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« 『労務理論学会誌第25号―現代資本主義企業と労働時間―』 | トップページ | 地域限定をデフォルトに@『Works』 »

2016年2月18日 (木)

職能を向上させるなら補助は不必要?

本ブログのこのエントリにトラックバックがついていますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-c136.html (大学がブラックビジネスでないためには)

http://www.anlyznews.com/2016/02/blog-post_17.html (大学教育への公的補助が正当になる条件)

その中に、少なくともごく普通の労働政策、職業能力開発政策の観点からは全く理解できないある一節がありました。

大学教育に意味があるか否かだけでは、大学教育への公的援助は正当化されない。それが職能を向上させるのであれば、後々賃金として反映されるので、公的補助は必要ないからだ。役立つ事にはお金をかける意義があると単純に考えてしまいがちで、労働問題が専門の濱口氏も「もしその教育内容によって学校で身につけた職業能力が職業人となってから役に立つからのであるならば、その費用は公共的な性格を持ちますから、公的にまかなうことが説明しやすくなります」と主張しているが、問題は教育内容が職能を向上させるかでは無い。本人が将来を見越して費用対効果の高い教育投資をすることができ無いのか、教育を受けた本人以外が便益を得る外部性があるかが問題になる*2。

これは極端に個人の利益のみに着目した意見ですが、もし職業能力の向上は全て本人の賃金上昇によってまかなわれるので公的助成は不必要だとすると、日本に限らず世界中で雇用政策の基軸として行われている職業訓練政策は全て無駄な政策ということになりましょう。

では、職業能力を向上させることのないような教育訓練(?)はどうかといえば、そんな役に立たないものに補助するのはもっと無意味だということになるから、けっきょくどんなものであれ、公的補助は全てすべきでないという結論がはじめから決まっているような感じです。

イヤまあ、そういう考え方もあり得るでしょうし、ある種の経済学者には結構よく見られる発想なのかも知れませんが、そのサークルを超えて通用性があるとはとうてい思えないですね。

現実の世界の諸国は、個々の労働者の労働能力が向上してその稼得能力が上がることが、労働市場全体によい影響を与えるという想定で、さまざまな教育訓練助成を行っていると思われますので、そういう一部経済学者の発想では動いていないわけですが、文句をつけようと思えば何とでも言えると言うことでしょう。

ただ一つだけ心配なのは、ある種のレリバンスを目の敵にする論者が、こういう議論を自分らを応援するものだと勘違いして、それみたことかとばかりに、上の引用部分のようなことを叫び出しかねないことです。

イヤまあ、好きなように叫べば良いですけれど、「それが職能を向上させるのであれば、後々賃金として反映されるので、公的補助は必要ない」からといって、「職能を向上させないような教育にこそ公的補助が必要だ」ということになるわけではないということだけは、きちんとわきまえておいた方が良いと思いますよ。

役に立つ教育訓練にすら公的補助を拒否するある種の経済学者が、役に立たない趣味的教育への公的補助を褒めそやしてくれるわけではないのです。

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コメント

> 日本に限らず世界中で雇用政策の基軸として行われている職業訓練政策は全て無駄な政策ということになりましょう。

借入制約や外部経済がある場合は、正当化されると書いておいたのですが。

> 労働市場全体によい影響を与えるという想定

引用された部分の「教育を受けた本人以外が便益を得る外部性がある」ケースになります。

でしょう(笑)。こうなるんですって!
「大学がブラックビジネスでないためには」で恥ずかしいくらいコメントしました(反省中)が、指摘する一方の側の論者にはこれがいるのですよ。それも結構説得力を持っているのですよねえ。なにがって?ジェームス・ブキャナン好きの財政再建至上主義なる緊縮財政論者で中立命題にほれ込んで、バージニア派というかオーストリア派の生き残ったオルド市場主義を知らなくてもドイツ好きな人はこうですもの。
命名するとすれば「俺たちの金をお前に使わせるか派」と呼べばいいんじゃないですか。
ブキャナン喜んでるだろうなあ、草葉の陰で。

