを抱えた既婚女性には、かつての係員島耕作とは違い、明日の朝まで徹夜して頑張ってみせることも不可能です。島耕作たちの「平等」は、彼女らにとってはなんら「平等」ではないのです。むしろ、銃後を専業主婦やせいぜいパート主婦に任せて自分は前線での闘いに専念できるという「特権」でしかありません。その「特権」を行使できない総合職女性たちがいわゆる「マミートラック」に追いやられていくという姿は、「平等」という概念の複雑怪奇さを物語っています。

 ノンエリート男性たちのガンバリズムの平等主義が戦後日本の経済発展の原動力の一つとなったことは間違いありません。しかし、その成功の原因が、今や女性たち、さらには男性でもさまざまな制約のために長時間労働できない人々の活躍を困難にし、結果的に日本経済の発展の阻害要因になりつつあるとすれば、私たちはそのガンバる平等という戦後日本の理念そのものに疑いの目を向けて行かざるを得ないでしょう。

 長時間労働問題はなかなか一筋縄でいく代物ではない、からこそ、その根源に遡った議論が必要なのです。

上記「発達障害就労日誌」のエントリはまさに、意外に思われるかも知れませんが、まさにこの戦後日本社会特有の「ノンエリート男性たちのガンバリズムの平等主義」を何の夾雑物もなくそのままに表明したものと言えるでしょう。

でも、上の私の文章の最大の眼目は、それに続く部分にあります。その「ノンエリート男性たちのガンバリズムの平等主義」とは、「そうやって頑張ることのできる者だけの「平等」にすぎ」なかったのだということ、そんな風に頑張れること自体が別の視点からすれば一個の特権でしかなかったというこそが、今日それが問題とされなければならない最大の理由であるわけですね。

この問題を考える上では、少なくともこれくらいのことを念頭に置いた上で論じるのでなければ、やや薄っぺらな議論になってしまうでしょう。

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コメント

発達障害者は社会的扶助がほとんど受けられず、ギリギリ就労可能だけど一般的な職場にはなかなかついていけないというラインで生きているので、「他の人より頑張る」しか生存の道がないという前提も忘れないでいただけませんかね。

「ガンバればみんな平等」とかそういうアレじゃなくて、メシ食って生きるためにやってるんですが。それを念頭においていただきたいですね。できれば。

我々、そうそう手帳ももらえないし保護ももらえないんですよね。気合入れて二次障害を詐病して保護をとる、とかそういう現実的な選択肢もなくはないですが。

承認していただけることを期待してはいませんが、生き死にレベルの問題をこういうところから語って、「この前提が大事である」とか言われると、いやオマエそんな話じゃねえよって気持ちにはなりませんね。

世の中には、残業をさせられることは生き死にに関わらないけれども、残業を認めてもらえなければ生き死にに関わるという人もいれば、それを基準にして残業をさせられればそれこそが生き死にに関わるという人もいるでしょう。同じように障害のある人であっても。


そういう様々な人々の間で、しかしある一律の決まりをどう設定するべきかというのが、この問題の焦点であるわけです。

上記エントリは、それを(障害のある人の間ではなく)、残業をさせられることに何ら不都合はないけれども残業を認めてもらえないと苦しい立場になるノンエリート男性と、残業を強制されると苦しい立場になる子持ちの女性たちとの間でもって論じたものであって、他の様々な立場の違い人々の間の議論に応用可能であると思っています。

興奮を少し冷まして上記エントリを読んでいただければわかると思いますが、私はそもそも何かが絶対的に正しいとか間違っているとかいうたぐいの議論をしているわけではありません。逆に言えば、ある特定の立場だけに一方的に感情移入して論じるべきテーマではないとも思っています。

「長時間労働問題はなかなか一筋縄でいく代物ではない」というのは、そういう意味で申し上げているつもりです。

濱口さんのおっしゃられる「長時間労働問題は一筋縄でいく代物ではない」のとおり、医師職の宿日直の判断も、医学・医療の国民に果たすべき役割=マクロ重視に立つ側と、医師個々の健康問題はじめ家庭問題等のミクロ重視それに重きを置く立場の側、また国会でも医療従事者の労働問題を議論、そして診療・介護報酬改定同時時期を見据えた提言するための議員連盟が最近結成されるなど、絶対的解が見つからないパラレルな状態となっております。

コメントの承認感謝いたします。
頭も冷え、たいへん嬉しい気持ちになりました。

>私はそもそも何かが絶対的に正しいとか間違っているとかいうたぐいの議論をしているわけではありません。

この立場はたいへん理解できます。僕もその立場から論じたつもりだったのですが、すごいことになりました。否定するつもりは全くございません。

僕が言いたいことはたった一つで

>戦後日本社会特有の「ノンエリート男性たちのガンバリズムの平等主義」を何の夾雑物もなくそのままに表明したものと言えるでしょう。

いや、その比喩は違うでしょう。というお話です。
ガンバリズムの平等主義は、「ノンエリート男性」たちのお話です。前提が全く違うものを「形式として似てるよね」というだけで、「何の夾雑物もなくそのままに表明したもの」と断じるの、冷静に冷えた頭で考えていただくと、なかなかひどい話だと思いませんか。

