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大学がブラックビジネスでないためには

昨日配信されたこの記事が大変話題を呼んでいるようですが、

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20160211-00054313/(大学というブラックビジネス 人生のスタートから借金漬けになる学生たち)

ネット上では、具体的な金利水準が問題になっているようですが、ここでは千田さんが問題の本質として論じている論点そのものについて、その大学外社会への通用性がどれほどあるのかという観点に絞ります。というか、千田さんのこの一節が、文科系アカデミズムにいるのではない人にはおそらくカチンとくる可能性があるからです。

・・・私自身は大学教育に意味があると思っている。それまでの教科書に沿った暗記が主となる授業とは違い、自分で考えること、批判的な精神、自由な想像力、そして一般的に教養と呼ばれるもの、そういうものを身に着けることができるところが大学である。もちろん、それは高校でも可能ではあるし、大学を出たからといってできるひとばかりではないだろう。それでも多くのひとが働いているなかで、4年間、いっけん「無駄」とも思える時間を過ごさせてもらうことは大切なことであると思っているのだ。そう思わなければ、大学の教員などやってはいない。

そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?という反発こそが、実のところこの問題の最大の焦点なのです。

Chukoこの問題については、『若者と労働』の中で、次のように論じています。

 教育費については、まさにそういう問題があるからこそ、義務教育は無償というのが原則とされているわけです。そして、同世代人口の大部分が義務教育のみで社会に出て行った時代には、それでかなりの必要をまかなえていたことも確かでしょう。しかし、その後日本に限らず、先進諸国ではいずれも高校への進学率が急上昇していき、今ではほぼどの国でもほとんどの生徒が高校に進学するようになっていますし、大学への進学率もかなり高まっています。日本の大学進学率は、先進国の中では決して高い方ではありません。ただし、その中身が職業的意義の乏しい教育に著しく偏っていることは前節で述べたとおりです。

 このように高校や大学への進学率が高まってくる中で、欧米諸国では高校についてはほぼ授業料は無償化されています。日本ではようやく民主党政権になって、二〇一〇年度から実施されたことはご承知の通りです。問題は大学です。ヨーロッパの多くの国では、大学の授業料も原則無料です。それに対して、授業料が無償化されていない諸国でも、だいたい給付制の奨学金によってまかなえるようになっており、日本のような貸付型、つまり卒業後何年もかかって返済していかなければならないのが原則という国はほとんどありません。

・・・・・

 この問題に対しては、最近になって急速に関心が高まってきましたが、逆に言うと、それまではなぜこの問題に対してほとんど関心が持たれなかったのか、社会問題にならなかったのか、ということの方が、諸外国の目から見れば不思議なことのはずです。なぜだったのでしょうか。

 それは、日本人にとっては、生徒や学生の親が、子供の授業料をちゃんと支払える程度の賃金をもらっていることが、あまりにも当たり前の前提になっていたからでしょう。そもそも、生活給とは妻や子供たちが人並みの生活を送ることができるような賃金水準を労働者に保障するという意味がありますから、子供が高校や大学に進学することが普通になっていけば、その授業料まで含めて生活給ということになります。

 おそらくこのことが、高校教育にせよ、大学教育にせよ、将来の職業人としての自立に向けた一種の投資というよりは、必ずしも元を取らなくてもよい消費財のように感じさせる理由となっていたのではないでしょうか。つまり、公的な教育費負担が乏しく、それを親の生活給でまかなう仕組みが社会的に確立していたことが、子供の教育の職業的意義を希薄化させた一つの原因というわけです。

 そうすると、そのことが逆に公的な教育費負担をやらない理由となります。もしその教育内容によって学校で身につけた職業能力が職業人となってから役に立つからのであるならば、その費用は公共的な性格を持ちますから、公的にまかなうことが説明しやすくなりますが、それに対して教育内容が私的な消費財に過ぎないのであれば、そんなものを公的に負担するいわれはないということになりましょう。つまりここでは、日本型雇用システムにおける生活給と、公的な教育費負担の貧弱さと、教育の職業的意義の欠乏の間に、お互いがお互いを支えあう関係が成立していたわけです。

千田さんの言い方は、「私的な消費財に過ぎない」大学教育の費用を「公的に負担すべき」という議論になってしまっているのです。もちろん、それは戦後確立してきた生活給が教育費を私的消費財とみなすことを可能にしてきたにもかかわらず、それが現在大きく揺らいできているという社会の変動を反映したものであり、的確に対応しなくてはならない問題の鋭い提起になっているわけですが、それゆえにこそ、その提起は、大学教育がもはや私的消費財とみなされるべきではないというパラダイムチェンジを伴わなければ、「そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?」という反発以外の何者をも招かないでしょう。

そういう意味において、教育の職業的レリバンスとかいわゆる「L型大学」をやたらに目の敵にする人々は、すなわち自分たちの足元を掘り崩し続けているのだと思います。「無駄」だけど楽しいからお前の金をよこせ、でいつまでも通用するわけではない。資源の権威的配分の技術としての政治の世界においては、資源を移転するにはもっともらしい理屈がいるのです。

(追記)

本ブログを以前からお読みの方々はご存じの通りですが、わたくしは本ブログで、まさに千田さんが主張しているのと同様に、日本が学費が高い上に奨学金が充実していない国であることを指摘し、問題を提起しているつもりです。

その観点から見て、残念ながら千田さんのものの言い方はかえって事態を悪化させる危険性があると思うのです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/oecd-af93.html (学費は高いわ援助はないわ・・・日本の高等教育@OECD)

OECDが去る2月23日に公表した「Education Indicators in Focus」No.2に、大変雄弁なあるグラフが載っています。

http://oecdeducationtoday.blogspot.com/2012/02/increasing-higher-education-access-one.html(Increasing higher education access: one goal, many approaches)

ご存じの方はとっくにご存じのグラフですが、

Edif_2chart20blognew21

これを見ると、世界の国は4つの象限に分けられます。

右上のアメリカなどが入っている第1象限は、学費は高いけれども奨学金が充実している国。

右下の北欧諸国が入っている第4象限は、学費は低い上に奨学金が充実している国。

左下のふつうのヨーロッパ諸国が入っている第3象限は、学費が低いので奨学金が充実していない国。

そしてただ一国左上の第2象限に燦然と輝く我が日本国は、学費が高い上に奨学金が充実していないという素晴らしい教育環境を世界に誇っています。

48634067cover20150_2

(追記)

下のコメントで、「通りすがり」さんが

この手の比較で高等教育への進学率の国別の違いへの言及が無いのは分析が不十分だと思う。

と述べていますので、これまた既にご承知の方には今更ですが、同じOECDの「Education at a glance 2011」から先進各国の大学進学率を男女別にみたグラフを

http://www.oecd.org/dataoecd/62/2/48630696.pdf

Oecdedu

いくつかの重要なことがわかりますが、まず日本は少なくともOECDに加盟している先進諸国の中では決して高等教育進学率が高い方ではないということ、そして、トルコを除いてす他の全ての国では女性の進学率の方が男性よりもかなり高くなっているのですが、日本だけはダントツに男性の方がずっと高くなっているということ。たぶん、教育関係者で国際比較に詳しい人にとっては常識的なことですが、そうでない(週刊誌やテレビあたりで政治意識を涵養しておられる)方々にとっては、相当に意外なデータではなかろうかと思われます。

(再追記)

さらに「通りすがり」さんから、

ところで、奨学金制度の充実についてですが、給付と貸与の別は明らかなのでしょうか?