ですから、世界中のほとんどすべての諸国の職業能力開発政策は、そんな厳格な基準で行われておりません、と言ってるだけです。

いやまあ、全ての国の政策は間違っている、というのは自由です。

やはり資源は限られており、費用対効果で便益を計り、選別主義で効率的な選択と集中の優生思想が感じられるのですがねえ。普遍的な教育提供の制度確立が結局は分断を排除できる唯一の方法論ではないかと思うんですがねえ。選別的救貧ではなく普遍的防貧の教育に関する思想をもってこれからの社会を担うべき若者にポジティブな気持ちを社会が保証できないものですかねえ。これって中立性、代替性、エルゴードの上に成り立つ今時経済学じゃ無理でしょ?まじめに言われたとおりに学んできた方には理解できないですよね。

間違っているかもしれませんが、引用されたblogでは自分の将来を有利にする(今後の収入が増加する)教育は基本的には自己負担にすべきだが、経済的な理由でそのような教育を受けられない者に対しては(奨学金等で)支援すべきだと言っているように思うので、
これはhamachan先生が2月12日の記事(”大学がブラックビジネスでないためには”)で示されている学費と奨学金の関係図でいえば右上の象限(学費は高いが奨学金も充実している)にすべきだと主張しているように感じます。

全く違う分野ですが、食品に対する消費税軽減に関して、
”大金持ちが松坂牛やトリュフを食べても軽減されてしまうのだから、(本来の目的である)低所得層の負担軽減のためには(大金持ちも恩恵を受ける)軽減税率ではなく、(財源を低所得層に集中できる)低所得層への給付金にすべきだ”
という意見がありました。
それと同じように左下の象限(授業料も低いが奨学金も少ない)では大金持ちの子供の学費も安くなってしまう(?)ので、低所得者対応としては(支援を低所得者に集中できる)右上の象限の方が良いのかもしれません。

私は基本的には職業教育や訓練に対しては国が支援すべきだというhamachan先生のご意見に賛成ですが、MBAやファンドマネージャのための教育等に対しては引用されたblogの意見(自腹で払え!)に共感してしまうのはなぜだろう?

槍玉に挙げられているエントリのどこをどう読めば、「職業訓練政策は全て無駄」だの「自腹で払え!」だのといった主張を読み取れるのか、理解できません。

話の前段である引用部分のあとで、長々と教育の公的補助が望ましい理由を説明していますし、「治安や健康など所得に反映されない幸福度まで考えるともっと教育投資は大きくて良いと言う議論もある」と外国の記事を紹介しています。

uncorrelated氏の説明によれば、教育の公的補助が正当化されるのは:

* 所得あるいは信用の不足により、将来の収入の増加に繋がる教育であっても受けることができない人々が存在する。
* 教育には、それを受ける本人の私的利益にとどまらない社会的便益が存在する。

のどちらかの条件が満たされる場合です。これが「厳格な基準」というほど厳しいものとは思えませんし、濱口氏の述べた「労働市場全体によい影響を与えるという想定」が該当するケースであることは、uncorrelated氏自身が認めています。

uncorrelated氏が挙げた論拠の下で教育の公的補助が「不必要」であるためには、「将来の収入の増加に繋がる教育ならば誰でも受けることができ、かつ、教育がそれを受ける本人以外にはいかなる望ましい効果も持たない場合」に限られます。このような条件が現実に成立しているとは、uncorrelated氏も含めて誰も主張していないのではありませんか。

それとkohchan氏、「普遍的な教育提供の制度確立が結局は分断を排除できる唯一の方法論ではないかと思うんですがねえ」とのことですが、uncorrelated氏が教育の外部効果を列挙している部分には、「貧困層でも進学可能である事は、社会の階層化を防いで政治的安定性を高める効果も持つであろう」との一文があります。

