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2016年6月25日 (土)

シュトレーク『時間かせぎの資本主義』

07926_big ユーロ以後のEUの政策について考える上で必読だと思い、前から読まなきゃと思いつつそのままになっていた本ですが、ようやく読みました。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07926.html

資本主義は自らの危機を「時間かせぎ」によって先送りしてきた。

70年代、高度成長の終わりとともに、成長を前提とした完全雇用と賃上げは危機を迎えていた。そこで各国はインフレによる時間かせぎ、つまり名目成長が実質成長を肩代わりすることで当面の危機を先送りした。

80年代、新自由主義が本格的に始動する。各国は規制緩和と民営化に乗り出した。国の負担は減り、資本の収益は上がる。双方にとって好都合だった。

だがそれは巨額の債務となって戻ってきた。債務解消のために増税や緊縮を行えば、景気後退につながりかねない。危機はリーマン・ショックでひとつの頂点を迎えた。

いま世界は、銀行危機、国家債務危機、実体経済危機という三重の危機の渦中にある。新たな時間かせぎの鍵を握るのは中央銀行だ。その影響をもっとも蒙ったのがユーロ圏である。ギリシャ危機で表面化したユーロ危機は、各国の格差を危険なまでに際立たせ、政治対立を呼び起こした。EUは、いま最大の危機を迎えている。

資本主義は危機の先送りの過程で、民主主義を解体していった。危機はいつまで先送りできるのか。民主主義が資本主義をコントロールすることは可能か。ヨーロッパとアメリカで大きな反響を呼び起こした、現代資本主義論。

フランクフルト学派の社会学者という観点からの資本主義論としてもとても面白いですけど、私には金融危機とソブリン危機以後のEUのとても権威主義的なまでの市場主義の強制を見事に説明するマクロ的な図式を提示する本として、大変同感するところが多かったです。

細かな一つ一つの記述にも思わずそうだそうだと膝を叩くところがけっこうあります。

たとえば、古典的な租税国家が債務国家に、そして財政再建国家に、という展開において、その「財政再建主義」が国家機能の再建を目指すものでは決してなく、減税と歳出削減のスパイラルをもたらすだけだと喝破しているところとか、

・・・いったん実現した財政黒字は、次なる減税のための理由として使われる可能性がある。その減税は新たな赤字を生み出し、そこからもう一度黒字を取り戻すために、さらなる歳出削減が必要となる。・・・歳出削減と減税のこうした連携プレイから判明することは財政再建国家における財政再建は、財政再建そのもののために行われているのではなく、国家機能の一般的縮小、そして市場への国家投資の削減という上位目的のために実施されているということだ。言い換えれば、それは新自由主義的な脱国家プログラム、民営化プログラムの一部をなしている。・・・こうして財政再建策は自走的なものになっていく。特に市民は、国家に期待できることがどんどん減っていき、そのためにますます多くの財を私的に調達しなければならず、それに応じて税金を払う意思をますます失っていく。こうして国家歳出の低下は国家歳入の減少を招く。その状態でさらに債務国家の借金を減らそうとすれば、なおいっそうの歳出削減が要求される。・・・

あるいは、財政再建主義を批判しているかに見える金融緩和主義者についても、それがそのいうところの「上げ潮」にはならないことを見事に喝破しているところとか、

・・・中央銀行による金融緩和と新自由主義的「柔軟化」を組み合わせるという手法は、現在、ヨーロッパで顕著になっている。しかし、アメリカではこの同じ手法が、何十年にもわたって疑似成長しかもたらさなかった。こうした疑似成長は周期的に襲ってくる危機の中でいずれ破裂せざるを得ない運命にある。仮に百歩譲って何とか新しい成長につなげたとしても、かつてのケインズ主義的な福祉国家で見られたように、潮が満ちることで全ての船が浮き上がるという状態には遠く及ばないだろう。「市場」にせっつかれて・・・再分配政策は自己抹殺を行った。国家は市場の自由と資産、特に国債という資産の保護に自己限定するよう強いられてきた。・・・

