世に倦む左翼の時代錯誤
「ヨニウム」氏こと「世に倦む日々」氏が、拙著『働く女子の運命』で(一件迂遠なように見えるにもかかわらず)取りあげたある議論を、いささか戯画的に見えるような形で呟いていますね。
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/705996491790221312
今の左翼リベラルは(ジェンダー論の延長で)とにかく夫婦二人が低賃金でも何でも必死で働くのがいいという発想をする。家事・子育ては二の次で分担だと。その脱構築的な考え方が、新自由主義の賃金切り下げをスムーズにする前提を作っている。一人が一家四人を支える昔のモデルこそを再建すべきだ。
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/705978024198406144
労働力商品の価格の決め方が変わったんだよね。原理が変わった。昔は、一家四人を支えて、子ども二人を大学にやり、夫婦で安定した老後を送る人生のモデルがあり、そうした基準が公的に存在し、労働力商品の価格(給与体系)が決まっていた。新自由主義はその原理を崩したわけさ。固定費から変動費に。
何でもかんでも悪いのはネオリベにするという、ある種の思考停止の典型ですね。ヨニウム氏にかかれば、終戦直後の日本にやってきて、家族賃金を批判した当時の世界労連は、ネオリベの手先ということになるのでしょうか。(拙著『働く女子の運命』p86~p88)
世界労連の批判
もう一つの批判者は世界労連でした。少し脇道ですが、この頃の世界の労働運動の流れを概観しておきます。終戦直後の1945年、東西両陣営の労働組合が世界労連に結集しました。ところが1949年にマーシャルプランをめぐって対立が生じ、西側諸国の労働組合は大挙して脱退し、国際自由労連を結成したのです。世界労連はソ連圏の(共産党直系の)組合だけの機関になりました。しかし、1947年3月に世界労連の視察団が来日したときはまだ西側労組が脱退する前でした。ですからこの時やってきたのは、仏労働総同盟(CGT)出身のルイ・サイヤン書記長を団長に、米産別会議(CIO)のタウンゼンド氏、全ソ労評のタラゾフ氏、英労組会議(TUC)のベル氏ら6名でした。視察団は同年6月にプラハで開かれた総理事会に予備報告を行いましたが、その中で日本の賃金制度について次のように手厳しく批判しています。
代表は次の点に注意した。すなわち国有事業をも含めた工業において、賃金制度は職業能力、仕事の性質、なされた仕事の質や量に基礎を置いていない。時としてそれは勤労者の年齢や勤続年限によっている。また他の場合、われわれは調査にあたって男女勤労者の基本賃金を発見し得なかった。というのは、報酬は子供の数に基礎を置かれており、これら家族手当の性質や価値を決定し得ないのである。代表団は全部かかる賃金決定法を非難した。かかる方法は、雇主の意志のままに誤用され、差別待遇され得る道を開くものであるという事実はさておいても、方法そのものが非合法的非経済的である。賃金は勤労者の資格、その労働能力に基礎が置かれねばならぬ。妻子、老齢血続者等、家族扶養義務にたいする追加報酬は切り離すべきで、そして、受益者の年齢、資格を問わず、かれら全部に平等な特別の基準のものでなければならぬ。・・・
代表団は全般的に見て、婦人労働者に正常の賃金と、より良い社会的地位とを保障する努力がこれまでほとんどなされていないと考えている。似通った仕事は同じ時間と、同じ質にたいして、同じだけの報酬に価するという原則に従って、代表団は、労働者の性別によって賃金に差をつけるべきではないと述べた。工場に多年勤めている婦人労働者は、男子見習員よりも安い賃金をもらっているが、この事実の中に、低い婦人にたいする不平等で、非人道社会的な考えが残っているのである。
そして、賃金と労働条件の改善のための提案として、
四、婦人の賃金は引き上げられるべきこと。また、同一の量と、質の労働にたいする賃金には、労働者の性、年齢による差別を設けぬこと。
を求めています。
このように、終戦直後の時期において、アメリカの労働行政官たちと、世界の労働組合運動家たちは、揃って日本の賃金制度を批判し、同一労働同一賃金原則の確立を求めていたのです。
すごいなあ、終戦直後のフランス、イギリス、アメリカ、それにソ連の労働組合がみんなそろってネオリベなんだ!!!
