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2016年3月28日 (月)

有田伸『就業機会と報酬格差の社会学』

9784130501873_2東大社研の有田伸さんより大著『就業機会と報酬格差の社会学 非正規雇用・社会階層の日韓比較』(東大出版会)をお送りいただきました。

http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-050187-3.html

日本社会では正規雇用と非正規雇用の間にきわめて大きな格差が存在する.そもそもそれはなぜなのだろうか? また,その解決のためにはいかなる視点が必要なのだろうか? 精緻な実証分析と国際比較を通じ,社会学の視角に基づく新たな説明枠組みを大胆に提示する.

序章で示される問題意識は、格差について社会学では世代間の階層移動機会に、経済学では報酬格差に集中し、そして後者では結果の格差が生じる原因を個人の資質や能力の違いに帰する傾向が極めて強いことを指摘し、この両者の間にこぼれ落ちた「椅子取りゲーム」的視角を、比較社会学的見地から分析していくと示しています。

まさにタイトルにあるように「報酬格差」の問題を既存の経済学のように能力から正当化するような議論ではなく、就業機会と絡ませて論じようというわけです。

序章 日本の格差問題を理解するために,いまいかなる視角が必要か?
1章 ポジションに基づく報酬格差への視座――議論の整理と課題の導出
2章 所得と主観的地位評価の格差――企業規模と雇用形態の影響は本当に大きいのか?
3章 雇用形態・企業規模間の賃金格差――パネルデータの分析を通じて
4章 日本と韓国における「非正規雇用」とは何か?――政府雇用統計における被雇用者の下位分類方式とその変化
5章 正規雇用/非正規雇用の区分と報酬格差――雇用形態の違いはどのような意味で格差の「独立変数」であるのか?
6章 ポジションにもとづく報酬格差の説明枠組み――付与された意味・想定による格差の「正当化」に着目して
終章 日本社会の格差問題の理解と解決に向けて
参考文献/あとがき/索引

本書のうち、私が読みながら「そうだ、そうだ、まさに!」と心の中でつぶやきながらページをめくっていったのは、第6章の「ポジションにもとづく報酬格差の説明枠組み――付与された意味・想定による格差の「正当化」に着目して」です。

日本において、正規/非正規間の報酬格差を正当化するロジックは何だったのか。

まずはわたくしの「メンバーシップ」論や今井順氏の「企業別シチズンシップ」論を引いて、メンバーシップを持つ正社員と持たない非正規という対比を取り出すのですが、ここで有田さんは日韓比較の見地から、韓国では社内請負など他社の労働者との格差は大きいが、直接雇用の労働者を正規と非正規に鋭く区別する度合いは少ないことを指摘し(まさに会社別の格差!)、なぜ日本では(韓国とさえ異なり)似通った職務に就いている同一企業の直接雇用従業員の内部に、あからさまな待遇の格差を伴う従業員の区別を設けるのか?というより細かい問いを提起します。

ここからの有田さんのロジックは目がくらむような技を見せていきます。

まず本音ベースのロジックとして、これは私も近著『働く女子の運命』で引っ張り出した「企業による従業員の生活保障と性別・年齢によるその受給権限の違い」を示します。大沢真理さんが鋭く摘出したロジックですね。

「世帯の稼ぎ主としての役割を持つ者」と「その役割を持たない者」という想定が、生活給規範の下で、両者の報酬格差を正当化している、というわけです。主婦パートも、学生アルバイトも、定年退職後の嘱託も、まさにこのロジックに基づいています。

しかし、それはかつては堂々と語られるロジックだったかも知れないけれど、今日の日本では、報酬格差の正当化はより洗練された・・・より正確に言えば、より洗練されているかのように見える・・・ロジックによるものになっています。

それは大きく二つあり、一つは近年の法政策でも用いられている「それぞれの従業員カテゴリーに期待される義務・責任の違いに基づく補償賃金仮説的な正当化ロジック」です。これは、残業や転勤といった「義務」の違いが、上記生活給的想定による世界の稼ぎ主とそうじゃない者の違いに近いと想定されるのですが、言うまでもなくその間にはずれがあり、それこそ「パートとして働くシングルマザー」は生活給の必要性は高いはずですが、残業や転勤を受け入れるのは難しいわけで、そこが残された課題になるというわけです。

