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2016年1月21日 (木)

そのつど「対抗軸」を探し求めるのか?

日曜日のエントリ「労働組合は成長を拒否できるのか?」に、連合総研で『DIO』の編集に当たられたhayachanこと早川行雄さん自らコメントをされ、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-1e75.html

さらに、金子良事さんもブログでこの議論を取り上げ、一定の整理をされています。そしてそこにも早川さんがコメントをされています。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-416.html (対抗軸よりも主軸の振り返りが先ではないか?)

元エントリではどちらかというと、成長という言葉をめぐるややすれ違い気味の対立構図に焦点を当てましたが、金子さんの示された「対抗軸よりも主軸」というのがある意味でわたくしの感じた違和感をよく物語っているようにも感じられました。

そもそも、労働組合という社会的存在は、それ自体が自らの「軸」を持っているはずではないのか?その、しっかりと存在している「軸」から、あれやこれやの政党の掲げる、あるいはその時その時の思いつきで繰り出すさまざまな「軸」に対して、これは「是」、これは「非」と、しっかり言うべき立場のではないか、というのがわたくしの基本的な認識なのです。

労働組合は政党ではありません。政党ならば、野党であるから与党の「軸」に対して反対しなければならない、「対抗軸」とやらを打ち出さなければならないということもあるのかも知れません。いや、本当は政党であってもそんなのはおかしいのであって、本来ちゃんとした「軸」があって、そこから是非の判断が出てくるべきと思うのですが、全く逆向きの考え方の政治家たちがただ一つ政権交代という「軸」だけで寄り集まったような政党であれば、そんなことを言っても仕方がないのかも知れません。

でも、繰り返しますが、労働組合はそうではありません。たまたま与党が賃金抑制を言っていればそれに反対する、与党が賃金引き上げをいえばそれに反対する、というような訳のわからない存在ではないはずです。何が何でも「対抗軸」をでっち上げなければならないと思うから、話がおかしな方に向いていくのではないか。与党が何を言おうがぶれない「軸」があるはず。

要するに、労働組合は与党の言うことにいちいち対応してその都度一生懸命に「対抗軸」とやらを考えなければならない義理など、誰に対してもないはずなのです。なぜなら、労働組合の「軸」は移ろうゆくその都度の政府与党の政策に対してその都度移ろいゆく「対抗軸」などではなく、誰を相手にしても変わらない自分たちの「軸」であるはずだから。

もし、その労働組合本来の「軸」がいささか不明瞭になってきたために、野党まがいの「対抗軸」探しに向かいだしているとしたら、実はその方が遥かに問題だと思いますよ。

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コメント

すがすがしいほどの何といいますか「労働組合原理」とでももうせましょうか。
政治・政党が政策決定の手段を有する限り、労組とは別セクターであるとしても労組の各要素(個々の組合員の要求ですね)を組合内で共鳴させ、組合内で新結合させた場合の実行手段とは、つまり政治でしょう。企業内あるいは産別内で抱えるべき固有の生産セクター等の問題解決であればdoですが、こと社会の厚生にかかわる(生産であり、分配であり、支出の三面等価の動的関係による成長ですね)マクロ課題は、少数派の労組組織シェアをはるかにしのぐ圧倒的な未組織労働者と有権者に多数の専制を主導してしまうポテンシャルがあるわけで、当然少数派である労組は社会厚生にかかわる要求も抱えているわけですから、そのような中立性があるような社会的立場を容認する限りにおいて内部からも存在意義を問われりのではありませんか?
問題は労組の高度成長期から今日に至るまでの立ち居振る舞いにあると思われます。証左は、「労働組合は成長を拒否できるのか?」の署名コメントで明らかでしょう。それを非難しているだけのことではないことは小生のリアクションコメントで確認していただけると思います。組合員一人ひとりの経済環境は違えど、違うなりの不満を労組が受け止めてこなかった「負」をどのように新しい共鳴を作り新結合した労組へ変化するのかを実は社会構成員(大も中小も零細も世紀も非正規も未組織も家庭内労働者も未来の労働を担う学生諸君も)全体に希望の実態として見せる使命が今なのではと思います。