なんて便利な概念なんだろう。
さて、日本以外全ての国の労働組合をネオリベと批判するヨニウム氏の議論をちゃんと応援してくれる議論があります。
評判の悪い社会学(笑)じゃなく、一応経済学です。
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/705980769097768960
子どもの貧困にせよ、保育園の問題にせよ、こういう問題は経済学の言葉で語らないといけない。社会学の言葉で語ってはいけない。経済学の概念で分析し、問題解決策を与えないといけない。脱構築主義の日本のアカデミーは、経済学の発想がないから(阿部彩や本田由紀みたいに)すぐに消費税でとなる。
どういう経済学かというと・・・・・(拙著『働く女子の運命』p104~p110)。
マル経で生活給を正当化
こうした経営側や政府の職務給導入論に対して、労働側は口先では「同一労働同一賃金」を唱えながら、実際には生活給をできるだけ維持したいという姿勢で推移していたといえます。
先の電産型賃金体系は、終戦直後に家族手当などが膨れあがる形で混乱を極めていた賃金制度を、基本給自体を本人の年齢と扶養家族数によって決めるように明確化したもので、生活給思想の典型といえるものです。それと同一労働同一賃金原則の関係は、労働側にとってなかなか説明しがたいものでした。
これをマルクス経済学(マル経)の概念枠組みを駆使して説明しようとしたものとして、宮川實氏が1949年に唱えた「同一労働力同一賃金」説があります(宮川實氏『資本論研究2』青木書店(1949年))。これは、戦時体制下の皇国勤労観に由来する生活給思想を、剰余価値理論に基づく「労働の再生産費=労働力の価値」に対応した賃金制度として正当化しようとするものでした。そのロジックの説明は後で詳しく述べますが、まずはざっと目を通してください。
・・・同じ種類の労働力の価値(価格)は同じである。なぜというに、同じ種類の労働力を再生産するために社会的に必要な労働の分量は、同じだからである。だから同一の労働力にたいしては、同一の賃金が支払われねばならぬ。・・・資本家およびその理論的代弁者は、同一労働、同一賃金の原則を異なつた意味に解釈する。すなわち彼らは、この原則を労働者が行う労働が同じ性質同じ分量のものである場合には、同じ賃金が支払われねばならぬ、別の言葉でいえば、賃金は労働者が行う労働の質と量とに応じて支払われねばならぬ。というふうに解釈する。労働者がより多くの価値をつくればつくるほど、賃金は高くなければならぬ、賃金の大きさをきめるものは。労働者がつくりだす価値の大きさである、というのである。・・・すでに述べたように賃金は労働力の価値(価格)であって、労働力がつくりだす価値ではない。労働力は、それ自身の価値(賃金)よりも大きな価値をつくりだすが、この超過分(剰余価値)は、資本家のポケットにはいり、賃金にはならない。・・・われわれは、賃金の差は労働力の価値(価格)の差であって、労働者が行う労働の差(労働者がつくりだす価値の差)ではない、ということを銘記しなければならぬ。この二つのものを混同するところから、多くの誤った考えが生まれる。民同の人たちの、賃金は労働の質と量とに応じて支払わるべきである、という主張は、この混同にもとずく。・・・賃金の差は、労働力の質の差異にもとずくのであって、労働の質の差異にもとずくのではない。だから同一労働、同一賃金の原則は、正確にいえば、同一労働力、同一賃金の原則であり、別の言葉でいえば労働力の価値に応じた賃金ということである。・・・
資本主義社会では、労働者は、じぶんがどれだけの分量の労働をしたかということを標準としては報酬を支払われない。労働者にたいする報酬は、彼が売る労働力という商品の価値が大きいか小さいかによって、大きくなったり小さくなったりする。そして労働力という商品の価値は、労働者の生活資料の価値によって定まる。・・・労働者の報酬は労働力の種類によって異るが、これは、それらの労働の再生産費が異るからである。
さてしかし、この文章をいきなり読んで何を言っているかがすぐわかる人は、マル経をかなり知っている人でしょう。現在ではマル経はあまり流行らないので、何のことかさっぱりわからない人の方が多いのではないかと思われます。そこで、私自身全然納得していないのですが、できるだけわかりやすく説明してみたいと思います。
