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2016年2月21日 (日)

松尾匡さんとのやりとり

Bk_jiyuu松尾匡さんのホームページに、新著『自由のジレンマを解く』が紹介されていたので、同書の元になったシノドス連載時の松尾さんとのネット上でのやりとりを思い出しました。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__160219.html

ご報告が遅れましたが、2月16日に、新著『自由のジレンマを解く』がPHP研究所さんから出版されました。サブタイトルは、「グローバル時代に守るべき価値とは何か」。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-608b.html (ジョブ型責任とメンバーシップ型責任)

いつも明快な松尾匡さんが、例によってシノドスで明快な議論を展開していますが、

http://synodos.jp/economy/10051(「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり)

ここで松尾さんが例に引いているのは、イラクで拘束された3人に対する日本のバッシングと外国の賞賛ですが、松尾さんの言う「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の区別は、なぜ日本の企業で成果主義がおかしな風になるのかを理解する上でも有用でしょう。

成果主義というのはいうまでもなく成果(あるいは成果のなさ)に応じて賃金を支払うことですが、それが可能であるためには最低限、その成果(あるいは成果のなさ)が当該労働者の自己決定に基づいて生じたものである必要があり、そのためには自己決定が可能な程度にはその労働者の職務が明確であり、権限が明確であり、逆に言えば上司その他の第三者の介入によって当該成果(あるいは成果のなさ)が生じたのであれば当該第三者にその責任を追及しうる程度にはデマケがはっきりしている必要があります。

でも、それが一番、日本の企業が絶対にやりたくないことなんですね。

職務が不明確であり、権限が不明確であり、誰の責任でその成果(あるいは成果のなさ)が生じたのか、デマケが誰にもわからないようになっているそういう世界で、なぜか上からこれからは成果主義だというスローガンと発破だけが降りてきて、とにかく形だけ成果主義を一生懸命実施するわけです。

そうすると、論理必然的に、松尾さんの言う「集団のメンバーとしての責任」の過剰追求が始まってしまう。もともと職務も権限も不明確な世界では、責任追及も個人じゃなくて集団単位でやるという仕組みで何とか回していたから矛盾が生じなかったのですが、そこで個人ベースの責任を追及するということになれば、「みんなに迷惑かけやがってこの野郎」的な責任追及にならざるを得ず、「俺だけが悪いわけじゃないのに」「詰め腹を切らす」型の個人責任追及が蔓延するわけですね。

まさに、自己決定がないのに、自己決定に基づくはずの責任を、集団のメンバーとしてとらされるという、「悪いとこ取り」になるわけで、そんな糞な成果主義が一時流行してもすぐに廃れていったのは当然でもあります。

この議論、もっと発展させるとさらに面白くなりそうな気がするので、松尾さんにはこの場末のブログから励ましのお便りを出しておきます。

松尾さんは早速その次の回で反応され、

http://synodos.jp/economy/10431

前回のウェブ記事が掲載されたあと、濱口桂一郎さんが早速拙稿をとりあげて下さいました。・・・

拙稿の議論を応用し、日本企業で一時流行った「成果主義」が、どうして「糞」なものになってしまったのかを、「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の混同から説明しています。・・・

と議論を更に深めていただいています。

こういうポジティブなフィードバックが働き合う関係というのはとても嬉しいものです。

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コメント

私もイラクでの日本人(社会)の日本人に対する時の政府主導によるメディア協賛報道の世論づくりには今も憤慨しており、善し悪しお痛は数多あれども、国民に対する姿勢が米国とはこれほどまでに違うのか?何故だ?と思っておりました。ましてや家族も含めたバッシングに挙げ句、救出に際する航空機費用弁済までに至る様子は、異様でしたね。かの半島でもありましたよ。ましてやボランティアや取材活動でもない、いわば物見遊山的な国民の救出にも費用弁済やバッシングなど米国では喝采しかなかったとうろ覚えですが記憶しており、正直あのころから日本はだめかなあと思い始めておりました。メリトクラシーも危ない、医療に今安易に蔓延し始めた自己決定権も非対称性ある限りまさに限定的でないとレモン市場となり、それははまちゃん先生がかかれていると同じに、結果良しであればよいのですが、ひとたび大事に至ると事実の検証もいい加減な早々の生け贄ご指名で皆溜飲を下げる集団いじめニッポンチャチャチャです。松尾さんの応答にあるパラドクス関係こそ病巣をみる思いというか、そのように思っているため、保険という人類のすぐれた開発物がもつピアレビュー力をうまく社会化の推進力に出来ないかなあとの思いが、毎度ご迷惑をおかけしている私のコメントの「原子核」なのです。
はまちゃん先生の最後の言葉こそ、私が目指すリソナンスによる新結合を生む「知の原資」であると学生にも話しております。前向きに言葉をぶつけろ合おうと。あくまでもあら探しだけではダメだぞと。良いエントリーを拝見しました。そしていよいよ危ないなとも感じるパラドクスの憂鬱さはなんでしょうね。

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