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派出看護婦とは何だったのか?@『労基旬報』2017年1月25日号

『労基旬報』2017年1月25日号に「派出看護婦とは何だったのか?」を寄稿しました。

 派出看護婦といっても、今では知らない人の方が多くなったかも知れません。戦後はむしろ「付添看護婦」という言い方のほうが普通ですが、1997年の新看護体制の導入まで、入院患者とともに病院に寝泊まりして身の回りの世話をする女性たちが一個の職業として存在していたのです。民営職業紹介事業として「看護婦・家政婦紹介所」という看板が掛けられていたところの「看護婦」というのがほぼこれに当たります。今では消滅した職業ですが、その歴史をたどるといろいろと興味深いことが見えてきます。

 看護史研究会『派出看護婦の歴史』(勁草書房)によると、そもそも日本における看護婦の歴史は病院看護婦ではなく派出看護婦から始まるのです。1891年、鈴木まさが東京本郷に創立した慈善看護婦会がその出発点で、「医師又は患家より依頼あるとき看護婦並に産婆を派出する」のがその事業でした。その後京都、大阪にも看護婦会が作られていき、派出看護への需要が高まるにつれ、看護婦会が独自に看護婦の養成を始めます。一方、看護婦会が急増し、営利本位に流れていく状況を見て、行政も規制に乗り出し、1900年東京府は看護婦規則を発令、看護婦試験に及第した者のみが免状を得て看護婦の業を営むことができることとしました。それまで看護婦という業務は何ら規制されていませんでした。同規則の理由に「各営業者間に私設せる所謂看護婦会又は看護婦養成所と称する場所に於ては一般に速成を主とし極めて不完全なる養成を為し其大部分は殆ど看護婦の仮名を借るものたるに過ぎず」といわれるような実態があったのです。看護婦会の経営者たちによる同業団体の設立が進められていき、1902年には大日本看護婦協会が設立されました。

 一方東京府を皮切りに他府県でも次々と看護婦規則が発令され、1915年には内務省令として看護婦規則が制定されるに至ります。この看護婦規則は看護婦試験と免許制度を規定するものでしたが、各府県の施行細則の中では看護婦会の取締に関する規定が設けられました。そこでは、看護婦会の開設には許可を要すること、看護婦会の経営者は看護婦会組合に加入しなければならないことなどが定められていました。看護婦会に入会すると、会長自宅の二階や離れの宿舎で生活し、患家や病院からの申込みに応じて、会長の指示に従い派出されました。当時の「職業婦人就業案内」にも派出看護婦が登場しています。一方、大正デモクラシーで労働運動が高まりを見せる中で、派出看護婦のストライキもいくつか起こっています。さらに1922年には労働婦人同盟本部に看護婦同盟が結成されたということです。

 行政による看護婦会の取締も1930年から強化され、同年改正の東京府看護婦会取締規則では、看護婦会でなければ看護婦の派出をしてはならないこと、看護婦会は畳2畳につき会員5人の面積以上の寄宿設備を備えること、看護婦又は准看護婦でなければ派出してはならないことなどを定めました。しかしこれをかいくぐるように派出婦会が登場してきて、家事のみならず病人の付添も行うようになったため、同年内務省衛生局は「付添婦取締に関する件」という通牒を発し、「近時付添婦等と称し病院或は患家に於て看護婦と同様の業務を為す者漸次増加の傾向有之哉に聞及び候処、右は公衆衛生上弊害あるものと認めらるるに付充分取締相成」と指示しています。

 敗戦後GHQの厳命で労働者供給事業は(労働組合を除き)全面的に禁止されることとなり、戦前来の看護婦会も一切の業務をやめて解散しなければならなくなりました。これに対し、看護婦会経営者らはさまざまな運動を展開しました。まず第1は、従来の看護婦会を職業安定所の「委託寮」に指定し、派出看護婦から下宿料を徴収することで解散を免れるというやり方です。もっとも職安による派出看護婦の紹介はうまくいかず、病院と看護婦会の結びつきが強かったので、制度は変わったといいながら、派出看護婦は今まで通り委託寮主から派出先の指示を受け、ただ形式的に手続のための職安に出かけるという実態だったようです。

 第2は職業安定法で唯一許された労働組合の労働者供給事業として生き残る道です。1948年に名古屋の双葉臨床看護婦労働組合が第1号として許可を受け、続いて東京で田園調布派出看護婦家政婦労働組合が設立されています。ちなみにこの田園調布の組合は今日もなお労働者供給事業として事業を行っています。しかし、政治的な運動の結果1948年に職業安定法施行規則が改正され、有料職業紹介事業の対象職種に「看護婦」が追加されたことから、それ以後有料職業紹介事業として付添看護婦という職種が確立していきます。1950年には「家政婦」も対象職種に追加され、「看護婦・家政婦紹介所」として経営されることが殆どでしたが、その「看護婦」というのはもっぱら付添看護婦のことでした。

 この職業が消滅したのは、冒頭に述べた1997年の新看護体制の導入によってです。厚生省が付添看護の廃止に踏みきったのは患者の保険外負担をなくし、看護の質を改善するためということでした。付添婦を雇用するのは患者個人で、その料金を払った患者にその一部が付添療養費として償還されますが、それが基準看護病院に入院する患者との間で不公平だという論拠です。その時、『看護学雑誌』1996年5月号から1997年1月号まで8回にわたって吉田昌代氏による「付添看護とは何だったのか」という文章が連載されました。彼女は自ら看護婦家政婦紹介所に行き、その紹介で付添婦として働きながら、その就労の実態を生々しく伝えています。床に寝るという劣悪な労働環境、実質24時間体制という労働時間、眠剤に頼る生活で珍しくもない過労死等々とその苛酷さを綴りながら、やはり一番おかしいのではないかと訴えているのは、労働法上家事使用人に分類されるので労働基準法の適用がないという点です。彼女はこう問います。「付添婦の雇用については、実態と法律とがあまりにもちぐはぐである。病院で働く付添婦を見て、彼女たちが家事使用人である、と認識する人は果たしているだろうか「付添婦の労働実態は労基法違反である」労働省に突きつけた矛先は「家事使用人」という屁理屈でかわされてしまった狐につままれた気分で釈然としない。付添婦を守ってくれる労働者保護法は、日本には存在しないのか。付添婦には、最低限の人権さえ保障されていない」と。付添看護の廃止によってこのような劣悪な労働環境は11万人の雇用機会とともに消滅したのです。改めて、この約1世紀にわたって存在していた職業とは一体何だったのかと再考してみるべき時期かも知れません。

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コメント

エントリの観点と違います、が、おられました。
おそらく、わたくしの知るその職業者は「付き添いさん」という呼称で、入院患者のいわば家庭における生活面を入院施設にて代替でお世話をされておられた女性たちでした。
むろん資格等範囲外の当時の女性(さまざまなご事情を抱えられた方々というセンチメントだけでは語れない、時代そのものの女性に間口が広い就業先であったのかもしれません)の所得獲得の手段でもあったと思われます。
わたくしがあまりに小さき頃の記憶で、具体的なことはなにも思い出せませんが。

立場上も考えさせられる史的なエントリで、濱口さんに感謝申し上げます。

投稿: kohchan | 2017年1月23日 (月) 20時13分

追記

完全看護制度とのループ的史実を知る良い機会と考え、看護学教員や院生に本書を紹介させていただきます。

濱口さん、ありがとうございます。

投稿: kohchan | 2017年1月24日 (火) 07時50分

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