1975年は労働法政策の転換点
金子良事さんが、
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-426.html (1975年の転換点)
1975年、カテゴリ労働史で転換点と書いたら、みなさんは何を想像されるでしょうか。日本型所得政策でしょうか。それとも、スト権ストでしょうか。私はこの年に形成された学者が中心になって形成された労働問題研究会をここであげたいと思います。とはいっても、仮説なので、みなさん、いろいろ突っ込んでください。
いや、1975年は、まさにわたくしの労働法政策の観点からしても戦後史の大きな転換点です。でも、金子さんが挙げているどれも、それと直接関係ありません。
いやむしろ、そのあとで金子さんが語っている
この政策研究の流れが翌年の政策推進労組会議を生み、あるいは蓼科(電機)・山岸(電通)の労働社会問題研究センターにつながって、最後は連合までいきます。
という流れとは密接に繋がっている面があるのですが。
問題の焦点は、ここでいう「政策」とは何かということです。
それまで対立していた総評と同盟が、少なくともその民間組合が「政策」を軸に統一に向かっていくその「政策」とは何だったか。
それこそが、この1975年に施行された雇用保険法に基づく雇用調整給付金(後の雇用調整助成金)であり、この助成金に象徴される雇用維持型の雇用政策を労使が支える労働法政策体系が構築されていったのがまさにこの時代であったのです。
これはちょうど今週東大公共政策大学院の労働法政策の授業で話したばかりのところですが、
(参考)
日本の失業対策でない雇用政策は、発足後10年足らずで大きく方向転換した。一言でいえば積極的労働力政策から雇用安定政策への転換であるが、これを法制上に跡づけるのは意外に難しい。なぜなら、基本法であるはずの雇用対策法上にその転換が示されることなく、1976年6月閣議決定の第3次雇用対策基本計画で示された形になっているからである。しかしながら、実はそれに先だって、1974年12月に成立した雇用保険法がこの方向転換を明確に示していたのである。雇用保険法はいうまでもなく失業保険法を全面改正して雇用政策手段としての雇用保険三事業を創設したものであるが、この雇用保険三事業、なかんずく雇用調整給付金(後の雇用調整助成金)制度が、それ自体は手段でありながら、実質的に雇用安定政策への舵を大きく切ることになったからである。
もっとも、雇用保険法自体はそのような趣旨で立案されたものではなかった。・・・・
雇用保険法案は翌1974年1月に国会に提出されたが、社会党、共産党、公明党は反対し、参議院で審議未了廃案となった。総評が給付の切り下げであるとして強く反対していたことが反映している。ところが、ここに石油危機の影響で雇用失業状勢が厳しさを増し、一時休業や一部には大量解雇まで現れるようになって、雇用調整に対する助成措置に対する早期実施の声が高まってきた。同盟はもとから雇用保険法案に賛成であったが、中立労連が賛成に回り、総評加盟の民間労組からも積極的態度を示すものが続出した。こうして、雇用保険法案は、いわば雇用安定のための助成措置を規定する法案としての期待を背負って再度国会に提出され、1974年12月に成立にいたった。
もっとも、条文の上では、これは雇用改善事業の中の一項目として「事業主に対して、景気の変動、国際経済事情の急激な変化その他の経済上の理由により事業活動の縮小を余儀なくされた場合における失業を予防するために必要な助成及び援助を行うこと」(第62条第1項第4号)を掲げたに過ぎない。膨大な雇用保険法の中では埋もれてしまいそうな小さな条文に過ぎないが、上に見たような制定経緯から、労働法政策の上では、雇用政策の方向を大きく変えた巨大な条項となった。
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