貸与制が主体の国の場合は学費が安い国と比べるとやはり負担の軽減の程度が低いように思いますがこの点はいかがなのでしょう?

と問われました。欧米人なら“Good Question”というところでしょうか。まさにOECDの「Education at a glance 2011」に、そこのところを分析したグラフも載っています。

Oecdloan

ご覧の通り、日本はほとんど全てが「Student loans」という点で際だっているようです。

(お知らせ)

94412

こうしていちいちOECDの原書からC&Pする代わりに、明石書店から刊行されている訳書を紹介した方が早いかも。

http://www.akashi.co.jp/book/b94412.html(図表でみる教育 OECDインディケータ(2011年版))

経済協力開発機構(OECD) 編著

徳永 優子 訳

稲田 智子 訳

来田 誠一郎 訳

矢倉 美登里 訳

8,400円とだいぶ高いですが、およそ教育問題を論じようとするなら必携です。エビデンスに基づいて教育を論じようとするまともな国なら。

うーっむ、こういうのをかけらも読んでなさそうな、むしろその存在すら知らなさそうな御仁ほど、大衆系マスコミのみならず教育行政に関わりあるところですらふんぞり返って「教育」を論じて恥じないのがどこかの国なのかも知れませんが・・・。

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コメント

またまたおじゃまします。ごめんなさい。
はまちゃん先生の論を素直に頂くと、医学部の学費(特に私学ですが)はたとえば自由開業制を封じるかあるいは限定的にするかで個人のリターン部分をより公共性に近づけるとすれば、財源は保険医であるかぎり公的システムからの支払いですし、なおかつ国民の健康とそれにつながる経済活動に貢献する職業的貢献も付加されたものとして、より公的な財源を投入できることになりますね。なにせ私学医学部はまさに親から子への世襲化が極端に進行中の昔ならばいずれの大学にもあったであろう「リターン」が見込める今や貴重なガラパゴスですから、上記の現象も因果律に近いものになるわけです。
でもですね、わかるんですよ。千田さんの仰る意味も。
東洋経済onlineでの日本学生支援機構理事長への前後編「奨学金貧困問題最大の責任者は誰なのか」のインタビュー応答内容は酷かったですもの。

投稿: kohchan | 2016年2月12日 (金) 16時07分

高等教育の目的が職業教育だという考えに反対します。
それでは、なんのためのものであり、また、公的な資金を投入する価値はなんなのか?
それは僕はデモクラシーの維持のためだと思います。
この複雑な社会で、十分な教育もなく、正しい政治的な判断をすることは難しい。
職業教育に結びつかない高等教育に公的な資金をつぎ込むことは無駄だという考えはデモクラシーの自殺行為であると僕は考えています。

投稿: 田口善弘 | 2016年2月12日 (金) 19時08分

はまちゃん先生!もう一言ごめんなさい。本ブログ閲覧の皆様にもご不快をお許しください。

いつもどうにも違和感を拭えないのですが、ブログ問題提起の話題主と、はまちゃん先生の、最近おじゃましたての短期間ではありますが、私が感じるに限り「時間」の捉え方といえばよいのでしょうか、それが咀嚼されないようなことはないと思いますが、そもそものブログの限界性で(ごめんなさい)どうも本質と乖離せざるを得ないため(か、どうかは違えばお叱りください)、いわば絶対時間と相対時間が同居させてしまう(はずはありませんが)物理的なハレーションを呼び込むような(それが魅力ですが)感じです。しかし、おもしろきかなでコメントの煩わしさをおかけしている次第です。

投稿: kohchan | 2016年2月12日 (金) 19時11分

上の田口さんのコメントに典型的ですが、議論が職業教育が正しいかアカデミック教育が正しいかという次元でしか考えられておらず、その「正しい」考え方はそもそも『正しい』のだから、それと違う考え方で動く世の中は『間違っている』!と糾弾して終わり、という議論では、その土俵を超える議論にはならないでしょう。

現にそのお金を出す側の人々が、そういう気前の良い考え方ではないという現実を前提として、では今現在のこの難題をどう解決するべきか?という、上の表現をもう一度使えば、「資源の権威的配分の技術としての政治の世界において資源を移転する」するための戦略論を論じているつもりなのですが、ある種の思考方法からすると、そういう風に物事を考えること自体がけしからんのかも知れません。

もちろん、人がどういう思考方法をとるか取らないかは自由であり、わたくしはとやかく言うつもりもありませんが、それで上のリンク先で千田さんが指摘している問題が少しでも改善するとは思えないというだけです。

お前の考え方は根本的に間違っているから心を入れ替えて懺悔しろと(口先だけで)叫んで事態が良くなったことはないでしょう。悪化したことは一杯あると思いますが。

苦学する大学生に貸し付けではなく給付型の奨学金を与えるべきだという意見を、「そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?」と反発している人々に説得的に展開するためには、どういう理論武装をしたら良いのか、という風に物事を考えるためには、もう少し事態が危機的状況に至ることが必要なのかも知れません。

投稿: hamachan | 2016年2月12日 (金) 20時05分

議論をすり替えるのはやめましょう。
代案が提案できないならお前の提案は考慮に値しないというのは議論のすり替えです。
まず、すべきことを考える。そして、次にそれをなるべく実現できる方法を考える。
それが正しい議論の仕方(順序)だと思います。
説得可能な目的は何か、という方から考えるのは間違っています。

投稿: 田口善弘 | 2016年2月12日 (金) 20時10分

いや、ですから結構ですよ、こんな場末で私相手におだをあげていないで、しかるべきところできちんと主張してこられたら良いのではないですか。

私は大学生への奨学金はもっと大規模に給付型であるべきだと考えています。そういう人間相手にちんけな喧嘩を売ってみても仕方がないでしょう。

それとも、田口さんにとっては、』千田さんが提起している問題などどうでも良いつまらないことであり、そんなことよりもっと大事なことがあるといいたいのでしょうか。

それなら、このエントリに文句をつけること自体が筋違いでしょう。これはあくまでも千田さんの問題提起に触発されて、そのやり方を論じているに過ぎない。

それが自分の大事なことと違うからといって、それを「議論をすり替えるのはやめましょう」などというのは筋違いも良いところです。

投稿: hamachan | 2016年2月12日 (金) 20時25分

要するに高等教育に税を払う事によるメリットをちゃんと提示しろって事ですね。
人間性が広がるとか民主主義の為とか抽象的な事に逃げるのではなく具体的な数字を出せと
その点からすると田口氏の論は根拠が薄いというかふわふわしていると感じます。
具体的に民主主義と高等教育がどうリンクするのでしょうか?
スイスなどは高等教育機関の進学率はあまり高く無いようですが
民主的な国じゃないとでも?

