« 『EUの労働法政策』刊行 | トップページ | 年次有給休暇のそもそも »

日本型雇用システム論と小池理論の評価(後編)@『WEB労政時報』

WEB労政時報に「日本型雇用システム論と小池理論の評価(後編)」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=621

日本型雇用システムについての議論で、たびたび参照されるのが小池和男氏(現・法政大学名誉教授)の理論です。しかし、小池理論の根幹部分について、多くの読者は取り違えてしまっているのではないか、と考えます。
前編では、小池氏の賃金理論の変遷をたどりながら、その議論における問題点の所在を見ていきました。
 後編では、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
 
 労使関係論とは何でしょうか? 一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。 ・・・・

|

« 『EUの労働法政策』刊行 | トップページ | 年次有給休暇のそもそも »

コメント

読み解くのに少々時間を要しましたが、WEB労政時報にご興味ある方も多いと思われますので、勝手ながら以下に論考の概要(要点)を記載しますのでご参照ください。

===

日本型雇用システムの代弁/擁護者として一般に知られる小池和男氏。その発想の根源は何かを探ってみたい。多くの人は彼を「実証的労使関係論者」と誤解しているが、彼の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した「純粋経済学者」のスタイル。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系である。

ところで「労使関係論」とは、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問。そのルールが持続可能であるためには一定の経済合理性を必要とするも、そもそも政治的に構築されるものであるため経済学的に正しい保障はない。

わが国の戦時賃金統制と電算型賃金体系が確立した「生活給」自体はまさに政治的産物であり、その合理性を経済学から演繹することはできない(もっとも、生活給を変形した個人査定つきの「年功的職能給」の合理性であれば経済学的に説明できるが)。

小池理論とは、いわば労使関係がもっとも重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することで成立する、極めて純粋経済学的な議論である。

この「労使関係論なき純粋経済学ぶり」は賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも現れている。著書「賃金~その理論と現状分析」(1966年)では小池氏は当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論する―(引用略)。

よく知られるように1969年日経連「能力主義管理」は日経連の20年に及ぶ「職務給化」唱道からの撤退宣言である。職務による決定を「職務遂行能力」による決定に「転進」させることで、生活給に由来する年功的上がり方を経済学的に合理的なものとして運用することが可能となった。運用次第で生活給的な運用にも「能力」を理由とした大きな差がつく運用にもなりえる。「能力」概念のあいまいさが年功ベースでも経済学的に合理的な運用を可能にするパラドックス。それを初めからそう構築されたかのように説明するのは、歴史感覚の欠如した経済学的思考にすぎない。

70-80年代に小池氏の名と共に人口に膾炙した「知的熟練論」に関しても然り。著書「賃金」にあるとおり、大企業と中小企業の賃金の上がり方の違いの経済学的違いの説明は「知的熟練」万能の説明であり、いまから見れば笑止千万であろう。同著曰く「大企業の労働能力は10年を超えてもなおより高い職務へと昇り続けるのに対し、一般的にいって中小企業の労働力は必要経験年数が5-10年どまりの職務の遂行に留まっているではあるまいか。要するに、中年長勤続層における著しい格差は労働能力の違いによると推測される。ではなぜ労働能力の種類の違いが生じるのだろうか。…大企業の機械設備が中小企業に比べ概して巨大で複雑なことを想起する必要がある。大企業の複雑化した機械体系は、…しばしばそうした「知的熟練」を強く要求している。1つのスイッチを押すにも機械体系全体の仕組みについての理解が要求され、そのために関連する多くの職務を遍歴してその「知的熟練」を身につけること必要があり…。」

いわずもがな大企業の中高年労働者の能力がその高賃金に見合うだけ高く、中小企業のそれがその逆であることの客観的測定の物差しはどこにも存在しない。小池氏の推測は「存在するものは合理的」というヘーゲル的な論理というべきだろう。この議論は著書「中小企業の熟練」(1981年)でも全く変化なし。証拠のない仮説のままである。

「労働需給」で説明できない部分は「労働力の質」で説明するしかないというこの発想!言葉の最も正確な意味で「労使関係論なき純粋経済学」の名に値しよう。労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立する極めて純粋経済学的な議論。それゆえ「証拠なき仮説」が平然と通用する。

しかし「証拠なき仮説」はいかに紙の上の議論としては通用しても現実社会の企業行動によって裏切られる。著書「日本の雇用システム」(1994年)では高らかに論じている―(以下引用…技能はそれほど長期には伸びないと想定されていたかのように思われる。だが、勤続20年を超えてなお技能は伸び続けるという結果が得られている。知的熟練の向上度を示す中核的な指標は「経験の幅」と「問題処理のノウハウ」である。この2つは普通の報酬の方式では促進できない」)

問題はその知的熟練が本当に企業にとってそれだけ高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているかという点にある。同著では「中高年の解雇は本人にとってその損失がはなはだ大きい。…日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。…そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしもそれを全く知らずしに実施しては失うものが甚だしい。」とあるが、これでは欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が肝心の中高年の取り扱いとなるとそれが全くわかっていない愚か者に変身するといっているようなもので、あまり説得力のある議論ではあるまい。

「職務遂行能力」にせよ「知的熟練」にせよ客観的な評価基準があるわけではなく、それが現実に対応しているのか乖離しているのかはそれが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできない。リストラ時の企業行動は中高年の「知的熟練」が幻想と考えていることを明白に示している。

常識はずれの議論はいかにアクロバティックな論理展開で人を酔わせても最後は破綻するのである。 

===

いつもにも増して切っ先鋭いHamachan先生のその仮借ない厳しい矛先は、わが国の紫綬褒章や文化功労者など数々の褒賞をほしいままにした「熟練」の労働経済学者に及ぶ…。

「定説」に異議を唱える、この熱い情熱の論考に大きな拍手を捧げます。

投稿: 海上周也 | 2017年2月13日 (月) 18時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/3288/69422420

この記事へのトラックバック一覧です: 日本型雇用システム論と小池理論の評価(後編)@『WEB労政時報』 :

« 『EUの労働法政策』刊行 | トップページ | 年次有給休暇のそもそも »