元のエントリをちゃんと読まずに脊髄反射で嘲笑しているのでしょうか。

ちゃんと読んだのですか?様へ

ご指摘の件ですが、わたくしの意味はあげられた部分「貧困層でも・・・効果を持つであろう」も選別主義的な現行制度の延長線上拡充ではなく、いわば「持つものも持たざる者も、社会に貢献する意志ある限りそれの左右されることなく(ここを抜かすと政治利用されますから)補償できる社会制度が、先にあげた選別の政治使用やいらぬ対立を避けられる知恵ではないですか」という意味です。社会でということはその財源は制度としては保険的な(水平再分配のみならず垂直分配)性質で、たとえばピケティ的アイディア(資産税や累進強化)が絵空事であることはご本人も著書内で述べておりますので、保険的制度をメインにすべての年代に協力してもらい、その逆進性は教育のばあいは消費ジェネレーションに偏りができますが、出自等々のある自然的社会的責任を課すべきではなく、大いに大志を抱ける社会にしたほうが、またいわゆるミスマッチをリセットする学びの場をも保障したフレキシブルな制度こそ有用だと考えるからです。だって、払っているのに利用制限を受けるなら払わないでしょ?それでは保険として成り立ちませんし、そもそもナンセンス(たとえば今ある基礎年金を資産ある人には支給しない等々、政治が考えそうなポピュリズムそのものに乗っかるいつか来た道ではありませんか?2009年に国民は某政党の税による年金改革や埋蔵金で任せてくれたらやりますよ「ウソ八百」に喝采を上げたばかりです)ですから。無限とは言いません。しかし有限のなかにある「すべき未来のためへの制度作り」を、ご指摘の言葉で表現いたしました。「外部性」で思考をその中でなんとかという姿勢を是認してはならないということです。もうそこまできていますから、はまちゃん先生にはご迷惑と思いながらもエントリ内の各コメントに私の意志を込めているつもりです。また医学側の末席に位置する私としては、最近とみに使用されておりますが「脊髄反射」なる言葉を安易に使ってはいけないですね。あえてご使用されたければsus(疑い)は最低使ってください。科学的検証もなく使用できることばっではありませんし、まさに「選別」あるいは「差別」と日本以外ならばアウトな表現です。最近見受けられる政治家の軽々しい発言と相関性高く感じられます。ウエットやエスプリは私が好むものですから誤解を受ける可能性はありますが。
by kohchan

それはuncorrelated氏のエントリとは論点が異なっています。kohchan氏が問題にしているのは「どのような公的補助が望ましいか」ということですが、uncorrelated氏は「公的補助が必要である論拠を明示した上で話を進めたほうが説得的だ」と助言しているのです。

公的補助の必要性を暗黙の前提としたままで主張を展開すると、始めから前提を共有している人以外には説得的に響きません。政策の実現に必要な政治的支持を集めることを目的としているのであれば、あらかじめ言葉が届く範囲を狭めるような論理展開を取るのは得策ではないでしょう。

uncorrelated氏は教育の公的補助が必要である論拠として:

* 誰もが社会的に必要な教育を受けられるわけではない。[資金制約]
* 教育の恩恵は経済取引による私的利益の外側にも波及する。つまり公的な利益があるので、公的な負担で賄うのは正当。[正の外部性]

の二点と、説得的に示すハードルは高くなりますが所得の公平性を挙げています。

これらの論拠が誤りである、あるいは欠落があるとkohchan氏が考えておられるのであれば、それを明確に示して頂けるとわかりやすいのですが……。

> 「外部性」で思考をその中でなんとかという姿勢を是認してはならないということです。

これはなにを言っているのか、まったく理解できませんでした。「ウエットやエスプリ」というものでしょうか。

なお、uncorrelated氏が挙げた条件は公的補助が必要となる論拠であって、公的補助が選別主義的であることを要求するものではないはずです。費用を考えると必然的に選別主義になると考えているのかもしれませんが、選別主義的な公的補助にはスティグマによる負の効用などさまざまな損失が想定されるので、普遍主義的な公的補助よりも社会的費用が小さいとは限らないでしょう。

それとひとつ疑問なのですが、kohchan氏にとって「優生思想」という言葉は、「選別」や「差別」あるいは「脊髄反射」という言葉よりも、安易に使ってよい言葉なのですか。私にはuncorrelated氏のエントリに優生思想は読み取れません。過去の発言を完全に把握しているわけではありませんが。

