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2016年9月17日 (土)

大学中退の社会的意味

20140828121034_2 なんだか、大学中退すると言っている学生さんが話題のようですが、こういうのを見ていると、嗚呼、日本はほんとに学歴社会じゃないんだなあ、と感じます。

欧米ジョブ型社会では、基本的に学歴とは職業資格であり、その人間の職務遂行能力であると社会的に通用する数少ない指標です。なので、学歴で人を差別することがもっとも正当な差の付け方になります。

他の差の付け方がことごとく差別だと批判されるポリティカリーコレクトな世界にあって、ほとんど唯一何の疑いもなく堂々と人の扱いに差をつけられる根拠が、職業資格であり、職務遂行能力のまごうことなき指標たる学歴だからです。

みんなが多かれ少なかれ学歴そのものを直接の能力指標とは思っておらず、人間の能力ってものは学歴なんかじゃないんだよ、という言葉が半ば本音の言葉として語られ、そうはいってもメンバーとして受け入れるための足切りの道具としては使わざるを得ないねえ、と若干のやましさを感じながら呟くような、この日本社会とは全く逆です。

欧米での観点からすればあれもこれもやたらに差別的でありながらそれらに大変鈍感な日本人が、なぜか異常に差別だ差別だと数十年間批難し続けてきた学歴差別という奴が、欧米に行ってみたらこの世でもっとも正当な差の付け方であるという落差ほど、彼我の感覚の差を語るものはないでしょう。

そういう、人間力信仰社会たる日本社会のどろっとした感覚にどっぷりつかったまま、妙に新しがってかっこをつけようとすると、こういう実は日本社会の本音のある部分を局部的に取り出した歪んだ理想主義みたいな代物になり、それがそうはいってもその人間力というものをじっくりとつきあってわかるようになるために学歴という指標を使わないわけにはいかないんだよキミ、という日本社会の本音だけすっぽりと取り落としてしまうことになるわけです。

(追記)

ちなみに、よく知られていることですが、「大学中退」が、すなわち最終学歴高卒が、大卒よりも、況んや大学院卒なんかよりもずっとずっと高学歴として高く評価されている職場があります。

日本国外務省です。

日本国政府の中枢に、大学4年までちゃんと勉強してディプロマをもらった人よりも、外交官試験にさっさと合格したので大学3年で中退しためにディプロマを持たない人の方が、より優秀でより偉い人と見なされる組織が厳然として存在している(いた)ということにも、日本社会における『学歴』の意味が現れているのでしょう。

そして、それを見て、なるほど学歴なんか何の意味もないんだ、卒業するより中退した方が偉いんだと思って、自分の『能力』を証明する何もないままうかつに中退なんかすると、もちろん地獄が待ているわけですが。

