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2016年8月10日 (水)

保守とリベラルというアメリカ方言でものを考えるのはもうやめよう

今一番いきのいい政治思想研究者の宇野重規さんと、神出鬼没の山本一郎さんが対談しているんですが、

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/08/1-19.php(「保守」「リベラル」で思考停止するのはもうやめよう~宇野重規×山本一郎対談)

いやだから、何よりかにより、近代社会の基本構造では、保守の反対語は革新、進歩主義であり、リベラルの反対語はソーシャルなのだから、こういう本来対にならないのを対にして「もうやめよう」とかいうのもそろそろもうやめたいところなんですけど。

つうかさ、だいたいリベラル・デモクラティック・パーティ(自由民主党)から分裂してできたいろんな政党の一つのなれの果てが「自由党」(リベラル・パーティ)と名乗り(いわゆる自自公政権)、それがさらに分裂して「保守党」(コンサバティブ・パーティ)になった(いわゆる自公保政権)んだから、20世紀末の日本でも、ほぼ「保守」≑「リベラル」だったはずなんですけどね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-787c.html(自民党は今でもリベラルと名乗っている唯一の政党である件について)

・・・「左翼=リベラルというイメージがしっかり張り付い」たまま、「リベ=サヨ」を目の敵にするいわゆるネトウヨの諸氏は、やはり一度、自由民主党の英語名を復誦してみるところから始めた方がいいのかもしれません。

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コメント

社会学者アンデルセンの福祉国家分類はこれにこそ利用価値がありそうで、リベラル、コーポラティズム、ソーシャル・デモクラシーの3つにいずれの国が属するとしているかで”めざめ”の気付け薬として有効かもしれせんねえ。当然政治思想は各国でその文化的価値観を含め姿を変えて存在しておりますから、俯瞰で観るにはいいかもしれませんね。
ただ、日本の政党は右から左まで”ある唯一の存在への見方”以外はソーシャルではないでしょうかね。

確かに保守対リベラルという「アメリカ方言」は随分と混乱の元凶になってきたように思いますが、この問題、存外奥が深いというか底知れぬ諸論点が凝縮しているかも知れないと、いまさらながら、ふと思いついたところです。まずもって、何が保守で何が革新かという対立軸は歴史的にというか、時系列的に変化することもあるだろうというのが、思いついたひとつです。リベラル=自由主義の起源というのもおそらく諸説あるのでしょうが、さしあたりホッブスとか、特にロックの社会契約説における財産の自由(蓄積と処分の自由と保護)あたりに時点を定めると、明らかにブルジョワ的自由主義が革新であって、アンシャンレジウムに郷愁を持つ勢力が保守ですわな。これが19世紀中葉くらいになって、ブルジョワ的社会契約からは何も得るところのない庶民、無産階級のみなさんが表舞台に登場してくると、街頭の圧力で議会を締め上げるこの方々のソーシャルが革新でリベラルは保守の位置に移動しちゃうわけですね。そしてこの19世紀中葉移行の枠組みが概ね今日まで続いているとも見られるわけですが、これが多分アメリカでは18世紀に輸入された自由主義思想が独立宣言に反映されて、無産階級の洗礼を受けることなくズルズルっと今日までリベラルは革新だって神話のまま来て、いまやっと民主的社会主義者サンダース一派によってソーシャルとの対抗関係が見えはじめたってところでしょうか。ただここに政治体制または思想としてのデモクラシーという軸を据えると、話がまた少しややこしくなって、かつてかくしんであったリベラルはアンシャンレジウムの封建的ないしは王権神授的秩序に対してデモクラシーを対置したわけですが、ソーシャルから攻勢を受けたあともリベラルはデモクラシーを「堅持」していて自由民主党などという政党もあるくらいなのですがソーシャルもまた社会民主主義を標榜することで、いわば民主主義の本家争い、元祖と本家の鞘当みたいことになっていたのが四半世紀ほど前までの話。ここにネオリベラリズム=新自由主義という新参者が介入して一層混迷が深まったのが全世紀末から21世紀の現状でしょう。まったくの私見ですが、このネオリベというのは民主主義と相性の悪い、政治的にはアンシャンレジウムに先祖がえりした、つまり政治権力と体制の経済的基盤が癒着して民衆を搾取するシステムだとみなされます。すると何が革新で何が保守なんでしょうか。よく分かりませんが、はっきりしているのは、わたしは革新犯だということだけ。

本ブログ・エントリをもろにまるごと受け入れると事実上の無謬結社の様相を呈しますから、是は是、非は非部分を明確化され(たまにはおちゃらけで・・・私を「おまえだろ」とご批判ください)コメントされるとよろしいかと存じます。
私見ですが新自由主義と冠付けただけで、簡易に遡ってもクセノポンの時代=プラトン時代にはすでにその息吹はありましたし、そもそもソーシャリズム自体が進歩かどうかは別次元のお話しで、これすら誰が支配するかどうかのレベルでそれが階級等々でその思想家が自説に都合よく合わせ、誰かが都合よく利用し、誰かが都合よく共鳴した時間軸解釈で要は”自文化中心主義”の様相と考えると意図は理解できます。
ただ、”一派”等々のおそらく業界用語はお使いにならないほうがよろしいかと存じます。本ブログが”アゴラ”に相似してしまいますから。はまちゃん先生が本望であればよろしいですよ(笑い)。揶揄したようにHayachanさんがお感じになられたとしたら私の語彙力の貧弱さであって、真実は興味深く読ませていただきました。