これもまた言葉というか用語の意味内容を厳密に相互了解しておかないと奇妙な論議になってしまいますが、hamachanが「対抗軸」と言っておられるところを「対案」と置き換えれば、ほぼご指摘の趣旨に賛同できると思います。そして勿論十分とは評価いただけないにしても、連合もJAMのような産別もご指摘のようなことを理解した上で、労働組合固有の「軸」を常に再確認しつつ運動を進めようとしているものと判断しています。一例はいまの労働時間法制に対する連合方針です。いま国会で民主党と維新の会が共同提案している「労働時間の上限規制(おそらく特別条項の規制でしょう。まだ詳細を知りませんが)」「インターバル規制」は連合の労働時間政策にあるものです(細かいことを言えばインターバル規制は民主党政権時代に民主党に先取りされちゃった方針ですが、JAMにもヒアリングがあって賛同してきた経緯もあります)。この政策はたとえば時の政権がたまたま出してくるホワエグなどの政策に「反論」「対案」で応じるという対応を超えて、労働者の心身の健康と家族の生活の安定という、労働組合固有の基本方針に照らして打ち出された政策です。つまりホワエグへの「対案」などではなく、政権がホワエグを出そうが出すまいが、労働組合固有のレーゾンデートルに基盤を据えた政策と言うことです。
これに対して「対抗軸」というのは一言で言えば「働く事を中心とする安心社会」のようなビジョンを示すことで、そんなビジョンを考えるのは労働組合の仕事ではないとしたら、連合総研でいまやっている「連帯・共助の社会」に向けた研究会も暇人の手慰みということになってしまいます。

「働くことを中心とする安心社会」は、そもそも「対抗軸」ではなく「主軸」でしょう?

いや、これはものの言い方で、「働くことを中心としない不安社会」路線に対しては確かに「対抗軸」かもしれません。

でも、それは、政府与党がたまたまそういう路線をとっているからそれに対する対抗軸として改めて作り上げたという性格ではないはず。

繰り返しになりますが、政府与党が「成長戦略」と言っているからといって、安易に「成長」を否定しているかのように見える議論に飛びつかないほうがいいはず、ということに尽きます。

「成長」に冷笑的なエコなロハスは、ある種の進歩派には人気がありますが、労働組合がうかつに飛びつくべきものではないと思います。

「対抗軸」も「主軸」も社会という時間軸では組織である限りともに必要不可欠な主であり従であるとすれば、社会の厚生と労働者独自の厚生の均衡点は複数に存在し得る「ゆらぎ」のようなものなのかもしれません。こうした問題に専門的に携わっておられる方のご意見は大変参考になります。ありがとうございます。
でも一言畑違いの人間の感想として、リアル感があまり感じられないというか「人」が見えづらい感じがいたします。そこらで(たとえば駅頭で行き交う人々)聞き耳立てるような人を創り出せるのでしょうか?へんてこトリックスター政治集団やヘイト団体のような扇情ではなくてですね。
割愛されましたが小生がみたデモのセクターによる真剣度の違いをみた経験上疑ってしまうのです。

濱崎さんの名著もある岩波新書だが、「検証 安倍イズム――胎動する新国家主義」のひどさには目を覆った。アマゾンに書評を投稿したら、反安倍陣営から酷評のようだ。

たぶん、根底には、安倍総理の学歴というか、ときおり補佐なして対応する国会答弁でみられる「教養」のなさに、いわゆる岩波・朝日新聞に陣取る「知識人」は辟易しているんだろう。

日本では、やはり、上に立つものは、「読書人」というか、教養豊かな人でなくてはならないという儒教的?な空気があるんだろうと思う。(反封建?のはずの、岩波・朝日文化人がこの空気を当然のことと考えるのは皮肉ではあるが)

しかし、民主主義の本来からすれば、コモンマンが上に立ってもおかしくないわけで、いろいろ見方はあるものの、レーガン大統領の例を踏まえても、本来、別に東大でなくて、成蹊大学出で何が悪いのかと思う。本人の本音?はどうであろうとも、政策的に労働組合が賛成すべきことも多々行っていることは間違いない。

もし、現政権の経済政策を本格的に批判しようとするなら、印象論を並べるのではなく、きちんと、リベラル派の経済学者大瀧雅之氏(彼も岩波新書を出しているが)のような、理論的なしっかりした視座にたった上で、批判しないと、濱崎さんのご指摘のように、みそも○○も、ということで、要は安倍さんという個性(無教養)がきらいだということにしかならないように思うし、それでは結局きちんとした批判にならないと思う。

22日付けの朝日新聞天声人語は、最近、担当するコラムニストのうち、政治部出身が入れ込んでいるのか、安倍政権が反立憲主義的だということを広めようとしているが、さまざまな国際会議で「法の支配」の重要性を強調している安倍氏そして日本政府が、岩波・朝日新聞が大好きな中国と同じ意味で「反立憲主義」とは、到底思えないのだが・・。

このように感覚的な嫌悪感からきているから、きちんと透徹した議論ができないというわなに、連合も陥っていると思う。

〈階級〉の日本近代史 政治的平等と社会的不平等 坂野潤治
どこかで紹介されていたと思いますが「政治的平等と社会的不平等」のねじれについて非常に勉強になった本です。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062585897&_ga=1.79730967.1897592874.1453192176&fb_action_ids=1246994785315946&fb_action_types=og.likes

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