しかしやはり、ユーロに対する鋭い批判の言葉の切れ味が絶品です。

・・・今日のユーロ導入は、ある社会を・・・標準経済学の青写真に合わせて市場社会へと改造するための実例と見なすことができる。これは、ポランニーの言葉を借りれば、宗教と化した政治経済学イデオロギーによる「軽率な実験」であり、その社会の構造、組織、伝統の多様性がまったく顧慮されていない。通貨切り下げという手段を各国の経済政策の選択肢から排除しているということは、結果として共通通貨に支配された全ての国に統一的な経済社会モデルを押しつけていることになる。・・・その意味で、通貨切り下げ手段の排除は、19世紀の金本位制と似たところがある。・・・

そこで、シュトレークはこの市場ファナティズムに対する「対抗運動」の必然性を論じます。このあたり、まさにポランニーの応用問題という感じです。

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コメント

私もいかにもという箇所は多々あれど、歴史主義よろしくそこに微積分時間軸を負債の説明に使うあたり好みでした。
最近欧州学者の本が目立つようになってきました。少なくとも日本でとのカッコつきですが、ピケティ受けが社会制度上米より仏(本国では受けなかったよですが)に近い日本で起きたことを不思議には思っております。あの本に限り日本への説得力はないですから、やはり煽り勝ちのスター主義なんですねニッポンは(笑)。nhkで講義を数回にわたり放送しましたが、説得力ないなあ~と。教室も狭いし受講生も少ないし、日本なら例えばハーバードのサンダースホールでやんなきゃ入らない受講環境だろうにと。さすがはフランスだあ~と妙に感心しきりでした。ちびっこ学校なのでしょうが。それだけ日本はナイーブといいますか、ライドオンタイムな国民性なのかもしれません。
としますと、英国のような国民投票なんぞは自殺行為とも思えますが、どっこい、2009総選挙でライドオンタイムした帰着を知った日本の経験主義はいまや危険回避の自閉的選択で今回参院選も微震で収まるのでしょうね。

しかし、ようやく読まれましたか(笑)。
積読ですね(笑)。
米国もよろしく。

忘れていました。
グローバルやグローカル(感心するほど造語しますねえw)の二項対立を今度は融合させたらどうでしょ論は、所詮メインストリーム学の是認が発生源ですから、マクロ経済現象として国家間の資本・技術移転がエマージングを生んだとか、その帰結が先進国の空洞化を呼び込んだとか、賃金は均質化するとか功罪様々上げられ有用な思考法のようでアマチュアは理解しやすいのですが、この著作は今ではなく過去から未来を、未来から過去をインタラクティブに説明してくれ目覚ましの役割を担ってくれます。

いまさらですが、まったく同感です。「細かな一つ一つの記述にも思わずそうだそうだと膝を叩くところがけっこうあります。」というのもそのとおりで、hamachanが引用しているところなど、まったく新しい目からウロコの知見ではないのですが、「うまいこと言うなあ」「ほんまにその通りや」と感動しながら読んだものです。この本、どれくらい売れたのか知りませんが、多くの人にしっかり読んでもらいたくて、いくつかな小サークルで報告したものです。以下はそんな思いもあって去年の5月に連合総研のDIOに書いた書評です。