まず、マル経では、商品の価値はそれを生産するのに要した労働量によって決まるということ(労働価値説)が出発点になります。ある商品と他の商品が同じ値段になるのはなぜかというと、どちらを生産するのにも同じ10時間必要だから同じ2万円になるのだ、という理屈です。細かくいえば、労働の質が違うと価値も違うとかいろいろありますが、大筋はこうです。これは現在主流の新古典派経済学とは異なりますが、本書は経済学の議論を展開するところではないので、マル経とはそういうものだと思ってください。
では、労働生産物ではない労働そのものの価格である賃金はどうやって決まるのでしょうか。ここは大変技巧的な説明になります。世間ではみんな賃金とは「労働の価格」だと思っているけれども、実はそうじゃなくて「労働力の価格」なんだというのです。前者であれば、労働者というサービス業者が自社の商品である労働というサービスを切り売りしているイメージですが、後者だと奴隷主である労働者が奴隷である労働者をまるごと貸し出しているイメージですね。そうすると、労働力という商品はそれ自体も労働を投入して生産されるべき商品であり、その価値はその生産に必要な労働時間で決定されることになります。ここで労働力の生産とは、毎日飯を食って明日からまた同じように働けるようにすること、つまり「再生産」を意味します。つまり一言で言うと、労働者がずっと労働者として働き続けられる程度の生活ができるぎりぎりのお金が労働力の価値ということになります。
これで最初に出てきた「同一の労働力にたいしては、同一の賃金が支払われなければならぬ」が何を言っているかがわかりました。「賃金は労働者が行う労働の質と量とに応じて支払われなければならぬ」というのは、マル経からすると間違いなのです。それは俗流経済学の間違った発想なのです。
ここはマル経の一番根幹になるところです。一方で労働生産物の価値はそれに投入された労働者の労働時間によって決まるというのですから、商品の価値は本来すべて労働者に属するはずです。ところが労働者に払われる賃金は、その労働力の再生産に必要な分でしかない。そこで、たとえば1日10時間労働して2万円の商品を生産したとしても、その労働者に支払われるのはその労働力の再生産、つまり生活維持に必要な1万円でしかないので、その差額の1万円はまるまる資本家のポケットに入ってしまいます。これを剰余価値といって、それが資本家が労働者から搾取している部分だと説明するのです。搾取という言葉を、昔の『女工哀史』や昨今のブラック企業のようなことだと思っていたら、マル経の授業で単位はもらえません。マル経では、搾取とは利潤が存在することと同じことを意味するのです。
問題はこの労働力の再生産に必要な労働時間の中身です。労働者本人の生存ぎりぎりの生活費では、その労働者が老衰して死んでしまったらおしまいです。労働者も生き物ですから、個体として生存するだけではなく、種族として再生産できなければ、それを使って商品を生産する資本主義社会も維持できません。それゆえ、労働力の再生産費には、労働者本人だけでなく、その妻や子供など家族の生活費も含まれなければなりません。つまり、女房子供を養える生活給の正当性は、マル経によって見事に弁証されたことになります。
逆に、いままで成人男子労働者に養ってもらっていた女房や子供たちが働きに出ると何が起こるでしょうか?家族総出で働いても労働力の再生産費はほとんど変わりませんから、それが家族の賃金で分割されるだけです。今まで亭主一人で月40万円稼いでいたのが、亭主は20万円、女房は10万円、子供二人はそれぞれ5万円で、合計は以前と同じ40万円になるわけです。これをマル経では「労働力の価値分割」といいます。女性が労働力化すると労働力の価値が下がるのです。
これでやっと生活給のロジックに接続しました。ここでの説明は頭にとどめておいてください。とりわけ、賃金は「労働の価格」ではなく、「労働力の価格」であるというマル経の考え方は、この生活給のロジックを超えて、今日の日本社会で支配的なメンバーシップ型労働社会のあり方と密接な論理的因果関係を有しているのです。
まさにヨニウム氏の議論の原型がここにあることがわかります。
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> 昔は、一家四人を支えて、子ども二人を大学にやり、夫婦で安定した老後を送る人生のモデル
この「昔」というのは具体的にいつの時代なのでしょうかね?
