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2016年3月25日 (金)

大学教育は役立っているか?と思われているか?

Hamanaka経済産業研究所(RIETI)のディスカッションペーパーとして、先日新著を紹介した濱中淳子さんの「「大学教育無効説」をめぐる一考察―事務系総合職採用面接担当者への質問紙調査の分析から」がアップされています。

http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/16j022.pdf

日本の労働市場において、大学教育は役に立たないものとして認識されてきた。「大学で扱っている知」と「仕事で用いる知」の乖離を指摘する声は後を絶たず、大学改革の必要性も繰り返し訴えられている。しかし、この「大学教育無効説」とでも呼べる言説については、その妥当性について疑問を投げかけることもできるはずだ。すなわち、大学教育は実態として役立っているにもかかわらず、役立っていないと語られているにすぎない可能性もある。こうした観点から、本稿は、企業関係者側のまなざしに注目し、とりわけ文系領域の教育をめぐる現時点での評価のありようとその背景について検討を加えた。

事務系総合職採用面接の担当者に実施した質問紙調査のデータを分析した結果、主な知見として次のものが得られた。(1)専門の学習・研究が役立つかについての意見はばらついており、意義を評価している者も少なくないというのが現状である、(2)ただし、学習・研究への評価が低いのは、大企業といった発言力がある組織の関係者に多い、(3)新事業への参加や業績不振などの苦境を経験することは、大学時代の意義を認識することにつながるが、必ずしも学習・研究の評価を大きく高めるものになっているわけではない、(4)面接担当者自身の経験が及ぼす影響も看過できるものではなく、自らが大学時代に意欲的に学習に取り組んでいなければ、学習を役立つものとして認識することは難しくなる。

さらに分析からは、大学時代の学習・研究に意義を見出している場合でも、専門に対する理解不足の問題から、面接場面で学習のことを十分に取り上げられないケースがあることがうかがえ、このように大学教育無効説には企業側の事情も大きく絡んでいることが示唆された。

私の観点からすると、大学教育が役に立っているかいないのかという実体論的な議論よりも、社会がどのように考えているかという問題の方が本質的ではないかと思います。私の言う「教育と労働の密接な無関係」とは、大学の側も会社の側もそのように考えて行動しているという社会システム論的な意味のものなのです。

逆から考えてみましょう。職業レリバンスがあると思われている欧米では、本当に、ほんとのほんとに大学教育あるいはむしろビジネススクールとかグランゼコールの教育内容って、役に立っているんでしょうか。

いやそりゃ、彼らに聞けば役に立っていると答えるに決まってます。だって、社会全体がそういう大前提で動いているんですから。本当は大して役に立っていないのかも知れないけれど、役に立っているということにしておかないと世の中がうまく回らないからみんなそう答えているだけかも知れません。

教育に職業的レリバンスがある社会とは、世の中のみんなが教育には職業的レリバンスがあるに決まっているじゃないか、何を馬鹿なことを言っているんだ、と異口同音に答える社会のことなのかも知れません。

それは要するに、ジョブ型社会たる欧米において、ヒトを様々に格付けする一番いい(文句のつかない)理屈づけが、大学でこれこれをきちんと勉強してきてそのスキルを身に付けているから、というものであるからにすぎないのでしょう。

もう一度日本に戻って、誰も彼もが大学教育なんかとりわけ文科系の教育なんか役に立つわけねえじゃねえか、と異口同音に答えるような社会のことを、職業的レリバンスのない社会というのかも知れません。

会社の側がそう答えるだけじゃなく、大学の文科系教授たちが、役に立つわけねえじゃねえか、馬鹿野郎、無用のようってのを知らねえか、役に立たないんだからさっさと金よこせ、と、うそぶいて不思議がられないような社会のことなのかもしれません。

それは要するに、メンバーシップ型社会たる日本において、大学から会社へのメンバーシップ転換を行うために、「大学で勉強してきたことは全部忘れろ、これから俺たちが一から教えてやるからな」というメッセージをきっちりと突っ込むために、社会全体がそういうことにしておいた方が都合がいいからにすぎないのでしょう。

それはいずれにしても、その教育内容が本当のところどれくらい役立っているかいないかとは、とりあえず別次元のことでしょう。

以前、広田さんの科研で喋ったのが、その辺のことに触れていますので、改めてお蔵出ししておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-73bf.html(広田科研研究会での発言録)

 実は、どういうジョブをどういうスキルを持ってやるかで世の中を成り立たせる社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に入り、その組織の一員であることを前提に働いていく在り方のどちらかが先天的に正しいとか、間違っているという話はないと思います。
 もっと言うと、ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団を成して生きることができません。
 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、その人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間をこう処遇し、ほったらかしてこういうふうに処遇していくというものをかたち作っていくのは、いわば、お互いに納得し合えるための非常にいいよりどころです。
 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。
 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろそれで、そこから見ると、日本のように妙なよりどころはなく、密接につながっている同じ職場の人間たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見ます。その中で、おのずから、「この人はこういうことができる」というかたちでやっていくことは、ある意味では実にすばらしい社会です。
 ただし、これも一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがない人間との間にそれがあるかというと、ありません。いきなり見知らぬ人間がやってきて、「私はできる」と言っても、誰も信用できるはずがありません。それを信用できる人間は、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うことは人類の歴史でわかっています。だからこそ、何らかのよりどころをやるしかありません。
 よりどころのやり方として、どちらが先験的に正しいというのは必ずしもないと思います。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、より公的なクオリフィケーションではない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力の把握、それに基づく人間の職ができていた面があります。
 それにしても、大きい組織になると、本当はどこまでがそうなのかというのがあり、議論をしだすと永遠の渦巻きみたいなものになるかもしれません。しかし、逆に言うと、同じ集団に属しているので、ある種のトレンディー的な感覚を共有する者の中でしか通用しない話です。その中に入れなかった人がふらっとやってきて、「俺は、実はこれだけの能力がある」と言ってみたところで、下手に信用したらどんなひどい目に遭うかわからないので、誰も信用できません。
 たぶん、ここ数年来、あるいは十数年来の日本で起こっている現象は、局部的には、公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりも、より最適な状況を作り得る仕組みがあちこちにできて、それが縮小しながら、なお起きています。
 ですから、中にいる人にとってはいいですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、「自分は、本当は中に入ったらちゃんと見てくれるはずだ。見てくれたら俺がどんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思い、門前で一生懸命「わーわー」わめいていても、誰も認めてくれません。恐らく、それが起こった状況です。

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コメント

>私の観点からすると、大学教育が役に立っているかいないのかという実体論的な議論よりも、社会がどのように考えているかという
>問題の方が本質的ではないかと思います。私の言う「教育と労働の密接な無関係」とは、大学の側も会社の側もそのように考えて行
>動しているという社会システム論的な意味のものなのです。

 ここのブログ主は以前にはどういう大学教育が役だつかについて自らの考えを述べたこともあるが、結局それがろくなものでないからか、「大学教育が役に立っているかいないのか」ということについて「社会がどのように考えているかの方が本質的ではないか」と言い出したようだ。要するに、逃げを打ち始めたようだ。このコメント欄には、大学教育のあり方についてブログ主に再三尋ねる真摯な書き手もおられるようだが、見るところブログ主はそういう問いかけに対してまともな答えができていないようで、結局のところ、三十六計逃げるに如かず、ということなのだろう。

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