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2016年2月22日 (月)

だから、リストラ(整理解雇)とローパー解雇は違うって何回言ったら・・・

今朝の朝日が一面トップででかでかと書いていますが、

http://www.asahi.com/articles/ASJ2M566MJ2MULFA015.html(リストラ誘発しかねない再就職助成金 支給要件厳格化へ)

事業縮小や再編で離職を余儀なくされた人の再就職を支援する国の助成金について、厚生労働省は4月から支給要件を厳格化する方針を固めた。人材会社が、企業にリストラ方法をアドバイスし、助成金が使われる退職者の再就職支援で利益を得るなどしているためだ。労働者を守るためのお金が、リストラを誘発しかねない仕組みになっている。

http://www.asahi.com/articles/ASJ1Y5RC5J1YULFA03Y.html(「ローパー」社員に退職勧奨 人材会社がノウハウ)

働き方改革の一貫として従来にはない雇用調整の手段として希望退職および退職勧奨を積極的に実施――。王子HDの内部資料には、こう記されていた。男性の2015年3月時点の評価は低評価の「D」。リストアップされた人は、「D」や最低の「E」ばかりだ。こうした人は「ローパフォーマー(ローパー)」とされ、退職勧奨の対象となった。

日本人にとっては、こういう(奇怪な)記事になんの違和感もないでしょう。

リストラ、つまり整理解雇というのは、労働者本人の責任ではなく、会社の経営状況に基づく解雇なのであるから、ローパフォーマンス云々という話とは全然別次元の話である、というような、労働法の基本概念が全然通用しないこの日本では。

雇用契約がジョブに基づいている社会では、もちろん当該ジョブができないという理由による個人的解雇もありますが、いかなる意味でもそれは『リストラ』ではありません。

『リストラ』とは、あくまでも労働者個人の能力等とは関わりのない会社側の理由によるものであり、だからこそ、労働者の方もそれを恥ずかしがったりしないし、労働組合も積極的にその再就職のために支援をするわけです。

ところが、雇用契約がジョブではなく会社の社員であるというメンバーシップに基づいている日本では、『リストラ』が労働者に社員である資格がないという宣告になってしまい、それゆえに一番情緒刺激的な言葉になってしまうわけです。

そして、それゆえに、本来会社の都合でやるものであるがゆえに労働者の責任ではないはずの『リストラ』が、ローパフォーマーを追い出すためのものと(労使双方から全く当たり前のように)思い込まれ、それを前提に全てが動いていってしまうという訳の分からない事態が現出し、しかもそれに対して、「社員なのにけしからん!」とか「ローパーだから当然だ!」といった情緒的な反応は山のようにあっても、そもそも『リストラ』とは労働者側の理由によるものではないはずなんだが、という一番基礎の基礎だけは見事にすっぽり抜け落ちた議論だけが空疎に闘わされるという事態が、いつものように繰り返されるわけですね。

この記事で書かれている労働移動支援助成金とは、リストラの欧米的捉え方を前提に、それまでの雇用調整助成金型のひたすら雇用維持だけを目指す政策から、会社側の理由による雇用変動を外部労働市場を通じてうまく処理していこうという、それ自体としては何らおかしくない、ヨーロッパでもごく普通に見られる政策思想で作られたものであるわけですが、肝心の会社側がジョブ型ではなくメンバーシップ型にどっぷり浸かったままで制度を活用しようとすると、まさに会社側の理由ではなく、本人がローパフォーマーだからお前の責任だと言わんばかりの文脈で、使われていってしまうという事態になるということなのでしょう。

それに対して、昔の日本は良かったとばかり言っても仕方がないですし、ある種のえせネオリベ派の如く、ローパー社員を追い出すのが正義だみたいなインチキな議論もきちんと批判しておく必要があるでしょう。

この間の事情を以前エッセイにしているので、ご参考までに。

「リストラはなぜ「悪い」のか?」 ((『WEB労政時報』2014年7月21日))

