労働政治学における「政治」
政治思想史の小田川大典さんと社会政策の金子良事さんが、「労働政治研究」についてやりとりされているのですが、
https://twitter.com/odg1967/status/776996241167097856
正直言って、ここで取り上げられている久米郁男さんにしろ五十嵐仁さんにしろ、「労働政治」というときの「政治」という言葉が、何々党とか何々派とかというマクロ政治アリーナの大文字の政治的アクターばかりが意識されていて、正直言って現代政治評論のための素材として労働運動を使っているだけなんじゃないのという感じがぬぐえないのが、最大の問題であるように思います。
労働関係そのものの中の様々な利害関係を「政治的」にディールし、マヌーバーしあう世界の、現代政治学的な意味における政治分析という観点は、残念ながら余り感じられないのです。
そういう意味での労働政治学というのは、政治学の世界では余り意識されていないのでしょうか。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_e7f8.html(労働政治の構造変化)
・・・ここが日本の90年代のネオリベ化の最大のアイロニーなんです。サヨクが一番ネオリベだったのですよ。ここのところを直視しないいかなる議論も空疎なものでしかありません。五十嵐さんの議論はそれを党派的に正当化しようとしているだけさらに悪質ではありますが。
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国家と国民の(これもいや臭いがしますが突発で思いつかないバカなので)補完性中間組織同士であるべき政党と労組(ほかNGO,NPO等々ありますが)の日本型の関係の史実を考えてのことであろうと思われ、日本においての政党及び政治学のいわば上から目線の立位置にハテナという問いかけでしょ?
そうなのです。政党と労組(もですよ)の不健康な依存関係がイデオローグを基として組織化されて構成され(この期に及んでもですね)今もヘンテコ中間組織の継続とそれを不自然と思われないことこそ問題じゃないの?と、はまちゃん先生が意を一にするならdoでございます。
ガルブレイスにこんなことに使うなよと叱られそうですけど、日本=東アジア独特な今や世界遺産的政治システムへの”依存効果”はこのセクターに関わる学問の存立基盤そのものと考えられるとする門外漢の仮説として有効なのではとね。ちゃんと反証可能性は担保しておりますから「違うよ」はあって然るべきですし、どうか皆さまで科学してくださいませ。
はまちゃん先生どう?よろしい?
面倒くさいからここで(笑)「働く女子の運命」増刷おめでとうございます。
紀尾井町出版(笑)は今勢いがありますからね。
懐かしの赤プリもなくなるのにポトマックも最後とうっかり忘れてて行きそびれ、でも千代田放送会館のレストランランチもよかったですねえ。
投稿: kohchan | 2016年9月18日 (日) 22時11分