いやいや、それはhayachanさん、仰るとおりではあれど、そういう思想史的な話をするためにいるのが宇野さんなんかのはずで、私の言っているのは市井のごくごく普通の素人な皆さんの単純な言葉遣いが、ほんの20年か30年前とがらりと変わってしまたことなんですよ。

それこそ、今から40年くらい前に、リベラル・デモクラティック・パーティを守旧的だと批判して飛び出した人々が名乗ったのが、ニュー・リベラル・クラブだったわけだし、ほぼ同じ頃、やはりジャパン・ソーシャリスト・パーティを守旧的だと批判して飛び出した人々が名乗ったのが、これまたソーシャル・デモクラティック・フェデレーション(かな?)だったわけですよ。

そういう、出て行こうが残ろうが、リベラルの側はリベラルと名乗り、ソーシャルの側はソーシャルと名乗る、ごくごく普通の欧州的言語感覚の通用する社会だったんです、日本は。

それが今や・・・・・・

もうひとつだけ。
はまちゃん先生も社会科学の事実追及にこそ、その存在意義を見出しておっられると思いいますので。
サンダースは「今」のニッポン報道では”民主的社会主義者”とすまして書き手も読み手も「受動意識仮説」実証に貢献いただいております。が、彼はそもそもアメリカ共産党より極左集団へのシンパが出発点であったように理解いたしております。
民主(的)社会主義という定義もその相対あってはじめて成り立つ専門屋の後付け(すべては大方そのようになりえますが)で、ましてそれをまんま使用する無謬性をはまちゃん先生は深層心理として”しつこく(笑)”エントリされておられると理解し、思いは個々の事象において相違はあれど、その点においての危機感こそニッポン病であると考えるところは一致しているかなあ?。危険なんですよ、この体質。脳科学で研究中なんです。独特のニッポン脳の仮説として”母音と子音の処理分野が大方の民族と真逆である等々ですね。ですから行動意識等(たとえば行動経済学のような心理学利用)だけでアプローチ結果を誇示する方法論はもはや古い研究者あるいは止まってしまった研究者なんです。世に出たときには陳腐化は始まっている、がおそらく正しい悩める方法論なのではと思います。いわば我々はその程度ということです。

濱口さんの「保守≒リベラル」あるいは「リベラル=反左翼」の史観では、特定の価値観や規範(例:家族制度・ジェンダー・階級制度)の押しつけに反対する人や性的少数者や公害被害者等の人権を無視しているのでは?

「リベラル≒近代的自由主義≒個人主義」なのだから、「家族は助け合わねばならない」とか「国民として○○の価値観や生活スタイルであるべき」という保守とは違うでしょう。

そもそも、イギリス政治史を見れば、リベラル≒反左翼≒保守という話になるはずがない。自由党が労働運動を代弁し、のちに労働党が自由党の大部分の支持層を吸収したと知らないのか?

マルクスは、近代自由主義を封建制より「進歩」したとしているが、その自由主義を憎悪して、開発独裁≒機会の不平等≒封建制に戻ろうとするから、反リベラルのネトウヨ極左は嫌われるんですよ。

濱口さんは、なぜ近代自由主義を否定するのか?

「リベラルvs.ソーシャル」って、

リベラルが「自由と個人主義、自立した市民社会、自己決定権と自己責任、機会の均等、能力主義」だと思うのですが、

例えば再分配を求める人が「ソーシャル」の陣営に入ったら、近代市民的自由・自己決定権・機会の平等などが奪われるのですか? また、「機会の平等や能力主義に反対し、統制経済の特権を守ろうとする勝ち組」は、どっちの陣営に入ることになるんですか?

「再分配のためならファシズムだろうが既得権だろうが開発独裁だろうが企業による社員支配を容認すべきだ!」という方も居るかもしれませんが、「再分配のために自由や機会の平等や多様性を捨てることはできない」という方も居ますよね?

