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2016年8月 7日 (日)

上野千鶴子氏の年金認識

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda5 いやもちろん、拙著『働く女子の運命』の腰巻で「絶賛」していただいた方ですから、悪口を言いたいわけではないのですが、やはり問題の筋道は筋道として明らかにしておく必要があろうかと思います。

上野千鶴子さんがツイートでこう語っておられます。話の発端は例の森元首相の発言に対する反発なのですが、

https://twitter.com/ueno_wan/status/761369525627473920

AERA34号「子のない人生」特集。上野も登場。香山リカさん、酒井順子さんの対談も。取材されたのに記事に書かれていないことが。森元首相が「子どもを一人もつくらない女性が年をとって税金で面倒を見なさいというのはおかしな話だ」とふられたが、この認識は完全なまちがい。(続き)

https://twitter.com/ueno_wan/status/761369676756549632

そもそも年金保険は払った人が受け取るしくみ。もとは積み立て方式だったのを原資に手をつけて拠出方式(世代間仕送り制度)に変えたのは制度設計ミス。政治の責任だ。自分で積み立てた年金を自分が受け取って何が悪い、と言うべき。そもそもそのために働いて年金を納め続けてきたのだから。

https://twitter.com/ueno_wan/status/761369839466184704

「私たちが育てた子どもが子どものないひとの老後を支えるのか」という認識も間違い。年金保険は保険、すなわち加入者のみが受け取れるしくみ。自分の積み立てた年金を自分が受け取るだけ。それどころか、保険料の支払いなしに基礎年金を受け取る特権を無業の主婦に与えたのは保守党政治だ、

そして最後の第3号被保険者に対するフェミニストとしての批判もよく理解できるものですが、しかしながらその間に挟まれた年金認識は、まったく間違っている、というよりもむしろ、そういう考え方はありうるけれどもそれが全く金融市場原理主義的なものであり、公的年金を私保険的に考えるものであることをどこまで理解しておられるのか、そこのところがたいへん疑問です。

この問題については、本ブログでも何回も取り上げてきていますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html (年金世代の大いなる勘違い)

・・・公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。

でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。

自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。

まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。

だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。

自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。

社会保障学者たちは、始末に負えないインチキ経済学者の相手をする以上に、こういう国民の迷信をなんとかする必要がありますよ。

労働教育より先に年金教育が必要というのが、本日のオチでしたか

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9649.html (財・サービスは積み立てられない)

・・・財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a96e.html (積み立て方式って、一体何が積み立てられると思っているんだろうか?)

・・・「積み立て方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想がにょきにょきと頭の中に生え茂ってしまうのでしょうね。

非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なんですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-545a.html (年金証書は積み立てられても財やサービスは積み立てられない)

・・・従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-7e36.html (「ワシの年金」バカが福祉を殺す)

・・・この問題をめぐるミスコミュニケーションのひとつの大きな理由は、一方は社会保障という言葉で、税金を原資にまかなわなければならない様々な現場の福祉を考えているのに対し、他方は年金のような国民が拠出している社会保険を想定しているということもあるように思います。

いや、駒崎さんをクローニー呼ばわりする下司下郎は、まさに税金を原資にするしかない福祉を目の敵にしているわけですが、そういうのをおいといて、マスコミや政治家といった「世間」感覚の人々の場合、福祉といえばまずなにより年金という素朴な感覚と、しかし年金の金はワシが若い頃払った金じゃという私保険感覚が、(本来矛盾するはずなのに)頭の中でべたりとくっついて、増税は我々の福祉のためという北欧諸国ではごく当たり前の感覚が広まるのを阻害しているように思われます。

・・・その感覚が回り回って、現場の福祉を殺す逆機能を果たしているというアイロニーにも、もう少し多くの人が意識を持って欲しいところです。

年金というものを「ワシが積み立てたものじゃ」と認識する私保険的感覚(それ自体は一つの経済イデオロギーとしてありうることは否定しませんが)の社会政策的帰結に対して、もう少し敏感であってほしいという思いは否めません。

