exit >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> voice
https://twitter.com/ph89arwgarg/status/805256409096957952
会社を辞めるという選択肢を選ばずストライキするあたり狂気を感じる
そうか、もはやexitを選ばずvoiceを選ぶのは「狂気」と評価されるくらいにまでこの日本社会の『空気』は変わり果ててしまったのだな、という感想。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_3c8e.html(フリードマンとハーシュマンと離脱と発言)
たまたま言い出しっぺのフリードマンが死んだので、改めてハーシュマンを取り出してみました。
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もともと経済学者は、自らのメカニズムが遙かに効率的で、実際上、真剣に取り扱われるべき唯一のものと思いこむ傾向にある。こうした偏見は、公教育に市場メカニズムを導入することを説いたミルトン・フリードマンのよく知られた論文に如実に示されている。フリードマンの提言のエッセンスは、学齢期の子供を持つ親に特定目的のヴァウチャーを配布するというものである。このヴァウチャーを使い、親は私企業が競争的に供給する教育サーヴィスを購入できるというわけである。こうした計画を正当化するため、彼は次のように述べている。
親は、ある学校から自分の子どもを退学させ別の学校へ転校させることによって、学校に対する自らの考え方を今よりも遙かに直接的に表明できるだろう。現在、一般的には、転居する以外に親はこうした手段をとりえない。後は、厄介な政治的経路を通じて自分たちの意見を表明できるに過ぎない。
ここでフリードマンの提言のメリットについて議論するつもりはない。それよりもむしろ、私がこうした一節を引用しているのは、それが離脱を好み、発言を嫌う経済学者の偏見を示す、ほとんど完全な事例だからである。まず第1に、フリードマンは、ある組織に対し快く思っていないことを表明する「直接的な」方法として、退去、つまりは離脱を想定している。経済学の訓練をさほど受けていない人ならば、もっと素朴に、考えを表現する直接的な方法とは、その考えを言明することじゃないか、と思うことだろう。第2に、フリードマンは、自らの考え方を発言すると決めて、それを広く訴えようと努力することなど、「厄介な政治的経路」に頼ることだと、侮蔑的に言い放っている。だが、まさにこうした経路を掘り起こし、それを利用し、望むらくはそれをゆっくりとでも改善していくよりほかに、政治的で、まさに民主主義的なプロセスがあるだろうか。
国家から家族に至るまで、およそ人間の関わる全ての制度において、発言は、いかに「厄介な」ものであろうと、その制度に関係するメンバーが日常的につきあっていかなければならないものなのである。
(アルバート・ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』(ミネルヴァ書房)p15~16)
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これはもちろん教育問題だけの話ではありません。先日、団結権をネタにプロセス的権利に言及したのも、同じ問題圏であることはおわかりでしょう。
私が不思議でならないのは、なぜ経済学者たちは(ほかの問題に対しては「離脱」のみを選択肢として推奨するのに)あれほど熱心に経済政策についてだけは「発言」しようとするのだろうかということです。そんな「厄介な政治的経路」に頼るより、さっさと「離脱」すればいいのにね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_1a4b.html(離脱と発言再び)
21日のエントリー「フリードマンとハーシュマンと離脱と発言」に、トラックバックが着きました。
http://ameblo.jp/nornsaffectio/entry-10020312276.html
たまたまフリードマンとハーシュマンが取り上げているのが教育問題だったからそれをそのまま使いましたが、私の基本的問題意識が労働問題、つまり、気に入らない会社をさっさと「離脱」していく方がいいのか、それとも組織への「忠誠」を持ちつつその運営に対して「発言」していく方がいいのか、にあることは、このブログの全体傾向からしてご了解いただけるところだと思います。それを超える話は、わたし的には基本的に越境分野なんですが。
ただ、ではたった3年間なりたった6年間に過ぎないから、「反映される前に子どもが学校を卒業してしまうので間に合わない」「子どもが卒業した後になってから何かが変わっても、その親子からすれば完全に手遅れ」という話になるのか、というと、まあこれは主観的な感覚の問題になりますが、そういう風にものごとを完全に私的利益のレベルだけで考えること自体が、言ってみればフリードマンの土俵に乗っていることになるのだろうと思うわけです。
同じハーシュマンが書いている『失望と参画の現象学』(法政大学出版局)では、『離脱・発言・忠誠』での枠組みを壮大な思想史の中に位置づけながら、私的利益と公的行為をめぐるイデオロギー的構図を見事に描き出しています。普通、公的行為というと、大文字の政治に関わることという風になるわけですね。しかし、ハーシュマンの議論の大事なところは、通常「離脱」モデルが当たり前と思われている企業活動に対しても、「発言」メカニズムの意義を強調するところにあります。これはちょうど、フリードマンら経済学帝国主義者が、国家に対してすら「発言」ではなく「離脱」モデルを慫慂するのと好対照になっています。
自由市場原理主義に対する保守主義からの批判としていわゆる公民的共和主義(シビック・リパブリカニズム)というのがありますが、そこで論じられているのは基本的に大文字の政治なんですね。まあ、古典古代のギリシャの民主政治がモデルだからそうなるんでしょうが、この「シビック」という概念をもう少し掘り下げてみたいな、とは思っています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/voiceexit-fb62.html(voiceなきexitの世界)
某氏のつぶやきから
http://twitter.com/#!/joshigeyuki/status/71197452845318145
>残業きつい→辞めればいい。人間関係最悪→辞めればいい。上司のパワハラ→辞めればいい。希望の仕事じゃない→辞めればいい。すべての労働問題は、辞めることで解決できる。「辞められる」ってことは、労働者にとって最強の武器だ。
だから、不満があっても声を上げる必要はない。
だから、ひどい目にあっても抗議する必要はない。
だから、どんな仕打ちにあっても文句を言う必要はない。
voiceなきexitの世界。
労働組合が諸悪の根源という人にいかにもふさわしい発言ではある。
辞めたあとどうやって生きていくのかまでは語らないのが玉に瑕だが。
もう少し賢い人は、辞めたあとどうしてくれるんだ?という疑問に、ベーシックインカムなんかを提示してくれるかも知れない。
だから安心して辞めればいい。あとはベーシックインカムがちゃんと面倒見てくれるから。
それで余計な紛争をしないでおいてもらえるのなら、単なる捨て扶持よりももう少し効率的な活用法ではあろう。
ただ、世の中を少しなりとも住みよいものにしてきたのは、「辞めればいい」じゃなくて「辞めずに声を上げてきた」人々であることは、歴史が語るとおりなんだが。
(追記)
近頃は日本語が読めない人が増えているようなので、ややお節介気味かとは思いますが念のため。
上記記事は別に、exitよりもvoiceが絶対的に素晴らしいなどということを言っているわけでは全然ありませんよ。どっちも大事な選択肢であって、一方を「狂気」などというのはおかしいよ、と言ってるだけですから。
まあ、こんなことをちゃんと言っとかないと誤解する人が出てくるんじゃないかと心配しなければいけないことが悲しいところではありますが。
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