投稿: 名無し | 2016年2月12日 (金) 22時48分

 皆さん、今晩は。

>苦学する大学生に貸し付けではなく給付型の奨学金を与えるべきだという意見を、「そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?」と反発している人々

 こんな意見は自分が楽したいだけの富裕層のエゴです。受け入れてはなりません。徹底的に非難、糾弾、断罪しなければなりません。

投稿: 国道134号鎌倉 | 2016年2月12日 (金) 23時42分

田口様もはまちゃん先生もこの問題を解決すべき方法論の現状認識=時間を微分したある意味の「量」に齟齬があるのですよね。帰着すべき「質」はご一緒のようですからそうなのでしょう。
ですから時間軸の理解は物事を二分論以外で解決できる方法論だと申しているのですが、それはそれとして、田口様の教育へのミクロ論は別に置くとして、要は「可謬」=ラグマティックに、あるいは帰納法的解決を指向されておられるようにおもわれ、はまちゃん先生は社会の変化(経済的にまた個人主義的=良し悪しは別に自己責任論に親和する最近の性向)を見据え演繹的解決法で、しかしおおもとの帰着すべき点は一緒という公式で表現されると存じました。
まあ、そんなに暴論やヘイトスピーカーは本ブログには表れないという「期待理論=たんなる予想」に似たフォワード・ガイダンスがしっかり根付いていますね。

投稿: kohchan | 2016年2月13日 (土) 08時01分

学費を払ってる学生本人が求めていないものを、(たとえ税金で無料であるからといって)大学が押し売りするのは、なんだかなと思います。例えば「デモクラシー維持」とか。

教育バウチャー、いい政策ですね。だったら大学に行くんじゃなく専門学校に行きますよ、という選択が取れますから。

投稿: wuhan | 2016年2月13日 (土) 10時40分

> もしその教育内容によって学校で身につけた職業能力が職業人となってから役に立つからのであるならば、その費用は公共的な性格を持ちますから、公的にまかなうことが説明しやすくなります

こんなの経済学の世界ではとっくの昔から研究されてきていて、「公共財としてのメリットを考えれば個々人の財力に任せていては過少供給になる」という路線ではとても擁護できないくらい教育の外部性は小さいという実証研究がいっぱい出ている。
だから一周して「俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもり」で押し通せるような、生活保護などに近い健康で文化的な最低限度の生活を拡張する方向からの教育を受ける機会の議論が必要になっているわけで、「職業能力が職業人となってから役に立つからのであるならば、その費用は公共的な性格を持ちます」というので押していけば「そんな効果はほとんど無かったね」というドツボに嵌まるだけ。

投稿: M3 | 2016年2月13日 (土) 12時59分

「人の数だけ経済学がある」ではなく、こういう時に必要なのは数値的エビデンスじゃないかなあ。
「無駄だけど楽しいからお前の金をよこせ」では、相手を納得させることはできない。

OECD Education at a glanceでは、ずっと「教育の外部性」について各国の統計を延々と取っているので、エビデンスに基づいて議論しましょうよ。

投稿: wuhan | 2016年2月13日 (土) 14時51分

そうしたパラドクスをうま~く国立大学の学費のあり方方法論として今日もその昔からも何事にも活用されてきたのが選別再分配ですねえ。これがまた妙に説得力を感じるのが日本人のラマルキズムといいますか。しかしそれをそろそろ越えないとホントに沈没しかねませんよね。こうした教育に関する話もすべてはこれまでの再分配制度の設計に問題があったための帰着点のひとつではないでしょうかね。これまでの方法論に執着すればするほど先のパラドクスの罠にはまり、我々は楽な方法論へ、つまり分断を好む「俺たちの稼いだ金を・・・」に強く親和する結局は家父長制が延々と続くラマルキズムから足ぬけ出来ない「無謬な私たち」なるお笑い民族となるのです。おしまい。

投稿: kohchan | 2016年2月13日 (土) 15時52分

> 「そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?」

これをいうのは「富裕層」ではなく中間所得層でしょうね。実質賃金が減少しているなかで、さらには医療費のような国民の生命に直結するような分野ですら財源が不足しているなかで、「無駄」な大学教育に金を出せ、というのが通るかどうか。hamachan 先生がおっしゃるように“危機感が足りない”というのがまさにそのとおりだろうと思いますね。要は「それは国民の命より大事なことなのか?」という問いに答えられるだけの理屈付けが必要ということ。“血税”という言葉の意味をもっと噛み締めるべきでしょう。

日本国民の高等教育にかかる費用をすべて負担できるほどの「富裕層」など存在しません。今後、もっと経済的格差が拡大していけば、「一部の王侯貴族と圧倒的多数の貧民」のような状態になって、「一部の王侯貴族」がすべてを負担する時代がくるのかもしれませんが。まあ、そうなると、高等教育どころではなくなりそうですけどね。

投稿: IG | 2016年2月13日 (土) 19時07分

>教育の外部性は小さいという実証研究がいっぱい出ている。

違う。外部性の話ではない。人的資本投資を個人の負担に任せてよいのか、企業任せでよいのかという話だ。濱口さんも私的「消費財」という表現をしている。公共財か私的財かという対立ではなく、高等教育は投資財なのか消費財なのかというのがここで問題になっていることだ。

従来、大学の、特に文系教育は私的な消費財という側面が強く、人的資本形成のための投資財という側面は閑却されてきた。それは日本型雇用システムにおいて人的資本形成が各企業の社内教育に委ねられていたことと表裏一体の関係にあった。しかしこのシステムは、景気の変動に人的資本形成がさらされて不安定化し、能力形成を中断されたり、そもそも就職できず能力形成をまったくできない人間が生じてしまうリスクを抱えている。氷河期世代はまさにその典型例であって、彼らの存在は今後の日本社会に暗い影を落とし続けることになるだろう。また中小企業では十分な能力形成ができず、中小企業の人材不足の要因ともなっている。結局人的資本形成を企業任せにしていては、社会全体からみて十分な人的資本が確保できず、個人の能力形成の機会の均等も図れないという問題がある。

このように日本型雇用システムが大きな欠陥を抱え、しかも崩壊過程にある現状において、それにかわる人的資本形成の枠組みを個別の企業から切り離して再構築する必要がある。そこで出てきたのが高等教育における職業教育の充実なのだ。大学が産業界と連携して人的資本形成システムの一翼を担い、そのかわりに雇用関係の予算や産業界からの財政支援を確保していくことを考えなければならない。今後高齢化で介護や医療に予算が取られ、少子化という趨勢のもとで教育予算の拡充が難しいという現実を教育関係者は直視する必要がある。

また、個人の能力形成の機会均等という観点から、給付型奨学金の充実というイシューを政治的に正当化していくべきだ。その前提としても大学における職業教育の拡大が喫緊の課題なのだ。

>生活保護などに近い健康で文化的な最低限度の生活を拡張する方向からの教育を受ける機会の議論が必要

そもそも生活保護バッシングが根強い日本で、基本的な衣食住の保障を超えて「消費財としての高等教育」などという贅沢品の享受を保障せよなどという議論が通るはずがない。それこそドツボにはまる。

