勤労の義務 再掲
昨日の朝日にこんな記事が載っていたこともあり、
http://www.asahi.com/articles/DA3S12446159.html((憲法をつかう)勤労 働く、支え合いながら 「義務」…能力に応じた環境で)
・・・現行憲法ができる際、連合国軍総司令部(GHQ)の憲法草案や、日本政府案にあったのは「権利」だけで、[義務]はなかった。・・・一方、議会側には「義務の方面が十分ではない」との意見があり、政府案が修正された。・・・
この記事の最後の方にはPOSSEの今野さんや弁護士の佐々木さんも登場して「限りない義務に法律で歯止めをかける」とか言っているのですが、いやそれは実は憲法制定時の文脈とは正反対なんですよ。
このブログを立ち上げてもう10年になりますが、その初期の頃の2006年のエントリで、憲法の「勤労の義務」が、どういう人々のどういう考え方に基づいて挿入されたものなのかを説明しているのですが、なかなか世間に広がらないようです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_90fd.html(勤労の義務)
およそ、憲法も含めて、法律について何事かを論じようとする際に、立法者意思を確認するというのは不可欠の基礎作業なんですよ。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060921/p2
現行憲法第27条第1項は、衆議院で修正されています。修正前の政府原案は「すべて国民は、勤労の権利を有する」であったのですが、それが「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と修正されているのです。つまり、勤労の義務は当時の国民の代表である衆議院の意思によって敢えて挿入された規定なのです。
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○黒田委員 勞働關係に付きまして午前中に多少御尋ね致しましたが、尚ほ申し殘して居りました點に付て、今少しく質問を致して見たいと思ひます、第二十五條で、國民は勤勞の權利を有すと規定されて居りますが、我々總て健康な國民は勤勞の義務を有する、働かない者は食ふべからずと云ふ原則を打立つべきであると考へます、殊に敗戰後の我が國に於きましては、一人と雖も無爲徒食する者があつてはならないのでありまして、單に權利を有すると云ふばかりでなく、義務を有すると云ふことを私ははつきりと規定すべきであると考へます、政府原案に於きましては、唯勤勞の權利を有すと云ふだけになつて居りますが、積極的に義務を有することまでも規定する、政府に其のやうな御意思はございませぬでせうか
○金森國務大臣 御尋ねの點は他の機會に於て申述べたことがあると記憶して居りますが、憲法の建前は一切の所謂自由權、基本權の其の裏には、義務があると云ふことを前提と致して居りまして、權利は一つ一つにありますけれども、之に對應する義務は一括して第十一條に包括的なる内容として、之に對應する義務を規定して居るのであります、そして憲法の中に特に義務と云うて擧げて居りますのは、前の義務教育の規定の如き特殊な意義を持つて居るものに限定して居ります、大體此の憲法の案文の立て方に付きましては、色々の基本方針と云ふものが立て得ると思ひまして、其の總ての原理を採用する譯には行きませぬ、此の憲法は或る考へ方に基いて條文を整理して居るのであります、其の一つの原理を的確に適用し得るものを原則とし、理論の主張として將來強く發展し得べき可能性がありまするにしても、實行的に直ちに現實の制度となし得ざる程度のものに付きましては、比較的抽象的なる言葉を用ひて解決し、又各種の權利に付きましては、權利の方面より規定することを主として、之に伴うて義務の存在する部分は、包括的に一つの條文で解決して居ると云ふ建前になつて居りまする爲に、御尋ねになりまする點に付て、十分の御滿足を與ふるやうな御答へが出來ませぬことは、洵に遺憾でありまするけれども、建物の趣旨がさう云ふ風になつて居ることを御承知を願ひたいと思ひます
