山本泰三編『認知資本主義』
たまたま東大公共政策大学院で講義する前の合間に生協の本屋で見つけた本ですが、山本泰三編『認知資本主義』(ナカニシヤ出版)は割と面白く読めました。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b222112.html
フレキシブル化、金融化、労働として動員される「生」――非物質的なものをめぐる現代のグローバルな趨勢「認知資本主義」を分析
私の関心からすると、編者の山本さんが書かれている第2章「労働のゆくえ」が、非物質的労働という概念をキーに論じていて、考えさせるところが多いのです。ただ何というか、ある種の哲学的、現代思想的な文体が込み入っていて、読むのが難しい面はあるのですが。
第二章 労働のゆくえ(山本泰三)
――非物質的労働の概念をめぐる諸問題
一 非物質的労働
二 「暗黙の実務」の労働過程
三 スミス的分業と認知的分業
四 賃金労働
五 人的資本
六 むすびにかえて
たとえば、
・・・人的資本として生きる人間は、自己に投資し続けるのであるが、それはすなわち投資される自己でもある。内部に金融的関係をたたみ込んだ主体、賢明な投資家かつ有望な企業家という、二重の自己。金融による投資は、人的資本という概念装置を通じて、個々の人間に作用し、生の潜在的エネルギーを駆り立てる。これは機能しうるのか。・・・
・・・人的資本の枠組みは、雇用関係の個人化を裏打ちする装置である。これは労働の成果を、投資のリターンとリスクという形で個人に帰属させることができるという前提に立っている。たびたび目の当たりにさせられる市場の荒れ模様からすれば、それは実際のところ、機能不全を通じた分割統治のごときものとして理解すべきであるように思われる。・・・
いきなりこれだけ読まされたら、どこのソーカル論文かと言いたくなるようなわけわかめな文章ですが、それを我慢すれば、今日の労働の変容という現象をかなり本質に突っ込んで議論していることは確かなような気がします。
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はじめて著者を知りましたが、はまちゃん先生紹介の箇所のみでもまさに労働者の帰属が集団的パターナリズムによって偏差値選別され,入社後はOJTによるすべての会社文化を組織投資により授かりながら成長する皆で均等分配プロセス時代から、今日の雇用と報酬制度の階層契約によりそれに規定された分配プロセスとなったため労働予備軍である学生時代から入社そして組織に帰属する限り個人投資を続けざるを得ない格差競争に変容したと諳んじておられるようですね。
スミスの分業を祖としまう誤謬をあたらめ、それは古のクセノフォンに、またスミスの前にはマンデヴィルに求め、スミスは道徳感情論にて分業の弊害に警鐘を鳴らしていたと著書が書き進められていれば是非とも読んでみたい書物です。
投稿: kohchan | 2016年6月22日 (水) 16時10分
追記ですが。
非物質的労働云々を一気に凌駕する人間そのものを非生物学的転換する可能性を見据えた新世界の到来=シンギュラリティにこそ我々にとってそれが何かを世界が考えるべきことではと思われます。
これまで営々と遥か古よりの先人たちの死をもいとわぬ学問と経済発展探求の果実を線形的に捉えることをあえて否定することで上記のもたらすであろう果実と毒の所在を考える時であろうと。
投稿: kohchan | 2016年6月30日 (木) 16時00分
やっと読みました。資本と労働、労働と生活のボーダレス化。あついは個人化された労働者の組織化の一つもプロトタイプに米国を参考とするドイツ。
フォーディズムからなかなか抜け出ない国内産業界にとって示唆的内容のように思われました。
2章に載ってましたね、はまちゃん先生。
情報社会における個人の細分化とその結集方法のひとつであるフラッシュ・モブは、都知事選でのコメント騒乱で書きましたが、本書参考文の中に取り上げてありました。社会やその基礎となる人や組織のあり方変化を気付かせてくれる労作でした。
投稿: kohchan | 2016年8月20日 (土) 08時03分
ちょうどダンバー数で著名な、ロビン・ダンバーの2016年新著「人類進化の謎を解き明かす」を読み、本日の朝日新聞書評でも取り上げておられたいました。
社会脳→認知→社会認知は、本エントリ認知資本主義の産業発達の時間軸推移の思考実験の帰結と今後への提言等々にも学問のジャンルを超えて融合化する可能性を感じます。しかし所詮は読み手というか、私たち現代に生きる立ち居振る舞いがカギを握り、冷たく言えば”残余時間の持ち分差異にあえて将来選択への不平等性”を持ち込む方法論に一つの正当性を授けうる可能性をも感じます。とはいえ昨今の情報社会言論とその応答にはその希望を感じないことも事実で、近年は情報媒体でのコメントに出自をはっきりとさせる限定性もそうした覆面の輩が自慰行為を繰り返しそれを許すことが心的被害者を創り出してしまう今には必要としなければならないなんとも矛盾に満ちた有様は周知のとおりです。
以前の私の稚拙コメントにも取り入れましたが、進化は今も続いている(ロスジェネ世代こそ)表現のひとつが定時退社であるならば、一部エリートや研究者特有の無時間性を除き、こうした若者に先の残余時間不平等選択権をその対極にある分厚い高齢者層とその予備軍はあえてその可能性に賭けることもよいかもしれないと最近思います。
ダンバー数はその社会コミューンが150を超えると崩壊する前社会の仮説ですが、情報社会で個人細分化された今日は、その労働や個人のボーダレスを積極的に評価すれば創り、前社会では創りえなかったネットワークを、まさにweb=蜘蛛の巣社会をいよいよ完成形へ近づきつつあると思われるからです。こうした乱読でも相互関連を感じることがネットワークの原点かもしれないと思い、しつこくで申し訳ありませんがコメント投稿いたしました。お気づきの方もおられるかと存じますが、かのファシズムで色付けさせれしまったステレオタイプの批判に甘んずることなく、その積極的意義を考えた優生思想的な発想であることを否定いたしません。今はそれほどにひどい情報使用環境にあるということとの未来社会へのトレードオフを鑑み、あえてコメントいたしました。本ブログが目的とされる労働問題や当然付随して考えなければならぬ社会保障等々の若者の置かれた今を考えますと。
投稿: kohchan | 2016年8月21日 (日) 08時34分
どうもず~と引っかかっており、今朝突如のニューロン発火により、「な~んだ、デジャブ感がぬぐえなかったのは、この本のネタ元というかベースは、アントニオ・ネグリじゃん!」って。
悲しいですねえ、この空白の時間。
エントリにちゃんと書いてよね、はまちゃん先生(怒&笑)。
悔しいから(笑)ドミニク・メーダを推薦しましょう。アンチ経済学思考法をアーレントに起源しつつもアーレントが避けた労働についても語ります。
こうした学問の歴史的連続的素養が大學の一つのあり方なのですが…労働一本やりでは経済学に隷属しているとメーダは批判するでしょうね。スミスさんからミルさん、マルクスさんまでバッサリやられますね。
ニヤッとするのはケインズさんかな。
投稿: kohchan | 2016年9月16日 (金) 07時50分