また、田口さんの
>高等教育の目的が職業教育だという考えに反対します。それでは、なんのためのものであり、また、公的な資金を投入する価値はなんなのか?それは僕はデモクラシーの維持のためだと思います。

というのはまったく理解不能。なぜ職業教育がデモクラシーの維持と矛盾対立するのか。高等教育レベルの職業教育が充実しているヨーロッパでデモクラシーは維持できていないというのか。むしろ事態はまったく逆で、職業教育の貧しい日本こそデモクラシーも貧困極まりないではないか。個人が自律的な専門職業人であることはむしろデモクラシーの基盤ではないのか。

日本型雇用システムにおいて、労働者は会社のメンバーとして雇用を保証されるかわりに忠誠を誓い、歯車として会社に滅私奉公しなければならない。このような人間にデモクラシーを支える市民として振舞うことなど期待できないし、実際日本のデモクラシーはまともに機能してこなかった。日本型雇用システムこそ日本のデモクラシーの基盤を侵食した元凶といっても過言ではない。そして職業教育から目をそむけてきた大学はその共犯者だったと断じるしかない。

個人が専門職業人として自らの利益を主張できるということこそ、デモクラシーの基盤なのだ。職業教育はデモクラシーを支える基本的インフラだ。職業教育の充実こそ日本のデモクラシーの発展のために今もっとも必要なものなのだ。

>この複雑な社会で、十分な教育もなく、正しい政治的な判断をすることは難しい。

しかし基本的な主権者教育は中学までの義務教育の役割であり、高校進学率がほぼ100%に近い日本においてそのような意味での教育は量的には十分な状態にある。

ただ、その内実は貧しい。特に普通科の低偏差値高校の生徒は学力も低く、学ぶ意欲も低いことが問題となっている。それは雇用の不安定化で将来の見通しが悪く、学ぶことの意義を見出せないからだ。大学における職業教育の拡充により、キャリアパスの見通しを示せれば、学びの動機付けを与えることができる。ひいては政治的判断のための十分な教育を身につけさせることもできる。


職業教育とデモクラシーを対立的なものととらえる異常な観念がなぜ生まれるのか疑問だ。それはおそらく、戦後日本の「市民」や「民主主義」のイメージがひどく歪んだものだったからだろう。崩壊しつつある旧システムから新システムに一刻もはやく移行し、デモクラシーを再建する必要がある。

投稿: 通りすがり2号 | 2016年2月13日 (土) 21時51分

う~んw。
オルド市場主義っぽいなあw。とくに今回ではなく真摯に問題を議論される方々によく見受けられる「機会均等」への傾斜度合いの行き着く先はどうも「効率性」を無意識にも前提にされておられるようでw。
コメントの性向を見ると、生保問題等も同じで日本の再分配の壁=「選別主義」と「希少性呪縛」からの思考脱却こそクリアすべき解が隠れているとおもうのですが、ど~もいたるところに対立しているようで実は同じその匂いがプンプンしてしまい、こりゃまさに今の迷路のような対立法が綺羅星のごとく現れwどうもこれじゃ無理筋っぽいなあと思います。どうです?はまちゃん先生?
それに加えて「はまちゃんイズム」っぽい(はまちゃん先生ごめんさない🙇)立脚点はそれはそれで主催ブロガーに親和される比率も多いのではと私はdoですが、コメンテーターは当事者ではなない事象に、あたかも実際の主役である方々に替わり今回は大学という供給セクターの役割を変えよとご主張されるならば、そのカウンターパートである需要セクター側の人材要求の時代に沿った「動学的平衡」への根拠も同時に語らないとなあw。今の雇用制度が限界で・・・じゃあね。利潤追求が企業の「憲法」ですから、常にそれに沿った雇用制度を時代に沿って作り変えることは当たり前で、こうしたミクロ需要要求をマクロ供給の改革方法論のみで語るに解はありますまい、と思うのですがねえ。
たとえば僭越ながら医学部学生の事情で考えてくださればよいと思います。なぜ100%の正規就職を入学と同時にあたかも約束されたかのような(実際卒年生が嫌がらず国試をクリアするに限りw)受給環境かをですね。そしてなぜ医学部を持たない総合大学が競って看護部を開設しているのかですね。そりゃ皆保険制度という鉄板な原資システムと病という避けられないリスクが人を必要としているあるからだろうともんきりしないでくださいね。そうです。必要としているのです、学生を。今の総合大学の花形は就職センターですよ。学生は少なくとも学部教育そのものに期待はありませんし、昔もでしょう?ですから総合大学も一番力を入れておられます。そうしたなかでいわゆるブランド大学ではない場合の「それ」はたいへん過酷です。それでも学生諸君は現実に「今」存在しているのですから、千田さんも「今」と「将来」にわたる危惧をすこしラディカルですが語られるに理解する次第なのです。「債務を抱えて出さなければならないのですから教員としてはつらいですよ。それも昔みたいにある意味緩衝体であった就職環境がより狭き門となっているのですから。学部生の唯一の目的は昔と同じです。つまり大学費用に見合うリターンがほしいのですから、それを用意できない需要側事情で、さらにますますテクノロジー導入で雇用数も賃金も昔の影を追うことが不可逆的な時代を迎えているわけですから、再分配制度を選別的から普遍的に変えながら、「今」を必要とする年代と「これから」(新生児)を紡ぐというか凌ぎながら社会を安定させる内的には供給側と需要側、そしてグローバル影響を加味して考えるフィージビリティな制度が否応なく求められているのです。「今」生きているんですから。そもそもキャリアパスって能力主義ですけどそのメリトクラシーってどうやって普遍的に計測するのですか?納得できるのですか?そもそも機会均等の先をそこに求められるの?って話です。結局賛否ともに同じ罠にはまっておられるでしょ。はまちゃん先生長くなりました。ごめんなさい。

投稿: kohchan | 2016年2月14日 (日) 09時29分

通りすがり2号様
まるっと同意です。
大学というか一部の私立文系大はもっと危機感持っていいと思いますよ。

投稿: 名無し | 2016年2月14日 (日) 21時01分

ちなみにですね、私立文系が医学部ではなく(医師養成専門で昔はこれが医学部でした)保健部門の看護やリハビリテーションの各具を雨後の竹の子状態で増やしております。純粋な人文系のすべき努力がどのようなものか理解できかねますが、内情に詳しい方ならばお判りでしょうがなにかに対してルーズな面が自然科学系に比してあることは確かです。が、すでにそこを通り過ぎ社会にどっぷりつかり派やロスジェネ派はどうされるつもりなのでしょう?下級教育が実は失敗の原因であることを私は今更ながらに問題と考えますから、大学も含め教育の¥フロー全体の問題であると思っております。問題意識が高く所得も高い層は私学教育を選択しておりますから、大方そうでしょうなあと思います。
容認もしなければ由々しき問題だなあと、しかし高等教育現場はその室に限らず妥当な偏差値と数をほしがる大学への先送り進学をすすめます。問題先送りのツケを構造上大学批判として展開されている様相は、かつては国鉄・電電・専売の民営化に、ちかくは郵政民営化で使われたロジックのようで、やっぱり歴史(フロー=過去と今から未来)を微分すること(ストック=今だけ)でしか見れない国民性があるよなあと感心しきりです。むろん「だった論」は正当化するために不可欠ですからおこなわれます。こうした日本人の思考法ってやはり、ラマルクっぽいですねえ(。
蛇足ながら、上記の帰結的現象として保健実習先となる保健所での研修受け入れがここ数年で激変し、毎年慣例で都内の保健所で受け入れてくれていた学生数の分母急増により全国行脚をしなければならない笑えない事態になっております。すべてにおいてこのような問題はこれまでの秩序を良し悪しは別に壊してしまうため、周到に検討されなければ、その被害は常にこれから社会に出ていきしょって立ってくれるであろう学生であることを考慮していただきたい。まわりまわって我々にもかかわるのです。