もう一つの正当化のロジックは、これも拙著『働く女子の運命』でかなりねっとりと議論したところですが、「職務遂行能力」の違いって奴です。

しかし、これ、拙著でも論じたように結局どんなにこねくり回してみてもトートロジーにしかなりません。そこのところを、有田さんは「能力の社会的構築論」として論じています。これは社会学では結構昔からある議論のようですが、私はよく知りませんでした。要するに、人々の能力とは、個人の持つ属性と言うよりも、評価者や同僚によって生み出される「社会的構築物」だというわけです。日本型雇用における「職務遂行能力」なるものは、まさにどんぴしゃそれに当たりますね。パート店長の「職務遂行能力」は正社員窓際族の「職務遂行能力」よりも、その職能給の賃金額の差だけ低いわけですね。まさに「社会的構築」です。

こうして、有田さんは、

・・・いずれにしてもこのように、「技能・能力の相違」に基づくロジックと、「責任・義務の相違」に基づくロジックは、互いに補い合いながら、今日の日本における正規雇用と非正規雇用の間の報酬格差を正当化し、その再生産を支える要因として機能しているものといえるだろう。

と述べるのです。

問題意識といい、その際の目配りといい、わたしには大変ぴたっとくる内容でした。

とりわけ、客観的には検証不可能な「職務遂行能力」という操作概念をあたかも実体的なものであるかのようにみなしてそれであれこれを「説明」してこと足れりとしてしまうある種の労働経済学に対する批判的視座は、私としても大変共感できるものでした。

これは是非多くの方々に読んで欲しい本ですね。

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コメント

本日の朝日新聞一面「折々のことば」鷲田清一氏が綴る人気コラムのようですが、今朝はニーチェの「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」を冒頭に取り上げ、「世界はいつもある視点からとらえられる。・・・どこからどう見るかでその見え姿も変わる。だから、解釈から切り離された『事実』そのものがあるうわけではない。世界はつねに別様にも解釈できる・・・」との短文に朝から特にメインストリームの経済学(者)が含有していると感じるアディクションもこれだよなあと一日ニヤニヤしていた折りに読んだ本エントリー内容にもすっかりリソナンスしてしまいました。
エントリーとは直接的関係はないと思われましょうが、一言。
人文系ってのもそんなに無駄でもないでしょ?自然科学系があえて言うのですからこれも真なりかもです。

また面白そうな本を。

そういえば、久美かおるさんの関心と重なる論文が、労働社会学会のジャーナルにアップされていました。松永伸太朗さんという方の「アニメーターの過重労働・低賃金と職業規範」です。

http://www.jals.jp/journal/pdf/017-matsunaga.pdf">http://www.jals.jp/journal/pdf/017-matsunaga.pdf

The aim of this paper is to reveal why animators working in Japan don’t regard their low-paid and long-time work as problems. Previous studies haven’t theoretically considered animators’labor process. Instead, this paper revealed relations between their occupational norms and their logic of acceptance of bad work conditions with ethnomethodological analysis of interviews. The conclusion of this paper is as follows: Firstly, there are two types of norms in animators’ workplace. One is“artisan”norm, which means that animators should follow instructions of upstream workers, the other is“creator”norm, which means that animators should show their originality. Artisan norm is superior to creator norm. Secondly, understanding and using skillfully these norms is a kind of requirement to be a competent animator. Thirdly, both norms have a common feature, which means that animators should have high-level techniques. Sustained by this common feature, animators compete for higher skills. However, their competition has been intensified because there are many cases that high skill workers can’t earn appropriate wages by some institutional factors. As a result, animators who earn wages to manage to make their living become relative winners. However low-paid their labors are, animators who can make their living are winners, and so they don’t tend to regard their work condition as problems.


拝見しましたが、うーん卒論の上で修論の下ぐらいかな。このテーマに乗り出す方が必ずやってしまう論じ方があちこちに見受けられるのはご愛敬というところですか。この方に連絡とってみたいです。

富の基本として「労働」に目を付けたのがアダム・スミスで、それを「商品」と読み替えてみせたのがマルクスでしたね。その論理が日本に入ってきて生活給を肯定するロジックにすり替えられていった…ここは先生の『働く女子の運命』の第二章で論じられたとおりです。(あそこがあの本の心臓部ですね!) アニメーションの労働者がぜんぜん報われないのは、このロジックすり替えのしわ寄せなのではないかな、と前から感じています。①絵がうまく描けるか ②短時間に大量の絵が描けるか ③手間がかかるカットでも逃げずに描き切れるか がアニメーターの価値だとして、この①②③は三すくみ的な関係にあるため、マルクスがいう、時間を単位にした労働価値の判定が効かないのです。それなのに「親心」なる不可解なロジックはマルクスの読み替えで日本にしっかり根付いてしまっているため、若いアニメーターが悲鳴をあげても「これも修行だ」と頭ごなしに「親心」攻撃をしかけて口封じにかかるのです。