20:40時点で阿波さんの問いに反応ないね(笑)。
ラグであることを「今」時点では期待しますが、でなければ、これが本ブログのΣ3エビデンスですね。
ニヒリズムだね。
阿波さんのコメント趣旨はラスカルさんコメントに続き一貫されておられますから連続反応にはなにかパッションする要因がおありなのでしょうし、建設的であればはまちゃん先生でなくともどなたでもご意見されたらよろしいのに?お待ちだと思いますがね?
通年(たったの新参者ですが)での経験値での違和感は、こうした問いかけにスルーする全体性向かなと前にもコメントいたしましたがちょっと背筋がゾクゾクします。
選別されたコメントですから、内容は発信元にはあれど、掲載責任はブログ主にあるのですから、品性を持って発信されたコメントからはじめてブログの有用性・・・有用性、これも時間軸で考えますと所詮はキャリアアップ・ビジネス同様に潜む時間選好隷属ともいえるのですから、その現在価値なんぞは普遍でも何でもなくドレイともいえるのですが、こうしたマクロな、哲学的な議論は普遍性は無いに等しいのですから受動意識としてそれぞれが反応されたらよろしいのにねえ。ヒットがゼロブログなら…でもねえ。

上のエントリ本文を素直に読めば、「濱口さんは、なぜ近代自由主義を否定するのか?」などという反応にはならないはずですが、正直、お答えのしようが見つかりません。

私はヨーロッパのごくごく普通の用語法に基づいて考えているだけであり、その用語法の中で生きている人々、ヨーロッパの社会民主主義政党や労働組合の人々は、私の知る限り政治思想としての「近代自由主義を否定」などしていないはずですが。

阿波さんの論法でいくと、「リベラル・ヨーロッパか?ソーシャル・ヨーロッパか?」と問い詰める欧州労連などは、「自由主義を憎悪して、開発独裁≒機会の不平等≒封建制に戻ろうとするから、反リベラルのネトウヨ極左」であり、「再分配のためならファシズムだろうが既得権だろうが開発独裁だろうが企業による社員支配を容認すべきだ!」と主張していることになりかねませんが、そういう誹謗中傷を言われて一番びっくりするのは欧州労連自身でしょう。

はまちゃん先生へ

反応ありがとうございます。
そして、エントリ誤訳云々は、以前のはまちゃん先生とわたくしへのどなたかからの反応でもそうでしたでしょ?どなたかが諫めてくださいましたが、大人な方だなと思いました。
みんな取り違えで、しかしその人にとって一貫性が認められる(姿勢や文章等々)思考法で社会(地域と世界は別です。ですから本エントリが光るのでしょう)がなんとなく文化やらなにやらとりあえずつじつま合わせないと戦争状態になる(ホッブスさん曰くですが)危険性の上に構成されているのですから、よほど筋が悪い(ありますね)疑問でなければ、応答される方にとってはとても”気づき”となりますよ。すばらしいことです。
誰にでも質問はしませんものね。選ばれているわけです。
わたしのコメントなんかはどうでもいいシロモノですが、せっかくでしたら論破的ではなく情報技術を享受できる今に生きるものの文明の果実を実らせることはどうかなと存じます。
大袈裟ですが、コレクティブ・インテリジェンスを市井で実験中ということだろうなあと本ブログをわたくしは捉えており、見当違いのコメントでお邪魔させてもらっております。
なぞりのコメントなんぞ何の役にも立ちませんからね。

追記…というかいつもの忘れ物ですみません。

はまちゃん先生や本ブログ訪問者の皆さまに以下の本をお勧めいたします。

赤塚不二夫生誕80年企画
「バカ田大学講義録なのだ!」文芸春秋

いかにわたしが本物のバカであったかを知らしめてくれたとてもインテリジェントな本です。

ついでに、クイーンのボーカリスト
フレディ・マーキュリー生誕70年にあたる今年Freddie Mercuryと名付けられた(小惑星17473)国際天文学連合小惑星センターの粋な計らいを、Brian Mayによりお披露目されました。
こうした敬意と余裕っていいんじゃない?
コミュニケーション力に先般コメントで言及いたしましたが、鴻上尚史氏が図らずも語っておられました。
書いた後の読書でしたので、パクリではありません(笑)。
はまちゃん先生、ありがとうです。

>hamachan様

スペインでは、保守、リベラル、社会民主主義 それぞれ違います。
保守は既存の秩序・規範を守るので、それが機会の平等や個人の自由と異なっている場合はリベラルではないのは当然です。中絶やブルキニを禁止しようとすることはあらゆる点でリベラルではありません。

「自由民主主義」は冷戦時代に保守が「反共」という意味で使っただけで、自由民主党と名乗っているからリベラルと言うわけではないです。だからこそ、「個人主義」や「国民主権」を頑なに否定する言動が出てくるのですね。

保守対リベラルが異端的対立軸というのは狭い見方と思います。市場経済重視の改革を容認しつつ勤労者向けの政策も重視したブレア首相はまさに「リベラル」でしょう。

そりゃ、細かい話をやり出せばいくらでもできるでしょう。

繰り返しますが、私はヨーロッパのごくごく普通の用語法に基づいて考えているだけであり、その用語法の中で生きている人々、ヨーロッパの社会民主主義政党や労働組合の人々の感覚を語っているだけです。

政治思想史の専門家にかかれば、「リベラル・ヨーロッパか?ソーシャル・ヨーロッパか?」と問い詰める欧州労連などは、思想の細かなニュアンスがわかっていないと叱られることになるでしょう。

それ以上でもそれ以下でもありません。

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