投稿: kohchan | 2016年2月15日 (月) 08時32分

先日はエントリ http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/11-b07c.html ほかへのコメントでご迷惑おかけしました(もう3ヶ月も前か…)。その後ずいぶん経ちましたがまだもやもやしています。

L型G型の話は,やはり違和感をぬぐえません。私も工学系の大学教員の端くれとして「自分たちの足元を掘り崩し続けている」のかも,と思うのですが。

こうした「役に立つ教育」へのプッシュが我々のような比較的職業的意義の明確と思われる分野での教育活動に大きな支障を生じかねないということについては,昨年の高木のコメントで話が尽きているように思います。そのことへの懸念は高木としてはまったく解消していません。

一方,どうもこのL型G型関連の議論で気になるのは,ノンエリートとかそういう言葉が,ときに差別的な意図をあからさまにして,飛び交うことです。

しかし,国内では,工学系の学部教育では,そもそも「エリート向け」の教育などどこでも行っていないと思います。東大でやってるのがエリート向けというなら,東大でも,私のいる偏差値50を下回るくらいの工学系の私立大学でも(あるいはもう少し偏差値的に低いところでも工学系大学なら)同様に行っている教育方法があるだけです。相手の学力に合わせ多少の調整はしますが,最終的に目指すもの(=卒業研究~修論プロジェクト)は全く同様で,東大のような場所に持ち込むべきエリート向け教育というのは存在しません。あえていうなら,私の大学ではあまり機能していない博士向け教育が,エリート教育と言えなくもない(しかしこれは東大でのそれも含めて企業人を育成する方法としては企業側から悲しいほど支持されていないのはご承知の通り)。そうすると,冨山提案というのは,日本の大学ではエリート向け教育しか行われていないという現状認識のもと,ノンエリートな大学でのそうした教育方法を変えろと主張しているのか? それをやってしまえば,たぶん日本の工学系のアウトプットは破滅的な状況に陥ることでしょう。頂上だけでは山はできませんから。それに,研究中心の教育に代わる方法がないという,これまた3ヶ月前のコメントで申し上げた点も変わりません。

一方,職業訓練大学というところでいうと,ご存じかと思いますが英国あたりでも National College とかいうのを作ろうとしていて,その初期の事例のひとつとして現在投資が進められている高速鉄道向け技術者人材ニーズを満たすための National High Speed Rail College なるものが近未来に設置される計画が進められている。この HSR College は Higher Education ではなく Further Education を行う組織になりますが,企画を進めている関係者はこれが「エリート技術者輩出のためのカレッジだ」と主張している。関係者へのヒアリングなどで高木が調べた範囲内では,教育内容などからしてこのカレッジの設置はたぶんそれなりの成功を収めそうにも思います。ただ,HE ではなく FE というあたり,大学へのお金を捻出できない政府の苦肉の策という側面があるようで,その点(こっちにくると学位が取れない)がこの計画の一番のアキレス腱ではないかと思います。

そうした事例などもにらみつつ考えると,結局国内のL型G型の議論はそれが「ノンエリートはそれなりに」という本音がむき出しでみえている限り,成功しないのでは,と思います。それどころか,繰り返しになりますが,役に立つことを教えよ,という上からの指示が,教室という「教卓のこちら側とあちら側の非対称性」という一種の虚構によって成り立つ空間の,もっとも基本的なよりどころを壊してしまいかねない。その影響は分野を問わず及びますので,文科系だけでなく工学系も含めた理系も破壊される可能性があります。

投稿: 高木 亮 | 2016年2月16日 (火) 17時17分

私は高等教育における職業教育の拡大を支持していますが、高木さんのおっしゃるような懸念もよく理解しているつもりです。

また冨山氏のL型G型の議論は、問題意識はともかく、その具体的内容においてお話にならないもので、私もまったく支持できません。そして政府、文科省が冨山氏の議論以上の職業教育における具体的ビジョンを十分に示さず、現場任せにするかのような態度であることも随分無責任だと感じています。

>気になるのは,ノンエリートとかそういう言葉が,ときに差別的な意図をあからさまにして,飛び交うことです。

しかし誰もがエリートになれるわけではないというのは厳然たる事実でしょう。そして誰もがエリートになりうるという建前の下で、実際には企業が早期に、それこそ入社時点からエリート候補とそれ以外を選別し、誰もがエリートになりうるという建前のもとでエリート候補以外は使い捨てられているという状況が進んでいるのではないかと思います。ブラック企業はその極端な事例にすぎません。

>冨山提案というのは,日本の大学ではエリート向け教育しか行われていないという現状認識のもと,ノンエリートな大学でのそうした教育方法を変えろと主張しているのか?

むしろ現状の日本の上位大学では十分なエリート教育が行われていないという不満の方が本音だと思います。エリート教育とノンエリート教育のメリハリをつけろという趣旨ではないでしょうか。政府としては乏しい教育予算を研究大学に集中投入し、職業教育大学は雇用関係の予算や産業界からの財政支援で賄いたいという意図があるように感じます。そしてそれは、日本の財政の現状からすれば、一つの合理的な解であることは否めないと思います。

>研究中心の教育に代わる方法がない

このあたりに現場と政策当局との認識のずれがあるのでしょうね。当局としては「アメリカではコースワークでやっているではないか」という疑問がある。大学、アカデミズムと政府、産業界、労組が意見を交換し、認識を深める契機が必要であるように思いますね。文科省はそのあたりの調整が全然足りていないように感じます。

いずれにしても高等教育における職業教育の拡大は、大学と産業界が密に連携をとらなければ絶対に成功しない。そしてそのような連携を可能とする枠組みづくりは政府がやるしかない。そこが決定的に不足している。

ただ、そのような連携の形成において、大学がイニシアティブをとっていく必要があると思います。そうでなければ、政府や産業界の現場の実情を無視した制度案に振りまわされて、挙句失敗した責任を大学が押し付けられ、発言権を奪われるという結末をたどりかねないでしょう。