○棚橋委員 色々御説明がありましたが、依然として私の不滿は解消されないのであります、併し此の問題に付て尚ほ論議することは是で止めて置きます其の次には勤勞の義務と云ふことでありますが世の中には勤勞の能力もあり勤勞の意思もあつて、而も勤勞の機會を與へられない爲に、生活の保障を得ることが出來ない、さう云ふものが存在して居るが、又反對に完全に勤勞の能力を持つて居る、併し勤勞の意思を有しない、又は勞働せずにも生活することの出來る資力を持つて居れが爲に、敢て勤勞することをしないと云ふ人々も存在して居るのであります「ドイツ」の民法等を見ますと、總ての「ドイツ」人は其の精神的及び肉體的の力を社會公共の利益の爲に提供活用すべき義務がある、斯う云ふことを申して居りますが、私は是は今日の日本の國情にあつては殊に大切なことではないかと考へるのであります、我が國の現状から申しますと、國民の生活に必要な食糧すらも、今日ことを缺いて居るのでありまして、お互ひに其乏しきを分ち合つて、さうして生活をして行かなければならぬ状態にあるのであります、然るに自分は完全な勞働能力を有しながら其の少い食糧を分ちあつて食べる生活資料を消費して居りながら自分の勞力を國家、社會に提供して此の社會に寄與することをしないで漫然と暮して居ると云ふことは、社會正義の上から申しましても許すことが出來ない、又國民經濟の上から申しましても許すことの出來ないことであると考へるのであります、又我が國は敗戰の結果、今日非常な打撃を被つて居るのでありますが、此の状態から起ち上つて國家を再建する爲には、國民の大きな努力、獻身を要求しなければならぬのでありますけれども、其の國民は今日道義的には非常に低下して居る責任觀念は地を拂つて居る、利己的な考へが社會全般に横行して居る、此の國民の精神を振作、作興して行かなければ、我が國の再建は難かしいのであります、此の秋に方りまして國民皆勞の原則を憲法に明かに掲げまして、國民精神の緊張を圖ると云ふことは、此の點から考へましても、國民に勤勞の義務を課すると云ふことは大切なことであると考へるのであります、此の點に關する國務大臣の御考へを承りたいのであります
○金森國務大臣 御説のある所は能く了承致しました、私もものの原理に於きまして左樣な考へが十分尊重さるべきものと思つて居ります、併しながら此の憲法の建前は、第二十五條に於きまして、我が國民は勤勞の權利を有すると云ふ根本の原理をはつきり認めますと同時に、憲法の第十一條に於きまして、斯樣な權利は一面に於て濫用してはならぬと云ふことと同時に、之を利用する責任を持つて居る、即ち權利を持つと同時に、其の國民の權利を公共の福祉の爲に之を利用する責任を持つて居ると云ふ風に書いてあります、隨て權利に對する規定と、第十一條の規定と相承けまして、國民全般が公共の爲にする奉仕の責任を負ふと云ふことは明かになつて居ると信じて居ります
○芦田均君 本日いとも嚴肅なる本會議の議場に於て、憲法改正案委員會の議事の經過竝に結果を御報告し得ることは深く私の光榮とする所であります
本委員會は六月二十九日より改正案の審議に入りまして、前後二十一囘の會合を開きました、七月二十三日質疑を終了して懇談會に入り、小委員會を開くこと十三囘、案文の條正案を得て、八月二十一日之を委員會に報告し、委員會は多數を以て之を可決致しました、其の間に於ける質疑應答の概要竝に修正案文に付て説明致します・・・・・次に憲法改正案委員會に於て原案に修正を加へた諸點に付き報告致します、・・・・・・更に個人の生活權を認めた修正案第二十五條に付ては、多少の説明を必要とするかと考へます、改正案第二十五條に於ては、總て國民は勤勞の權利を持つと規定して、勤勞意欲ある民衆には勤勞の機會