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コメント

社会的意味ねえ?学歴問題は欧米ベンチマークで労働問題のベンチマークはECですか。
エントリの意味は理解できます。作文としては。しかし米国方言とまで言われそのポリティカ・イデオローグ使用法に異議を唱えられ(私も混乱するのなら同調いたします。というか混乱あるいは意図的にそれを利用する知性の断層がありますね)?絞ってECだけ見ても、英(まだいますねえ笑)vs独vs仏vs旧東欧諸国vs南欧、そして広げればトルコやチュニジア等アフリカ北部の帝国主義時代からの欧州宗主国文化を継承し続けている各国のモザイクを承知の見切り発車ですよねえ。でもユーロは長い目では正解であろうとも思われますし、マルククさんを使わせてもらえば、まさに下部構造に規定(突っつかれた)された産物でしょうね。今の混乱も予想を超えた不確定要素が入り込んで物騒な雲行きですが、アングロサクソンもアジアも崩壊を良しとはできないズブズブなかんけいですからこれもフライングで書けば”義務を伴う贈与経済=グローバリズムの発展段階で有ろうと存じます。
そこで、さて、社会的というその定義はなんでしょうか?
実証性と反証可能性を祖とする(その3要素は先のコメントに書きました)科学知見に基づけば、まずは決して本質主義の罠に陥ることなく、操作主義に徹する(反証可能性の堅持ですね)ことが前進の切符であると思われます。
たとえば今回の社会を贈与関係と定義した場合を軽く考えます。
在職中はバカ使いされたジョージ・ブッシュ(子)は二回目の当選後「選挙で資本を得ました。政治的資本です。これからはこれを使っていくつもりです」と語りました。
政治的資本いう比喩は実は社会的資本に同義する自分=大統領=統治責任者と社会(投票者を超えた連邦全体)関係を表現したものと思われ、これだけでも少なくとも我が国の政治家より数段知的である証左と当時思いました。
さて、その資本とは何か?ですが、市場資本とは違い具体的な形(貨幣や動・不動産等々の資本)の財産権ではなく、むろん換金不可能で通貨代替性も有しておりません。いわば今を生きる人と人との義務的な制度を介した関係に属する”価値”を表現したものと私は理解し「大した奴だなあ。これが大学教育だけではなく米文化に蓄積された教養なのだな。」と感心し、「であればその両原資を持たない(偶然に、自然に恵まれなかった)人々はどうなるのか?と当然の疑問にも到達したわけです。また上記の義務関係は相手が破ればお終いで、金融同様に信用創造ですからそこに組み込まれた”価値”は霧散してしまいます。こうした価値は個々に所有できるものではなく協調し維持し次へと紡ぐものでもあります。少し具体化していえば、”手に入れたものは与えるべき”もので、そこにこの価値の源泉はあります。それも社会が高度化されるほど一人ひとりの意識の外部に行かれることで実は心理的自由度逆に増し、安心安定社会が生まれやすくなります。もうお分かりの通り、社会保障を合理的に理解するに適した方法論です。社会契約説に従順な米国であって実はこうした社会の熟成された成り立ちがあります。一方、激変説的江戸時代と明治時代の転換の歴史もつ日本にとって、知性的条件ともども欧米列強のいいとこどりとそれの日本的熟成に先のネタ元と差異が激しくあることは私むしろ自然でありますね。ですから、他のエントリでもスパッと切り取られたドライな語りに違和感を持たれるのです。丁寧なご努力を望みます。望むということは少なくとも私は方向性に長期的な異論はないからでもあります。
ですから注意していただきたいのです。建設的ではない感情爆発コメントを呼び込んでしまいますから。その処理まで請け負うよとされるのであればそれはそれでかまいませんがそうでもないようです。
先般私はコメントにて、今の大学が抱え込む初級中級教育失敗が大學に持ち越されている旨の発言をいたしました。学士格差云々もそうですが、その先ももはや長く生き残る内市場がいくばくかを鑑みますと問題は「出口」=こちらは政治決断があれば激変可能と考えますし、問題は未来を担ってくれる「入り口=大学はもとより保育・初等教育」に移ったようにも感じております。もう高等教育云は政治決着で官・産・学は実は楽になるのではないかと思っており、エントリもその啓蒙なのだろうなと好意的解釈を今は維持しております。
書いてたかなあ?ちなみにはまちゃん先生ご著書を入試問題に取り扱った旨のエントリを見て実は仰天しました。かの大学の偏差値を承知で書いているのか…その輩出された能力は?。で、失礼ながらそのレベルは排出される人の満足を得られないテリトリーしかなく、今の就労時点での偏差値格差制度維持はだからこそ容認しないんだろ?と。
官・産・学にそれを包括する政の四次元構図こそその起源であることを提起していただければと存じます。
はまちゃん先生、長々とすみません。