予期せぬ出来事と民主主義の試練
~租税国家、債務国家から財政再建国家へ
著者はドイツのマックス・プランク社会研究所所長。20代にフランクフルト大学でアドルノのゼミに参加しており、その数年後にはハーバーマスの『晩期資本主義における正統化の諸問題』が上梓された。そうした時代背景から著者の学術的な原点はフランクフルト学派の危機理論(以下「危機理論」)にある。本書はアドルノ記念講義(2012)の記録に加筆したものであり、「危機理論」を批判的に継承しながら補完する内容となっている。原書の表題"Gekaufte Zeit"は「買われた時間」という意味だが、これは英語の慣用句"buying time"(時間稼ぎ)に由来する。副題に「民主主義的資本主義の先延ばしされた危機」とあるように、現代資本主義が逢着した深刻な危機を正面から分析対象としている。
著者の批判は、後期資本主義を分析対象とした「危機理論」が、もっぱら民主主義を担う政治権力の正当性を問題としたことに向けられる。労働組合を含む利益協調的団体相互の妥協を、市場テクノクラートと国家の介入で実効確保することにより、資本主義に内在的な経済対立は制御可能になったことを「危機理論」は前提としていた。とはいえ判断を誤ったのはシュンペーターやケインズらも同様で、彼らも20世紀後半には自由放任市場に依存した資本主義は終焉するものと予測していた。労働運動による変革過程は時代の兆候であり、支配階級は自らの利益のために、労働者階級の発展を阻んでいる障害を法的に除去しなくてはならないというマルクスの警告(『資本論』初版の序文)に、支配層は漸く従うようになったと多くが信じて疑わない時代であった。
しかしそうではなかった。「危機理論」は戦後福祉国家の自己定義を受容することで経済的危機対応を議論の俎上から外してしまったが、支配層は市場経済が新たな危機に直面するや、民主主義的福祉国家とは縁を切るという選択肢を採用し、資本主義は民主主義との同床異夢から覚醒した。この状況はカレツキが先見的論文(「完全雇用の政治的側面」1943)で予測したように、資本にとって恒常的完全雇用は労働者の力を強化して、職場と政治の規律が失われる危険があるため、ケインズ政策が資本の抵抗によって挫折する時がまさに訪れたことを意味する。こうして1970年代以降、「予期せぬ出来事」が連綿と継続している。
この新自由主義革命は貨幣を媒介した成長幻想を生み出すことで着々と進められ、4つの段階を通して一般民衆に犠牲を転嫁してきた。第1段階は新自由主義政策の前史であり、貨幣の増発によるインフレ政策によって実質賃金を抑えこむ政策が採られたが、70年代にはオイルショック後のスタグフレーションの発生をもって効力を失う。80年代以降の第2段階はインフレ抑制と労働組合への弱体化攻撃の時代となり、政府は年金や失業給付等の財源を将来の税収を担保にした民間からの借入、すなわち国債に依存するようになる。しかし90年代には国債費の負担が懸念されるに至り、第3段階では割賦信用条件の緩和やサブプライムローンの導入によって家計債務の膨張に依存する「民営化されたケインズ主義」(C.クラウチ)へと移行した。その帰結がリーマンショックであったことは記憶に新しい。この信用危機は政府・中央銀行による金融機関の不良債権購入や資本注入で一旦は先送りされたが、国家債務の膨張による財政再建が新たな危機の火種となっている。時間稼ぎの第4段階では、規制緩和や民営化で市場から身を引いていた公権力が、金融資本の利益代表として再び市場に帰ってきた。
いまやマクロ経済危機、金融危機および国家債務危機という三重危機の圧力の下、ハイエク的な新自由主義が市民社会を再び悪魔の挽き臼に投げ込んでいる。対抗軸は国民国家に残された民主主義的機能を総動員して、公平な社会福祉制度の荒廃に歯止めをかけ、「路上」からの抵抗運動が資本主義なき民主主義の新しい政治的行動能力を打ち立てるまでの時間を稼ぐことだ。

さきほど書き忘れましたが、シュトレークをフランクフルト学派の社会学者とすることはどうなのでしょうか。確かに本書はアドルノ記念講演を基にしたものですし、著者自身もアドルノの講義を聴いたことがあるとは述べていますが、門下生ということでもないようです。もちろん70年代以降のフランクフルト学派に大きな影響を受けたことは間違いないでしょうが。そもそも(基本的に?)本書自体がフランクフルト学派、特にハーバーマスの危機理論への批判の書でもあるようですから。この点についてはハーバーマスによる評価と反論「デモクラシーか 資本主義か? 」(三島憲一訳)が「世界」の昨年9月号に掲載されています。

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