を與へられることを示唆致して居ります、此の勤勞權は民衆に一定の生活水準を保障し、延いて國民の文化生活の水準を高めようとするものであり、國は此の點に付き社會保障制度、社會福祉に付て十分の努力をなすべき旨を第二十三條に規定して居ります、併しながら第二十三條の字句には、多少意を盡さない憾みがある如く考へられまするので、委員會に於ては、一層明白に個人の生活權を認める趣旨を以て、原案第二十三條に、「すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する。」との條項を挿入し、原案を第二項として、「國は、すべての生活部面について、社會福祉、社會保障及び公衆衞生の向上及び増進に努めなければならない。」と修正した次第であります、斯樣に生活權の保障を規定する以上、他方に勞働の義務も規定することが至當であるとの意見に從つて、原案第二十五條に修正を加へて、「すべて國民は、勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」としたのであります(拍手)ちなみに、黒田寿男、棚橋小虎ともに社会党の議員です。
この修正に対して、貴族院では、
○小山完吾君 私は衆議院修正案の二十七條、原案の二十五條の規定を、極めて簡單なことを伺ひたいと思ふのであります、或は私は遲參致しました爲に、牧野委員と金森國務相との間に、既に御解説になつて居るかと思ひます、私は此の二十七條、衆議院で修正の二十七條を讀みまして、勤勞の權利迄は理解出來るのであります、是はこんなことは書いてなくても宜いことと思ひますけれども、近世の是は傾向で、勞働は權利だと云ふことで、一種の人格、生活權の要求と思ひますから、是は有つても宜いと思ひますが、併し義務を負ふと云ふことは、一體どう云ふことになるのでありませうか、どう云ふ積りで、此の權利を有すると云ふ上に、義務を負ふと云ふことを附加へたのか、一體其の義務と云ふものの内容はどう云ふことになるのでありませうか、と云ふのは、是は甚だどうも法律を知らない素人の質問と御笑ひになるかも知れませぬが、義務を負ふと云ふことは、國民に取つてそれだけの詰り國家の方なり、或は社會全般の方から要請する權利があると云ふことになる譯でありますが、勤勞と云ふ文字の中には、精神勤勞もありませうし、勞働勤勞もありませう、必ずしも勤勞と云ふ文字は有形の力を以て働く所の其の勤勞のみを意味して居ないことと思ひますが、此の義務を負ふと云ふことは、餘程用心しないと云ふと、我々の基本權を國家にも害せられ、又心なき民衆にも害せられる、我々の基本權と云ふものが害を受けると云ふことが生ずるのであります、現に實例を以てしましても、先達て總論の時にもちよつと觸れて居つたのですけれども、此の個人の基本權を理解しない所の民衆と云ふものは、隨分我々の「プライベーシー」に對して無用な干渉をする、強制をすると云ふことが、文明の程度の低い社會に於て、往々有り勝ちであります、殊に戰爭中の如き、例へば町會と云ふやうなものは、我々の意見を代表して、さうして國家の爲に協力すると云ふ機關でなければならないのでありますけれども、日本の民衆の教育の程度と云ふものが低いものですから、町會と云ふものを作れば、直ぐ區役所の知識なき小役人の言ふことを其の儘押し附けると云ふことが起る、例へば義務を負ふと、勤勞の義務を負ふと云ふことは、どう云ふ事柄になつて現れて來るかと云ふことは、私共は自分の爲に勤勞を毎日して居つても、其の勤勞は、必ずしも山に行つて松の根を掘ると云ふ勤勞ではない、又開拓の爲に山に行つて木を伐ると云ふ勤勞でもありませぬ、併しながら國家の爲、又自分の爲に勤勞は一日も休むべきことでない、然るにも拘らず、今開墾が必要だと云ふことになれば、村中で、町中で行つて、さうして山の開墾をせなければならぬ、あなた出て呉れと、斯う云ふことになる、又松の根を掘つて松根油を作つて、是で戰爭するなんてのは恐るべき無