>結局国内のL型G型の議論はそれが「ノンエリートはそれなりに」という本音がむき出しでみえている限り,成功しないのでは

これはそのとおりで、ノンエリートも専門職業人として尊重される労働市場の構築が目標とならなければならない。そのような方向に大学と産業界との連携が形成できるかどうか。しかし労組の役割も重要だと思うが、今般の職業教育騒動について労組の影が薄いのが気になる。

「役に立つ」とはいかなることなのか。そのことに関する社会的な合意がまったく構築できていないのが問題の本質だと思います。それ自体が一種の虚構、フィクションにすぎない。新たに構築された、かようなフィクションのうえに、『教室という「教卓のこちら側とあちら側の非対称性」という一種の虚構によって成り立つ空間』を維持できるのか否か、これが最も重大な問題でしょう。

投稿: 通りすがり2号 | 2016年2月16日 (火) 22時59分

高木さんのコメントも千田さんの本エントリの素となる発言も上記に示してきたとおりに理解できるのです。また他の方のご意見も。これは反射ではなく、指向性応答といえますが、双方の表現方式が個々別ランダム性を持つため、なんだか稚拙な応答が多々見受けられる反射性と無用な混濁をきたしているようで、小生が「脊髄反射の罪」のコメントで書いた通りの「仮説」結末が証明されたがごとく、それは高木さんが今もって苦痛と感じられておられる「もやもや」の因果かもしれません。しかし先般の仮説通りとすれば、すべてのコメントには、はまちゃん先生ブログ内への「二次的な指向応答」ですから、これまた仮説に従いフェードアウトすればやはり「もやもや」を残す方々がある一方で、「おかたずけしましょうね」と諭されないといけない方々の混合物こそブログでありツイッターの性向なのでしょう。私事ながら、ですから私はご迷惑を顧みずしっかりとされた主催者ブログ(たとえばはまちゃんブログですね)にはおじゃはしても、主催をするつもりは一切ありません。コメントに以前記したと思いますが、ブチ切れますから(笑)。
リチャード・ホフスタッター「アメリカの反知性主義」は、こうした良性ブログのコメント充実に、またブログを参考とされておられる数多の皆様にも良薬としての効果が発揮されるのではないかと存じます。

投稿: kohchan | 2016年2月17日 (水) 07時33分

もう一言ごめんなさい!

政府の財政が厳しくそれに伴い教育予算の選択と集中、それを補う産業界との連携等々を是認してしまうと、後はGだLだの何で賄うかだの学生無視の各論に移行してしまいます。三面等価原理の一つである分配(配分)部分の見直しに関わる原資のあり方、つまり徴税体系含め支出検討する社会のマクロ視点が欠けると結局は効率優先の帰結となるのではないでしょうか。時代にマッチしなくなれば変えればいいんです。ピケティにしろアトキンソンにしろ、そのアプローチ法が日本に適するかどうかは侃々諤々ございましょうが、そこから考え直すべきであることには一理あるからこその提案であったのだと存じますし、それが読破率最低率であろう(実際電子本で傍線を引いた箇所を調べたところ、ほぼ第一章で終わっていたそうです)ピケティ・ブームを呼び込んだのでしょう。はまちゃんブログでもたとえばつい最近、松尾匡さん最新刊が紹介されております。これまた賛否は多々ございましょう、こと財政部分に関しては、政府見解を丸ごと是とし思考される方々には一読に値すると存じます。はまちゃん先生、そうした意味でもよい本を紹介されましたね。

投稿: kohchan | 2016年2月17日 (水) 12時19分

何度もごめんなさい。

こちらの皆様であれば「フン!」でしょう。そうです、アゴラでも本件を扱ったエントリーがされておりまして、私が紹介した機構理事長インタビュー(東洋経済Online)もいいとこだけ抜粋紹介もして、選択と集中の行き着く先の典型者として登場されておられます。
はまちゃん先生の文末での皮肉をロックオンされそうな、珠玉の寓話ですよ。
お嫌でしょうが、いつも申しますように「一方だけ見て沙汰するな」で我慢しましょう(笑)。
といいながら、私はブチきれました。手を出すツールではないことを再現実証させる科学的現象とは遭遇する職業的メリトクラシー(これも先般メールに使った私の皮肉ですが)を得ました。

投稿: kohchan | 2016年2月17日 (水) 15時18分

>工学系の学部教育では,そもそも「エリート向け」の教育などどこでも行っていないと思います

そもそも短期大学レベルや職業教育大学レベルにまで、卒業論文を書かせるのは必要なのか?とも思います。
海外では「グラデュエート・サーティフィケート」とか「高等国家サーティフィケート/HNC」のような、論文をともわない高等教育も普及しているわけで。

職業訓練校ではもちろん論文なんて無い訳で、求められているのは「実技試験」なのではないでしょうか。日本の看護学校では卒業論文を書かせてるのも、なんか変な制度だなと感じます。

投稿: wuhan | 2016年2月18日 (木) 12時20分

wuhan様の仰る看護学校って学士(大学)ですかね。
雨後の竹の子ですから、看護の大学間で学力差はトンデモ状態です。トップ校には医学科(医師養成)の中位クラスでしたら合格できるレベルも多くおりますよ。
ただし、看護師養成のみを目的化しておりますところとはすべては存じませんが、たとえば看護学専攻として私の関わる大学は博士号までを留学生受け入れ含め重要視しておりますので、当然学士卒論も求められております。いわば従事者養成専門の大学と、従事者養成とともに大学院進学での研究者養成(当大学院や国内大学とともにハーバード等海外留学もいたします)を目指している違いはあります。というか、ですから看護は全く別な目的の学校が存在しているとお考えください。また、保健師、助産師としても活躍します。

投稿: kohchan | 2016年2月18日 (木) 14時48分

元コメントでは「偏差値50を下回るくらいの」と、はっきり書かれていると思います。
そういう所がまさに職業教育大学で、それらはサーティフィケートでよくて、卒業論文の必要はないと思います。
ちまたでは看護専門学校でも卒業論文を課すとこがあるそうで、明らかに研究系ではないのに、なぜそうなってしまったんでしょうね。

投稿: wuhan | 2016年2月18日 (木) 15時20分

Wuhan さま

まずは,研究中心教育について,3ヶ月前に掲載していただいたコメント(名前のところにURLをつけさせていただきました)をご参照ください。長いので,とりあえずお読みいただいてから…

そのうえで,必要か必要でないか,といわれれば,卒論のない工学系の大学教育を構想することは可能であることだけは明らかです。しかし,教育効果,という点でいえば,国内の現状に即し近未来(いまから10年程度の時間を考える)についての予測も踏まえて申し上げれば,間違いなく研究中心教育のほうが効果は高いでしょう。費用の点はよくわかりません…日本は研究中心教育をする際学生をただ働きさせていますので,そこのところを欧米なみにまともなレベルにする(つまりは学生に相当カネを払うようなことをする)とその費用は大幅増となる可能性がありますが。