ご指摘をありがとうございます。
私の文章の冒頭からに書いております意味は、「持つもの、持たざる者」など何も関係なく、またその消費によっての成果が個人にのみ帰するか、または社会性を持つか等には左右されず生まれてきた者の権利として社会からのいわば贈り物として用意されるものにならないかという意味です。教育を受けたいと思った時点でそれが社会人で一旦所得を放棄しなければならない場合でも本気で希望すれば人間の権利として保証されることが望ましいと考えております。資金制約についてはこのように考えております。財源というハードルがございますが、年金皆保険制度ですので、GPIFの一部を最終的に受給者となるとすればこれを時間を利用した給付前支給とでもいいましょうか、充てる検討も出来るのではと思っております。私的利益の外にも利益があるので・・・は医師養成がそれに当たることにはならないでしょうか?医学部教育こそ公益に殉ずる人への投資とすれば公費での授業料全額免除も由と考えるのですが。
また優生思想があると断定はしておりません。この方についてではなく、選別主義的で今流行の選択と集中は一歩間違えると優生思想につながる危険を感じるのです。

最後に、最初の私のおちゃらけたコメントの相手ははまちゃん先生への応答です。それが多々あるコメントを読ませていただきながら疑問に思う点について都度応答させていただきました。
自らも含めまして、一見ディベート環境をも可能とするこうした電子媒体環境で、しかしお会いしたこともない方とこうして応答する場合の難しさも充分にかんじました。

両者とも考え方に違いは無いように思いますが、引用内容から早とちりされたのだと思われます。

uncorrelated さんの主張は、

  • 従来どおりの教育投資の支出を個人(親)に頼るやり方には、教育投資が縮小均衡してしまう問題点があり、結果として社会的全体の不利益となる( → 公的補助の必要性)

  • 個人の職業能力の向上には社会的なメリットがある ということが伝わらなければ、教育の公的補助の正当性が理解されない。( → 教育の社会的なメリットを理解していない層に対しては、「職業的レリバンス」論だけだけでは、公的補助の必要性の理解が得られない。)

くまさん様

ご指摘をありがとうございます。

by kohchan

くまさん氏のおっしゃるとおり、「教育の公的補助は必要である」という点については、uncorrelated氏も含めて意見の相違はないと考えています。

私が問題にしているのは、濱口氏がuncorrelated氏の論旨を見落として(あるいは無視して)、uncorrelated氏の実際の主張とはかけ離れた藁人形を槍玉に挙げていることです。

偏見なく最後まで読めば、uncorrelated氏が濱口氏のいう「ある種の経済学者」とやらに属していないことは明らかなはずで、濱口氏の引用と非難のやり方はuncorrelated氏に対して不当であると考えます。

「気に障る表現を見かけて早とちりしてしてしまった」ということであれば、そのように弁明して頂ければよいのですが、このままなんのフォローもなく放置するというのであれば、私としては濱口氏の言論の信頼性に大きく疑問符をつけざるをえません。今後は濱口氏が引用あるいは紹介する他者の意見を、常にQuote Miningの疑いをもって眺めることになるでしょう。

参考:CA113 Quote Mining - 忘却からの帰還
http://seesaawiki.jp/transact/d/CA113%20Quote%20Mining

どうも何か勘違いをされている方がおられるようですが、本エントリは、冒頭の部分を読めばわかるとおり、わたくしの

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-c136.html">http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-c136.html(大学がブラックビジネスでないためには)

に対して、uncorrelatedさん(アンコレさん)がわざわざトラックバックをよこして、自らが書かれた

http://www.anlyznews.com/2016/02/blog-post_17.html">http://www.anlyznews.com/2016/02/blog-post_17.html(大学教育への公的補助が正当になる条件)

を注意喚起したことにあります。

このエントリには、確かにわたくしに言及してあるパラグラフがあり、それは本エントリ本文に引用してあるとおり、

大学教育に意味があるか否かだけでは、大学教育への公的援助は正当化されない。それが職能を向上させるのであれば、後々賃金として反映されるので、公的補助は必要ないからだ。役立つ事にはお金をかける意義があると単純に考えてしまいがちで、労働問題が専門の濱口氏も「もしその教育内容によって学校で身につけた職業能力が職業人となってから役に立つからのであるならば、その費用は公共的な性格を持ちますから、公的にまかなうことが説明しやすくなります」と主張しているが、問題は教育内容が職能を向上させるかでは無い。本人が将来を見越して費用対効果の高い教育投資をすることができ無いのか、教育を受けた本人以外が便益を得る外部性があるかが問題になる*2。