智な話でありますけれども、併し其の當時の指導者の方針としては、之をやらせると云ふことで、さうすると私共に向つてちやんと自己の勤勞をして居る者に向つて、山に一緒に行つて松の根を掘れ、或は女だけの世帶に對して、女に對しても一世帶持つて居れば、それを強制すると、斯う云ふやうなことを言つて來るのですが、私は少數の專制と云ふことがあるし、多數の專制と云ふこともある、民主政治の世の中に於て、多數の理解なき專制と云ふものは、最も警戒しなくちやならぬ、さう云ふことを考へ及びますると云ふと、此の義務を負ふと云ふことは、一體其の内容は、どう云ふことを御考になつて、之に同意なさつたのですか、それを私教へて戴きたいと思ふのです
○國務大臣(金森徳次郎君) 仰せになりましたやうに、此處に勤勞の義務と云ふ言葉を書きますることは、若し之を錯覺して濫用を致しまするならば、社會に相當の影響がある虞があらうと考ふるのでありまして、そこで原案を作りまする時には、左樣なことをも顧念を致しまして、其の規定を設けないで置きました、さうして憲法の草案の修正第十二條に於きまして、既に勤勞の權利ありとすれば、之を公益の爲に使はなければならない、濫用してはならないと、斯う云ふ風に働かせようと云ふ趣旨であつた譯であります、處が衆議院に於きましては、多分は勤勞の權利を先に考ふるのは、必ずしも正しくない、勤勞の義務をも同時に考ふべきものではなからうかと云ふ御説であらうと思ひます、そこで本文の中には矢張り勤勞の義務と云ふものを書き入れるのが正當であると云ふ御考の下に修正せられたものと思つて居ります、で、政府と致しましては、初めは斯樣な規定を入れることに付きまして、若干の誤り用ひらるる虞を心配して居つたのでありまするけれども、物の道理に於きましては、之を入れますることに何の間違ひはない、斯う云ふやうな考を以ちまして、御同感を申上げた譯であります、そこで此の勤勞の義務を此處に入れると云ふことは、如何なる趣旨を持つて居るのであらうかと云ふことになりまするが、豫豫私から申上げましたやうに、此の憲法は、積極的に經濟的な「イデオロギー」の孰れを採用すると云ふ態度は執つて居りませぬ、大體民主政治と云ふものに必要なる原理を取り、又現在に於てはつきりして居る所に根據を取りまするけれども、それ以上に進みまして、甲の集團に於ては此の考が正當でありとなし、乙の集團に於ては此の考が正當でありとなし、又學説の範圍に於きましても、甲の側の學説と、乙の側の學説があつて、論議、今將に盛であると云ふやうなものに付きましては、絶對必要がない限りは、是には關與しないと云ふ態度を執つて居るのであります、斯樣に致しますると、中味が雜駁であるとか、或ははつきりした筋が通らぬと云ふ御非難は起り得るかも知れませぬけれども、國家の運命を擔つて將來の發展を豐かに、それは將來の問題として、殘して、此の際の根本方策たる此の組織法を決めまする上に於きましては、私の申しましたやうな態度が賢明であると信じたからであります、此の委員會に於きまして物足らぬとか、何とか云ふ御非難は、或程度迄私は心の中に個人的な主義からして御贊同申上げることはありまするけれども、併し全體の道筋としては、今申上げましたやうな趣旨に立つて居るのであります、そこで此の第二十七條に、此の勤勞の義務を負ふと云ふ規定を御入れになりました趣旨は、私共特殊なる經濟的の「イデオロギー」、特殊なる學問上の「イデオロギー」と云ふものに關係なく、此處に入れられました文字其のものとして受け容れて、御贊同を申上げた譯です、何故に之を、文字其のものとして受け容れるかと申しますると、是は常識的でありまするが、我々個人の尊重と云ふことを旗印にして、此の憲法の原則を樹てて居りまするけれども、自由、平等、是だけでは我々の社會的生活を完うすることが出來ませぬので、少くとも、更にそれを一歩はみ出した所の協同生活相互に亙る所の考へ方がなければならぬのであります、唯此の憲法は、露骨にはそれを言つて居りませぬが、其の精神はそれを取込んで居ります、さうすれば協同生活をお互にして居りますれば、お互に働く權利があると同時に、又お互に働く義務を持つのではなからうか、其の義務は何であるかかにであるかと云ふことではなくて、兎に角協同生活と云ふ今日の常識に於て、お互に何か物を、詰り勤勞を、自由にしないで、權利義務の形に於て、受け容れるだけの心持になつて居るのであらう、然らば此處に義務と云ふ言葉を入れることには、何等の過ちはないと考へたのであります、從つて此處に義務と書きましたのは、是は午前中にも申上げましたが、具體的に一定時間の勤勞を仲間の間に、部落の間にするとか、國家に對して何か一年に何日の勤務の義務を捧げるとか何とか、さう云ふ具體的な内容を一つも考へて居りませぬ、大體さう云ふことは、斯う云ふ義務がありと考へることが人間の本義である、そこで國家は之に對して、此の憲法に於て明かな規定を設けると云ふ非常に廣い意味であります、そこで今度は此の義務を現實の世界に具體的に致しまするには、積極的に法律を設けなければならぬと思ひます、現在でも賦役などと云ふ場合に、其の賦役と云ふことは、勤勞の義務を含んで居ります、既に法律世界には左樣なものが誌められて居ります、今後の場合に於きましても、斯樣な一般的原則を基礎と致しまして、之に正當な判斷を加へて、一つ一つの法律が出來て、それで現實の義務は出來て行くものと存ずるのであります、斯樣に考へますると、是は物の考へ方に於て尠くとも現代の常識に照らして間違ひはない、而かも實行上懸念はない、斯う考へて居るのであります
○小山完吾君 大變に、金森國務相としては心を入れた御説明であつたのですが、私は根本から思想を異にして居りますから、是以上御聽きすることもないのですが、私の考を申上げれば、一體此の二十五條の「すべて國民は、勤勞の權利を有する」此の言葉はあつてもなくても宜しいことですけれども、併し社會主義者とか、さう云ふ方面の人は勤勞と云ふことを一つの生活權と認めて居るのでありますから、それは入れても惡いことはない、殊に第二項、第三項と云ふやうな問題が常に起つて來るので、先刻の御説明に依りますれば、二項三項は補強的の規定だと言はれますが、私の見る所では補強的の規定でない、之を言ひたいから、「すべての國民は、勤勞の權利を有する」、斯う書かねばならぬことになつて居るものと私は考へて居る、それでそれに義務を負ふと云ふ字を附加へたと云ふことは、政府も、初めは私と恐らくは御考が同じであつたから、其の時は加つて居なかつた、只今の御説明を伺ひますと、權利の裏には常に義務があると云ふやうな極めて通俗的な考で、少しも學問上、法律上の根據はないものと言はねばならぬやうな御説明でありまして、甚だ私は此の衆議院の修正を遺憾とすると云ふだけの意見を述べまして、私の質問は是で打切ります
○子爵大河内輝耕君 私は二十七條の勤勞の義務に付て伺ひたいのですが、是は衆議院で入つたので、政府がどう云ふ意味で是等に御贊成になりましたのですか、一體勤勞の義務などと云ふことをどう云ふ風に解して居られますか、其の具體的な範圍と云ふものはどう云ふものでせうか、是は政治的なこと、其の他のことに隨分濫用すると云ふ傾もありますし、又十八條の「何人も、いかなる奴隸的拘束も受けない。又犯罪に因る處罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」と云ふやうなことと是がどうして調和しますか、刑務所でやるのさへ就役は修養だと云ふのに、何も惡いことをしない國民が無暗に勞働をさせられても困りますし、さう云ふ點は如何なものでございませうか、出來得る限り勤勞の義務に對する具體的のことを伺ひたい