 去る6月26日に、日本・EU労働シンポジウムにパネリストとして出席してきました。テーマは「リストラクチュアリング」です。というと、日本の感覚では何か労使が全面対決する話のようですが、むしろ産業構造の転換の中で、いかに円滑に労働力移動を進めていくかが重要なポイントです。このシンポジウムに先だって、欧州委員会のアレンジでフィンランドの視察が組まれ、ちょうど今年の4月で携帯電話事業から撤退したノキア社の経営側と従業員代表だった方からも話を聞く機会がありました。労使が協力して、いかに円滑に再就職を進めていったかを、労使とも同じ図を使って説明していたことが印象に残っています。

 今回述べたいのは、EUでは労使が協力して進めていくべき課題として位置づけられるリストラクチュアリングが、日本語の「リストラ」になるとなぜか「無慈悲な」「冷酷な」「人と人とも思わない」などという悪意のこもった形容詞とともに語られることが多いのかについての、雇用システム論的説明です。上記シンポジウムに向けて用意された日本側バックグラウンドペーパーにおいて、わたくしが執筆した部分がまさにそれに相当していますが、いささか長いので、ここでは簡単に要約しておきます。

 日本の労働社会は、EU諸国の労働社会とはその構成原理が異なります。日本の労働社会の主流は、雇用関係が「職(job)」ではなく、「社員であること(membership)」に立脚しているのです。日本語で被用者を表す「社員」という言葉それ自体が「member of company」という意味です。会社は単なる営利組織ではなく一種の共同体的性格を有しています。雇用契約は原則として職務の限定のない「空白の石版」であり、企業の命令に従ってさまざまな部署に配置転換され、そこでさまざまな「職」を遂行することが労働者の義務と見なされています。このような社会では、教育から労働への移行は、「就職(job placement)」ではなく「入社(inclusion into membership)」です。

 この反面として、企業からたまたま命じられた「職」が景気変動や産業構造転換等によって消滅しまたは縮小したからといって、そのことが直ちに解雇の正当な理由とはなりません。企業内に配置することができる他の「職」がある限り解雇が正当とされる可能性は少なくなります。このような社会では、経済的理由による解雇は「失職(job displacement)」としてではなく「社員であることからの排除(exclusion from membership)」として受け取られることになります。日本語における「リストラ」という言葉が有する独特のニュアンスは、それが「職」に立脚した継続的な債権債務関係の解消というにとどまらず、共同体的な関係からの排除であり、メンバーシップの剥奪という性格を有していることに基づくのです。

 もちろん日本も市場経済であり、景気変動があり、また産業構造の転換によっても、個々の「職」に対する労働需要は変動します。しかし、雇用関係が「職」に基づいていないので、ある「職」の喪失は必ずしも雇用関係の終了の理由になりません。企業内に他に就くことが可能な「職」があれば配置転換により雇用関係を維持することがルールです。これは、日本の裁判所の判例法理においても、整理解雇法理の中に取り入れられている。所謂整理解雇4要件は、それだけ見れば欧州各国と比べて特段異例なものではありません。しかし、解雇回避の努力義務の中に含まれる企業内の他の「職」への配置転換の範囲が、雇用契約の条項や職業資格等によって限定されることがほとんどなく、やや極端にいえばどんな「職」であれ企業内に雇用を維持しうる可能性がある限り、解雇回避の努力義務を果たしていないと判断される可能性が高い点に特殊性があります。

 このような雇用慣行や、それに基づく判例法理、雇用政策は、「失職」(前述の通り、日本においては「社員であることからの排除」として現れる。)の社会的苦痛を減らすという意味では一定の意義があります。

 しかし逆に言えば、経済的理由からやむを得ず行われる解雇が、雇用契約で定められた特定の「職」の客観的な消滅・縮小に基づくものであるという意味において、自己の責任によるものではない「失職」としてではなく、企業内に彼/彼女が遂行しうるいかなる「職」も存在しないゆえの「会社からの排除」として、社会的スティグマを付与されてしまうことをも意味します。この場合、剰員整理解雇が労働者個人の能力不足による解雇として現れるのであり、その「能力不足」とは、特定の「職」の遂行能力ではなく、企業内の提供可能ないかなる「職」をも遂行しうる能力がなかったことを意味してしまうため、その社会的スティグマは極めて大きなものとなるのです。

 一方で、日本の裁判所が確立してきた整理解雇法理は、解雇回避努力義務に大きな力点があるのと対照的に、解雇対象者の選定についてはEU諸国のような明確な基準がありません。むしろ、中高年者を優先的に解雇することについても許容する傾向があります。

 このことがさらに剰員整理解雇への抑制効果として働き、大企業になればなるほど、雇用を縮小せざるを得ない場合でも、できるだけ解雇という形をとらないで、希望退職募集を通じて剰員整理しようとします。それは、「整理解雇」されたことが社会的に示す「能力不足」のスティグマがあまりにも大きいため、それを回避するための行動です。

 1970年代後半以降、日本の雇用政策は雇用調整助成金による雇用維持を最重要課題として運営されてきました。そのこと自体は必ずしも問題とは言えません。「失職」による苦痛を最小限に抑制することは社会政策として当然です。しかし、「職」に基づかない社会における雇用維持優先政策は、「社員であること」を維持するために「職」を軽視する傾向を生みがちです。

 日本的な「職」なき「雇用維持」政策は、助成金の援助によって企業が頑張れるぎりぎりまで失業を出さないという点においては、欧米諸国に比べて失業率を低水準にとどめる効果があり、雇用政策として有効であることは確かです。しかしながら逆に、企業がもはや我慢しきれずに不幸にして失業してしまった場合には、景気が回復しても簡単に復職することは困難となります。

 欧米では不況のため「職」が少なくなって「失職」したのであれば、景気回復で「職」が増えれば「復職」することは可能です。少なくとも当該「職」に技能のない若い労働者よりも有利です。欧米では多くの国で、いわゆるセニョリティ・ルールとして、勤続年数の短い者から順番に整理解雇されることとともに、解雇された者が再雇用される場合にもその逆順、すなわち勤続年数の長い者から順番に再雇用されるとのルールが確立しています。しかし日本では企業の中にあてがうべきいかなる「職」もなくなるところまで頑張ったあげくの失業ですから、失業者であること自体が「どの「職」もできない」というスティグマとなり、再就職が極めて困難となります。このため、失業率自体は比較的低水準であるにもかかわらず、1年を超える長期失業率はかなり高くなってしまうのです。 

(追記)

Svenskaちなみに、労働者を「ちゃんと」守ることにかけては世界一品であるスウェーデンで、言葉の正確な意味での『リストラ』の場合に、労働組合がちゃんと関与して再就職支援をやっており、その際組合が人材サービス企業を選定して、進捗管理までやっていると云う事については、JILPTの西村純さんのこの報告書を読むと良いです。

http://www.jil.go.jp/institute/reports/2015/0179.html

経済的理由による整理解雇の対象者は、労使が自主的に取り組んでいるTSL制度を利用し、次の職場を探している。したがって、現在スウェーデンでは、公共サービスと労使によって提供されるサービスのミックスによって、失業者支援が実施されていると言える。

TSL制度の特徴を指摘すると、大きく3つある。1つは、民間人材サービス企業を活用していることである。それらの企業を利用するのは、彼らの持つネットワークは広大で、多くの求人企業に対する情報を持っているからである。彼らのネットワークを利用することで、失業者と求人企業の早期のマッチングを試みている。2つは、とはいえ、民間に任せっぱなしにしているわけではないことである。制度の運用において、組合がかなりの程度関与している。例えば組合は、サービスへの参入業者に対する評価の主体となることで、良好なサービスを提供する業者のみを残そうとしている。また、3つは、このサービスが、実際に失業となる以前から提供されていることである。通常、整理解雇の実施までに、予告期間として一定の期間が与えられる。公的サービスはその期間は利用できない。一方、TSL制度は、その期間内からサービスを開始することができる。こうした取り組みは、実際に整理解雇の対象となったとしても、失業を経験することなく次の職場に移ることを可能にしている面がある。

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コメント

 皆さん、今晩は。

 いっそのこと、整理解雇を強制して(配置転換は契約更改という扱い)、いわゆるローパー解雇の禁止を法律で明記した方がいいのではないかとさえ思います。

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