マシナリさんの『働く女子の運命』評
マシナリさんがブログで、拙著『働く女子の運命』に対する丁寧な書評を、しかも2連発でされています。
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-669.html (「基幹的業務と補助的業務」という区分)
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-670.html (日本的な「統計的差別」)
それぞれのエントリにタイトルがついていますが、それがその一部を示すだけで、いずれもかなり広いトピックを扱っています。
たとえば第1のエントリは最初に、金子さんと私のやりとりを踏まえて、
学術的な面でど素人の私が傍から拝見した限りでは、『働く女子の運命』というタイトルがややミスリードだったのではないかという感想でした。というのも、hamachan先生のこれまでの著書のタイトルには「労働」とか「雇用」という文言が必ず入っていたので、明示的に労働問題とか雇用関係とか人事労務管理とか労使関係とかいうくくりで読み進めることができたと思うのですが、「働く女子」というタイトルではちょっと焦点がぼやけてしまったように思います。
と指摘されています。このエントリで私に疑問を提起されているのは、
男女の人事労務管理上のすみ分けとして用いられる「基幹的業務と補助的業務」という区分が、正当化されるべきかそうでないかが今ひとつ飲み込めないのです。
という点です。
マシナリさんの自問自答は、
基幹的業務と補助的業務は「処理の困難度の高低」によって区分されるので、処理の困難な業務を遂行できる「能力」をもつ労働者がそれぞれその業務を分担するというのは、それなりに筋が通っています。となると、その「能力」をどのように判定するかが問題になるわけでして、これに対して日本の労使がひねり出した解決策が、経験年数を「能力による資格」として明確化した職能資格制度だったともいえるでしょう。
というところから、
しかし、その理論的根拠となった小池先生の知的熟練論の綻びとともに、職能資格制度の弊害として正規・非正規の二極化や女性の社会進出の低調さが認識されている現状では、回りまわって結局、「職掌別」の人事労務管理は社会制度として持続的ではないといわざるを得ません。まあもちろんジレンマはここにあるわけでして、日本型雇用慣行の中核としてこれからも堅持されるであろう職能資格制度が、社会全体の制度としてみれば持続可能ではないわけですから、あちらを立てればこちらが立たなくなります。
と進んでいきます。
次のエントリも、いろんなことを取り上げて論じていただいていますが、実は統計的差別の問題を正面から取り上げていただいた書評は初めてのような気がします。口頭ベースではあそこの意義を評価していただいている方もいますが。
・・・hamachan先生によると、ここで日本独特の現象が起きます。欧米では人種などの外見的属性で雇用の可否や処遇を決定していまう「統計的差別」が、日本では「将来的な雇用可能性」で雇用の可否や処遇を決定していまう「統計的差別」に換骨奪胎されたとのこと。
つまり、人種差別による「統計的差別」はけしからんが、男女の勤続年数が見分けにくいことに基づく日本的な意味での「統計的差別」は当然のものであって、それから外れるような女性の扱いこそが厄介だという上記ブログの感覚は、まさに日本的なメンバーシップ型労働社会を前提としたものになります。
このエントリで引用されている「Think outside the box」というブログの立ち位置の何とも言えないねじれ現象も興味深いものがありますが、引用の引用になってねじれが加重するので、是非上のリンク先及びそのまたリンク先を読まれてそれぞれに考えていただけるといいと思います。
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早速取り上げていただきありがとうございます。
「丁寧に」というより、まとまりがないまま長くなってしまいエントリも2つになってしまいました。
基幹的業務と補助的業務については、上司と部下という関係での分担としてよくあるものという話がすっぽり抜けていましたので、それによる日本型雇用の問題点を追記しております。
統計的差別については、私自身2つめのエントリで引用したブログに感じる違和感を整理できていなかったのが、本書の説明でやっと整理できたので、合わせて紹介する形とさせていただきました。日本型雇用への浸かり方(?)の目安として、統計的差別の話は意外と便利なのかも知れません。
投稿: マシナリ | 2016年1月11日 (月) 23時53分
「働く女子の運命」が本日(2016.1.14)日経夕刊「目利きが選ぶ3冊・中沢孝夫先生欄」で見事5つ星獲得でした。おめでとうございます。
ん~、統計的差別ですか?それって「統計でウソをつく法」の公準に中らないのでしょうか?
まだ読んでおりませんので、申し訳ないながら各コメントからの推論といいますか印象ですが、読みたい人が読んでいるようなインプレッションを持ちましたのでそろそろ購入させていただきます。
こいつまたかよ、とあきれられるでしょうが、本の性質上は理解しつつ、ミクロ論議の重要性は理解しつつも複合的な社会因習による本のタイトルを表するための解決に寄与しますのでしょうか?
私がこいつらアホかと関わりを絶った「知的と自称しそれしか生業をもてない仲良しオタクph.D連」も同じですが、危機感はなにもない、本当に危なくなったときにしか変われないと語ったボズラップに真を感じえません。とはいえ、はまちゃん先生の仕事量には頭が下がります。
投稿: kohchan | 2016年1月14日 (木) 19時22分