○國務大臣(金森徳次郎君) 只今御質疑を受けました勤勞の義務の所は、是も度々申上げまするやうに、斯く入れられたことに依りまして、衆議院がどう云ふ氣持を以て入れられたかと云ふことは、實は推測だけでありまして、殘る問題は、政府は斯樣な文字が入つたことに付てどう了解して居るか、從つてそれをどう感じたかと云ふ點から御答を申上げます、原案に於きまして度々申上げまするやうに、我々は個人生活と云ふものに相當重きを置いて居ると云ふこと、即ち人間自身の尊重と云ふことから、此の憲法が出發して居ることは申す迄もない譯であります、併しながらそれは決して純粹の個人主義を讃へるものではありませぬ、個人を尊重しつつ全體の福祉と云ふことを考へて行かなければならぬ、斯う云ふ範圍に於きまして、當然各人は御互に協力し合つて、此の共同生活を導いて行かなければならぬと云ふことになりますると、人間は働くべき權利を持つと同時に、又それは働くのみに止まらずして御互に働くことに依つて、共同の利益を高めて行くべきものであると云ふことは當然である、斯う云ふ風な結論に到達すると存じます、併し是は謂はば道徳上、或は社會上の問題でありまして、それを憲法に採り入れるのはどうかと云ふことになりますると、其の法的價値を考へつつ若し法的價値を附與することに意義があるならば、憲法上それを採り入れる、それがなければ、憲法上は必ずしも採り入れる必要はないと云ふことにならうと思ひます、そこで原案に於きましては、國民が其の本來存して居る勤勞の權利とも謂ふべき社會的な働きに付きまして、國家が之を國法を以て妨げる、例へばお前は働いてはいかぬ、職業選擇の自由などとも關係を致しまして、故なく其の活動を止めると云ふことは宜しくない、從つて斯樣な意味に於きまして勤勞の權利を認むることが正當である、斯う云ふ風に考へまして、第二十七條の中に「すべて國民は、勤勞の權利を有する。」と斯う書きました、義務の方面は其處迄行かなくても、大體十一條のやうに、勤勞の權利があれば、當然之を行使する義務のあることは、總括的な規定から來るからして宜からうと、斯う云ふ考で草案を固めて議會の御審議を仰いだ譯であります、處が衆議院に於ては、左樣な考へ方を恐らく認められないのであります、勤勞の權利があるから、之に伴つて義務がある、斯う云ふ考へ方でなくて、初めから人間が共同生活をする限りは權利もあり、同時に義務もある、權利の方から言ふよりも、先とか後とか言ふのではありませぬが、同時に勤勞の義務があつて、協同生活を健全に發達せしめて行かなければならぬ、斯う云ふ趣旨に於て勤勞の義務の規定を入れられたものと察して居ります、從つて法律的に申しますると、勤勞の義務を妨げると云ふやうなことは、國家の方からは想像は出來ませぬ、國民の側から申しますれば、さう云ふ大原則を茲に確立せられたと云ふことを、はつきりした姿で認める、斯う云ふ權利義務の宣言と云ふやうな意味にならうと思ひます、從つて是から直接に何の具體的な義務が出て來る譯でもないと考へて居ります、尚當時の經緯からと申しまするか、衆議院の此の論議のありました經緯から想像して見まして、勤勞の義務と申しまするのは、例へば能く戰時中にありました徴用せられまして働くとか、何か「ドイツ」にありましたが、若い者は學校を出てから或期間勤勞の義務を果すことに依つて、初めて國民的な一人前の仕事が出來ると云ふやうな思想があつたやうでありますが、此處の勤勞の義務と云ふものは、さう云ふ箇々の具體的のことを言ふのでなくて、人間と云ふものは協同生活に對して貢獻すべき勤勞の義務を持つて居るのだと云ふので、原則を表明したと、さう云ふ趣旨に了解して、それならば極めて正道な規定であるとして、御同感を申上げたのであります
○子爵大河内輝耕君 私はもうありませぬ
