西谷敏『労働法の基礎構造』
西谷敏さんの『労働法の基礎構造』(法律文化社)をいただきました。ありがとうございます。先の日本労働法学会で記念講演をされた西谷さんの到達点を示す大著です。
http://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-03776-3
戦後労働法学の第二世代を理論的に牽引してきた著者の労働法基礎理論の集大成。労働法の形成から現代までを再考し、将来を見透した深い思索の書。労働法理論を再定位しようとする著者渾身のオリジナル・モノグラフィー。
目次は次の通りで、基礎理論中の基礎理論に当たるようなところから、今日的な論点の要になるようなところまで、きっちりと論じていかれる様は壮観です。
第1章 労働法の本質と発展
- Ⅰ 労働法の成立と本質的性格
- Ⅱ 労働法展開の政策的要因
- Ⅲ 労働政策と法
- Ⅳ 労働法の柔軟化と規制緩和論
- Ⅴ グローバル化と労働法
- 第2章 市民法と労働法
- Ⅰ 市民法と社会法(労働法)の異質性
- Ⅱ 労働法独自性論への反省と批判
- Ⅲ 現代市民法論と労働法
- 第3章 民法と労働法
- Ⅰ 市民法と民法(典)
- Ⅱ ドイツに見る民法と労働法
- Ⅲ フランスにおける民法と労働法
- Ⅳ 日本における民法と労働法
- 第4章 労働法の基本理念
- Ⅰ 法意識と法理念
- Ⅱ 生存権の理念
- Ⅲ 人間の尊厳の理念
- Ⅳ 自由と自己決定
- Ⅴ 平等と差別禁止
- Ⅵ 労働権とディーセントワークの理念
- 第5章 労働法における公法と私法
- Ⅰ 公法・私法二元論の再検討
- Ⅱ 労働者・使用者間における基本的人権の効力
- Ⅲ 労働者保護法の私法的効力
- Ⅳ 公法的・私法的規定の解釈
- 第6章 労働契約と労働者意思
- Ⅰ 戦後労働法学における労働契約
- Ⅱ 労働契約の意義
- Ⅲ 強行法規と労働者の意思
- Ⅳ 集団規範と労働者の意思
- Ⅴ 「枠」内での個別合意
- 第7章 「労働者」の統一と分裂
- Ⅰ 正規・非正規労働と標準的労働関係
- Ⅱ 正社員の多様化
- Ⅲ 「労働者」の範囲
- 第8章 労働組合と法
- Ⅰ 労働組合の生成
- Ⅱ 労働組合の特質
- Ⅲ 労働組合への法の対応
- Ⅳ 労働組合における個人と集団
- 第9章 労働法における法律,判例,学説
- Ⅰ 判例の拘束力
- Ⅱ 労働法における立法と司法
- Ⅲ 判例と学説
- 第10章 労働法の解釈
- Ⅰ 法解釈論争から利益衡量論へ
- Ⅱ 利益衡量論と労働法の学説・判例
- Ⅲ 法解釈方法論から見た労働法の特質
- 第11章 労働関係の法化と紛争解決
- Ⅰ 労働契約の性質と労働関係の法化
- Ⅱ 日本的企業社会と法化
- Ⅲ 法化の諸形態
- Ⅳ 労働紛争とその法的解決
- 第12章 労働法の将来
- Ⅰ 労働の意義と労働権
- Ⅱ 雇用の保障と職の保障
- Ⅲ 法体系における労働法
とても全体を一つのエントリで語れるような本ではありませんので、ここでは基礎理論中の基礎理論であるとともに、西谷理論の生成の歴史に関わる第2章の「市民法と労働法」から第4章の「労働法の基本理念」について若干の感想を。
言うまでもなく戦後日本の労働法学の多数派は、労使の形式的対等性を前提とする市民法の虚偽性を批判し、それに対置して労働者の生存権に基づく労働法を宣揚するところから始まりました。その時代には市民法(ビュルガーリッヒレヒト)ってのはむしろ貶し言葉に近かったんだろうと思います。
そういう生存権万能主義がまさにその主唱者であった沼田稲次郎氏や片岡昇氏らによって反省され始めるのが、1970年前後で、それを受けて1980年代から自己決定権を中心とする労働法理論を構築していくのがこの本の著者である西谷さんになるわけですが、その前に市民法ってそんなに悪くないぞ、と言ってたのが、渡辺洋三氏らの法社会学者であったという話が出てきます。
この法社会学者による労働法学批判は1960年代なんですが、実はこの部分を読みながら、そこに出てこないある人の名前を思い浮かべていました。それは、磯田進という人です。かつて東大の社研で、労働法と法社会学にまたがる学者でしたが、その学風を受け継ぐ人はいなかったようで、今ではほとんど忘れ去られた人になっています。
ところが、1950年代に岩波新書から『労働法』という本を出して、これが第3版まででています。岩波新書の「版」は「刷」とは違い、改訂版という意味ですから、当時は結構ロングセラーだったことが分かります。
その磯田労働法の冒頭の第1章はこうです。
第1章 使用者と労働者は対等の人格者である
そして冒頭の台詞は、
労働法について考える場合に、どこから出発するか?・・・
それは、使用者と労働者とは対等の人格者だ、ということである。これが近代労働法の「第一原理」である。ABCのAに当たるところである。ここから出発し、このことを前提として、今日の労働法の全体系が組み立てられている。・・・
ところで、社長は社員の「目上」であるか?こう聞かれれば、あなたはどう答えられるだろうか。「もちろん、目上だよ」と答えられるだろうか。
工場長、支店長、課長は平社員、平工員の「目上」であるか?この問いにも、同様、「むろん、そうさ」と答えられるであろうか
もしそう答えられるとすれば、その答えは、端的に言うと、誤りとされなければならないだろう。・・・
まさに市民法の(当時の多数派の言い方では虚偽意識的な)個人レベルの労使対等を素直に出した議論がされています。こういうのは、戦後労働法の歴史の中ではどういう風に位置づけられているのだろうか、というのが、その当時生まれていなかった私からすると知りたいところでもあります。1970年代以後の、労働法における市民法原理の再生よりも20年も前の頃の話ですが。
磯田氏は、労働契約を身分契約(地位設定契約)ととらえた末弘理論に対し、「身分から契約へ」の上に近代労働法の体系が築き上げられてきたのだと主張し、こう述べます。
・・・労働関係は一つの契約関係にほかならないということは、それ自体は平凡な原理だといえるにせよ、そのことの含蓄は、日本の労働関係の現実との対照においては、なかなかゆたかであるというべきこと、以上に見てきたとおりである。
まさに、「正社員」に対して「契約社員」という言葉を平気で使うほど、自分たちは契約に基づいて働いているんじゃないとみんなが思い込んでいる社会を照射する言葉です。
西谷さんは、本書の第2章の終わり近くでこう語るのですが、
・・・伝統的な労働法学は、労働者を階級として、もしくは企業社会の構成員として把握する傾向が強く、その「市民」としての側面には必ずしも強い関心を向けなかった。それは、戦後初期に広く浸透していた労働者の階級的把握を反映したものであり、さらには、労働者(とその家族)を企業社会の構成員と理解する日本的企業社会の現実を法理論に投影するものでもあった。現代市民法は、こうした見方にも反省を迫る意味を持っている。
終戦直後に磯田進氏が書いた論文の問題意識を引き継ぐ人が、少なくとも労働法学の世界からはある時期までほとんど出てこなかったことの方が、今から考えるとやや不思議な感じもしないではありません。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b8cd.html(磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』)
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