私の親世代は団塊世代の少し上くらいですが、大学に進学するのは男性でも全体の 1 割くらい、女性に関しては「女が大学に行くなんぞ云々」だったわけで。「一家四人」ということは核家族化が進んだ後の世代でしょうから、団塊世代より上ということもなさそうです。その子供の世代ということだと、今の現役世代ということになりますね。
どうもこの「人生のモデル」というのは該当する世代が見当たらないですね。
> 宮川實氏が1949年に唱えた「同一労働力同一賃金」説
高度成長前の話ですね。昔は 1 日働いた賃金が 500 円くらいだったと親が話していました(時給ではなく日給であることに注意)。もちろん、今とは物価が大分違うわけですけど、携帯電話もなければ、インターネットもなく、それどころか、TVも洗濯機も冷蔵庫も(エアコンも扇風機も)ない時代の話ですね。
計画経済というのは、人々の生活水準の向上によって破綻するものなのかもしれませんね。公的医療制度が破綻する原因は、医療水準の向上によるという説がありますが、コストが膨れ上がるのを吸収できなくなる点で同じなのかもしれません。
投稿: IG | 2016年3月 6日 (日) 04時34分
>どうもこの「人生のモデル」というのは該当する世代が見当たらないですね。
鋭いご指摘ですね。
結局この理想は夢見られたまま、ほぼ実現しなかったというのが実相なのかもしれません。もちろんごく少数、夢を実現した人々はいたでしょうけれど。
高度成長が持続していればこの夢は実現していた公算が大きい。しかし、実際には70年に高度成長が終焉し、理想の経済的基盤が失われてしまった。団塊の世代はもはや実現の条件が失われた夢に固執して、そのツケが下の世代に一気にきているのが今の惨状なんでしょうね。
投稿: 通りすがり2号 | 2016年3月 6日 (日) 17時47分
あのですね、いまこんな新書が評判なんですよ。http://www.amazon.co.jp/dp/B01CK26VVW/ 『 「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』 (ちくま新書) 著者は前に大学論でとても面白い本を書かれた方です。要約すると「『大学で何を学ぶか』と題した本は何冊もあるけれど、どれも大学の教師が書いた本だから自分の生活保障の場である大学を礼賛する内容ばかりだ。しかし大半の学生は象牙の塔をいずれは去って実社会に飛び込む運命なのだ。学校の外部の目線からは大学がどう見られているのか、じっくり考えてみようじゃないか」という内容です。http://www.amazon.co.jp/dp/4877287051/ 私が濱口先生のご著作を読んですぐなじめたのは、この著者による大学論になじんでいたため、さっと飲み込めたのです。同じことを語っておられるんだな、と。
投稿: くみかおる | 2016年3月 7日 (月) 00時45分
ああ、大体同じ視角からものを考えておられるようですね、その方は。
投稿: hamachan | 2016年3月 7日 (月) 09時50分
そうなんです。浅羽氏はどうやら濱口先生のご著作は読んでおられない様子ですが、ツイッターでのつぶやきを拝見するに、いずれたどり着くのではないかなーという気がしています。
投稿: くみかおる | 2016年3月 7日 (月) 12時52分