○子爵大河内輝耕君 私は仕方ないから始めますが、全く是は困ります、斯う云ふ手違ひは……、私のは前文、第四條、第五條、第六條、第七條を削除して、第三條を削除して別に左の一文を加ふ「天皇は國政に關する權能を有しない」、是は度々説明して居りますから理由は省略致します、それから第二十七條第一項の「義務を負ふ」を削る、是は實は金森國務大臣に此處に來て戴いて私も質問しまして、さうして其の工合に依つては撤囘しようと思ひましたが、御出でがありませぬから甚だ兩大臣御迷惑でございませうが、私の伺ひたいことは斯う云ふことなんです、第二十七條の、勤勞の義務を負ふ、と云ふことになればどんなことでもやらされはしないか、「アルバイト・ディーンスト」のやうなことでもやらされはしないか、お前ちよつと此所へ來い、此所へ來て此の土擔ぎをやれ、或はさう云ふやうな種類のことを此の結果やらせはしないかと云ふことを憂へて質問しました處、それに對する金森國務大臣の答辯は、それは決してさうでない、是は唯勤勞と云ふものは權利ばかり見てはいけない、勤勞者と云ふものは兎角、勤勞者と言つてはいけないが、世間には勤勞した以上は權利ばかりを主張すれば宜いと思つて義務と云ふものを兎角怠り勝ちであるから、自分は義務として之をやると云ふ觀念を強める爲に此の規定を置いたと云ふ御話、それなら甚だ危險な書き方であります、私としては別に何も削除する必要はない、それで伺ひたいのは此の二十七條には、法律で之を定める、と云ふことが書いてある、色々な條件は法律で定めると書いてありますから、其の法律はどう云ふ風に御規定になるか、十分私の言つたやうな意味が其の法律で現れますものなら是があつても差支ない、其の點で實は政府に伺ひたいのでありますが、御差支なければ兩大臣の中から御答を願ひたいと思ひます
○國務大臣(植原悦二郎君) 大河内子爵に御答へ致します、此の規定の趣旨は先程御述になりました大河内子爵に對する金森國務大臣の御答になつた通りだと思ひます、さうして直ぐに賃銀、就職時間等の勤勞條件に關する規準は法律で定める、勞働者に對して最低最高の賃銀を定めると云ふやうなことは軈て法律ですることが起ると思ひます、それから就職時間は八時間にするとか、十時間にするとか、其の八時間は實働時間八時間にすると云ふやうなことも軈て法律で定まることと思ひます、それから休息、一週間に一度休息するとか云ふやうなことも勤勞條件に關する勞働の基準としてのことを法律で定めると云ふことに考へて居るのであります、それから未成年の年齡も軈て定まるでせうが、何歳以上の男女兒童は勞働に從事させてはならない、或は兒童を使ふ場合に於ては其の勞働時間をどうしてはならないと云ふやうなことで、何れ斯う云ふことは法律で定まることと思ひます、左樣御承知を願ひます
○子爵大河内輝耕君 金森大臣が御出席になりましたから、今一應此の二十七條の質問を御許し願ひたい、只今植原大臣から伺ひまして、大變御丁寧な御答で大體分つて居りますが、尚金森大臣御出席のことでありますから一應伺ひます、第二十七條第一項の「義務を負ふ。」を削ると云ふ私は修正案を出し掛けて居るのです、此の二十七條の一項と云ふのは、[すべて國民は、勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」此の「義務を負ふ。」を廢めよう、「有す」とする、なぜさうしたかと申せば、此の間も申した通り、是が「ドイツ」の「アルバイト・ディーンスト」のやうに人を何でもかんでも連れて行つてやらせると云ふやうなことがあつては困ると云ふ心配からやつたのでありますが、只今植原大臣の御説明ではさう云ふことは心配ないと云ふ御話でありますが、どうも私は心配なんです、植原大臣のやうに心配はないと思ひますけれども、萬一の場合を考へて是は削つたら宜い、幸にして此の第二項に「基準は、法律でこれを定める。」とありますから、此の法律の中へでも織込んで、こんなことは決してさせないのだと云ふやうなことでもあれば強いて私は提案することもない、さう云ふことは禁ずると云ふことを法律に書いて貰へば、法律だから輕くなるが、そんなことはお負けしても宜いと思ひます、で金森大臣の御説を一應承りたいと思ひます