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コメント

舌の根も乾かぬうちに不埒な奴だと思われるな。

でもこうした誤解って黙っておられん!でしょ?はまちゃん先生も。影響力のある人だけにねえ。
これもオルテガにいわせると「科学主義の野蛮性」ですね。知ってることだけでいいのに、何でも知ってる認知バイアスに罹患する我々の中の典型です。まあ、それで小銭稼ぎにワイドショウ常連の大学在籍だけで教育姿勢も不勉強の毎年使い回しテキスト、そもそも研究しない研究者ですから退化しっぱなしです。ですからメディアは使い勝手がよい。なにせ話が読めてますからまさに台本なき予定調和に長けはやりの合い言葉「そうですよねえ~、・・・・」バカか!
この方の場合の迷惑先はジェンダー研究者ですね。獅子身中の虫ってこういう存在をアカデミズムの場合では使うとすこしはその厚顔無恥さをご自覚されるかも。しかしがっくりしたな。

「ちょっと気になる社会保障 権丈善一著」をせっかくのご著書帯つながりですので、送って差し上げてくださいな。

すんません。追加です。

上野さんは先の都知事選主要3候補にすべて推薦状を出されたでしょうね。意味はエントリ「都知事誕生」の諸コメントに書いております。トピックだけ書けば「私たちの税収は当然私たちで使う”権利”があるでしょ」的な完全に時間を止めた、あるいはモノは一つのところにしか存在しないつまり、同時に複数箇所には存在し得ないニュートン力学復活への刺客であったのです。人は今にしかいないということです。量子力学は上野さんにより21世紀に、それも社会学の研究者の科学主義の野蛮性によって物理は死にました、否、殺されました。次になにを狙うんだろうなあ?私のところにはきてほしくないなあ(笑)。

で、リアクションを自らしなければテクノロジー進化を否定する立場に誤解されるので。

ツイートなるビッグデータ収集に寄与されるのは自己責任で、ですから情報社会のキーワードはカルチャロミクス。
彼女もその反応も”ノイズ”でした。
これでまさか”ボット”までやられたらまさにノイズ・ブースター。
それがテクノロジーが解放した光と闇。
ブログもその対象です。
それを覚悟で私はコメントしております。

>年金認識は、まったく間違っている、というよりもむしろ、そういう考え方はありうるけれどもそれが全く金融市場原理主義的なものであり、公的年金を私保険的に考えるものであることをどこまで理解しておられるのか、そこのところがたいへん疑問です。

まあ私見では、実証的学者(そもそも、学者とは実証的であるべきかもしれないが・・・)としては、上野氏はhamachan先生や大沢真理先生といった方々とは、全然レベルが違うといえるわけで・・・。
(もちろん(嫌味になってしまうが)マスコミ受けというレベルにおいても、やはり上野氏の方が断然違うけれども)

原口先生(というお立場とのことですので)におたずねいたしますが、”そういう考えはありうる・・・”以下、失礼ながら文化相対主義に内在する「それでいいじゃない。違うんだから」という一見寛容そうで実は無関心な自分化中心主義とのトートジカルではないですか?
ましてやレベル云々を簡単に”先生”のお立場であればSNS拡散効果を鑑みても、そのご指導下の学生にも問題を及ぼすと考えます。
本ブログをお使いは私も同類ですが、エントリに出てもいない固有名詞を持ち出し単純にレベルでレッテリングする反証可能性をスキップした原理学者さん(でしょ?)なる同類は私は知りませんでしたので興味を覚えました。はまちゃん先生の蛮勇に敬意を表します。市井ではないのですよね?

掲載があればですが、原口さんのお立場を誤訳していりますのでその点につきお詫びと訂正をさせていただきます。

で、金融にからみ=保険ですから当然ですが、私的も公的も分配原理はそれぞれに存在しますよね。
要は保険と預金とごっちゃになっている時間を止めた自己文化主義に認められる保険原理の無知ではないですかね。あるいは文化相対主義にもあるその反知性「そうだよね」で思考停止の帰結。で、それぞれを理解した上で、保険の水平原則の給付反対給付均等で個人別にはもてるもの待たざるものの社会は安定と成長が成り立つのか、それが昔から今そして近未来まで永久とは言わずとも否定されるのであれば垂直的な制度にするしかないんじゃない?という簡単なお話だと思いますし、ピケティでなくともため込んでいる人には至極迷惑な制度ということでしょ。それが資産世襲で生きていける人にはですね。それで闊歩自由な安全社会が存在できるならよいですが今日の混乱はそもそもなんでしょうねえ。私の上野さんの社会学者としての立ち居振る舞いへの嫌悪なんです。

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