繰り返しになりますが,日本の大学ではコースワーク中心の学部3年生までの教育は芳しい成果を挙げておらず,その不足を卒論(それ自体が非常に効果的な PBL であり得ている)で補う形になっています。その効果なしでコースワークだけの大学教育をどう考えるかですが,医学部などがそうであるように厳しい試験を課す国家資格的なのがない状況の下では,コースワークだけで現状の大学教育と同程度の訓練効果を出すのは難しいだろうと予測します。英国の大学について多少知識がありますが(いちおう形ばかりの final year project というのがあるけれど日本のようには機能していないようにみえた),そこの学生たちの状況を見てもあまりいい状況には思えませんでした。

高木は電気工学を教える大学教員です。その分野における国家資格といいますと,たとえば実技試験を伴う資格として電気工事士のようなのもありますが,それを教えるのに大学4年かけるのは長すぎます(よく工業高校の電気科の生徒がそういう資格を努力してとっていたりしますね)。一方,電気主任技術者のような資格は有力なものですが,大学で教えられる幅広い科目について単位修得が求められ(もしくはその分野の試験を受けて合格し),なおかつ所定の実務経験を積むことによって資格が認められる形になっています。ここを変えますか?という話ですけれど…

ただ,教育方法はひとつではないわけですので,いろいろな実践が試みられる必要があるのは間違いありません。その蓄積いかんによっては,評価が変わる可能性を否定しません。しかし,欧米の大学でよくあるような,コースワーク中心の工学系の修士コース(研究中心でなく1年で修士学位が取れるようなもの)の設置さえほとんど認められないといった状況の中で,そうした実践の蓄積がどうやって可能なのか,という問題意識は強く持っています。まずそういう状況を改善するのが,職業訓練大学とか言い出す前に必要だろう,と思います。この点において,昨年7月27日付けの日経新聞(高木がみたのは電子版)に掲載されていた金子元久先生の論説にはおおむね賛同します。

投稿: 高木 亮 | 2016年2月18日 (木) 17時07分

それにしても、偏差値50以下は職業訓練大学で卒論は不要、というのはちょっと… 唖然としました。

私は、不適切さを含むことは承知でよくある予備校データで読める偏差値を参考のため申し上げましたが、そういうのであれば長岡技科大だって50ラインの下です…東京の大学ではないので単純には比較できませんが。

長岡技科大という大学名は、私の分野では極めて有力な大学の例として掲げたものです。そこが卒論不要、など馬鹿馬鹿しくて議論する価値もない話です。もし、それが職業訓練大学推進者の本音なら、そのもたらす帰結は日本の工学系大学にとって、あるいは日本全体にとって、破滅以外の何者にもなり得ないでしょう。

投稿: 高木 亮 | 2016年2月18日 (木) 22時01分

>日本は研究中心教育をする際学生をただ働きさせていますので,そこのところを欧米なみにまともなレベルにする(つまりは学生に相当カネを払うようなことをする)とその費用は大幅増となる可能性がありますが。

ここが重要なポイントだと思います。大学院肥大化について文科省が直接的に責任を負う理系の修士拡大についても私は批判的です。これは結局企業の人材投資の負担を学生に転嫁することを許すものに他ならない。安易に拡大するべきではなかった。

企業からの研究委託を受けるかわりにその資金で学生を雇い、企業に応分の負担を求めるというような形が想定されます。確かに研究テーマの自由を制約されるだろうが、従来のやり方を大きく変える必要はないかもしれない。こういう形のものも許容できないのでしょうか?

言及されている金子元久氏の記事
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO89732550U5A720C1CK8000/
にあるように「製造業の海外移転、情報技術の発展によって高卒労働者への需要が縮小したために、大学就学率はさらに押し上げられて5割に達するに至った。他方で従来型の一括採用の大卒採用は30万人台で停滞しており、大卒者の2~3割は、この枠の外で様々な形態で就業している」状況で、しかも一括採用30万人のうち定年まで面倒を見てもらえる人間がどれだけいるのかという状況に如何に対応するか。

金子氏の言うように「今、求められるのは、重層的・多面的な職業能力を育成することであろう(図)。多様で流動的な職務で必要となるのは、学術的知識だけでなく、また職業知識・技能だけでもない。それらの基盤となる、思考能力などの汎用的なコンピテンス(能力)、さらには自己認識、意欲などが不可欠である。」というのは分かる。しかし一方で安定的に能力形成ができる環境を企業から与えられる人間が少数派になりつつある状況に如何に対応するか。

「大学教育と職業との関係を単純なパターンに当てはめる時代は過ぎた。多様な関係を個々の大学が実践し、それが前向きの競争原理の中で選択・淘汰されていくことこそが求められる。国際的な趨勢をみても、制度の上では4年制の学士課程を基準として単純化し、その枠内で、教育機能を多様化する方向にある」としても、ヨーロッパでは複線型教育の長い伝統があり、それを前提に個人がキャリアマネジメントを行う慣行が定着している。そもそも企業任せの能力形成を前提としてきた日本の大学で、教育機能を多様化するだけで学生が自発的にキャリアマネジメントを行い、大学間の競争原理が働くということが期待できるだろうか?

「学術的な体系を基礎として編成された「学部」によって分割されるタテ割り型の組織から、教員が帰属する組織と、「教育プログラム」とを分離することは、社会的な要求に柔軟に対応するためには重要な選択肢となる」というのは大いに賛成で、この点で滋賀大がデータサイエンス学部などというものを設置するなどというのは的はずれといわざるを得ない。

「現行の大学設置基準を中心とした質保証のあり方自体にさかのぼって再検討することも必要となる」というのもポイントで、設置基準を引き上げると新設大学はついていけないかもしれない。そこが制度を二分しようとする意図の背景かもしれない。

投稿: 通りすがり2号 | 2016年2月18日 (木) 23時27分

卒業研究を卒年生に課しているからでしょう。またそれは卒業年の2月の国試受験の資格認定の面でもありましょう。総合系とは違い、今どき提出ではなく12月には終わらせます。あとは国試勉強一本やりです。その「卒論」通貨が国試受験=卒業予定者としての学校からのお墨付きとしても需要側(医療機関)は早々からのある囲い込み方法による貸与への費用対効果を示すものとなるのです。採用予定者の確保です。
最後に、格差も階層も、あるいみの差別も、本人に一切責任が及ばない自然的・社会的偶然
による、たとえば出自等でなく合理的説明が社会的に容認されるのであれば、それは時間を限ったうえでの限定容認は許されるのかもしれません。しかしそこには先の希望が計画されてはじめて容認される人間としての尊厳問題です。
本エントリーの本題からはかなり離反した「毎度の細分化」の状態ですので、もうよいのではないですか。

投稿: kohchan | 2016年2月19日 (金) 08時10分

高木さま

たぶん、そこを変えたほうがいいと思うんですよ。現場の問題を公に提言する技術を身に着けたいのであれば、トヨタ社員がやる「課題をA3紙一枚に要約する」技術でよいわけで「LaTeXを打ち込める」必要は無いと思います。職業人になってLaTeXを使う機会がなく、Windowsが職業技能になってます。