○國務大臣(金森徳次郎君) 御答を申上げますが、此の憲法の規定は民法や其の他の個々の法律とは趣を異に致しまして、結局大原則を表明すると云ふことが重點でありまして、現實の場合の權利や義務其のものを規定して居る趣旨ではございませぬ、此處で「國民は勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」とすると云ふことは衆議院で入れられました趣旨を考へて見ましても、一體人間が共同生活を致して居りますれば、お互に盡すべきことを盡し、盡さるべきことを盡さるべきであると云ふ基本の考へ方がありまして、人間共同生活に於きましての各人の勤勞に關する基本の考を此處にまあ表明したと云ふだけでありまして、之に依りまして現實の義務を負ふと、斯う云ふ趣旨ではなかつたと衆議院の解釋を考へて居ります、と申しまするのは、當時衆議院で此の言葉を入れられまする時に、或人人は或年齡に達すれば勤勞をするとかと云ふやうな具體的なことを豫想せられて居つたが如き語氣があつたのでありますけれども、大局に於きましてさう云ふ細かいことを毛頭考へて居るのぢやないと云ふ風に道義的方針と云ふものを明かにすると斯う云ふことに落著いたやうに存じて居りまするから、今仰せになりましたやうな點は何等御懸念になる必要はない、之に基きまして各種の具體な法律があの勤勞の義務を強制するならば、現實の問題はそこから發生すると考へて居る次第であります
○子爵大河内輝耕君 植原大臣から政治的の御答があり、金森大臣からは今迄の經過を其體的に御述べ下すつて能く分りましたので、兩大臣の言明に信頼致しまして二十七條第一項の修正案を撤囘政します・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勤労の権利だけでなく義務を規定せよと主張して、実際にそういう修正を勝ち取ったのは社会党の側であり、当初それに消極的な姿勢を示しつつも最終的にそれに同意したのが吉田茂の自由党政府であり、なおもそれに「多数の専制」の危険を感じて疑問を呈していたのが貴族院議員であったというのは、もちろん近代思想の配置構造からすれば当たり前のことなんですが、もはやその当たり前がまったく共有されなくなるにいたった現在においては、極めて奇妙に見えてしまうのでしょうね。
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因果の反転した今回の解釈も、またいろいろなセクターのプロに共有されている通説=確証バイアスもすべてはニッポン社会が辿りついた文論的帰結なのでしょうか?たとえばそれはリセット文化=私の皮肉った造語ですが(大晦日と元日の単なる時間経過を除夜のかねという記号で一新してしまう得意技)ですかね?
ん~十年一昔とはいいますが、苦節十年なんぞはまちゃん先生はじめ我々の年齢になりますとアッいう間ですね。分母が若者と違いますからエントリのそのものよりはまちゃん先生の先のフレーズにリソナンスしてしまいした。わかるでしょ?分野は違えど同じく若い諸君にうんちくをたれて「大丈夫かよ?」と内心地団太踏んでいる共有地がございますからね。
それよりその記事下段の「福岡伸一の動的平衡」の今回は”ただ悠然と鰻のように”とのコントラストに社会と自然の一見不均衡に思える両記事の解釈をスペクトラムに考える方法論の構築を若者や未来の人々に示せる知恵がほしいなあと思わせていただきました。経済学をはじめとして社会科学系がズンズン自然科学との融合、収斂されはじめている感がある今も、法学セクターは孤高の学問としておられるように感じますものですから、奇異なるものだなあといつも感心(笑)し、政治屋が「法の支配のもと」や「価値観の共有」なんて事実でも解釈でもない頭かくして尻隠さずな個別的所有権のレントなクローニーな言葉を容認してしまう”多数の無謬とそれによって選ばれた少数の専制”にこそ私は憂いを感じてしまいます。
はまちゃん先生、11年目はもっと早く過ぎ去りますよ。哀しいですね。
投稿: kohchan | 2016年7月 8日 (金) 12時16分