「違う立場で論じた」というのはわかります。確かに、形式としては相似であり、他の議論にも応用出来るでしょう。その価値については認めます。

しかし、そこには「生き残って食い扶持を稼ぐため、これ以上撤退出来ないラインで踏ん張ってる」という発達障害者の前提が完全に失われてますよね。「ノンエリート男性」にとっては残業は一つの「特権」かもしれませんが、ADHDにとって「残業」は生き残りのためのギリギリの反則技です。「特権」ではありません。

それとも、残業はADHDの特権ですか?そうだと仰るなら話は全く別になり、「なるほど、コイツは俺の生存をそもそも許さないんだな、俺が生きるために最低限必要なラインも特権と命名するんだな」と判断して下がりますが。

違う立場のものを一律に形式的相似性だけで論じて、全く違う性質であるものを同一であるかのように語るのは、間違いとまでは言えないまでも、大事なものが削ぎ落とされる危険を孕みます。

僕はその議論の中で削ぎ落とされた、「そこは俺にとって特権ではなく生きるためにこれ以上下がれない最終防衛ラインなんだ」というお話でした。

宜しくご検討ください。

私の元の記事(ちょうど1年前)を書いたときには、障害者のことはまったく念頭になかったことは確かです。
まさに残業をさせられることに何ら不都合はないけれども残業を認めてもらえないと苦しい立場になるノンエリート男性と、残業を強制されると苦しい立場になる子持ちの女性たちとの間でもって論じたものでした。

ただ、では障害者という補助線を引いてみたらどういうことになるかと考えてみれば、やはり、借金玉さんのように、残業をさせられることに何ら不都合はないけれども残業を認めてもらえないと苦しい立場になる障害者の方もいれば、そもそも長時間労働に耐えられず、長時間労働をすることが当たり前のルールを適用されること自体がその生き死にに直接関わるというような方もいるわけでしょう。

この二つの現象は、勿論異なるフェーズにあるので、「何の夾雑物もなくそのままに表明したもの」という言い方は確かに適切ではないと言うことは確かです。

しかしながら、一般の労働者同士の間であっても、あるいは障害を持つ労働者同士の間であっても、長時間労働をするのが当たり前というルールを適用することがまったく対極的なインパクトを与えるということを表現する上では、まったく間違った表現であると言えるかどうかには疑問もあります。

要するに、そのいずれのケースにおいても、いずれか一方にとっての切実さのみを声高に呼ばわることが、もう一方にとってのそれとはまったく逆方向の切実さをかき消すことになっていないかどうかを、常に反省して議論していくことは、少なくとも社会全体に適用されるべき一般的ルールがいかにあるべきかという議論をしているのである限り、重要な観点であると考えています。

いや、そもそも「社会全体に適用されるべき一般的ルールがいかにあるべきか」などという議論をしているつもりはない、と仰るのであれば、それはそれで結構ですが、それでは同じ土俵の議論ではないということになりましょう。

借金玉さんの「生き残って食い扶持を稼ぐため、これ以上撤退出来ないラインで踏ん張ってる」という訴えには共感します。

健常者が1分でできることを、障害者ゆえに60分かかる。60分かければできるのだからやらせてくれ、それを1分しか許さないというのは不平等だということですが、でもそれさえできない人はどうしたらいいのでしょうか。

働いていないのに、あるいはちょっとしか働いていないのに生き残るための食い扶持を得るのは不平等でしょうか。24時間365時間他人の介助を必要とする人にとっての労働時間とはどういうものでしょうか。全介助を受けながら仕事をする人もいるんですよ。

「社会全体に適用されるべき一般的ルールがいかにあるべきか」ですが、一方に肩入れしてしまうのは避けられないにしても、もう一方を知る・理解しようと努力することは不可欠だと思います。

みょうみょうさん、

だから、今まさに佳境に入りつつある「社会全体に適用されるべき一般的ルールがいかにあるべきか」の議論と、それをそのまま適用されては生き死にに関わる人々の扱いとは少なくとも一応は分けて議論する仕組みが必要なのでしょう。

これは、「障害」概念が従来の狭いものから発達障害などに広がるにつれて、境界領域が広がってきて、どういう文脈で議論すべきかが曖昧になってきたこととも関わりがあるのかも知れません。

きちんと議論するためには精神医学の本なども読む必要があると思われ、正直言ってなかなか難しいところだなあ、と思っています。

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