「学士とはLaTeXで卒業論文を書いたものである」というご意見もあると思いますが、卒業研究では属する大学教授の胸先三寸で大卒になれるかどうかが決まってしまう訳です。東大などハイレベル校ならその裁量運営で問題ないかもしれませんが、そうでない方面では、実のところ「コピペ卒業論文」で合格とのような話も多々聞いています。「偏差値50以下の大学教授の胸先三寸」よりは「国家による実技試験を伴う資格」のほうが、社会的にも評価が高いと思うのです。あえて現行制度で行くのであれば卒業研究は学位授与機構がしっかりと審査する、こういうのであればかろうじて賛成です。

投稿: wuhan | 2016年2月19日 (金) 10時58分

これで最後にしておきます。

通りすがり2号さんのおっしゃる大学と企業との共同研究というのは,日本の工学系大学の弱点であるのは確かです。日本では「大学を企業に売り渡すなどまかりならん!」とかいって共同研究の活発化を大学側が強く抑制していた時代が長く続いてきたわけですね。ただ,それだけではなく,企業側にもあまり大学に手の内を見せたくないといった,共同研究の深化を阻害する要因があるようにみています。

また,L型G型という話であればこれは基本的に学部教育のことでしょうが,学部学生をこうした共同研究の矢面に立たせるのはちょっと苦しい。大学院学生ならまあ,というところです。

大学院生の研究テーマがこうした形で企業からの予算に制約されるのは,工学系分野であれば決して悪いことばかりではないと思います。ただ,いま個人的によく知る欧州の(おもに英国だけど多少大陸欧州にもいる)大学関係者の様子を見ると,こうした予算がつかないような研究はあきらかに低調で,日本の我々の方が明らかに(予算は少ないからあまり大きなことはできないけれど)面白いことを提案できている,といったケースが結構あります。そういう自由は,日本の大学の最後の切り札のひとつという側面があり,そこを過度に制約するのは避けた方がよいとも思っています。で,そういう研究のいくつかは,学部学生がほんとうにうまくやってくれるわけです。まあ,こういうのこそ「大学教授の胸先三寸」というか,教授の能力如何という側面が強いわけですけど!

また,英国の HSR College (調べたところ,正式な略称は NCHSR, National College for High Speed Rail だそうです)など,英国の最近の「Further Education 推し」は,研究ではなくてあくまで教育投資について人材供給で受益する企業の資金を活用するという話の一環であることにも,注意が必要です。これは従って,企業と教育サイドとの間で長いこと培われてきた関係性のうえに構築されているように高木には見えます。で,その関係性の構築は,主として大学院で行われてきたように高木には見える。研究だけではなく教育面でも,さまざまなニーズに対応した大学院修士コースとか,博士課程学生を企業からの研究費の一部を使って雇うとかいった形で,その関係性構築は大学院で進められてきた。そうしたそれが,学部教育に下ろされてきている,とそう思えるわけです。

L型G型議論があさっての方向に向いているとしか思えない理由も,こうした状況を高木なりに理解したからです。今回のこのエントリやコメント群を読み,高木としては頭がはっきりしてきました。

で,じゃあそうした英国風のやりくちが日本ではうまくいくか? というところですが,伝統はこれからつくるしかないと思います。そして,糸口はある。細々とではありますが,余裕のある企業はいまでも国内外の大学に社員を派遣したりして,学位を取らせたりいろいろなことをしています。こうした活動の強化に賭ける。その辺は,当然政府の音頭取りも欠かせないでしょう。英国だって昔はこんなふうではなかったはずで,サッチャー政権以降の数十年で変わってきた。日本だって,少なくとも工学系では,試みる価値はあると思います。

で,最後の最後に2点ほど。

kohchan さんから,こういう議論が「細分化」状態,というご批判があるようですが,我々の世界でよく使われる「神は細部に宿る」という言葉が語るように(?),工学教育論をこうした細部なしで語るのは無意味だと思います。大改革を提案するのなら起こりそうなことを予測する必要はあるでしょう。その予測のためには個別の事情がさまざまにあって現在の仕組みがあることを知らなければならない。濱口先生ご自身が,ご自身の分野ではそういう細部にわたる知識をいつも披瀝されているではありませんか。そこを避けてどういう議論ができるのか,高木には理解ができません。大学における工学教育は,こうした議論では常に参照されるべきことだと思いますが,濱口先生が批判する文科系の先生方も(たぶん濱口先生ご自身も)含め,どうしてこうまでそこを無視できるのだろう,と不思議で,それで時間を使ってこういう文章を認めているわけです。いや,濱口先生は無視しているわけではないとおっしゃるだろうとは思いますが…

wuhanさん。LaTeX 懐かしいですね。ある時期の大学ではLaTeXで卒論が当たり前だった時期もあるかもしれない。高木の出身研究室では,教授ではなくて先輩学生が後輩に強制するみたいな形でしたが。しかし,そういうことはまず,ご自身の指導教員に直接おっしゃったらいかがですか。そういう個人的なご不満は(理由がないこととは思わないものの),大改革の動機としては不純です。そういうのを,悪しき反知性主義と高木は思います。

先に掲げた金子元久先生の論説でも,「制度改革そのものの効果よりも、大学にショックを与えることに意味があるといった議論も聞かれる。しかしどのような改革も、解決すべき課題を正面にすえ、そこに至るために何が必要かについての冷静な判断に基づくことなしには挫折せざるを得ないし、むしろ本来の課題から目をそらさせることにつながるのではないか。」という一節があります。

いろいろ読ませていただいたいまでも,濱口先生が再三L型大学議論を繰り返される背後に,この悪しき反知性主義的な動機があるのではないかと高木は疑っています。もともとの濱口先生のご批判の最後の一文「資源の権威的配分の技術としての政治の世界においては、資源を移転するにはもっともらしい理屈がいるのです」を改めて咀嚼しますと,先生ご自身の動機がどこにあるのかは措いても,こうした反知性主義を encourage しかねないという点で,濱口先生に対しても同じ構造の批判が成り立つのではないかと愚考します。

投稿: 高木 亮 | 2016年2月20日 (土) 07時22分

高木様へ
もう・・・と申しました張本人がおきて破りですが一言。

私がこの言葉の使用に込めた「細分化」の意図とは、このような時間軸がシンクロしがたいネットがもつ性向(つまり相手を知らないままのバーチャル状態でのディベート、あるいは双方向型の意見交換の不安定さ)が、その性向ゆえ、「指向性反応」する人のみ反応する(脊髄反射なんてつかってはいけません。むろん高木様へのことばではありませんからあしからずご了承ください)自己組織化してしまい最後はフェードアウトするしかない「限界原理」があるでしょう、という意味です。
申し訳ありませんがわたくしも医学の分野におり良し悪しをまたここでは語りませんが、ある仮説を抽象化させ演繹思考することは否定しませんよ。現場では「オッカム」に従いプログレム・リストをあげることから、それをそぎ落とし、最後に残った相関性が一番高い仮説の因果律に近い結論に至る方法論をとっております。おそらくわたくしの文章使いのうえでの誤解であると思われますし、これが先述した「限界原理」と称した理由です。
ご理解いただけたらと存じます。

投稿: kohchan | 2016年2月20日 (土) 09時42分

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