70年代の半ばにアニメ業界内で「手打ち」が行われたとみます。正社員は守り、そうでないものは交換しやすいシステムがあの時代に日本のあらゆる企業で出来上がったことは濱口先生のご著作で知りました。で、どうもアニメの世界では「製作」(著作権とリスクを管理する部門)と「制作」(実際に作品を作る現場部門。著作権は奪われる)の分断がまず行われ、さらにこの「制作」が「中堅~ベテラン」と「新人~若者」のふたつに分断されたのがあの時代だった、という仮説です。新人~若者は超安い金で酷使されるけれど、それでも脱落せず腕もそれなりに認められると「中堅~ベテラン」に格上げされて、月ごとの契約(ただし雇用契約ではなく「拘束」契約です)に切り替わってようやく所帯が持てて子どもも作れる程度には金が稼げるようになる仕組みです。

アニメーターたちは「制作」なので、正規/非正規雇用でいうところの非正規にあたるのですが、そのなかでさらに非正規エリート/非正規非エリート(わかりにくいですか)の二分割があって、頑張れば成り上がれるようになっています。で一度「非正規エリート」に成り上がってしまうと、非正規非エリート(先ほど述べた新人~若者)に向かって「お前ら貧乏だとか苦しいとかごねてるんじゃない。俺も若いときは苦しかったが今はこうしてしっかり食べているぞ。修行なんだありがたく思え、さあ腕を磨け、そのためには絵を描け一枚でもたくさんな!」と説教しだすわけです。こうして搾取システムが、かつて搾取される側だった人間によって肯定され、温存され、隠蔽されていきます。

繰り返しになりますが昨年そこのところを暴露したエッセイを世に出したら、業界の皆さんがかんかんになってしまいました。synodos.jp/society/14091

くみさんのこのコメントを読む限りですが、アニメ労働者の有り様はテクノロジーこそ絡んではおりませんが、労働者同士の二分化がすすんだり、つかの間の勝者も賃金は上がらず次第に非正規へと移行させられ、また過小資本のアニメーター事務所もその後大資本に吸収され最後は賃金労働者となり次には上記と同じ道をたどるアニメ労働者同士のイス取りゲームが出現せざるを得ない「資本論」アニメ業界黙示録ですね。

この論文、修士論文賞とかいう賞をもらっているそうです。http://www.soc.hit-u.ac.jp/info/pub/index.cgi?id=392 主催は三重大学。「この程度で?」と思ってしまいました。

本ブログ主催者に申し訳なく、コメント交換もどうかなあと思いましたが、せっかくですから(いつも言っているような)一言。
こんなもんだら大学教育に絡む本ブログでも、大学側には十把一絡げな「学士も修士も博士も実体なきインフレーション授与での大学ビジネスの所得獲得のためだろ」式のご批判コメントと、学生側にも「市場に適応可能なのか?そもそも手に職つけろよな」式とざっくりですが、私から見れば至極当然なものと、それって社会保障等の再分配に絡みマスターベーション的な世代間格差にエクスタシーを覚えさせる時空を止めた要素還元的でわかりやすすぎる今の社会に蔓延るちょっと安直すぎる捉え方を呼び込むことにもなると思うのですね。
この程度!のインキュベートの因果律は「今」ではなく「過去」にありますから、本ブログの趣旨であろう「未来」も見据えてくみさんのコメントは知らない世界を教えていただいております。
あ~、はまちゃん先生にも(笑)。

テクノロジーが今は大きく絡んでいます。昨年話題になった『SHIROBAKO』というアニメは、制作現場を舞台にした青春物語でした。あれを見るとわかるように、アニメーターはスタジオに雇用されているわけではないこともあって自宅で作業する方がかなりいます。まんが家と似ていますが、まんがの場合はまんが家さんが真っ白な紙のうえにペンをすべらせて絵を完成させて、それを編集さんが取りにやってくる、つまり一方通行で原稿が移動するのに対して、アニメーションではまず編集さんにあたる職種の方(制作進行といいます)が元絵をもって各アニメーターの家を訪ね、「このカットの原画をお願いします」とお願いします。