というものでした。

通常の感覚で考えれば、アンコレさんがわざわざトラックバックをよこしてわたくしに読ませたかったのは、わたくしを名指しで批判した部分を含むこのパラグラフであろうと考えるのが常識でありましょう。

実際、このアンコレさんのエントリの構造は、上記わたくしに言及したパラグラフが原則を述べた部分(集約すれば「問題は教育内容が職能を向上させるかでは無い」)であり、その後に、その例外として正当化できる条件をあれこれ述べた部分はその原則に対する例外を述べた部分と理解されるのが普通でしょう。

仮にそうでなくても、アンコレさんがわざわざ私に言及したパラグラフをそっちのけにして、その余の部分に着目して反応するのも、トラックバックをいただいた立場からすればいささか異様な反応と言うべきではなかろうかと思われます。

なんにせよ、わたくしは本エントリの本文、及び上記コメントで、わたくしに言及したパラグラフにおいて明確に原則として打ち出されている論点に対する疑義を述べたのであって、その余の分において例外として論じられていることが敷衍すれば結果的にわたくしの議論に接近するからといって、そのわたくしに言及していない例外的議論部分との共通性を明示しなかったことを論難されるというのは、やや奇異な感を否めないところです。

「 ちゃんと読んだのですか?」氏の言い分からすると、

大学教育に意味があるか否かだけでは、大学教育への公的援助は正当化されない。それが職能を向上させるのであれば、後々賃金として反映されるので、公的補助は必要ないからだ。・・・・問題は教育内容が職能を向上させるかでは無い。

という、明確にわたくしが当初にエントリで述べたことに反論することを目的として書かれたパラグラフを含む記述をトラックバックされても、わざわざその余の部分でより共通性のある議論を展開しているところにこそ注目してレスポンスを書かなければいけないことになります。


もし濱口氏の主張が、「教育・訓練に限らず、原則としてあらゆる場面で公的補助が必要である」というものであれば、原則としての公的補助を認めない立場は対立するものだと言えるでしょう。しかし、そうではないはずです。

たとえば、家計による自動車の購入や企業によるコンピュータの購入は、明らかに役に立つものではありますが、教育と同等の公的補助が必要とは一般に考えられていませんし、濱口氏にとってもそうでしょう。

だとすれば、教育のように有用かつ公共性を有する財は、有用だが公共性はない財には乏しいか存在しない、なんらかの例外的性質を持っているはずです。

uncorrelated氏のエントリは、教育が持つ例外的な性質を整理することによって、教育に公的補助が必要な論拠を明示しています。つまり、原則と例外の線引きは、有用だが公共性を持たない他の財と、有用かつ公共性を持つ財の間に引かれているのです。この点に不幸な誤解があるように思われます。

> 通常の感覚で考えれば、アンコレさんがわざわざトラックバックをよこしてわたくしに読ませたかったのは、わたくしを名指しで批判した部分を含むこのパラグラフであろうと考えるのが常識でありましょう。

残念ながら、私はそのような「通常の感覚」を持ち合わせていないようです。誰かを批判する場合でも、批判対象に伝えたいことのすべてをひとつのパラグラフにまとめるなど、私にはまずできません。それはこれまでの私のコメントを見て頂ければご理解いただけると思います。

お返事が頂けたおかげで、濱口氏はたとえ一部でも自分に批判的な記述があると、他の部分にも全体の論旨にも注意を払わないのが「常識」と考える方であることは理解できました。これで最後にしたいと思います。

どうして、私の文章を読んで

もし濱口氏の主張が、「教育・訓練に限らず、原則としてあらゆる場面で公的補助が必要である」というものであれば、原則としての公的補助を認めない立場は対立するものだと言えるでしょう。しかし、そうではないはずです。

と理屈になるのか、正直まったく理解できません。

もう少し詰めても良いのですが、ご本人が

これで最後にしたいと思います。

と言われているので、それを尊重したいと思います。

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