あらら、追記発見(笑)。

先の私のコメント=ホメオパシー相似特徴のどれかに抵触しませんかねえ(笑)。
末語はな~んか弱気だなあ(謝)。

()内だけ続けて見たら日本語じゃないみたいだぁ(大笑)。

はまちゃん先生ど~もです。

三度お邪魔します。

追記すれば、職業移動と居住・教育移動がスムースに、少なくとも受動側に負荷がかからない家計負債経済の自己責任社会化と尊厳としての社会保障の安定を図れないとと、はまちゃん先生も終身という名目年齢解雇の実質に生きてらっしゃる訳ですから、たかだか150年前までは考えもしなかった贈与と互恵制度で育てられてきた己の事実を無視するわけにはいかんでしょ?と思うわけですねえ。
ムカつくんだよなあ(笑)。
年間所得確定予想可能(わたくしは例えば診療報酬を売り掛け金補償制度として、そのステー久ホルダーの甘ちゃん体質と、したがってTPPに絡めると、米国がこのステキな制度=売り掛け回収リスクもロビーコストもかからない夢の金庫を壊すわけないだろ、日本製薬企業と(日本から)コングロマリットするよと学生に言っております。
欧米とEC(大学システムは実体験で了解しております)云々の前に、その差異を外部は我々に要求する(される)中でのグローバルですので、こうした論は現実社会に無差別発信される情報ツールの責任を鑑みる姿勢があればもっとリアルな対抗案を伴って然るべき大変重要な、いわば生死(従属か否か)を左右するような(オーバーかな)ものであるとムカつきました。
有料会員制ブログならばわかりますけど?
チラシ等紙爆弾=これはコストを全部賄う責任においてそれはそれで立派ですね=ならぬ、情報のコモデティイ化に進んだ経済的保険原理の名目類似贈与ともいえる実は自意識発散の大母数に依存をテクニカル可能にした似非給付反対給付原則の乗数=ブログの現在地=に結果として無批判に乗っかっているような違和感を禁じ得ません。
なんで欧米かなあ?
批判してようが、親和してようが、その欧米変数が独立してないんだよなあ?従属している限り説明にはならないとするのが科学というか、所得に値する存在価値だと思うんだけどなあ?

日本では「大学」をコアとした社会の教育変数はいかにとのエントリです。
さて、フランスではピケティ氏が担当するル・モンド紙コラムでは、フランス社会の教育変数のコアに「中学」を挙げております。
内容はご興味の方はどうぞです。
言いたいことは、東アジアと欧州大陸のひとつを比してもその経緯からする問題と解の方法論には過去よりの連続性を担保しないと危険ではなかろうかということです。
今の国際金融の混乱要因とその解への知恵の出し合いは、セクターは違えど参考となると思われます。
「なぜ極右政党は…」も同根の解法しかないと思われますし、それに向けた努力はされていくことと思います。
上記のいずれも、尖がったら楽だけど、「その破壊力は20世紀を学んでないと今回こそ破滅を招くぞ」と先達は草葉の陰でおっしゃられておるのではと想像いたします。

朝日新聞(2016.9.28)オピニオン「世紀の新薬 未来へ」:京都大学名誉教授 本庶佑さんインタヴューをご紹介します。
本ブログおよび大学制度議論の立て方も問題点、あるいは教育全般、幼児から中等、さらに飛んで社会から今一度教育機関へリターンできる社会の有用性をコメントさせていただく身として、インタヴューの話題は医療が日本をつぶす「オプジーボ騒動」を使った「お金と時間と成果主義と学問と社会の関係性」です。
当然、基礎科学軽視で応用=産業化に直結する科学(大学教育)の経済的徴兵制につながる、最後は我々国民の社会へ対する素養の問題を解かれておられると思われます。たとえば小柴先生は社会の何に役に立つのかと聞かれ「何の役にも立ちません」。昨年の梶田先生も同様です。あくまで比喩で、その巨人の肩なしに応用はないのですから、そこに許容性を理解できる人が多数を占めるかどうかがこれから先の国の将来すら決めかねないほど、逆説的には国と国の椅子取り競争はますます白熱化するばかりです。
副大統領(公)も、シリコンバレー(民間)もトップが先のコメントで私も紹介いたしました”ムーンショット”を公私セクターともども共有できる国・政府・中間補完組織・国民と、数多が直列ではなく並列帰納している限り、いわば文化的に違う日本でも許容出来得ることは模倣(レファレンス)すべきでもあろうとの思いがあり、またコメントをさせていただきました。微視的ブログですが、そこには巨視的示唆も不可欠であろうと思われます。

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