元絵と今書きましたが、正しくは絵コンテです。見たことありませんか四コマまんがみたいな絵が縦に並んでいるの。あれをもとに各アニメーターがパラパラまんがの絵を一枚一枚描いていきます。で、それができあがるとまた編集さんならぬ制作進行さんが現れてパラパラまんがの絵の束を受け取ってスタジオに戻り、今度はその絵の清書やらなんやらの作業を別のアニメーターさんにお願いするためにまた駆け回って、それができあがるとまた受け取りに駆け回ってそれをまた次の作業の方に手渡すために駆け回ると、そういう仕組みで回っています。これでも単純化して話しています。実際はもっと複雑で過酷です。自殺者もいますからね。

『SHIROBAKO』でもその様子が描かれていますが、不思議に思うのは、どうして今時この作業のやり取りを紙で行っているのか?という点です。パソコンとタブレットを組み合わせればデジタルに絵のデータをやり取りできるのだから、あんな風に制作進行さんが車で都内を駆け回るまでもないはずなのに… この謎を解くカギは、デジタル機材とアプリケーションの価格にあります。今なお高いんですよ。スタジオで一括購入してアニメーターに配るのが一番いいのにそうしないのは、アニメーターは社員ではないことになっているため福利厚生費などをばっさり削減できてスタジオ経営者にすればありがたいところに、どうして今になって全員のためにデジタル化の費用を負担してやらないといかんのだ?そんなことをしたらうちは潰れてしまう!というわけでデジタル移行が進まないのです。それで紙というローテク・メディアが今も使われています。

さてどうしてアニメ産業論の学術論文にろくなのがないかというとですね、論ずる人間もそれを審査する人間も何もわかっていないからです。中学高校の英語の教科書に載ってる英文がネイティヴの目にはデタラメに映ってしまう代物なのに堂々と出回っているのと同じで、つまり教科書を作る側も検定する側も、それに現場で使う教師たちも、自分たちがしょせん英語プロではないことに劣等感を抱いていて、そのため英文を誰もチェックしようとしないしする力もないのです。

じゃあ制作の現場の人間がチェックするとか力を貸せばいいじゃないかと思われるでしょうが、学術研究に力を貸す暇も関心もないので誰もチェックしない。「力を貸そう」と申し出る人間もいますが、そういうのはたいてい何か大きな機関に所属している人間です。日本のアニメは世界に誇る文化だクールジャパンだ、だから国がもっと支援すべきだと日ごろから訴えている(自分たちの何十年にもわたる怠惰が生んでしまった現状を国の力でなんとか浄化して、そしてこれまでの自分たちの怠惰と搾取構造については不問にしてほしいという願望)ひとたちです。そういう虫のいい主張をアカデミズムの権威で肯定してほしいと願っているから、中途半端な研究に肩入れしたがるのです。本格的研究だと自分たちの長年の罪が暴露されてしまうから、そういうのには絶対協力しない。

一方でアニメ研究に手を出す学者さんはたいてい美学とか心理学とかの出身だから、労働問題については素人なので産業論を書かせるとやはり素人の論文しか書けません。そこにつけこんでアニメ界の人間が協力して自分たちに都合のいい論文を書かせるのです。助成金あげるよ、取材したいならひとを紹介してあげるよ、等。

そして論文を審査する側も同じくアニメなんてサブカルには疎いし、労働問題のアプローチで切り込むなんて想像外だから、たいしてできもよくない論文でも評価してしまいがちです。で、そういう代物を褒めたたえることで「どうだ我々はナウいだろう。象牙の塔にこもりっきりなんかじゃないぞ、今のヤングの文化もちゃんと理解できるんだぞクールジャパンだ最先端だ」と胸を張る…ネイティヴには理解不能な英文でいっぱいの教科書が、今日も全国の中学高校で使われているのと同じ光景が、アニメの研究にもひろがっていると、そういうわけでございます。

なるほど。
アニメはまったく見ませんから、そもそもの労働と政策メカニズムを知る由もありませんでしたからびっくりしました。
分業テクノロジー化にコストにかかわる比較優位、そして以前もコメントされていたと記憶するアニメーター人材育成以前の質の問題等々、マンデヴィル→スミス→リカード→マルクスの学問実績をアニメ業界で表現すれば「是」ですねえ。
むろん先に偉人たちの学問実績もその当時の歴史を無視した誤訳に満ち溢れたガラパゴス本を信頼するわけにもいきませんので、なるべく指定本は原本読めよと私も言っております。
最近の秀才君たちは、疑うことを知りませんから困ったものです。その再生産が問題の本ブログ上での「大学」のあり方でもあろうかと思っているので、それを無視したらコメントに生産的な要素がないことになりますから。
くみさん、ありがとうございます。

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